起床
たまに嫌な夢を見る。落ちる夢、追いかけられる夢。
それから、昔のことをただなぞる夢。今の自分で昔の自分をなぞる。
わかっている未来に向かうレールに乗った電車の窓からそれを見ているかのようだ。
到着する場所がわかっているのに、抗いたくとも進んでいってしまっている。そういう夢。
どれほどリアルな感覚と痛みを感じ現実と同等の夢の時間を過ごしたとしても
感じた痛みは積み重なったまま、見た夢は忘れていってしまう。
そうして身体にそういった重みのある泥がつまったまま、流れる月日を重なった錘とともに、引きずって進んでいく。地面にめり込みそうになって、つんのめりながらそれでも。
流れた涙の後をいつものようにふき、ぎゅっと目をつむった後、目を覚ます。
そうして、違和感をようやく思い出す。
考えられる、脳が物事を考えて、目でものを見てる。肌がかけられる布の感触を感じている。
たぶん、まだ、死んでない。もしくは、異世界だとゲームのように生き返ることが普通なのか。
でも、ほんとうにうれしく感じている。よかった死なずに済んで。
さて、ここはどこだろうか。
起き上がり、きょろきょろと見渡す。
おそらく、ここの家主に自分は助けられたのだろう。
だから悪く例えたくない。精一杯言葉を包んだうえで、表現する。
掃除の行き届いていない家、平たく言えば、ごみ屋敷である。
匂いは臭くはない。しかし、訳の分からないものが散乱していて床が見えない。
ソファに寝かされていたようだ。布というか綿のような自然の植物で作られているだろう、フワフワとした寝心地である。
ソファから50m先ほどまっすぐ奥に玄関があり、ここから玄関に至るまでに壁に生えているように暖炉がある。壁はログハウスのような木の質感を感じるが、紙やら、ほこりやらで覆われている。
暖炉のあたたかさが届く範囲に食事ができるような四角の木のテーブルがある。椅子が二脚。いづれも
ごちゃごちゃと何かが繁雑に置いてある。テーブルの奥、玄関の横にキッチンのような場所があり、日光が差し込んでいる。日光が汚れた食器や、よくわからない物体を照らしている。
ソファの周りは天井を貫く勢いの本棚がぐるっと壁を囲っている。本棚はすべてぎっちりと埋まっている。
埋まっているどころか、はみ出していたり、満員電車、日本でなく海外の扉から人が出てしまっているかのような本のはみ出し具合だ。
家の半分は本棚で埋まっており、ちょっとした図書室、いや図書館のようだ。
助けてくれた恩人さんは姿が見えない。
そっとソファから起きだし、床と言っていいものかわからない、物の上に足を置く。
紙のように見えるが、感触はぐにゃりとしていてひんやりしているを軽く踏んでしまったあと
玄関まで歩き出す。不思議と体の痛みはない。そういえば、裸でもない。
麻のようなさらさらとしたガウンを羽織っている。気を抜くと下半身が丸見えになりそうだ。
玄関を開けるとウッドデッキにつながっていた。
ウッドデッキから見える景色は、、、写真や絵で見たような湖畔の横に建てられた静かな別荘と表現できるような静かな場所だ。
デッキ上も苔むしている。植木鉢のようなものがいくつか置いてあり、いきいきと動いている。
ん?動いている?いや気のせいかな。
苔が一部誰かが転んだあとのように、剥げているから足を滑らせないように慎重に降りる。
家の手前には畑のようなものがあった。畑には、いくつかの見慣れない植物が自分の丈よりも
高く育っている。
畑を見守り家を日差しから守るように大きな樹がある。軽トラックくらいなら中にすっぽりと
楽々に入ることができそうだ。
歩きながら樹に近づく。大きな樹を見ると、その力の一端を触れたくなる。
一つの小さな苗から、少しづつ時間をかけ、途方もない時間の中大樹となった。
その守り神のような大きな力の一端を触れることで感じてみたいと手で樹をなでる。
樹に触れようとした、すると水面をなでた時のように木の表面がさらりと揺れる。
うおっ、、、。っとごつごつした木の面に触れると思っていたから思わず驚いて声が出る。
しばらくぼーっと樹を見る。もう一度ゆっくりと樹に近づき、手で触れる。
ゆらゆらと樹の表面が揺れる。ゆっくりと手を入れる。くじ引きの抽選箱に手を入れるような感覚だ。
冷たくも暖かくもない水面を通り抜け、痛くもかゆくもない、少しの風に当てられているかのような感覚を感じる。扇風機で柔い風に当てられている感覚だ。
手の次に腕を入れ足を入れる、地面を踏む感触を感じてから顔を入れ中を見る。
樹の内部は違う空間につながっているようなことはなく、正しく樹の内部だった。
丸い空洞が広がっている。丸い空間の中心に祭りの太鼓が置かれるヤグラが地面から子供丈くらい離れて置いてある。その真ん中に太鼓の代わりに三人ほど余裕で入れるような鍋のような壺が置いてある。
壺は複雑な模様が刻まれているようだ。
ヤグラの手前の空間に木で作られたセミダブルほどのベッドが置かれている。
その上で誰かが横になっている。眠っているのか、動きがない。
起こしていいものかわからず、一度樹の外へ出ようとする。
床は、ごみなのか、何なのかわからないもので、あふれており、戻ろうとしたときに
なにか踏んでしまったようだ。
むにっとした感覚のあと
「きゅううぃうぃうぃうぃ!!!!!!!」と大きな音が響く。
なにかの鳴き声のようだ。踏んでしまったものから発せられたものらしい。
「えっと、、ごめんごめん?」足をぱっと地面から離し、その場からベッドのほうに移動する。
樹の内部で音が反響する。その音でだろう。
夜の空のような深い黒色のローブをまとった人影がベッドからゆっくりと降りる。
小柄な女性。髪は銀髪で方にかからないくらいのボブだ。500円玉のような
鈍い金色だ。その髪から耳が頭の後ろにとんがって伸びている。いわゆる、エルフと呼ばれる
種族だろう。RPGでよく言われる、美しく、聡明な長寿の種族。そして魔法を得意とすることが多いと聞く。
その魔法で治してくれたのだろうか。
「おやおやひどくうるさいねぇ。ワシはまだ眠り足りないんじゃが。ごはんかねぇ?」
しわがれたフガフガとした声でその女性が声を出す。顔をよく見ると、長い鼻、深いしわが生きてきた年月を刻んでいる。目元は優しく両目の目元に小さな涙ほくろがあった。
老婆が話している言葉は聞いたことのない、日本語でも、英語でも、中国語でもない
言語という明確な形より、はっきりしない、空気の揺れが耳に自然に入ってくる。
それが耳に入ってきて、砂糖がお湯で自然と溶けるかのように脳で言葉が理解できた。
少女のように、ぴょこんとベッドから降り、ぐっと伸びをしようとしてぽきっという音がする。
「いたったったたっ」
腰を痛めたようだ。
「おかしいのお、ワシ、こんな体が重かったかのう。」
首を?と傾げてきょとんとしている。
「さてさて、あんたはだれじゃ?そして、、、。」
指をこめかみに当てながら首を横にする。
「ワシはだれじゃ?」
「あーー、、、じれったいのお、、、。なんもわからん。ワシは何でこんなところで」
きゅうういと鳴き声を出したチワワくらいの大きさのキタキツネに似た色が透き通った浅瀬の海の色の毛皮を持った、キツネの耳毛が長く、フワフワとした可愛らしいもみあげが生えている生き物をなでながら老婆が話し出す。
頭を抱えて「何をして、何をしようとしていたのか、、、。」「あれ、わしの名前は何じゃったか。おおう?」
と混乱している。しばらく様子を見ていたが、自分がなにもので、なにをいままでしていたのか
記憶がすっぽりと消えているようだ。
この症状は職業柄よく知っている。高齢者の6割以上がかかるという根本的な治療がまだ見つかっていないもの
認知症だ。
認知症には細かい種類がいくつかある。70種類ともいわれるほどだ。
薬の影響で起こる薬物性認知症やビタミンが不足して起こる認知症、正常圧水頭症と呼ばれる
脳内に水がたまり、脳が圧迫されて引き起こされる認知症もある。
その中でも有名な3種がある。
高齢による脳の萎縮が原因とされるアルツハイマー型認知症。
幻覚や幻聴、パーキンソン症状と呼ばれる身体の拘縮、震えがみられやすいレビー小体型認知症。
脳に血管が詰まることや出血が発生することで生じる脳血管性認知症。
この3つに当てはまる人がほとんどだ。
この老婆は、、、。どうなのだろう、、、。自分の名前すら忘れているし
おそらくこの老婆が助けてくれたのだろうけれど、自分のことを一目も見たこともないような目で見ている。
でも、そういった偏った、疑った目で見ずに、まずは接してみることにする。
「こんにちは、、、って言葉伝わんのかな、、、。」老婆はきょとんとした顔をしてからここう答えた。
「ずいぶんと久しぶりに聞く言語じゃねえ。なんじゃったかのお、、、。でも、なんとなく思い出せる。」
「こんにちは。青年。これで伝わっとるか?」
はっきりとした日本語だった。ぶれのない、正しく言語の形をまとった言葉が耳に入ってくる。
どこで日本語を?その概念はどうしてこの世界にあるんだろう?そしてどうしてこの老婆は日本語を知っていて、ぶれなく話せるのだろう?そして、自分の名前もわからないのに、すぐに話せたのは?
様々な疑問が浮かび上がってくる。
「のお、青年、、、ワシはだれか、、、知っているか?む、、、おぬし、、、耳が丸いの、、珍しいのお、いつしかぶりか。ん?なんじゃぽかんとして、そうじゃ、ぬし、迷い人じゃろ。ん?迷い人とはなんじゃったか。くやしいの、ワシまだそんなものボケる年じゃまだないんじゃが、、、。」
頭をポリポリと掻き、ぶつぶつと呟きながら、老婆が話す。
時折、腕に抱えた青色のキタキツネからぷぎゅりと音がする。
どのように声をかけるか、少し逡巡するが、迷ったのち声をかける。
「あの、、、大丈夫ですか?」と腰をかがめ、目線を合わせる。
ゆっくりと伝える。
「たぶん、自分のことを覚えていないんだと思いますけど、気持ちだけでも伝えたくて、、、、。助けてくれてありがとうございます。本当に、、、。」
本心から伝える。あの、獣、狼と出会ったとき、死んだと思っていた。また生きることができた。命の恩人だ、
だからなんでもできることはしたい。目の前の、恩人のなにかの手助けをしたい。
「いろいろと話をして、伺いたいこともあるんですけど、お互いに名前を、、、と思ったけど、いまはわからないんですよね。自分はふいら れいっていいます。レイって呼んでもらえたらと思います。」
良い為に吹く、吹為良。 そして、きっと何か意味が込められていると思いながら祈るようにつづってきた礪という名前。両親が残してくれたものは、妹とこの名前と付けてから外したことのない、黒い石のペンダントだけだ。
「例えば、料理とか、掃除とか、身の回りのことでお手伝いできることがあったら、教えてください。」
ゆっくりと話す。目線を合わせて、声は低く丁寧に。
「ふむ、、、。そしたらそうじゃのう。」ふむふむと皮膚が重なっている下あごをそっとなでた後
「手伝ってもらうかのお、ワシの記憶が戻るまで、なーんもわからんくての。」
「ここが自分の家かもあやしいわい。ほほほほほほ。これからよろしくの、レイ。」
そうして、異世界での介護が始まったのだった。