表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/25

   第六章  旅  

「セフイはグループ化した共有のアドレスで個別または集団の連絡を取り合う。チャットやeメール、通話が可能だ」

 打ち合わせから戻って来たチヒラがそう報告する。午前10時だった。

 その他いくつかの連絡事項を確認し合うと、イラフ、チヒラ、ユーカレの三名は二人用の修道僧居住室で、簡素なベッドに腰掛けて額を突き合わせる。

「しかし、皆目わからない。どう思うか」

 さようなイラフの問いに、純白のユーカレが涼やかな表情で応えた、

「ふ。疑念はない。全体として、さほどふしぎではない。ただ、護る対象がシルヴィエ人というのが馴染めないだけだ。慣れの問題だろう」

「軽く言うな。どのくらいの身分だろう。大司教が尊重するような存在だ」

 藤色のまつ毛を翳すチヒラも疑念を呈した。

「少なくとも大貴族以上、皇帝以下だな」

 ユーカレが金の双眸で涼しげにそう言うと、チヒラは少し頬を膨らませ、ミュールをカタカタ鳴らし、

「バカを言うな。絶対神聖皇帝ジニイ・ムイは帝都ヒムロHimuoorowにいる」

「ふ。わかっているさ」

 眼光鋭くイラフも問う、

「大枢機卿で帝国を離れた者がいるか」

 チヒラが首を振って、

「少なくとも聞いたことはない。ぼくらは知り得る情報でしか思考できない。それは万全ではないし、不備がないとは、到底、言えない。

少なくとも大枢機卿が首都ヒムロを離れた話は、・・・聞こえてはいない」

 眉を寄せて思案しながらイラフがさらに問う、

「・・・では枢機卿か、大貴族か。誰が考えられるかな」

 チヒラは眼を閉じて肩をすくめ、

「大枢機卿と違って、枢機卿は数もいるし、名もほとんど知られていないから。

帝国の貴族に至ってはなおさら。まったく知られてはいない」

「エルの場合、若そうだから、大貴族の子弟ということも考えられないか」

「うん。あり得る。さらに情報が少ないけどね」

「そうだよね、大貴族にどんな人がいるのかを知らないのだから。そもそも身も蓋もない議論だ」

「ダメだな。これ以上考えてもわからない。解決不能だ。やめだ。考えてもわからない問題は考えてもわからない。

 それより現実問題に戻ろう」

 ミュールを鳴らしてチヒラがそう結論附けると、白いトーガを強く身に巻き直しながらユーカレが、

「で? それで帝国領を横切るといっていたが」

 チヒラも〝そうそう〟と頷いておきながら、どういうスケジュールなのかは知らなかったので、イラフの方を向きながら、

「で、イラフ、いったい、どこで馬車に乗り換えて隠密行動をするんだ」

 イラフが頬を輝かせて愉快そうに微笑する。

「実は」

 悪戯っぽい笑みを浮かべた。「ここなんだ」

「え!」

「案内するよ。時間はかからない。・・・と言っても、わたしも初めての場所だけど」

「なるほど。それでか。だって、聖ガレノンと聞いて反応したから、変だなって思っていたんだよね。知らない場所と言いながらさ」

 聖ガレノンの所有する牧場はサムカノン村という村が管理していた。緑豊かな丘陵の窪地にこんこんと湧く泉があり、森が囲んでいる。

 森の中には馬小屋があり、馬のいななきや時折ふしぎな神獣の声がした。

 研究員のサンディニが出てきた。修道士の服装だったが、無造作な口髭や縮れた黒髪は風体を気にしない学究の徒のそれだった。いかにもこだわりの強い、癖のある研究者、もしくは技術屋に見えた。

「こちらです」

 大きな納屋のような藁葺きの建物に案内された。藁が敷かれ、十数頭のポニーがいた。

「これがそうですか」

 イラフは思わず訊いた。

「そうです」

 サンディニははにかむかのように、理由もなくうつむいて答えた。

「ヨウクはほとんどポニーに見えます。鬣と尾が異様に長いことを除けば」

「ほんとうだ。かたちはポニーと同じだけれど、尻尾と鬣の長さは倍以上ありますね」

 チヒラとユーカレも予想外の動物の出現で、眉を上げて眼を丸くする。

「イラフ、これは、いったい、何だ。まさかこれで移動するのか。正気か」

 サンディニは少し不機嫌な顔になったがこういうことに慣れているようだった。

「龍の血を濃く引いています。龍馬と同じ、1200㎞を1時間で走ることも可能です」

「信じられない」

 そんな疑念と驚きには興味がないように研究員は言葉を続け、

「エサは馬と同じでも大丈夫ですが、霧や霞も食べます。巌に附いた雫を舐めるだけでも大丈夫です。

 今回は、砂漠地帯を行くようなルートはないようですが、水分補給には気を附けてください。寒さにはとても強いです」

 イラフは尋ねた、

「馬車もこちらにあると聞いていますが」

「届いています。こちらです。最高の匠が造りました。人数に変更があったと聞いたのですが、居住性に問題ないと思います」

 納屋を出て煉瓦造りの倉庫に入った。T型フォードのような自走機やライト兄弟が作った飛行機のようなものがいくつか置いてあった。

「これらは別の町にある鍛冶屋で密かに造られたものです。これらの機械式移動システムと、龍馬などの生物を組み合わせて使えないかなども研究しているのです。

 さあ、これです。平凡な旅商人に見えるようにというオーダーでしたので」

 幌タイプの、大型だが、平凡な馬車で、車輪も木製だった。

「車輪は特殊な材木で、実際はゴムのように柔軟です。接地面に微妙なパターンが刻まれていて走破性も十分です。サスペンションもかなり高性能なものを装着していますが、見た目にわからないように工夫しています。

 車軸には軽量で強靭な金属、オリハルコンを使用しています。フレームも同じくオリハルコンのラダー・フレームです。その上に乗るボディが木製ですが、実は材木と材木を張り合わせた中に厚い鉄板を挟み込んであります。

 荷台の上に張ってあるこの幌ですが、幌も幌を張るための骨も特殊で頑丈な不燃性のものを使っています。なお防御と防寒を兼ねて、馬車の幌の上にかぶせるために、大型帆船用の頑丈な帆を何枚か積んであります。

 幌の各所に、小窓として開けられるように、切り込みを入れてありますが、幌を重ねるときは、この切込みの位置が合うようにしてください。そうじゃないと意味をなさなくなってしまいますので」

「へー、こういう小窓、好きだな。・・・・・おかしいかい? 怪訝そうな顔で見ないでくれよ、チヒラ」

 サンディニはイラフらのやり取りを無視するように言葉を続け、

「座席はあえてベンチのようなタイプにはしませんでした。直接床に坐るような感じの低い座面に、ゆったりした背もたれの附いたタイプです。アラビック・ソファに少し似ているかもしれません。ただ、ご覧のとおり通常のシートのように列になっていて、アラビアのように囲む感じではないです。

 そのまま仮眠も取れるように低く作ったというのが意図で、特にアラビックな感じにしようとしたわけではないのです」

 座席の真ん中は通廊になっていて、通廊にも鮮やかな絨毯が敷いてあった。、

「しかし鮮やかな明るい色使いで、見方によってはアラベスクのような模様だ」

「はい、せっかくそう見えるからそういう感じにしてみようかと思いまして」

「おかしなところに気を遣うね。この小さな天球儀みたいなものは何だ」

 チヒラが尋ねた。

「羅針盤です。一応、備えてあるのです。かなり正確なもので、星の位置測定器を兼ねています。それで形が少し似ているのです」

「商人という設定では、少しおかしくないか」

「そうでもありません。

 最近では、かなり使われていますよ。高価な物ではありますけれども、安全対策に投じる資金は年々増えて来ています。無事と平穏への意識はかなり高まってきています。

生きる者の本質ではないでしょうかね」

「そうでもないさ」

 チヒラがさり気なくさらりとかく言うも、イラフは感心したように、

「目立たないところに高い技術が投じられているんですね。苦心していただきました」

「ありがとうございます。力の及ぶ限り工夫いたしました。

 さて、それから積み荷ですが」

 それを聞いてユーカレがノーズティカを微かな音をさせて冷笑し、

「ふ。いくら体裁を整えても、実がないと商人らしくないからな」

 半ば無視するように髪をかきながらサンディニは言葉を続ける、

「積み荷がないと商人らしくないので、搾ったオリーブのオイルの樽と赤ワインの樽を積みます。これからですが。それから琥珀や革、古い貨幣なども、錠前と鉄枠の附いた木箱の中に仕分けして入れておきます。

 それとは別に食事用に塩漬け肉の瓶詰や塩や小麦粉の袋を積んでおきます。

 後は、これです。ここに若干の工具、地図、防寒具を収納しておきます。あゝ、それから薪と焼き石用の石も少しだけ積んでおきます。

 焼き石は走行中の暖房用としても使えます。鉄の籠を使うか、そこにあるミニ暖炉を使ってください。それです、その鉄と煉瓦で組んだところです。そこで使ってください」

 三人は旅の支度を始めた。

 そこへ髪の長い、口髭と顎鬚を垂らした痩身の若い男が現れた。風雨に晒された精悍な顔立ちで、いかにも百戦錬磨の傭兵ですと言わんばかりの風貌だった。

「ガリア・コマータの隊長、ストランドです。

 隊員とともに、イース殿より命令を受けて参上しました。大臣は警護をしろとのおおせです」

 眼を輝かせてイラフは立ち上がり、手を差し出す。

「どうかよろしくお願いします」

 ガリア・コマータとは長髪のガリアという意味で、実際の歴史上にもあった呼称だが、こちらではクラウド連邦の建国に大いに貢献した強兵騎馬軍団であった。

 出発の朝は寒い雨となる。起きて来たチヒラが不満げな顔をした。ユーカレはトーガの大きな布を器用に留めている。

 セフイの斥候や先遣隊などはもう出発していた。とは言っても、大華厳龍國の特殊部隊も外国人傭兵もまだ来ていない。ガリア・コマータたちだけであった。ユーカレが言う、

「むろん、待つ気などない」

 その言葉にチヒラはうなずいた。

「いずれ来るさ」

 馬車には四頭のヨウクが繋がれる。予備として二頭が牽かれた。つまり馭者も含めて、いざというときになれば、一人ひとりが一頭に乗れるように用意したのだ。

「ガリア・コマータの兵士一名を斥候、五名を偵察隊、七名を調査隊、十四名を先遣隊として出してあります。皆、神速なる龍馬に乗っています。 

 今のところ、進路に特段の不安要素はありません。

 なお我々本隊が出た後に、後衛隊九名、調達班八名、援護隊五名、事後検査隊三名、しんがり隊二名を出す予定です」

 ストランドがそう報告した。

「さあ、出発だ」

 イラフが号令する。

セフイ本隊は意気揚々と出発した。

 馬車の手綱はガリア・コマータのパウルという男がにぎる。屋根のない、肘掛と座面だけの馭者席に坐り、セイウチのような髭に表情を隠して出さず、冷たい雨に濡れることをまったく意に介さないように見えた。雨外套のフードからは雨の雫が次々落ちている。

 ユーカレ、イラフ、チヒラ、エルは天井の高い幌の下、車内の座席に坐った。

 イラフはさっそく小窓を開けて雨の景色を眺めてみる。

 ストランドが龍馬に乗って、いかにも商人に雇われた傭兵ですという雰囲気を(かも)し、添うように警護していた。

 チヒラは読書を始め、ユーカレは念入りな剣の手入れをする。

 荷台の中は毛布やクッションを置いて思い思いに暖を取れるが、エルに関しては、念のため、積み上げた樽と麻袋で作った壁にテントのようにタープを張って、室内城砦を築き、その中に隠蔽した。

 間もなく馬車は山間の街道に入る。荒れて峻酷な道だった。切り立つ岩の壁が聳え、峡谷の断崖はまっすぐに落ちている。森林限界の領域まではまだ少しあるので、木々は濃く深く、怖ろしいまでに育った常緑樹が(いかめ)しかった。数百年の古薫を漂わせ、枝を四方に張って凄まじい。

 斜面は次第にきつくなり、樹木は減り、小さな岩が突き出る荒れた路となった。大きな岩を迂回したり、何度もつづら折になったりしながら、坂を登る。それでも馬車は柔らかくしなやかに、小さく上下するだけである。

「確かに乗り心地は良いな」

 ユーカレは馭者席に近いところ、荷台の一番前に坐って、前方の幕をまくって肘をかけながら行く先を眺めつつそう言った。

 そのすぐ後ろに坐るチヒラが言う、

「こういうゆっくりした旅も非常に興味深いが、このままでは何年たっても目的地に着かない。人のあまりいない山奥に入ったら少し急ごうよ。龍馬のごときという速さも確認しておきたい」

 地図を見ながらイラフが言う、

「ならば、もうそろそろいいだろう。ここいらに人家はもうない」

「どれ。へー、ほんとだ。次に人がいる場所は?」

 チヒラが寄って、イラフと頭をならべる。イラフが地図を指さし、

「ここかな。山の中に旅籠があるんだ。では、ここまで全力で駈けさせてみよう。どのくらいスピードが出るか確認するんだ」

「そしてそこで休憩しよう。お腹もすいたし」

 小さな顎を上下させてチヒラがそう言うと、

「異議なし」

 イラフが水色の髪を揺らし、笑って応えた。ユーカレが鼻先で苦笑する。

振り向いたパウルが、

「では目的地が決まったところで、速足を試しますか。そら」

 と言って、ヨウクの背を手綱で打つように叩くと、唐突に、勢いよく駈け出した。凄い力で馬車が引っ張られると乗員は後ろへ引っ張られる。ヨウクと繋ぐ索が壊れそうだ。

「ぅわっ!」

 あっ、と言う間に加速していた。風景が動体視力で捉えられなくなっていく。風圧が耐えられないほど凄まじくなった。恐るべき速度で、たちまち嶮しい二つの山を超える。

山間部の寒さは厳しいが、雨は勢いが和らぎ、霧雨となっていた。凍るような霧雨ではあるが。

「あゝ、何と言うことだ。あゝ、面白い、凄いよ」

 ユーカレが珍しく声を立てて笑いながら感嘆する。レオンも参ったという顔で、

「まるで世界最強のジェット・コースターだな・・・」

「ぷふわっ、ぷふぁっ。雨が凄い勢いで吹き込んできたね」

 くしゃみのように咳き込みながらチヒラが言うと、嬉々としたイラフが、

「ほんとうだね! あっという間に濡れてしまった」

 そう言ってペパーミント・グリーンの双眸を輝かせる。それを見て、チヒラが歎息した。

 砂岩色の建物が見え始めたので、馬車はスピードを落とし、ゆっくりと蹄を鳴らして歩む。 

 チヒラが乱れたクリムゾンとボルドーの髪を整えながら感想を述べた。

「いや、驚いた。おかげでさらに空腹になったね」

 それは斜面のつづら折りの路の曲がり角のところに数件の家が寄り集まった、小さな、とても小さな村であった。イ・ディン・チロという名である。

 どれも明るい土色をしている砂岩製の家々で、曲がり角の内側に建つものは三角形を作るように組み合わさり、外側に建つものは馬蹄形をなしてならんでいた。

すべて急な斜面に建つがゆえに、どの家も、表から入るときと裏から入るときでは、同じフロアでも階が異なり、著しいところでは、1階の玄関から入って突き当りが5階のベランダであったという家もある。

「旅籠プラン。あれだ」

 肥えた羊を象った吊り看板が下がっていた。炙り肉の匂いがしてくる。脳裏に浮かぶ画像は、黒い鉄のグリルの上で肉汁をぽたぽた垂らしながら、真っ赤な炭に炙られる旨そうな肉の図である。

「たまらないね」

 チヒラがまず馬車を降りた。イラフとユーカレが続き、パウルは馬寄せの傍らに馬車を繋ぎ留める。ストランドも周囲を見廻しながら馬を降り、くつわを鎖で留め金に繋ぐ。エルはパウルに言った。

「私は降りない。手をわずらわせてすまないが、持って来られるものがあったら、君の食事の後で持ってきてくれ」

「了解しました。俺も馬を離れないでここに持ってきて食べようと思っていたんです。すぐに戻って来ましょう」

「すまない」

「いいえ、遠慮は結構ですよ、旦那」

 そんな会話もよそに少女三人は意気揚々店に向かう。ストランドも周囲を警戒しつつ、追従するも、

「今のところ、斥候や後衛隊から危険の報告は受けていません」

 と報告する。ユーカレが、

「順調だな。だがそういうときが一番危険だ」

「そうだと思います。さて、中に入ったら、私はドアの傍で食べます。あなた方は良い席にどうぞ」

「申し訳ない」

 イラフがモス・グリーンのまつ毛を翳してすまなそうに言った。しかしチヒラは藤色のまつ毛を咲かせてあっけらかんと、

「ええ! 心配のし過ぎでは。ぼくらは達人ばかりだ。怖れることはない。メタルハートでも来ない限りはね」

「ふ。

 そいつが来ない保証がどこにあるんだ。警戒の心を怠るなよ」

 冷めた声で白いトーガの裾を引いて身に寄せつつユーカレがそう言い放った。

 少し怒った顔で頬を紅潮させてチヒラが、

「ふふん。わかってるさ。たとえジンが来たって、君がいるから心配ないよ」

「ふ」

 イラフはとげとげしい会話をあえて無視し、扉を開け、

「あゝ、暖かいね」

 と笑みを緩ませる。

 中に入ると湯気のうるおいを皮膚に感じた。窓が曇っている。店の床はでこぼこした方形の石を敷いたもので、中央に大きなグリルが置かれ、中で熾火の赤かとした炭が燃えていた。毛穴が柔らかに開くような気がする。

 太った体に大きなエプロンを附けて、レードルを片手にニコニコしながら店の亭主が厨房からあらわれた。

「いらっしゃいませ。どうぞ、こちらの席が暖炉に近くて、とても暖かいですよ。どうぞどうぞ、お坐りください。窓からの景観も見ものですよ」

 中央にグリルがあるせいで、暖炉は隅に二つあった。

 窓際の席で、断崖に突き出たかのように見下ろすと、遥か下方の谷底、よくよく見ると急斜面を行くつづら折りの路が細々と続いている。

「あの道を通って、ここまでを来たんだな」

「旅商人の方ですか」

 話好きそうな亭主が尋ねてきた。

「そうです」

 紅の唇に笑みを浮かべてチヒラがさらりと応える。

「山越えにはなかなか大変な季節ですな」

「だから商売になる。ライバルが少ないからね。治安はどうですか」

「山賊も凍えていますよ」

「確かに。しかしご亭主、オークなどの物騒な鬼や魔物は出たりしませんか」

 亭主は急に声をひそめ、

「それです。ふしぎと昨今、そういう化け物を見かけたって言う方々が増えましてね。ご用心に越したことはないですよ。

 商いには珍しく、お若いお嬢様方ばかりなので、実は最初見たときには、そういう心配が過ぎったのです。しかし、まあ、よく見れば、屈強な傭兵も雇われているようですから、そうそう心配もあるまいと、あえて口にしなかったのですよ」

「やはり奇異に感じましたか、こんな娘らで旅の商売など。

 実はそうでもないんです。

 ぼくら四人は皆、商家の娘なのです。それぞれの理由で父親が旅に出られなくって、已むを得ず旅に出た次第です。

 とは言え、父親らも女の子の旅は心配と申すもので、知恵を絞って、同じような境遇の娘を探し、仲間になって旅すればよいのではないか、と考え附いたのです。あちこち声をかけてみると、意外にも同じような理由で、同じようなことを考えている娘がいることがわかって。

 それで、こんなふうに旅をしているわけなんですよ。

 さぞかし奇妙に見えるでしょうね」

亭主はちらりと剣を盗み見しながらも、面には出さず。

「いいえ、とんでもない。世の中には、さまざま事情がございます。安易に勝手な推測をしてこうと決め附け、声を荒げて批判をしたりする者は、すべて悪党ですよ。

 お察しいたします。

 いろいろな苦労が世の中には在るものでございます。楽している人間はいるかもしれませんが、楽ばかりしている人間なんていないものです」

「ところでご亭主、ここいらではなかなか食材も手に入りますまい」

 にやりと亭主は笑った。

「いやいや、山間の牧人が率いる群れをご覧ください。羊や牛の肉にはまったく困りませんね。ただしオリーブ油や塩がなかなか」

「もうお察しかと思いますが、ぼくらはそれらをたくさん積んでいます。かなりな上物ですよ」

「ええ、そうかと思いました。単刀直入に伺いますが、おいくらぐらいでしょう」

 二人は商談に入った。イラフは桃色の双眸を持つ賢者にしてクリムゾンの髪をした学究肌のチヒラの意外な能力に感心するも、ユーカレは冷笑を止めず、ずうっと外を眺めている。

 亭主が去った後、外を見ていたはずのユーカレが小声で言った。

「不用心かもしれないが、今後、商人のふりをしなければならないときには、刀剣類を馬車に置いていくことにしよう」

 チヒラは眉を寄せて顔を曇らせたが、

「君の言うとおりだ」

 そう言って黙った。

 以後、料理が来るまでは、まったく会話ははずまなかった。

 だが脂のしたたる(うま)(にく)が運ばれて来ると、再び雰囲気は和らぐ。暖かい食べ物の湯気は心を緩やかにするものだ。

 スープを一口啜り、イラフが、

「ん。うまいよ。旨みたっぷり、ダシが利いてる。味わい深いよ」

「うーん。ほんとうだね。肉もいいけど、チキン・スープは体が暖まる」

「ふ。スパイスのせいだろうな。黒胡椒が見えるじゃないか。チキンはどこかで入手できるようだな」

「ぼくが思うに、たぶん、農家がどこか近場にあるんじゃないか。来る途中では見かけなかったけれどもね」

「ねえ、これ、ジャガイモだ。こんなところでも獲れるんだ」

「だんだん、ここがよいところのように思えてきたよ」

「ふ。喰うために生きているからな」

 燦めくノーズティカのユーカレがそう言っても、ジョークにしか聞こえなかった。

 馬車に戻る。エルは食事を終えていた。じっとして黙り、相変わらず、幌の内側のテントの中でフードを深くかぶって、真珠のように自らを秘匿している。彼の人生に於いては、使命以外のすべての愉しみや快楽は切り捨てられてしまったかのようであった。ストイックで、ソリッドだ。

 チヒラは手際よくオリーブの樽と海の塩を詰めた袋を数袋、硬貨や肉の塩漬けと交換した。それを眺めていたイラフは象徴の森を歩いているような気分になる。

 一通り作業が終わると、チヒラは待たせていた仲間に眼で合図を送りながら、

「ざらざらした砂漠のような現実さ。

 さあ、行こうか」

 退屈そうに待っていたユーカレが気怠そうに微笑する。ノーズティカがかすかに揺れる。

 一行は再出発した。

 その夜は野宿する。岩の狭間に風を避けて龍馬を繋ぐ。寒風が強かったが、焚火を焚いて、三重にタープで囲い、干し肉を噛み、チーズをかじる。少し談笑してから、毛布や藁を敷いて眠った。眼が覚めると黄昏のような曙光の中、誰もが無口に片附け、白い息を吐きながら支度をする。

 出発するとすぐに曇り、粉雪が舞い始めた。

 その日以降も曇天か、雪か、凍るほどに冷たい雨か、いずれかの日々が続く。旅は粛々と進み、時折、疾風のように翔けた。高度が上がると、凍った雪の純白のみの世界になる。峻酷寒厳な氷雪と氷壁の岩山を這うよう、よじ登る。

 頂を越えて今度は下り始めると、季節を冬から秋へ、秋から春へと遡行していくかのようであった。

谷沿いの路や街道や平原はいかにも旅商人のごとく進む。

 途中、大いなる渓谷があり、広やかで、大きな湖があった。珍しく晴れた日で、誰ともすれ違わない。周囲は美しい緑をなし、湖に突き出た緑と岩との小さな岬の先端に、古城の廃墟があった。

 古城とは言っても、恐らくは砦だったのであろう。

 かたちを完全になしていた頃ですら小さな塔のようなものに過ぎなかったものだから、そのほとんどが崩れた今となっては、わずかな石壁と土台しか残さない、何か滅びの象徴のモニュメントように見えた。

 黄昏の湖を背景にシルエットは漆黒であった。輪郭が赤々と揺らいでいる。

「燃えている。湖とともに赤みを帯びたオレンジ色で燃えているかのようだ」

 イラフのその呟きを聞いてユーカレが、

「ふ。

 まるでいにしえの戦士のようだな。滅びて歴史に名を遺すこともなかった無名の」

「すべての現象は滅びへと向かって行くのだ。崩れて、熱は放出し、均されて差異がなくなり、無となる。生命とは崩壊と散逸と平均化に逆らう力、再生と自己増殖によってそれらに抗う力のことだ」

 イラフは微笑んだ。

「そうならば死と虚無そのもののようなあの廃墟にも生命はある。炎のように滾ろっている」

「君は詩人だな」

 そのチヒラの言葉を聞いたユーカレはいつものように微かに黄金のノーズティカを揺らして鼻を鳴らすだけであった。

「ふ」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ