第五章 黒い男
「見たか」
鋭く囁くようにチヒラは訊いた。
「あゝ、見たとも。間違いない」
「しかし、なぜここに」
「シルヴィエ人だって旅行くらいする」
「だが、あれは相当高貴な身分の者じゃないと附けられない」
「そうなのか」
「知らないのか」
「知らなかったよ。で、どうする。それが肝心だ」
「わかっているよ。しかし、どうすべきでもないだろう。ぼくらには、ぼくらの任務があるのだから」
「放置か。もしかしたら食い止めなくちゃならない何かが起こりつつあるのかもしれないよ。調べるべきだと思うが」
「うん。一理あるね。だが相当リスクがあるよ。外交問題になることもあるかもしれないし、帝国の者らが近くにたくさんいるのかもしれないし、彼自身がかなりの達人であるようだし」
「そうか・・・」
そうこうするうちに寝台車輌に行って見えなくなってしまった。
「さあ、お茶を飲んだら、ぼくらもコンパートメントに戻ろう。ともかく荷物を置こうよ。ええっと、次の駅は7時間後だったかな」
戻って荷物を収納しながら、イラフは、
「実際、商業目的の場合は、シルヴィエの人間も相当な数の人間が来ている。考え過ぎかもしれない」
「商業目的かどうかは確かめようがないけどね」
「それはともかくとして、シルヴィエ人がいること自体は珍しいことではないとは言え、君の言うとおり彼が高位の人間だとすれば話は別だよね」
「軍本部にはさっきメールしておいた。ついでに照会もかけたよ。ぼくらに教えてくれるかどうかわからないが。義務は果たしたさ」
7時間後、黄昏の駅で誰かが降りた気配はなかったが、翌朝の食事に黒尽くめ男は来なかった。
「やはり降りたのかな」
「ルーム・サービスだってある。食事に来ないからと言って、列車内で食事をしていないとは限らない。どっちにしろ、気にしないさ、本部も何も言ってこないし」
「そうだな。まあ、関係ないな」
そうこうして三日が何事もなく過ぎた。彼らはほとんど語らず、景色を眺め、本を読んだ。
午前5時、列車はスパルタクス帝国に入った。スパルタクスは強大な軍事国家で、産業は牧畜と農業と漁業と海洋貿易である。
峻嶮な山岳地帯を抜けるとなだらかな起伏の続く丘陵地帯に入った。早くも空気中の光がシャンパン・カラーを微かに孕み始め、空は紺碧ながらも黄昏の兆しを見せる。
まるで斜陽の帝国の豪奢な懶惰のようであった。帝国は過去、壮大に繁栄していた。
当時の栄光は十分に力を余していて、未だに地方の隅々にまで、偉容を誇る不落の城が聳え、都市には立派な建物がならび、人や物資であふれている。
その端緒は、大航海時代の世界ルートの発見による世界貿易で蓄積された空前絶後の富にあった。
得た金銀によってさらに大軍艦数千隻の大艦隊を編成し、一時はマル・メディテラーノ(裂大陸大海洋)から東のオフェアノ・パクス(太汎海洋)、西のアッチランティコ(大古代海洋)を廻って、各大陸に貿易拠点となる都市を数百か所も持つほどの、世界に冠たる大帝国の神威を帯びた時期があったのである。
渓谷を見ながら丘陵地帯を蛇行しつつ進むと、やがて前方に、岩山の絶壁の面を背にして建つ地方都市シュッベンドガルトが見え始める。午前7時だ。
建物全体が立ち上がり部分から急激に角度を急にして尖る。基礎部から上(城の4分の3以上)が鋭利な細い尖塔状になる。この奇妙な形状の城は組石造の躯体に錆びない白銀色の金属板を張って砲弾に缺することさえない、まさしく鉄壁の城砦であった。
奇観にイラフは見とれた。
「すごいなあ」
「こんなことで驚くのは早いよ。
世界にはもっと凄い建築物がたくさんある」
「君はそんなに世界を廻ったのか」
「そう。正確に言えば、世界の大学と図書館とを、だ。
気の力を練成するためには工夫が必要だし、前の時代を超えて新しい境地を啓くには、さまざまな異世界の奥義を学ぶ必要がある。見聞は重要だ」
「任務ではなく、勉強のため?」
「最初はね。しかし外国に詳しいので、自然と国外の情報収集などの任務が命ぜられるようになったのさ」
「さぞかし博学なんだな。実際、羨ましいよ。
わたしには学問のために学問をする機会がなかった。勉強は嫌いではなかった。武人になるしかなかったんだ。ほんとうは乱暴なことは好きではない」
「そんなに強いのに。
誰しも自分の特技を好きになるものだと思っていた」
「むろん、武を磨くことに興味は尽きない。でも、それは学問なんだ」
「なるほどね。
ところでシュッベンドガルトには古い修道院があってそこの附属図書館が素晴らしいんだが。聖ガレノン修道院の附属図書館だ」
「聖ガレノン!」
「君も知っているのか」
「いや、知らないんだけど。実は・・・やめておこう。後で話す」
「おかしなやつだな」
「で、蔵書がたくさんあるってことか」
「あゝ。百万冊を超える古今東西の書籍だ」
「一生かかっても読み切れないな」
「人間は一生のうちで5千冊程度しか読めないという説があるそうだ」
「そういうのを聞くと挑みたくなる。もう14年も無駄にしているが」
「ふ。まだまだ遅くない。君は知識への意欲に目覚めている。幸運だし、幸せなことだ。向学心のない愚かな人間は哀れだ。残念ながら、ぼくらよりも愚かな人間はたくさんいる」
実際、聖ガレノン修道院は素晴らしい場所であった。
左右に塔を備えた大聖堂のファサードから身廊を通り、側廊を横切って修道院施設に渉る。そこはパティオ(中庭)を囲む廻廊形式の建築であった。
廻廊には列柱がならび、列柱はアーチをなし、アーチの上部はトレーサリー(アーチの上部を飾る幾何学模様の透かし彫りまたは組子のような装飾)で装飾されている。
二人は廻廊をゆっくり歩きながら知の雰囲気に浸った。
「ここだよ」
チヒラが指差したのが蒼古荘厳たる附属図書館である。中に入ると高い天井の聖堂のような構造で壁面はすべて磨かれ装飾の彫られたオーク材の書棚で、3層構造になっていて、バルコニーのような廻廊が3段になって備わっていた。ミュールの音がよく響く。
「1000年を超える文書だけでも数千ある。それらはオリジナルのパピルスや粘土板、椰子の葉の経典、羊皮紙の写本などだ。こんな場所は世界でもそうたくさんはない。人間の知性の栄光だ。
ここは叡智の殿堂としてあらゆる権力から独立している。ここの最高位である大司教兼院長に国家の王の権限も及ばない。特別な地位、超越的な存在として、世界の正義と平和に貢献している。
さて、ところで、ぼくは少し自由に閲覧したいのだが」
「どうぞ。わたしも自由に見よう」
二人は別々に閲覧を始めた。
知の森をさまようようにイラフはさまざまな書籍を手にし、閲する。遠くにかすかに黒いマントの男を見たような気がした。近附くとあの男だった。熱心に古文書に見入っている。室内にもかかわらず、深くフードをかぶっていた。何を見ているのだろう。好奇心に駆られてイラフは進む。
男はペパーミント・グリーンの双眸の光に気が附いたかのごとく、わずかに振り返った。そしてあたかもちょうど読み終えたかのように自然に立ち上がって本を戻し、去る。イラフは足を速めたが、見失った。彼が見ていたであろうと思われる書籍を探す。確かこの位置に本を収めていたが。表紙の色は、確か・・・・・
「あゝ、これは」
その冊子の背表紙に浮き彫られ表題は『奥義の書・大曼荼羅真義』。手にとって少し頁をめくってみた。非常に難解な書物である。
「世界曼荼羅・・・? 時空と歴史による秘術? 実践非論理性? 何のことだ」
イラフには理解できなかった。チヒラを呼ぼうとしたが、姿が見えない。探したが、いない。どこにも。
もしやと思い、パティオのある廻廊に出てみた。
「あれ?」
チヒラの姿は見えなかったが、見失ったと思っていた黒いマントの男がいたのだ。人影のない、列柱に囲まれた四角い中庭を横切っている。
四角い平面を斜めに横断する黒い姿は音声のない映像のようであった。
それも束の間、突如、屋根から降りてきた影がある。紅きアグールだ。マントの男が振り向き、剣の柄をにぎる。アグールが大鉈のような刃物で襲う。
助けるべきかどうか迷ったが、体は中庭に飛び出していた。しかし、それよりも速く白い影が過ぎる。イラフがあっと驚き叫ぶ、
「ユーカレ!」
それは純白のマントを翻し、金の双眸に白き髪とトーガのユーカレだった。長き冷凛剣を振るう。その華麗な動きは千手観音像のようでもあった。五月雨に乱れ、あらゆる方向より変幻自在に斬り附ける。オーロラのようにも見えた。
「くそっ、また貴様か」
アグールが憤りを剥き出しにする。ユーカレに遅れたイラフも、
「加勢するぞ!」
と剣を振りかぶる。どこからかチヒラも飛び出て来た。『天真義』を出す。黒マントの男はフードを外さず、剣を抜く。構えた。
「ち、多勢に無勢か」
さすがのアグールも不利と思ったか、またも屋根に跳び上がり、
「次は貴様らの命はないぞ。ぎゃははは」
そう哄笑して去る。
「ふう。また逃がしたか」
ノーズティカ揺らすユーカレはそう唸ると、マントの男を振り返り、
「あなたはどうしてアグールに狙われているのか」
男は黙っていた。礼も言わず、背を向けて去ろうとした。
「ちょっと待って。礼の言葉ぐらいあってもよいのでは」
チヒラが桃色の眸を濃くして憤り露わにし、いさめたにもかかわらず、男は歩み出し、それを見ていたイラフとて言わずにはいられない、
「貴殿、失礼であろう。シルヴィエの殿よ」
相手は足を止めた。
「シルヴィエだと、それはまことか」
ユーカレがそう言ってイラフを見る。
「あゝ、しかも高貴な身分だ」
チヒラがそう補足すると、男はいきなり振り返った。
「それ以上、言うな」
抑えてはいるが、厳しい語調だ。
ユーカレはいぶかしがる。
「しかし、なぜアグールがシルヴィエの人間を襲うのか。ジン・メタルハートは今や神聖シルヴィエ帝国に属するはず」
男はその疑念に応えず、黙っていた。思案しているようだった。
チヒラも猜疑を抱く。
「言われてみれば確かにそうだ。しかも高貴なる身分のはずなのに・・・」
黒尽くめの男は手で戦士らの言葉を制止する。
「もうよい。わかった。ところで、まず訊きたい。君らはどこに属する者たちか」
切れ長の眼の中の金色の眸を鋭くし、一歩進み出たユーカレが代表して応えた。
「我らはオエステのものだ。剣を見れば察しが附くだろう」
「大華厳龍國だな」
「そうだ」
三人が同時にそう応えると、シルヴィエ人は彼らを凝視し、こう言った。
「その証はすぐにわかる」
この段になって、ユーカレはイラフとチヒラとに以前、会っていたことに気が附く。
「こんなところで再会するとはな」
チヒラは呆れ顔で、
「今頃、気が附いたのか。よほど印象がなかったらしい。
まあ、いいや。しかし、まさかまたここで会うとはね。アグールを追って来たのか」
「追い続けていることに変わりはない。だがここに来たのは偶然だ。世に名高い修道院附属図書館を是非見ておきたい、そう思ったのだ」
「なるほど。ぼくらと同じだ」
今度はユーカレが問う、
「君らは任務を終えたようだが」
確かに、チヒラはスールでの情報収集を終えて報告を済ませていた。イラフもクラウドのイースと会って密約を交わし、報告を終えている。
「まあ、そうとも言える」
チヒラは応えた。
黒服の男が口を挟む。
「アグールは私を狙っている。
ともかく秘密を守ってもらうことが必要であることを証明しよう。私の言葉だけでは、到底、信じられまい。当然のことだ。さあ、行こう。
一緒に院長室へ来てもらいたい」
三人は顔を見合わせたが、
「わかった。院長は世俗の権力を超越した方だ。信頼できる。すべての悪は世俗の価値を信じることから起こるのだから」
四人は廻廊を廻り、司教館へ向かった。衛兵は黒服の男が来ると調べもせずに通す。
長い廊下の先に修道院長室はあった。巨大と言ってもよい樫の扉の両側には装甲の聖騎士が立っている。扉が厳かに開いた。
叡知の殿堂の主、ピリピレオ2世は深紅の僧帽に白い絹の貫頭衣、黄金の杖を持って玉座に坐っている。大司教兼修道院長はその厳しい顔に驚いた表情を浮かべていた。
「何と、いったい、これは、どうしたことだ」
いつもの用心の癖で、部屋の中を見廻しながらも、イラフはこのときに初めてじっくりと黒服黒マントの男の様相を見ることが出来た。背が高い。フードから出ている顎はシャープで精悍だ。
ユーカレが一歩進み出て名乗る。
「大華厳龍國、海軍精鋭部隊、憂寡羚です」
それを見てチヒラも、
「陸軍精鋭部隊諜報部、千毘羅です」
「超特殊戦闘部隊『非』、外国傭兵部隊の尹良鳬です」
僧帽から硬そうな銀色の髪をはみ出させる革のような皮膚のピリピレオは黒服の男に尋ねた。
「エル殿。説明していただこう」
エルと呼ばれた黒マントの男はそれに応え、
「猊下。この者たちは私がシルヴィエの人間であることを知っています。しかも身分についても近からずとも遠からず察しています。
そこまで知られては何も言わずに置くよりも、怪しい者ではなく、この秘密を守ることには意義があるということを証明した方がよいと判断したのです。すべては話せぬとしても。
その証明は、ここに於いてはあなたにしかできません。院長殿。
大義を説明することはできぬも、大義のあることを保証していただきたい。
それに、院長殿、さきほど私はジン・メタルハート直属の女戦士に襲われたところを彼女らに助けられました。なれば何も言わぬは義に反すると気が附いたのです」
ピリピレオはゆっくり深くうなずく。
「わかった。
まず大華厳龍國に連絡を取る」
そう言ってMPCでメールを送った。沈黙の数分が過ぎた。着信音が鳴る。
「回答を受信した。君ら戦士の確認はできた。うむ」
腕を組んで考え始める。やがて、
「では諸君、これは皇帝の信頼厚き劉玄大丞相を補佐する大輔弼官、尹殷卿の提案であるのだが、余も今、思慮し、良き策であると思える。
誇り高き戦士諸君よ、チヒラとイラフは既に任務を終えたし、ユーカレはアグール追討と目的が重なるはずだ。何が言いたいか、わかるか?」
戦士らは首を横に振った。
「諸君らは、今ここにいるエル殿をリョンリャンリューゼンの首都である大元汎都まで護衛してはくれまいか」
黒服の男も、三人の戦士も眼を睜く。
「何ですって!」
「しかし彼は、いったい、何者なのでしょうか」
ペパー・グリーンの光を強めてイラフが問い詰めるように質問したが、大司教は、
「今はその質問に答えられない」
「しかし彼はシルヴィエ帝国の人間では」
「そうだ」
「神聖帝国の人間を護るのですか」
「そうだ。理由は説明できない」
「しかし敵は何者ですか? 誰から誰を護るかも知らせてもらえないのか」
「そのとおり。真実を知らずとも生きて行ける。真理は常に秘匿され、現実の実相はその姿を顕わにしない」
藤色のまつ毛を翳してチヒラがうなずき、
「わかりました。説明がないことなど、よくあることです。命令に従うのみです。
ちなみにルートの指定は」
「ない。ただし絶対に安全な方法だ」
「この世に絶対はありません」
「この件に関しては絶対が条件だ」
「不可能です」
「君らに拒否権があるのか」
「・・・・ありません」
チヒラのその言葉の後に、咳払いしてからユーカレが言う、
「了解しました。
ただし、絶対に、というオーダーなら、いくら精鋭とは言え、我々だけでは手薄でしょうね」
「わかっている。皇帝もそれを考慮しておられる」
桃色の眸を猜疑で曇らせてチヒラが問う、
「彼はここに来るまでどのように警護されていたのでしょう」
「志ある屈強な戦士と聡明な従者がいた。だが」
「・・・やられてしまったわけですね」
「そうだ」
さらにチヒラが、
「皇帝は、いった、どのような配慮をお考えでしょうか」
「尹殷卿がノルテで潜伏活動中の軍人を大至急招集すると言っておられる」
「どこに、いつまでに」
「この周辺に。第一弾は今日中に来るだろう。後は追って道々集まるであろう」
「何人くらいですか」
「今日、集まる者が何人であるかという問いなら、定かではないと答えよう。
だが最終的には百名ほどになる。ということだ」
「わかりました。どこの部隊に属していますか」
そう訊いたのはユーカレであった。
「まて、添付ファイルを見る。ふむ。
陸海両軍の特殊部隊だ。一部は大華厳龍國が長年契約している外国人傭兵だ。またクラウド連邦と合意ができているとのことだ。連邦からも戦士の派遣が得られるということらしい。メールの最後にこうある。
彼らを特殊作戦部隊SFE(セフイSecurity Forces for EL)と呼ぶ、と。大輔弼官殿はさように伝えてきておる」
「了解しました。出発は明日でしょうね」
イラフの問いに、ピリピレオは厳粛な面持ちで、
「準備出来次第、すぐに、だ。
エル殿がここにいることが既に知られてしまっている以上、一刻の猶予もならん。これは侮ることのできぬ事態なのだ。
ともかく準備が終わるまでは、この中から出ずに、出来次第で秘密の出口から彼とともに出発してもらう。
ちなみに、ルートについての考えはあるか」
濃いクリムゾンとボルドー・カラーの絡む髪をいじりながらチヒラがユーカレの顔を見つつ、応えた。
「ぼくらが行こうとしていたルートで行きます。シルヴィエ帝国領を横切ります」
二人の頭がならぶと紅白の梅のようだと、イラフは唐突に気が附いてくすっと笑う。
チヒラの応えに院長は少し顔を顰めた。
「意外だが、良かろう。君らはプロフェッショナルだ」
イラフが尋ねる。
「エルという、彼のなまえは本名ですか」
「それも答えられぬ」
そう言ってからピリピレオは手を挙げてもう下がれと言う合図をした。