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   第三章 情報生命学

 余計な荷物のない、無一文の気楽さ。失うものがなければ心は常に清々して、さっぱりと軽やかなものだ。


 イラフは予定していた宿をキャンセルしてチヒラの予約していたオテル・オリエンテに泊まった。

 言葉一つ、簡単なものだ。

 アールヌーボー調の植物的なデザインに、鮮やかな色彩画の嵌められたドーム型丸天井、明るくエキゾチックな色遣いの円形エントランスの奥にあるカウンターに肘を突き、彼女らは羽ペンで記帳して部屋に上がる。

「一応、確認しよう」

 ライト・ブラウンの楓材の木彫扉をゆっくり開けながらチヒラがそう言った。

 まずは部屋も入念にチェックし、窓枠をチェックしてから窓を開けて暗い雨降る虚空を見廻し、ペルシャ絨毯や暖炉も眼を近附けて痕跡がないか確認し、最後に廊下を再び歩いた。

 ようやく安堵して二人向かい合い、語らい始める。チヒラはミュールを足でぽおんと放るように脱ぐ。

 それとは真逆に、碧い眉を寄せてイラフが問うた。寄せられると眉はわずかに色を濃くする。

「チヒラ」

「どうした? いったい、そんな思いつめたような顔で」

「いや。実は・・・」

「何?」

「めんどうでなければ教えてくれませんか。

 あなたが先ほど言った情報生命体のことがよくわからなかった」

「何だ。そんなことか。

 深刻な顔をして何かと思ったよ。君ほどの達人がそんなことを問うか問うまいかで逡巡するものか」

「そうです。そういうふうに見えないかもしれませんが」

「内気な性格を抑えても知りたいわけだ。ふーん。武人なのに知的な好奇心が旺盛だな、イラフ」

「武人こそ知が大事です。

 知こそが最大の武器であると考えています。たとえば、いくら武芸に長けていても、一人で一万人は斃せない。羅氾のような例外もありますが、普通はない。しかし知があれば、百万人を斃すことも可能かもしれません。知略によって。

 いや。

 そうでなくとも人間は真理を求めるべきです。真理こそ(意外にも)実は人の求めるすべてだと思います。知なくしては、求めるものを得られない」

「君の言うとおりだ。知は最も大切なものだ。知とは勉強ができるかどうかではない。謙虚で心清らかなことだ。どんなに学があっても、自惚れて我が罪のみは赦されると想い、悪をなす人間は愚かだ。つまり謙虚で心清らかとは、自分の立場を超えた立場に立つことができることだ。私欲の超越だ。それは客観的な立場を獲得することによって得られる。

 だから客観的な視点は大事だ。

 客観的な視点とは、すべてを網羅するように、いろいろな事実を、さまざまな角度から知ることによって、(おの)ずから得られるものだ。全体を知らなければならない。

 局地的な事実ではだめだ。局所的な歴史ではだめなんだ。全時空を網羅しなければならない。

 諸々の立場を理解することは、自分の立場を棄てて、他者の立場に参入することへと通ずるからだ。

 あっ、いや、すまない。

 つい自説を論じてしまった。ぼくは今、我が説を伝えることに夢中になり過ぎて、嵩じてしまった。

 これぞ客観性の喪失と言うべきだろう。

 いやはや、話を戻し、君の要請に応えよう。ぼくのわかる範囲で。

 まずは。

 そうだな・・・・・・・・

 たとえば、宇宙は全体として、あたかも生命を持っているかのようだ。あたかも生命であるかのようではないか。

 全体の総和として、結局、宇宙の存命と膨張を志向している。まるで意志のように。一つの知性のように、情報というかたちに於いての生命体であるかのように。

だが果たしてそうだろうか。

 事象を詳細に鑑みてみよう。宇宙を構成する諸々の要素を鑑みよう。

 たとえば、すべての物質を細かく分解・分析していくと、最後はエネルギー態になる(そのことは理解できるかな?)。

 物質を構成する素粒子は粒子状(固形個物)ではない。原子を分解していくと、最後は〝気〟に還元される。それは〝ゆらぎ・ふるえ〟であり、時空の歪みのような〝歪み〟でもある。

 それはエネルギー態だ。不可逆的な特定の働きを持ち、あたかも意志のようにベクトルをもって働く。

 いや、このレベルになれば、実際、物質的な感じは、とっても希薄で、物質的な感じはしない。

 スタイル(様式)として、ほとんど〝心〟や〝想い〟と変わらない。

 むしろ、意志そのもののようではないか。

 むろん、素粒子のレベルでは可逆的な動き(※時間を遡行する、時間をさかのぼる、時間を逆に進むこと)があることは知られている。

 だがそれにしても一つのベクトルだ。一つの方向性を持っている。あたかも一貫する意志のようなものではないか」

「意志ですか。

 わかっているようでわからない。誰もが既に経験しているから、慣れていて、誰もが疑問もなく、何となく了解している・・・」

「ところで、人間には、意欲する心の働きとしてある意志と、諸細胞の新陳代謝や細胞分裂など有機体としての意志とがある。

 端的に言えば、〝心〟と〝物的現象〟だ。これはまったく別物のように思える。だがそうだろうか」

「別ではない? まさか」

「心の方を考えてみよう。

 人の心の働きは、脳神経細胞ニューロンから脳神経細胞へと伝わっていく電気的な発火現象インパルスと、その刺激によって誘発される神経伝達物質の分泌による興奮作用だ。

 化学的現象の一連の作用によって醸される効果でしかない。外から見れば化学的な作用に過ぎないようなことが、その作用の内部にいる当事者ぼくらにとっては、今、こう考えたり、会話したりしているすべて、意識そのものであって、見たり、聞いたりしている世界一切のことだ。

 君はどう思うか、知性と物的現象は何が違うのか」

「うわあ。

 わたしたちにとっては、到底、同じものとは思えませんが、客観的に見れば、まったく同じなんですね」

「そのとおりだ。

 ただし、世界がぼくらの眼に見えているとおりの世界だとすれば、という前提のもとでの話だけどね。

 つまり科学的な実験で観察されたとおり、脳髄というものが実在し、そこにインパルスが流れている、という現象がまさしく事実であり、現実であるとすれば、ね」

「知覚されるものを疑うなら、もう収拾がつかないでしょう」

「さっきまで積み上げてきた論理も基礎から崩壊するね」

「すべてがつかみどころのないものに、解明不能なものになってしまいます」

「そのとおりだ。

 さて、またもや話が逸れたが、物質的な感じが希薄で、むしろ、意志のよなものでしかないとさっきは言ったが、その意志とやらが実は、かなり物的な存在だということだ。

まったく以て、ふしぎじゃないか。物なのか、(こころ)なのか。まるで『色即是空、空即是色』のような感じだ。しかもそれでいて、なぜ、このような(ぼくらが今しているような)知性であり得るのか。

 こういうふうな、(あゝ、何と表現すべきなのだろうか?)〝カタチ〟で(〝カタチ〟というやり方で)捉えようとすること自体が、もはや相応しくないのかもしれないね。

 物事の純粋な原理源泉として、厳然と存在する本質(ギリシャ語:ウーシアουσία)としての知性というものは、実際にはないのかもしれない。

 ただ知性のような〝効果〟があるだけで、ぼくらは幻影を見せられているだけなのかもしれない。そもそもこういうふうな、考概のすべてが化学的な現象で、効果でしかなくて、本質ではないとすれば、今やっているこのような批判自体がもう、いったい、何なのか、ってことになってしまう。

 だけど、カタチで捉える方法の他に方法がないことも事実だ。

 それに、ぼくらにとっては、実際、どうであろうとも、現実はまさに現実で、ぼくらのこの意識は考概で世界(理解)を構築する。ぼくらにとっては実際のものである世界を(つく)る」

「経験していますからね。もう是も非もない・・・・・」

「まったくだ。経験はマジックだ。納得が生じてしまう。しかし解明はできない。

観念上に躍るカタチを、見たまゝを信じるしかない。たとえ了解できなくとも〝まさに見たものは見た〟、と」

「アルチュール・ランボーですか。文脈は違うけど」※「見者ヴォワイヤンの手紙」参照。

「マジックとして理解すればいいんだ。世界が情報生命であるということは、突き詰めればそういう仮説だ。カタチでない、何か成らしめる何か。カタチとして、まとまっているかのように感じさせる何か。〝何か〟だ。

 それはぼくらの感覚の上でも、さほどふしぎではない。むしろ、ありふれている。

 たとえば、生物の進化を見てみるとしよう。

すると、どうかな。その巧みさ、奇抜さの数々、豊かなる発想の数々、擬態や羽根の構造や光合成や冬眠の知恵など驚嘆すべき奇跡の数々を見よ、人が思考を凝らしても為せないような美や巧緻がある。

 神の奇跡だ。マジックだよ。(※マジックの語源は古代ペルシャ語の『マギ』にあるという。マギとはペルシャ系の祭祀階級を指していう。ちなみに聖書に出てくる東方三博士は『マーゴイ(ギリシャ語:μάγοι)』である)

 だが改めてよく観察すれば、そのことは生物に限らない。すべては神的叡智に富んでいる。宇宙の誕生から発展までもしかりだ。

 自然現象のさまざまな奇跡にぼくらはいつも驚嘆する。

 数学的な美しさを描く物理の法則、化学的な変化変容のさまざま、天体の運行や壮大な宇宙の展開、ブラックホールや超銀河団・・・・・

 いや、ぼくらは「他にも選択肢があるにもかかわらず、自然にこのようになった」と思い込んでいるから、奇跡のように見えるだけなのかもしれない。

 実は選択肢という概念自体が不適切なのかもしれない、という可能性はゼロではない。

 ただし、これを問うても意味がない。どうやって解明したらよいか、確かめるすべもない。

 いずれにせよ、生物も非生物も、無機質的なものも有機質的なものも、物的存在もエネルギーも運動も時間も空間も、すべての現象は、いや、非存在であるものも含めて一切は、なぜ、そうなのか、なぜ、そういう在り方なのか、なぜ、そういう設定なのか、わからないことだらけだ、マジックだ、そのように唐突に忽焉と決定され、龍脈が地表のすべてに奔る地理となり、星々の運びの理を読む天文となるように、知性があるかのごとく法則を()す。

 どうしてそうなのか、実際にはそこで何が起こっているかを、ぼくらはまったく知らない。わからない。しかしそんなぼくらを一瞥もせず、機は事象を(かたど)り、世界が生成で絡み膨れ、運命が決せられる。

 唯、奇跡だ。これがぼくの言うところの情報生命体さ。わからない?

ま、ある意味、そういうことさ。概念になるような固定された〝カタチ〟あるものではないからね」

 イラフは慎重に反芻し、理解しようと努めた。人は経験の擦り込みなしに物を理解することができない。彼女はさまざまに角度を変えて想起し、疑似経験を積んでいるところなのだ。

 その夜は何も起こらなかった。イラフはすぐ寝た。チヒラは本を取り出してしばらく読む。弱々しいろうそくの火と暖炉の炎で読み耽った。やがて疲労で強い眠気に襲われる。

 午前4時の少し前。起床した。

 イラフの動く音に目を覚まし、チヒラは乱れたクリムゾン&ボルドーの髪を振り、ベッドから身体をもぎ取って奪い返すように上半身を起こす。もの凄く眠たかった。〝気(叡智)〟を使うことはかなりの疲労を肉体に与えるのだ。

 それに引き換え、イラフは剣を構えて入念に型の確認をしていた。その眼は集中している。チヒラが目覚めたことに気が附くと、汗をぬぐい、微笑しながら挨拶する。

「おはようございます」 

「あゝ、おはよう。素振りか。朝から元気だな」

「準備運動です。精神が充実するまで時間を要しますから、早起きしてウォームアップしておかないと、出立の時に気力は充実しません」

「間違いない。寝坊したな」

「あなたは遅くまで読書されていたから」

「そうでもない。意の力を使うといつもこうなんだよ」

「結構負担がかかるのですね」

「〝まったく以て自然なこと〟とは言い難いからね」

「お腹が空きました。さあ、食事をしましょう」

 早朝の出立なので、前の晩、特別注文でサンドウィッチなどお弁当を包んでもらっていた。暖炉に吊るしてあった薬缶で湯を沸かし、お茶を飲んだ。チヒラは寝癖でさらにくしゃくしゃに絡んだ深い緋色と濃い葡萄酒色の髪を散々苦心してブラシで梳かしながら、

「君もコーヒーは飲まないんだな」

「何で飲まないとわかるのですか」

「紅茶に手を附けたからさ。コーヒーだってあるのに。言ってしまうとバカバカしいね」

「成長期は控えた方がよいと言われたことがあったので。飲まないというわけではありません」

「ぼくもだ。さあ、着替えて行こうか。つまらないことを言った」

 支度が終わると、羽織って扉を開ける。地味なイラフと白やピンク系で派手なチヒラの格好は対照的だった。また足音を忍ばすイラフと、ミュールをカツカツと鳴らしてキャリア・バッグをガラガラ引くチヒラも対照的である。

 さてともかくもエントランスを出ると、古き街は黎明前の霧に埋もれていた。十九世紀のロンドンのように。遠くに蹄の音が聞こえる。

「うわ、凄いな。見えないよ。馬車が待っていても見えないんじゃないか」

 チヒラが手で霧をかき分けようとするが、それで先が見えるわけもない。

「大丈夫です。・・・・あっ!」

 イラフは両眼を光らせる。殺気を感じた。鬼神のような凄まじい念を。あえて凄まじさを見せつけるようにぎろりと睥睨している。同時に、白いトーガを来た人物の幻影が微かに過るような気がした・・・それらが一つのものなのか、別件なのかは定かではなかった。

 イラフははっきりとは見えない周囲に鋭いペパーミント・グリーンの眼光を投じ、警戒する。心を研ぎ澄ました。眼に見えないものを見ようとするように。チヒラもぐるりと周りを見廻し、

「感じたよ、ぼくも」

「でも」

 イラフは剣の柄に置いた手を離す。

「今は消えました。確かに先ほど感じたのですが」

「そうだね。消えたようだ。敵がいたとしても、彼らにもぼくらの姿は見えないだろう。或る意味、この霧は幸運だよ。

 さあ、行こうか。で、どうすればいいんだ?」

「まず駅に行きます。駅までは普通の辻馬車に乗りましょう」

「あれ? 列車で行くのか」

「馬車のあるところまで、です」

 チヒラは微笑し、

「ずいぶんと、もったいぶるじゃないか。さぞかしもの凄い馬車なんだな。わかったよ。君を信頼しよう。

 ところで、イラフ、もう敬語はいいよ。ぼくらは同じくらいの年齢だろう。たぶん」

二人とも十四歳であった。

「わかりました。そうしましょう。・・・いや、わかった。そうしようよ」

「さあ、早く辻馬車を探そう。そして早く行こうよ」 

「探すために気を読む、っていうのはどうかな。視覚が当てにならない状況で、気を読むしかないと思う。まさか嗅覚っていうわけにもいかないし」

「あはは。それはそうだけど。でもどうかなあ。辻馬車以外の馬車も走っているし。技術的にムリかなって思うんだけど。・・・まあ、試しにやってみるか。うーん」

 そう言うが早いか、藤色のまつ毛を下ろし、チヒラは心を澄ます。

「ムリと言いながら、もう始めてるんだね。そうそう、案ずるより産むが易し、さ」

 イラフもまたまぶたを下ろしてペパーミント・グリーンの(ひとみ)を閉じた。

 まずは自分の経験の範囲内で、剣を構えるときのように心に静寂を呼び覚ます。存在が情報生命体ならばその情報が読み込めないだろうか、と思ったのだ。殺気を読むときのように。

 考えてみれば、同じような原理のような気がした。できるんだと想うこと。剣の修業もそうではないか。なぜ望んで意志するとそれは近附くのか、理由はわからないが、経験則に合致する。

 むろん、そんな簡単なことではあるまい。

 だがそういう傾向があるような気がしていた。理屈を超えた微かな手応えのようなものを感じる。薄っすらとした可能性のようなものを仄かにつかんでいた。このように感じ易い人ほど、そのように起こり易い気もする。

「わかった!」

 二人が同時に言った。たぶんお互いに顔を見合せたであろうが、霧で見えない。それでも意思の疎通を感じ、今度は同時に歩み出した。

 確かに向かう方に二人乗り馬車が待っている。霧にぼうっとするカンテラを吊るし下げて。

 イラフは武人ゆえに気を読む力を既に持っていたとは言え、チヒラの些細なヒントを基にして、たちまちに情報生命の理論を体得してしまったのである。

「呑み込みが早いな」

 馬車の乗り上がろうとするとき、チヒラがイラフを振り返って言った。

「師が良いからさ」

 そう言って微笑む。

 出発した。チヒラはポケットから本を出し、髪を弄りながらミュールをぶらぶらさせて読み始める。

 街を出ると霧は薄らいできた。

 木々や草原が現れ始め、素朴な土壁の農家などがポツリポツリと見えるようになる。降る雨に寂しげだなどと思うと、突如、霧をまとうストラングラー駅の偉容が見え始めてきた。

 処刑場のあった小さな絞首刑人の町の名を冠する駅とはとても思えない。本来のストラングラーの町よりも、この周辺の方が近代的で栄えていた。

 川の傍にある駅は半ば橋にまたがっている。帆船で運んだ物を貨物列車に積んで運ぶこともその逆も容易だ。駅のファサードはホテルのファサードでもあった。

 象徴的なオベリスク塔が立つ駅前の円形広場では、次々と馬車が着いて人々が降りた。馬車は時々渋滞して列になる。街道を挟んだ向かいにも大きなホテル、オテル・リコがあった。そこは高級で金持ち専門だ。

 駅の切符売り場に行くと、買うまでもなくイラフの席は用意されていた。イースの手配だ。当たり前だが、チヒラの席の用意はない。今からチヒラが購入すれば、イラフとは離れた席になるのは明らかだった。

「二人用の席を確保できないかな」

 イラフは依頼する。

「お待ちください。確認いたします」

 予約係は髪を結った制服の女性で、手早く予約台帳を確認した。実は鉄道職員は公安職員が兼ねている。犯罪者やスパイの往来をチェックするためだ。

 あまり待たされなかった。席に余裕があったので、二人は二人用のコンパートメントに入る。ちなみにこの急行列車は全席がコンパートメント式であった。

 クラウドの誇る麗々しい列車には金色の筆記体で「クラウド・スパルタクス急行」という文字が象嵌されている。車輛はクラシカルな深い青であった。

 車掌に導かれて颯爽と乗り込む。濃い青の制服の男の後に附いて狭い廊下を行く。麗々しい夫人や凛々しい紳士とすれ違う。すれ違えるほどの幅があった。映画などで見るよりも広い感じだ。

 部屋に着くと、内装は絨毯も麗々しく、木目も美しいクラシカル調である。案内された個室は十分な高級感のある部屋だった。 

「すばらしいな」

 チヒラが言った。

「映画を思い出したよ。アガサ・クリスティだ。オリエント急行」

 肘掛の附いたソファのような椅子にゆったり腰かける。汽笛を鳴らし、汽車が動き始めた。駅舎を出ると、すぐに川を渡る橋である。橋は川の上で二股に分かれていた。広々としたエジンバール川は霧に覆われていてもその偉容をうかがわせる。切れ目に悠々と流れる黒い姿を垣間見させていた。壮観であった。早くも旅愁を感じる。

「もう朝だろうね」

 川を渡り終えると、チヒラが言う。

「6時過ぎた。黎明の時刻だろうと思う。いや、実際、少し明るいよ」

 遠く霧の上に山脈の影を眺めながら平らかな地を行く。

 チヒラは大きな革装丁の本を出して読み耽り始めた。

 平原は霧がまとい附くように漾う。渺茫たる景色のところどころに白い岩を剥き出しにし、岩は雨に濡れていた。他に見えるものはと言えば、点在する灌木の濃い緑があるばかり。稀に見る常緑の高木はオリーブのようであった。

しばらくして山岳地帯の峡谷を走るようになる。霧はかなり薄れ、消えかけていた。深い渓谷の下が見えて怖ろしい。雨は霧雨に変わっていた。

 この地域は嶮しい山岳と、切り込む深い峡谷と、唐突に現れる平原との三つが基本的な組み合わせだ。そこにさらに湖や深い森林が添えられ、総合的な印象としては(そばだ)つ地形が網目のように無数に繋がり、人の往く手を阻むかのような構成になっている。

 こうした地形はゲリラ戦術を心得た者には待ち伏せや挟み撃ちに適した場所であるというのみならず、狭隘峻嶮な地形自体が自ずと大軍を拒んで寄せ附けない。

特に中央南部の北にいくえにも連なる大山脈は1万数千mを越える峰が連なり、戦車や戦闘機も寄せ附けなかった。

 そのあまりの高さゆえに通常の高高度飛行の限界に近く、気流も荒くてシルヴィエの戦闘機すら安易には越えられず、南下することができないのである。(ただしプレッシャー・スーツを着てズーム上昇法を用いれば、何とかなるようだが、今のところ、リスクが大き過ぎるということらしい)

 イラフは天然の城壁を感嘆し、見上げた。

 このような山々から俯瞰すれば、汽笛を鳴らして雄々しく進むこの鉄道も、大自然の偉容の中を行くまことに細々とした、小さな存在であるだろう。

「霧はなくなったが、雨が止まないね。侘びしげだね。壮観だが、どことなく寂しい」

頬杖突いて景観を眺めるイラフはそうつぶやく。

「荒涼としているからな」

「桟道すら造る者のいなかったこのような場所に、線路を敷いて鉄道を通す。どれほど難儀であっただろう、いかほど辛い仕事であったことか。想像に難くない。容易な事業ではなかったはずだ」

 切り立つ岩壁に、渋い緑の松が霊妙な風情で生えていた。どこか東洋的である。山水画のように。

「下手なアトラクションよりよほど怖いな」

「ほんとうに」

 二人は正式な朝食のため、食堂車へと出た。

「もしここに敵がいたらどうなるだろう」

 チヒラが鋭く言う。

「こんな場所で襲われたら・・・」

「まさかそんな大胆な行動にはでないだろうけど」

「やり方はいろいろある。寝込みを襲うとか、食事に毒を入れるとか」

「食事前に素晴らしい話が聞けてうれしいよ」

「どういたしまして」

「ともかく行こう。空腹だし、行ってみなきゃわからないし」

 行けば客はほとんどいない。

 細身に白く長い髪を垂らした白いマントの人物が静かにスープを啜っているのみであった。後姿では女か男かも定かではない。長い髪は女性を連想させやすいが、背がとても高そうである。まばゆい純白マントに(くる)まるように全身を覆い隠しているので、情報が少ない。

「どう思う」

「どうって?」

「あの人さ、マントの下に白いトーガを着ていたら・・・」

「じゃ、話しかけてみるか」

「よせよ、食事のじゃまだ」

「そうだな、何も感じないし。まあ、気配を消している感じがしなくもないが」

「うん。いずれにせよ、朝感じた気配はあの人じゃないように想うな」

「じゃ、ともかく坐ろうか」

 焼き立てのパンのよい香りがし、ソーセージとポテトが運ばれ、スクランブル・エッグにサラダが美しい染附の皿に乗り、重たいクリスタル・グラスに入った濃厚そうなリンゴ・ジュースが置かれた。ペパーミント・グリーンの双眸で運ばれて来る食事を射抜くように凝視していたイラフが、

「大丈夫そうだけど」

 と言うと、チヒラは、

「え?」

「いや、毒の話さ」

「あ、そっちのことか。しかし印象だけでは何とも言えまい。毒には気配なんかないからな」

「そうかなあ」

「え?」

「だって、すべては情報生命でしょう。解釈しようとすれば、きっとできるんじゃないかなあ」

「まあ、確かに。だけど、あまりにも何もかもを〝解釈〟してしまうことは神の領域を侵すことになるよ」

「そうかな。手も使わずに、気で敵を斃すよりかは、よほど自然だけれどもね。

それに、正しいことをするのに神が裁くはずがない」

「正しいとどうして断言できる。この世のことはすべて複雑で知り難い。神慮は計り難いよ」

「神は正義をなすために人間に理性を授けた。正義を望みながら理性に基づいて行動するならば、それは必ず人を正義に導くはずだ」

「そうとも限らない。

 正義を望んでいると自ら信じて疑わない者も、実はその下に自分自身でも気が附かない矮小な利己的欲望を抱いているものさ。結局、人間はなかなか利己主義から逃れられない」

「そうだね。君の言うとおりだと思う。だからと言って、悪を為そうと思ってしまえば、さらに悪くなる。最初は純粋な正義でなくとも、心掛ければ正義に目覚めるはずだ。ともかく今はこれをやってみようよ」

 モス・グリーンのまつ毛を下ろし、イラフは瞑目した。

 正義を心掛ける。想いを静め、こころを清めた。炎が鎮まり、寂滅が訪れる。清んだ広やかな気分になる。そもそも神に抗うなどということがあり得ようかという疑念も湧く。

 神は完全にして万能である。神の御心に副わぬことなど起こりようがない、すべては神の意のまゝであり、神の為された一部分に過ぎないから。すべては神である。

 いやいや、そうだろうか。神とは、いったい、人間が定義できるような存在だろうか。そもそも〝考え〟って何だ。人間のあれやこれや推考する諸考概など、いったい、何であろうか。

『ン・・・・・・・・・・・・・』

 だが考概を否定してしまうと、一切の考えのやりようがなくなり、どちらの方角に進むこともできなくなってしまう。

 逝くべき方向を決める根拠がなくなってしまう。

『どうすればよい』

 心の働きのまゝ、心に導かれるまゝにするしかない。いよいよ心を清まし、浄める。清浄たらしめる。

 清まると執著が失せる。好きな物と嫌いな物との差別が撤廃される。

 毒と毒でないものの境界線が消える。区別ができなくなる? しかしそうではなかった。むしろ逆であった。

 ふしぎな働きによって、万象が差異のない、識別のないそのまゝで、〝識別〟された。これを表現するに識別という言葉以外に言葉がないので、あえて識別と言うが、これは識別ではない。言葉がないから仕方なく識別と言うが、このニュアンスを伝えるために〝〟附きで表現する。仏教でいうところの無分別知とも言うべきか。

 チヒラは息を呑んでこれを見守っていた。

 ようやくイラフが言う、

「わかったよ。大丈夫だ。毒はない」

「気が附いていないかもしれないが、君はどうやら千年に一度の天才らしい。

 ぼくに触発されて、その才能を大きく開花させたのだろうが、しかしその上達ぶりは遥かに、ぼくを凌いでいる」

「わたしは気の力だけで敵を斃せない」

「じきにもっと凄いことができるようになるさ。君の才能を見抜いた師の炯眼は確かなものだ。

 さ、ともかく食べよう。腹ペコだ」

 そう言うと、脚を組んでミュールをプラプラさせながら、本を開き、読み耽りつつナイフやフォークを片手で扱い、食事をする。

「行儀が悪いと思うかもしれないが、ぼくは一時も無駄にしたくないのさ」

 食事を終えて立ち上がるとき、白い人物の姿はなかった。反対の車両に帰ったのであろう。そうでなければ、イラフたちの脇を通って気が附くはずだ。

「やはり少しふしぎな感じだ」

「そうだね。だが、ぼくは敵意を感じない」

「わたしもそう思った」

「じゃ、行こうか」

 部屋に戻るとチヒラは再び読書を始める。

 列車は午後9時に国境を超えた。ヴォルフ国、傭兵王と呼ばれたヴォルフ大公が創った国である。荒涼たる岩と枯れた短い草にまばらな灌木があるだけの小さな平地が突如墜落するかのような断崖絶壁の大亀裂になり、それがまたわずかな平地になり、そしてまた亀裂が現れて地を裂くという風景が繰り返された。

 ルーム・サービスで軽い夜食を摂る。

 ストラングラーから5百キロ、最初の停車駅に着いた。午前5時。ヴォルフの北端をなすユグスト辺境伯の都ストリントベリイのバルパルス駅であった。

いく人かが乗り、いく人かが降りた。まるでそうすることがルールであるかのように、皆一様に厳粛な表情であった。

「ふしぎな感じだ」

 イラフはそうつぶやく。

 駅から見る黎明の街は幻想のように峻酷だった。窓の少ない鋭利な建物群は玄武岩のように黒く、無表情で森厳だった。



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