第二章 古書堂
これは齊歴9069年霜月のことであった。※齊歴とは世界共通暦(世界一齊歴)のこと。
イースはイラフを見やり、感情をあまり表わさない悲愴の顔をしみじみ眺める。小さくうなずきながら、改めて言った。
「しかしよくここまで無事に来られたな。しかも独りで」
イラフは苦しさも辛さも表情に出さず、遠い眼をした。さまざまなことを思い出しつつもそれを顔に出さないのだ。
「幸運だったと思います。しかし同じ道で帰ろうとは思いません」
「やはり相当危険だったか・・・」
「はい。南ルートで海を渡って来ましたが、考えることは同じ、誰しも海上を、南ルートを行く。帝国に近い北ルートは誰もが避けます。北は山岳や渓谷や寒冷地など、難所も多いですから。
しかし皆が南を行くので、南はシルヴィエ情報部の監視もきついのです。
何度も危険な目に遭いました。剣を交えたことも数度。それゆえ、恐らくわたしの行動と目的とは相手に知られていると思う方が自然でしょう。
帰路はあえてシルヴィエ帝国領を横切って帰ってやろうかと思っています。もはやお伝えすべきはお伝えしたし、国への報告はメールでも電話でもできます。万が一、死んでも任務に支障はない」
「シルヴィエ横断か。大胆だな」
そう言いながらイースもまた驚いた表情は見せず、淡々と応えただけだった。同様にイラフも、
「数学的な計算上のリスクも、統計学的に推測し得るリスクも同じ結果を示します、すなわち南も北も同じだと」
「わかった。馬車などの手配をしよう。秘密の任務をしていることがバレない準備をしよう。力の及ぶ限りでね。
我が国の鉄道や馬車の特に良いものを用意しよう」
「素直に好意に甘えさせていただきます。旅の商人に見えるものが望みです」
「それも了解した。しかし見た目はともかく、実力も商用なみでは速く走れない。
外見が商人の馬でも、いざとなれば龍馬のごとく速いものがよかろう」
「しかし龍馬を商用の馬に似せたとしても、すぐに見破られてしまうのでは」
「龍と馬を掛け合わせたものが龍馬で、飛ぶがごとくに、足を地に着けぬよう疾走し、嶮しい山も駈け登るが、見た目が大きく、普通の馬に比べればとても魁偉なので、そんなものに乗っていれば、すぐに偽の商人だとバレてしまう。商人が高価な龍馬など使うはずもないからね。
ところが、龍馬と麒麟を掛け合わせて、さらに龍と羊を掛け合わせた龍羊と掛け合わせると、ふしぎなことに脚の太い農耕馬の子馬にしか見えない馬が出来上がるのだが、実際は龍馬と同じ特性を持つ。
僕らはそれをヨウクUrcと呼んでいる」
「ヨウク・・・」
「大いなる発見でまだ知られてはいない。
シルヴィエ帝国は科学の発達した国ではあるけど、こういう方面のことにはうとくて、彼の国では知見がないらしい。だからこれはトップ・シークレットのうちの一つなんだ」
「お借りできるのですか、そんな貴重なものが」
「むろんだ。受け渡し場所を後で細かくメールで指示する。
実は、その場所は我が国の中ではないんだ。何しろ、ここは諸国の中でもどちらかと言えば北寄りで、シルヴィエに近いからね。
秘密の牧場はここからずうっと南へ行った国の中になのだ。距離だけの問題じゃない、その国は我が国よりも大きな国で、帝国も簡単には諜報活動ができない。
実際、我がクラウドは卓越した精神のある国だが、機密が守り切れるかどうかという意味に於いては心もとない部分がなくもないのさ」
そう言って笑う。
「ほんとうにお借りしてよいのでしょうか。途中で捕縛されて機密がバレる可能性があります。やはり危険です」
「どうせ、いつかは知られてしまうのだ。すべて時間の問題だ。ならば是非、君の役に立てたい。正義のためには失うことを怖れてはならない。さような執著は悪だ。
自己のために損失をせぬよう躍起になる人間は魂に苦しみの轍を刻むものだ」
「イース殿・・・ありがとうございます。ありがたくご厚意を頂戴します」
「幸運を祈るよ」
イースは去った。振り返ることもなかった。
少し間を置いてイラフも席を立ち、オリーブ色のマントを羽織る。勘定を払って雨の闇に出た。さらに激しい横殴りになっている。
ハラヒも未だ窓から道を眺めていた。イラフが出て行く後姿が見える。それが見えなくなると、また想いに耽った。
イラフはフードを深くかぶり、襟を寄せる。それでも水色の髪から次々と雫が垂れ落ちていった。右手は剣の柄に彫られた紋章の彫を撫でながら、とっさのときにすかさず抜剣できるように握っている。
気温は下がっていた。しかし、尾行を確認するため、わざわざ回り道をしている。宿までの道を歩きながら、周辺を睨み、ペパーミント・グリーンの双眸の眼光鋭く、入念に探りを入れていた。
行為とは別に、頭はさまざまなことを考えている。想うほどに想いは深まり、やがて何を考えているかすら定かではなくなっていった。心はさようなときに働くのか、あるいは働くために人を想いの底へと沈め込むのか。
だからなぜそれが眼に附いたのかわからなかった。しかし眼に附いたのである。
雨にけぶるさなか、立ち止まった。
ぼんやりした灯りに照らされたその店は古本屋のようである。古びてくすんでいながらも、心癒す落ち着きがあった。古い活字の紙印刷や羊皮紙手書きのさまざまな書籍がある。既に一人の客がいて立ち読みをしていた。
少し変わった少女であった。濃いクリムゾン・レッドとボルドー・カラーの色が交互に入り組んだような髪が濡れ艶を持って絡まり乱れつつ、鎖骨に垂れている。双眸は桃色で、瞳を翳すような藤色の睫毛の下で強い光を放っている。眉は薄い桜色だった。
着ている服は、その髪の色に似合わないクリーム色の短いトレンチ・コートの下に、チュニックをワンピースのように着て、そこから伸びる細い脚は白いタイツに、ショッキング・ピンクのミュール(こんな雨なのに!)で、キャスターの附いた唐紅のキャリア・バッグを傍らに置いている。
碧き眉が緩む。イラフにとってこの光景の全体が、すべてのフォルムが、繋がった一つの何かのフォルムをなすかのように想える。
一つのふかしぎな、古代の叡智を記録する神聖文字のように、深く遠く、しかしながら懐かしい感じを、覚えさせた。名状し難い気持ちになる。
そしてその一部または半ばは明らかにその少女の存在から来るものでもあった。彼女に最初から、或る種の懐かしさや親しみのような情感を抱いたのだ。
ペパーミント・グリーンの双眸が遠いまなざしになる。イラフは半ば夢遊病者のように無意識的に、属するところへ帰るように、故郷へと戻るかのように、戦士が戦場へ還るように、真理を求める者が知の殿堂に入って行かずにはいられぬように、自然と古書堂へ入った。
心機のまゝに。
灯りはあるが古色蒼然たる厳格さが漂って影が濃く、とても暗い。周囲を見廻した。幽玄なるランプの光によって、照らされるというよりは陰翳に深く沈み込まされるかのような典籍の数々は、興味深いものばかりであった。
羊皮紙製本の『饗宴』(これはとても皮肉なことに想えた。プラトンの著作だが、その師であったソクラテスは「生きた思想を死んだ羊の皮に載せるべきではない」と言っていたのに)、『法華経義疏』、奇門遁甲の巻子本、ロシア文学全集、パピルス紙の『死者の書』、粘土板のギルガメッシュ英雄伝、ウパニシャッドの数々、『龍脈太図』、古代ギリシャのオルギア秘儀書、『神気天真義書』、貝多羅に記された『スッタニパータ』、神仙箴言集、『老子』、『荘子』、稀覯なる『グラン・グリモワール』の初版本、『碧巌録』、『無門関』、『和漢朗詠集』、『徒然草』の嵯峨本、光悦の自筆写本等々・・・・・・
さて、こんな古文書の中で、この少女は何を見ているのかと、引き寄せられ、その先客が開いているページに視線が行く。近附くと、芳しい香水の馨がした。彼女のすべてからオーラのように漂っている。
書かれているものは単純ですぐに読み取れたが、意味はわからなかった。
『正円と逆円、って何だ?』
そう心でつぶやく。
二つのまったく同じ円が左右のページに対象に描かれて、右に正円と記され、左の逆円と記されていたのだ。しかし違いはわからない。
思わず凝視してしまっていた。ボルドーとクリムゾンの髪の少女が振り向く。桃色の眸の表面をゆらゆらとしていた光がくるくる激しく動き出す。ミュールのヒールがかつん!と鳴る。
「何か?」
その双眸はいぶかしがると同時に、面白がっているようでもあった。
「いえ、その」
「ふふん」
「逆円というのは、あまり聞き慣れないかな、と思いまして」
「ああ、これか」
見下すような言い方が少しカチンとくる。
「円を描くときに右回りか左回りかということだ」
「そうですか。どちらが正円なのでしょう」
「どちらでも。右回りを先に描けばそれが正円で、左回りが逆円。左が先なら右が逆だ」
「はあ」
身もふたもない話のように思えた。
「ふふん」
またも蔑むような笑み。
イラフは相手にしないことにした。このようなことで憤慨するのは浅はかだし、怒りで心気を消耗するのも虚しい。モス・グリーンのまつ毛を翳しながら思う、無駄だと。それに今は隠密で行動をしなければならないとき、諍いなどすれば、人の印象に残ってしまうではないか、と。
去ろうとするその瞬間、その少女の視線の動きに気が附いた。その眼はわずかに捲くれたマントの隙間から見えるイラフの剣の柄の紋章に集中している。その桃色の眼の光り方で、彼女がこの紋章を理解していることを察知した。『何奴!』
イラフは碧き眉を顰め、少し探りを入れる気になった。
「あなたはかなり博学なお方とお見受けしましたが」
そう切り出した。
「いいや。君ほどではない」
皮肉な口調であった。
「そのようなことはないと思いますが。
わたしも武の心得あるがゆえに、学も少々修めはするも、それは『武に学なくば、暴にしかず』という先人の教えに準じたまで。
学などとは言っても、しょせん武人のなすことに過ぎません」
「ふん。理想主義だな。学とは机上のものではない。実践の道具だ。
ぼくは、むしろ、智慧が武力たるべきと思う。だから多くの知を学び、それを蓄えて融合し、力とする。
力なき叡智は机上の空論にしかず」
この女はもまた、自身を〝ぼく〟と称するのであった。
「なるほど。一理あります」
「一理も二理もあるさ。むしろ物理的力たるを智慧と呼ぶべきとも思う」
「或る意味その方が理想論的では。
というよりは妄想かと」
「縁なき衆生は度し難きかな」
「わたしも士道を精進する者なれば、気脈を読み、人の言葉ではないそれらの言語を解し、勝つために、大いに活かすこともありますから、あなたの言うこともわからないわけではありませんが。
あなたの論理で言えば、精神に聖なる炎を点火する叡知は智慧にあらず、投石機や大砲などが叡知であると言わんばかりです。さような論に堕ちてしまう」
「それが悪いか」
「理不尽と言ったまで」
「さればそのお点前、拝見しようか」
そう言うなりその少女は雨も水溜りも厭わず、降り頻る路上に、白いタイツのミュールの足で出た。髪をひるがえし、振り返る。イラフも用心深く出るが、途端に、
「あっ」
水しぶきを上げて倒れてしまった。倒されたのだ。彼女はイラフに指の一本も触れていないのに。
「ぅうっ!」
急いで起き上がる。何の力だったのだろう。相手は微動だにしていない。〝気〟のようなものか。立ち上がっても、心が整わない。〝いき〟がまとまらず、不安定で、未だ隙がある刹那、またもや力が迫るのを感じた。
予測していたにもかかわらず、受け切れない。再び突き倒された。巧みだ。けして力でゴリ押しではない。理に適って、妙を得ている。〝呼吸〟をつかんでいる。
未だ少女と言ってもおかしくない年齢(イラフ自身もそうだが)に相違ないのに、既に匠の領域であった。イラフは感心する。
「うぐ、っつ・・・」
うめきながら立ち上がった。
暗い路地、弱い光を半身に浴びて、半分を深い闇に浸して彼女が立っている。その双眸はこちらを睥睨し、ピンクダイヤのように爛々と輝いていた。
「これが〝叡智〟だ。現実を革命する。実際の真理だ。真実の智慧だ。脳裏で同義反復を繰り返すだけの論説とは違う。非現実的で、実のない、カタチでしかない思考や言語による論理は智慧ではない」
「お見逸れしました」
降参の言葉を言ってイラフは水色の髪をはらりと垂らして頭を下げる。相手は反って顔を顰めた。
「そうではあるまい。剣を抜け。そこからが君の〝本質〟たる領域だ」
「それには及びません」
しばし沈黙。
「ちぇっ。してやられたか! ぼくだけが本質を顕現させ、君は自己を隠蔽したままというわけだ。抜かったよ。無手勝流(戦わずして敵に勝つということ)というわけだね」
「そのようなものではありません。感服しました」
桃色の双眸は眼光を和らげて、今度は好奇心でくるくるしながらイラフをまじまじと見つめ、
「いや、ぼくの負けだ。
しかし君が東大陸の人間であることぐらいは見抜いたよ。龍梁劉禅、すなわち大華厳龍國の軍に属する者だな」
「そういうあなたこそ」
「いかにも。ぼくらは同志というわけだ」
「ならば立ち話を人に聞かせる必要はないでしょう」
「しかり。
しかもこの雨だ。さあ、どこかカフェにでも入ろう」
二人は暗く、陰隠滅滅たる雰囲気の、客のいない、寂しい老舗のカフェに入る。
とは言え、けして地味ではなかった。むしろロココ調で派手である。
繻子張りの椅子や房飾りのついたクッション、明るい楓材でつややかな猫脚の円テーブル、寄木細工の箪笥、ドレープのたっぷりとあるカーテン、ペルシャ絨毯。
そのクラシカルなスタイルが反って憂鬱な気味の悪さを醸し出しているに相違ない。
彼女が切り出した。
「むろん、互いに密命を受けた身、何をしているか話すわけにはいかないだろうね。名乗ることも」
碧き眉を寄せてイラフは少し考えたが、
「そうです」
「君はこれからどっち方面へ」
「帰国します」
「ぼくもだ。ルートは?」
「奇想と思われるかもしれませんが」
イラフは双眸を緑の薔薇のように瞠いて燦めかせながら説明した。
静かに聞き入っていたチヒラはクリムゾン・レッドの髪を指でひねりながら、
「人の考えとは似通うものだ。ぼくも同じように考えた。まだ馬の用意はできていないが」
「意外でした。自分以外にさように考える方がいようとは」
「互いの安全のため同道するも一案かと思うが」
「そうですね。
幸いわたしの方は馬車の用意が約束されています。ここではありませんが、一緒に来てください。場所に案内します」
「その場所は、まだ詳しくは話せない。って感じかな。わかったよ。
しかたない」
「これからは、何とお呼びすればよいでしょう」
「ちひら(千毘羅)。
ぼくは君にぼくのなまえを教えよう。チヒラというのだ。これから運命をともにするかもしれないのに、隠しても虚しいし、既に君はぼくの素性を見抜いている。
今さら秘しても意味があるだろうか。それに、君が裏切るとは思えない。そういう気配がまったく感じられない」
「光栄です。
わたしは聞いたことがあります。我が大華厳龍國の精鋭部隊には、意を物的な力として使うことのできる者たちがいるというのを」
「存在の一切は情報生命体だ。
あとはその〝龍脈〟を読んで、自らの知と波動を合わせて絡め取って制御すれば、その者のスキルに応じて、攻撃や防御として使うことができる」
「あなたは簡単に言いますが、容易なことではないはず。古来少数の達人しか理解しない神技です」
「すべては運命なのかもしれない。
天才は自分の力で天才に生まれたわけではないからね。努力家だって自分の力で努力家に生まれたわけではない。ただ、それをあまり言うと、努力しなくなる愚か者がいるので、公に言われないだけだ。努力しなければ損するのは、自分でしかない。自分の行為のすべては自分に帰ってくる。
これは逃れようのない現実だ」
二人の宿泊先は近かった。明日、同じ駅から出ようとするのだか、それもふしぎはない。同じ列車の切符を買うように図ることを決めた。
雨の路地を二人ならんで歩む。イラフはオリーブ色のフードを深くかぶり、チヒラはクリーム色のトレンチ・コートの襟を立てて寄せた。『オシアンの歌』を歌う。
人気はない。すべてが陰翳に塗りつぶされ、そちこちの隅には濃い黒しかない。雨が降るのみだ。
それまで気配はなかった。だが既に数人に囲まれていた。
イラフが尋ねる。
「何かご用でしょうか」
しかし彼らは何も言わず斬りかかってきた。イラフとチヒラが飛び退く。
唐紅のキャリア・バッグが転がった。襲撃者は黒っぽい服を着ている。しかも剣も黒塗りで闇との見分けがつかない。チヒラが意の力をarrow(矢)として発射する。刹那の閃光、敵が一人斃れる。
イラフは抜剣し、
「何と愚かな、我らに刃向うとは」
青眼に構えて眼を瞑った。
チヒラは意を練成して戟を現象させる。細やかな装飾のある繊細な彼女の戟は三叉が二つ重なっていて、先端が漢字の「出」に似ていた。刃は細い焔がかたちをなしたものだ。
同時に右手に青白い炎の楯が現れる。楯には平和の紋章が浮き上がっていた。
意力によって現象する戟と楯である。まるで生命のある炎のように揺らぎ、眼を睜く妖魔のようにも見え、表情で怒りや殺意や不退転の意志を感じさせた。その威圧によって敵が怯む。大概の者はこのような武器を見たことがないからだ。
三叉戟は穂先の元に長い帯を翻し、帯には『天真義』と記されている。それがその戟の名であった。楯には『地真義』という文字がある。それが楯の銘であった。
チヒラも言う。
「冷静に考えることを勧めるよ。誰を敵にしているかわかっているのか。ぼくらは完全装甲した騎馬兵百騎でも斃せるぞ」
イラフも重ねて、
「君らでは無理だ。止めておいた方が身のためだ」
かすれた声で敵の一人が憎悪と怒りに満ち言う、
「小娘どもが」
「そうか。已むを得まい」
そう言ってから、イラフは心を静め、物質の波動を読み取ろうとわずかの間に心を清めた。事象の揺らぎが示すロゴスに聴従する。
摂理に従い、自然の潮に身を任せる。物事が動こうとするときに起こる波が迫りつつあることが感じられた。
「あゝ、わかる。来るぞ」
静寂が破られた。
一太刀が地上すれすれの高さで、地面と水平になって迫り来る。彼女はその刃の上に乗り、解剖学的な正確さで一人の肩を斬った。むろん首を落とすこともできたが、利き腕の腱を斬ればもう攻めてこないことがわかっている。
そのまま蹴らずに飛んで壁を走り、もう一人の背後に回って肩と足首の腱を斬った。
その頭を踏んで飛び上がり、後ろから来た奴をかわしながら、前にいた一人を斬り、振り返って先ほどかわした者の喉元に剣の切っ尖を突き附けて言う、
「何者だ。言え。どこに属する者か。何が目的なのか。なぜこのようなことをする。
黙ってないで言え」
しかし相手は斬られる覚悟で後ろに飛び下がり、一か八かで逃げようとした。
傍らにいたチヒラがそれを見逃すわけがない。動きにくいはずのミュールでも身軽に舞うように敵に追い附き、数歩も行かせずに戟で薙ぎ倒す。イラフが再び剣を突きつけた。だが舌を噛んで自害してしまう。
「しまった」
イラフは倒れている他の者たちにも眼をやった。
止める間もなく、喉に短刀を刺している。口の中に仕込んだ毒を噛んで痙攣している者もいる。
「どう思う」
チヒラが桃色の眸に紅を交えて色を濃くし、イラフに問いを投げた。どこの手の者だと考えるかを問うているのだ。イラフは首を横に振った。
「自害の仕方が東大陸ふうの者もあり、また毒を噛むなどエステ(西大陸)ふうの者たちもいる。おそらくはどちらでもないのです。事実とは大概そんなものです」
「特異性は造られたものに過ぎないからね。毛髪や顔附きから人種的にはこの地方か、周辺の者らしいが、暗殺専門の特殊な傭兵だ。君の言うとおり、雇い主は南か北のどちらかであろう。とは言え、南か北か。どちらかを特定するのは難しいな」
「そうですね。実に念入りです。
自害の仕方に他の大陸の特徴を使いながらも、(私たちが今、推測したような)逆の推測をされた場合でも、国を特定できないように、二つの大陸が疑惑の候補に残るように図っている。
もしわたしを狙ったならノルテ、すなわちシルヴィエ帝国でしょうけど」
「なるほど。
どちらが狙われたのかも問題だな。ぼくにも狙われる心あたりがある。ぼくならスール(南大陸Sur)だ。ここに来る前はそこにいたからね。マーロ皇帝羅氾はぼくの
死を望んでいると思う」
「膂力皇帝ですか。
身の丈3m99㎝、尋常ならざる魁偉の男。その腕力のみを用いて一代で大帝国を築き上げた奇跡の英雄」
「そうだね。
まさしく稀有なこと、奇跡だ。計り知ることのできない大いなる自然(フュシスφύση)の気紛れだ。
なぜならいくら腕力があっても、チンピラの大将にはなれるかもしれないが、皇帝にはなれない。だが彼はあえて力ですべてをねじ伏せるという手法を用い、自らを試すかのように、その異常なやり方にこだわって皇帝になったのだ」
「沙漠の民の伝説の族長、騎馬民族の帝王、独りで一万人を屠りながら、百万の軍の囲みを突破した話は有名です」
「その鬼神の勢いに何人も手がだせなかったらしい。メタルハートと勝負させたらどのようになるのだろう」
「そんなふうに言うと、まるでジンも皇帝になれそうですね。いったい、そういうものなのでしょうか」
「さあ、どうかな。ぼくには違いがあるような気がする。
羅氾には、凡人には想像も附かないような、何か途轍もない功徳が備わっているのかもしれない、ってね。ふふん。
自然はふしぎだ。
どんなに有能な人間であっても、普通の人の百倍千倍の仕事をすることなど不可能だ。ある意味で、人は(特にその弱さに於いて)皆同じだと言える。
だが英傑や宗教者に時折見られる桁外れな業績は、必ずしもそうではないことを、ぼくらにまざまざと見せ附ける。理性と科学を超えた現実のふしぎさ、柔軟さを教える。現実はハードではなく、ソフトであることを」
「ジン・メタルハートのような者でも、皇帝になりたいと思うものでしょうか。わたしにはそういうふうには思えない」
「それは、どうかな。まあ、今まで彼女がそういう動きを見せたことはないけどね」
「自分で〝そういうふうに思えない〟と言っておきながら、こんなことを言うのもおかしいですが、かつてそういう野望がなかったとしても、再生した彼女にも同じようにそれが〝ない〟と言えるかどうかは大いに疑問があると思います」
「むろんだ。それは考え方として正しい。
ちなみに、自己矛盾を気にすることはない。契約や裁判など公的・対外的なものでは少し困るが、日常生活の中では当然のことだ。人の心はセオリーどおりには一貫しないものさ。
話が逸れたな」
「そうです。どちらが狙われたかという話でした。
わたしたちの両方を狙った可能性はどうでしょう」
「なるほど。だから北と南が疑われないように図った・・・」
「あるいは、わたしたちが南か、または北から狙われているのを承知の上で、裏の裏をかき、実は東か西のどちらかが犯人かもしれません」
「ぅーん、そうか。決め難いな」
「実際問題は常に決め難いものですが、もしかしたら、そうなること自体が作戦なのかもしれません。東西南北どちらでもあり得、かつ混淆的だということに変わりはない」
「ふむ」
「どうでしょう。今宵はどちらかの宿で泊りませんか」
「その方がより安全だな。闘いのコンビネーションが良いのも先ほど証明されたし」
「そうですね」
数秒の間をおいてから、ペパーミント・グリーンの眸を強く燦めかせ、
「いらふ(尹良鳬)と言います」
「ん?」
「わたしの名です」
「そうか。わかった」
微笑する。