第六章 悪とは何か
「いかにして皇帝はケーレを起こすだろう気か」
レオンは独りごつようにそう問う。
それを聞いて、
「ケーレってなんだ?」
とイラフが尋ねると、チヒラが、
「方向性を変えること、転回だ。または向きを変えること、屈曲、曲りとも言える。世界の現行を変えてしまおうということだ。ある意味で、革命だよ」
ユーカレが皮肉な面持ちで、
「ふ。皇帝ともあろう者が恋愛感情で動いたのか」
その非難に対し、レオンは、
「いや。皇帝ジニイ・ムイに限ってそういうことはない。彼には彼の思いがあるのだろうと推察する。私はアクアティアに来て、その思いが強まった。
ただそれが正しいかどうかは別だ。動機が純粋であっても悪はある。
これは私の空想だが(感傷的な妄想かもしれないが)、皇帝は世界の原理真理を極めて、極めることで原理真理と合一し、さらなるステージへと世界を是正しようとしているのかもしれない。神的な革命を目指しているのかもしれない。それが求愛であったと私はさように理解する。
いずれにせよ、世界の真理の中枢に手を触れようとしている。これは神の領域だ。
人にとって不可侵の域だ。しかしむしろ彼は意識的にか、無意識的にか、定かではないが、そこに触れようとしている。
いや、はっきり言えば、彼自身が神そのものになろうとしているのだ。
宇宙世界の運命を正し、宇宙世界を真に於いて真なるものへと昇華させるために、超越的な領域へ解脱させようとしているのではないか。
我らシルヴィエ人ならば、そのように理解するだろう。
理解しにくいかもしれないが、我が国に於いて、また聖教に於いては、教祖たる皇帝が聖教の真髄であり、宇宙世界の原理真理そのものであるべき存在なのだ。
皇帝に於いて宇宙世界の原理真理が成就すれば、究竟の原理真理が宇宙世界に実在し、宇宙世界が真に於いて真なる世界へと革まることとなるのだ。
だから宇宙世界を真へと導くということは皇帝自らが神になろうとすることと同じだということになる。
そういう意味では、皇帝はその真義を全うしようとしているだけなのかもしれない。神にして永遠なる絶対神聖皇帝の本願を成就することによって」
うなずきながらも、不満げにイラフは、
「そういうことか。しかしあなたはそれを肯定しているのか、否定しているのか。今までは、帝国、または皇帝のやろうとする何かを否定しようとし、それゆえに命を狙われているような印象を漠然とではあるが、我々は持っていたが。
今の発言を聞けば、まるっきり肯定しているかのようで、わけがわからなくなってしまった」
「基本スタンスは否定だ。その理由は彼の行為だ。
戦争もそうだが、他にもある。セオリーが正しくても現実の行為に誤りがあれば、一見、正しく見えたセオリーの本質に誤りがあったのではないかと疑うべきだ。それによって世界の運命が左右されるだけに、さまざまな危惧が生じるのだ」
「まだよくわからないな。ところで、なぜ皇帝の計画がわかったのですか。侍従長ですら知らないのに」
「偶然だ。
我が叔父の聖教戒律に関する講演会を聞きに行ったときに、十数年ぶりに幼馴染の天文学者と再会し、屋敷で食事をともにしたのだが、そのとき彼が最近、星の運行に異常があると言ったんだ。
後からそれが妙に気になってね。
翌日、友人の警視が訪ねて来て、5年前の皇帝専用機の機長の自殺について不審な点があるから飛行記録を非公式に見ることができないか相談があったのだ。正式には警察でも見ることは許されないからだ。
私は星の運行のこともあって、ただならぬ感じがした。だから普段なら絶対にしないが、個人的に見てみると約束した。そして驚いたことに、記録が抹消されていることを知ったのだ。そこでちょっと手を使ってね。知り合いのハッカーをコンピュータ室に同伴して密かに解析させた。
そしてそのパイロットがアクアティアに飛行した翌日に自殺していることがわかったのだ」
「ということは」
「口封じの可能性は高い」
「神聖皇帝たる者が何ということを! 誇りはないのか。無辜の国民を」
イラフが憤った。ユーカレもうなずいて、
「なるほど。動機が正しかったとしても、彼のやり方は間違っている」
レオンは相手の怒りを制するように手を上げて、
「まだ確証はない。もし確かに口封じであったならば私もそう思う。だが正邪を決めるのは彼に糺してからだ。
想像も推測も、ただの想像と推測でしかない。それは実体ではない。真実ではない。どんなに確実性が見込まれても、事実ではない。
まずはアクアティアに来たことを確かめ、その後に皇帝に直接、糺さなければならない。そう思った。
だから君らにも何一つ語らなかった。心から申しわけなく思う。それについてはどうか赦してほしい」
「わかりました」
チヒラは承諾の意を示し、イラフは、
「何が何でも皇帝の野望を阻止したくなってきた。レオン殿、命令外ではあるが協力させて欲しい」
その強い口調を聞いてチヒラもハラヒも、
「ぼくもだ」
「わたくしもお願いします」
レオンは頭を下げた。
「ありがとう。
国も民族も宗教も越えた君らの友情に感謝する。私は今改めて確信する。正義こそが守るべき唯一なのだ、と」
しかしユーカレが、
「あなた方の国は侵略国家だ。正義と言えるのか」
レオンは憂いに顔を曇らせる。
「それは認める。しかし国民はシルヴィエ聖教に改宗することがすべての民族の幸せに貢献すると信じているのだ。
意外に想うかもしれないが、政治家や官僚も本気でそう信じている人間が少なくない」
「あなたは信じていないのか」
イラフが碧き眉を厳しく寄せて問う。
「すべての人の幸福に寄与するとは思わない。この世には絶対ということはないのだ」
「神に於いても?」
「神に於いては常に絶対ということしかない。だがそれを受け止める人間の判断が誤る。人間にとっては、必ず自分という人間が介在せざるを得ない(そうでないことは不可能だ)から実質的に絶対ということが存在し得ないのだ。
どのようなことも意識である。人間が人間の意識として受け止めなくては人間に顕現しない。
だから聖教をも疑うべきなのだ。神聖ゆえに鴉片であってはならない。
そのように科学的に宗教自体をも含めて自己批判することが、本来のシルヴィエ聖教の精神なのだ」
「そういう宗教はあまり聞かない」
「そうでもない。仏教に於いて仏陀は鵜呑みにすることなく、自分を批判しろと言っている。どのような教えも、弟子自らが検証しろと言っておられる」
「そのような考え方をする者は、帝国では、唯一あなたしかいないだろう」
「そうでもない。わかっている者たちも少なからずいる。
でも彼らには、どうすることもできないのだ。宗教は恐ろしい一面を持っている。
私が皇帝になった日にはすべて共存共栄の理想世界を作りたい。まさにIEとはそのためにあるのではないか」
「わかった。
あなたを信じよう。じぶんも国や民族や宗教が丸ごと悪であるなどという非現実的な妄想は抱いていない」
ユーカレがそう言うと、チヒラが尋ねた。
「話は終わったか? 今はわかり切った確認をしている場合じゃない。
さて、レオン殿はジニイ・ムイの動きをどう読んでいるのですか。というのは、あなたが新聞などで情報を知りたがったのは、シルヴィエ帝国の動向、皇帝の動きを知るためではなかったのでしょうか」
「いかにも。
私は今起こっている各国との戦争が5年前から始まっていることに暗号を感じた。だから戦争の情勢を把握したかった」
「5年前・・・・皇帝がアクアティアを訪れた時期だ」
「それゆえにこれら一連の動きがケーレのために行われているのではないかと推察し、懸念していたのだ」
「国を出奔して確かめたくなる気持ちもわかる」
イラフがうなずく。しかしチヒラは問う、
「いうことはなんとなくわかりますが、しかし、いったい、この戦争でどうやってケーレを起こすつもりなのでしょうか」
「そこまではわからない」
「わからなければ阻止できない。何としてもそれを知らなければ」
「レオン殿、あなたはこれからどう動くつもりか」
ユーカレが問うた。チヒラも、
「もうお考えを聞かせてもらってもよいでしょう」
レオンはうなずいた。
「さっきも言ったとおり、ここで聞いたことをヒムロで公表し、皇帝に直接、正邪を糺すつもりだ」
「オエステまで、大華厳龍國へ行く予定だったが、それが命ぜられた任務だったけれど、もう遂行できない、しなくなるってことか、ヒムロに行くのだから、そうだ」
イラフは自分の頭の中を整理するために独り言のように繰り返した。
「ふ。そう言うことだ。命令違反ではあるまい。主旨は変わってない」
鼻を鳴らしてノーズティカを揺らし、ユーカレがそう言う。
「君はいつ主旨がわかっていたんだ。理由は言われなかった。ただ我が国まで、龍皇帝の下まで送って行くよう、大司教に言われただけだった。
それしかわからなかったはずだ」
「大道を貫くことに変わりないさ」
レオンもうなずき、
「あの時点では、東大陸行きが正しかった。
君らの手腕は未知数だし、信頼できるかどうかもわからないし、今のようにすべてを話すことができるようになるとは思えなかったので、とにもかくにも大華厳龍國に行って、龍皇帝の選んだ智慧者や勇者とともに、シルヴィエへ帰って来る算段であった。
なお、その際には、大華厳龍國の同盟国であった羅氾皇帝の力をも借りることができれば、とも思っていた。あの時点では」
「しかし羅氾皇帝は龍皇帝を裏切った・・・・」
緑の髪のハラヒが鋭くつぶやく。
「そのとおりだ。両大国の協力を得ることはもうできない。だからどちらかを選ばなければならない」
「ぼくらの立場からは『龍皇帝を選んでくれ』と言うべきなんだろうね」
「そうだな。この状況でマーロまで送ってくれと言うわけにはいくまい」
レオンは自虐的な微笑みを浮かべた。チヒラの眸が桃色を濃くし、光を強める。疑念が生じた。
「しかし公表だけでは弱くないでしょうか。証拠もないし」
「名誉がある。私の祖父は前皇帝だ。父は大枢機卿だ。私が嘘を言うわけがない。誰もがそれを承知している」
「でもシルヴィエ国民は皇帝の言うことも信じるのではないですか」
「むろんだ」
「それじゃ・・・」
「皇帝たる者、嘘を言うはずがない。もし言うなら(そんなことはあり得ないが)その場で斬り捨てる。
彼は私の言うことを認めるであろう。
それが彼の生命のためだ」
碧き眉を硬くし、イラフが両手を頭の高さに挙げ、ペパーミント・グリーンの双眸を強く燦かさせて皆に手のひらを見せた。待て、の合図だ。
「わかった。
レオン殿が無事にヒムロに入れればいいんだね」
しかしクリムゾンとボルドーの髪を振ってチヒラが否む。
「いや。そうだとしても、ジニイ・ムイがどのようにケーレを実現させようとしているかを知らなければ、阻止はできない。
皇帝を退位させても、動き出したものが止められないかもしれないんだ。止め方がわからなくてはならない。
そのためには、何が起ころうとしているのか知らなくてはならない」
「皇帝も何らかの方法で調べたはずだな」
ユーカレが顎に手を当て考え込む。
「古文書にケーレについて書いたものがないのかな」
そうつぶやき、考え考えしながらチヒラは言葉を継ぎ、
「古文書は各国にかなりある。コプトエジャの古文書館には有史以来の文献がそろっている。イン=イ・インディス(殷陀羅尼)の古文書館も真奥義に関する文献は世界一かもしれない。
シルヴィエだって各地の文書館には相当な資料が保存されているはずだ」
「それは確かにそうだが、やみくもに探しても、何千年かかるかわからないぞ」
ユーカレが反対する。イラフも同意し、
「それはそうだ」
「ぼくの友人に非常に賢明な者がいる。
コプトエジャの王家に繋がる血筋の者で、ユリアスというんだ。彼に訊けばヒントがありそうな気がする。
連絡してみるから、少し時間をくれないか」
それを聞いてユーカレは結論する。
「では、その結果が出るまでこの平原で待とう」
「そうだな。場合によっては行くべき方向が変わるかもしれないから」
チヒラも同意し、イラフも、
「まあ、山でずいぶん苦労したんだ。この平原の緑でもぼんやりと眺めてゆっくり待つのもいいよね」
と言って遥かな草原の地平を見つめる。
その平原の北の果て、片隅にある小さな森で、二人の山賊まがいの男が悪事を企んでいた。まるで醜さと卑しさと粗暴のカリカチュアのような登場人物。
「皇帝のお褒めに与かれるんだな」
「あゝ、イヴィル猊下の話を聞き逃さなくてよかったな」
「運があるんだ。こいつを借りることができたのがそもそも幸運だ」
傍らに大人しく待つ小さな龍を満足げに眺める。翼のある龍で、応龍と呼ばれる種類の龍であった。特に今回、彼らが乗って来たのは、応龍の中でも比較的小型のもので、密かに行動するのに適している。
「しかし、おまえに操れるとはな、驚きだったぜ」
「ふん、任せておけや。飛行機はだめだが、これなら大丈夫だ。俺の婆ちゃんはな、魔女だったんだぜい」
山賊に見えるが、実は山賊ではない。神聖シルヴィエ帝国の聖殉教騎士アヴアロキの従者アムトの配下で組織する聖闘士アムト団の兵士、ベンとサムだ。
元は町の破落戸だったが、警察に追われたため、アムト団の厩舎清掃係として身を隠し、数年を過ごすうちに資金調達の腕前を見込まれて兵士に格上げされた者だ。
イヴィルが聖殉教騎士の屋敷を訪問したとき、車寄せで馬車を預かって客用の贅沢な厩舎に引く役目を命じられたが、馬車を降りる際に大枢機卿がふと口にした言葉を聞き逃さなかったのだ。大枢機卿は嘆息しながらこう言ったのだ。
「あゝ、アクアティアのエオレアを奪取すれば、皇帝から崇高な賞讃と無限の褒美と永遠の栄誉を得られるだろうに・・・・・」
二人はアクアティアのエオレアとは何かを調べ始めた。アクアティアが禁足地である他はなかなかわからなかったが、偶然、一夜の宿を求めてアムト団の宿舎にやって来た巡礼の僧がこんな話をしたのである。
「エオレアはアクアティアに女性だけで住んでいる。そこは禁足地で周囲数百㎞には誰も立ち入ることがない」
ベンは興奮を抑えて尋ねた。
「アクアティアってのは、ずいぶん広そうですが、その家ってのは、どの辺にあるんでしょうね」
「さあ、そこまではよく知らないが、真っ平らなその平原の中心にあるらしい」
「そうですか、そうですか」
そのしばらく後、たまたま「休暇を取って遠出をするのに、どんな乗り物が良いだろう」と雑談していたら、面識のない団員が会話に割って入って来て「知り合いから応龍を借りることができる」と言い、すぐに借りて来てくれたのである。驚くほど、あっという間の仕事であった。二人はかくして平原を飛んだ。
脂ぎった指を舐めながら、眼を飛び出させるかのように地図を眺めていたベンが言う、
「ここじゃねえか、おい、相棒よ。さあ、どうだい。この辺りが平原の中心らしいぜ」
家はすぐ見つかった。するとどうだ、常人とは思えぬ一人の美しい女性がその近くで花を摘んでいるではないか。サムが指差した。
「おいおい、ベンよ、あれ、あれじゃねえか」
ちなみにイラフたちは一行もその近くにいたのだが、草でカモフラージュされていたため、ベンもサムも彼女らの存在には気が附かなかった。
「おお、間違いない。女性しかいないはずだから」
二人は巡礼僧の話を捉え違いしていた。(二人の)女性しかいないというニュアンスで言った言葉を、女性独りしかいないと捉え違えたのである。固有名詞がエオレア一人しか話題に出て来ないため、先入観があって、そう思い込んでしまっていた。急降下する。
下を向いて花を摘んでいたが、何かが迫ることを感じて振り向きながら上を見上げ、「あっ!」と叫ぶような表情をする。眼が恐怖で見開かれる。
「さあ、おとなしくこっちへ来いや、エオレアちゃん。こりゃあ、別嬪じゃねえか」
ぎらぎらと欲情した眼で、サムが応龍を飛び降りてニタニタ笑いながら歩み近附く。
「え!」
マリアは言われたことが理解できなかった。余りのことに自分がエオレアと勘違いされていることに思い至らなかったのだ。
ベンも飛び降り、
「さ、サム、ぐずぐずするな。さっさとかっさらっちまうぞ!」
「おうよ、わかってらい」
汚れた手でつかみかかる。
「あれえ!」
「じたばたするな!」
「さ、エオレア、俺たちと来るんだぜ」
「あれ、あなた方は何を言ってるの、何の事だか」
「へへ、すっ呆けたって、こっちにゃすっかりわかってるんだい、でへへへ、そーら、おいで」
「ああ、やめて! やめて! 助けて! 誰か!」
その少し前。
地上から応龍を見つけたガリア・コマータたちが口々に叫んだ。
「あれは何だ?」「おい、あれは?」「龍だ、龍が」「おお、何かを狙っているみたいだ。旋回している」
隊員の騒ぎを聞きつけたストランドは急いで知らせる。
「異変です。あれを見てください」
イラフたちは首を出したが、平原に何も見えない。
「何もないじゃないか」
「空です。上を見てください」
「あ!」
蒼穹を飛ぶも生き物がいる。翼を広げ、尾が長くて、黒い蜥蜴のような生き物だった。
「応龍だ」
チヒラが言った。
「誰か乗っている」
ハラヒが指摘する。イラフは、
「誰だ、なぜ。・・・あ、もしかしたら」
「ほら、急降下し始めた。何かを狙っている」
ユーカレがそう声を上げると、チヒラが、
「そうか、わかった! マリアが狙われている。だって、ほら、あそこ、マリアがいるじゃないか」
と言う。それよりも早く、イラフはヨウクに向かって奔り出し、
「急げ、行くぞ!」
「まずい!」
「だめだ、間に合わない」
ハラヒが手綱を素早く解いてヨウクに跨り、駈りながらもそう言うと、イラフもまた乗って号令し、
「諦めるな、追うんだ!」
「なぜ彼女を」
走らせながらも問うチヒラに、ユーカレは応え、
「わからない。エオレアと勘違いされたんじゃないか」
「そんな莫迦な!」
「いや、知らない者らには区別はつくまい」
「しかし、いったい、誰が」
というイラフの問いに答えてチヒラが、
「皇帝の回し者か」
「いや、そんなことをすれば皇帝にとっては大きな失態となる」
しかしチヒラは、
「ではそれを狙った誰かの陰謀かも」
もはや考える暇はなく、
「ともかく追え」
だが虚しかった。応龍は純粋な龍である。龍馬やヨウクよりも早く、しかも空を飛ぶので、たちまち遙か彼方に見失ってしまった。
「無念だ!」
イラフが憤る。
「何としても誤解を解かねば。何という愚かな過ちだ。苛立たしいね、無知ほど危険なものはない」
「ふ。
どうやら北の方へ行ったようだな。地団太踏むのも結構だが、事実の確認が先だ。それが現実主義というものだ」
ユーカレがゆっくりとそう言った。
「奴ら、ヒムロへ行くのか」
チヒラがそう言うと、レオンは、
「可能性は高い。ジニイ・ムイが遂に強硬手段に出たか。そんな愚かな者ではなかったはずだが。
しかしそれで我々の進路も決まったな。北進しよう。追跡だ。帝都に行くかどうかは定かではないが、追えばわかる。見逃すまいぞ」
ハラヒが、
「レオン殿は強硬手段と言いましたが、なぜマリアがさらわれたのでしょう」
とチヒラに尋ねると、
「わからないが、ユーカレの言うとおりエオレアと勘違いされたのではないか。レオン殿の話し方はそういう理解だ。強硬手段っていうのが何であるかは理解できないが」
ユーカレもうなずき、
「ともかくも、人違いはあり得る。ほとんどの人間はエオレアを見たことがないから。いずれにせよ、追い附けばわかる。
追い附けなければ、わかっても無力だ」
レオンは冷静にこう言う、
「エオレアに報告しよう。急いで手短に、だ。一瞬の無駄も赦されない。そして必ず連れ戻すと強く誓おう」
家に戻って説明すると、
「自己犠牲の崇高な精神、その正義の勇気に感謝します。誓うのは止めてください。大いなる革命を祝福いたします」
一行は北へ発った。なりふり構わず龍速で駈けた。
「相変わらず凄いね。やはり速いよ。でもこの気持ち、この焦り。あゝ、まだまだ速さを足りなく感じるよ」
風圧でバタバタする布をまくって馬車の外をちらりと見ながらイラフはそう言ってから、チヒラを振り向いて、
「それにしても、あの応龍というのはもの凄く速かった。わたしたちの手にも入らないかな」
「入るさ。ただ、ここでは難しいな。ぼくらは伝手がないね、この大陸では」
チヒラにそう言われて、イラフは首を外に出す。大声を上げ、
「ストランド!」
「何ですか」
「応龍は手に入るかい」
「国に連絡しましょう。こちらへ取り寄せられると思います」
あまりにもあっさりと解決にしてしまったのでイラフが反って疑義を呈し、
「え、だって、ここは帝国の領土だよ」
「応龍はステルス機みたいに探知機に引っかかりにくいんです。国からここまで飛んで来てもらいましょう。たぶん、うまく行くと思います」
「そうなんだ。それは凄いな。世の中、知らないことだらけだよ。わかった。よろしく頼むよ」
イラフは満足げに坐った。
藤色のまつ毛で翳らせて双眸の濃さを深めながら、チヒラはさらに逃亡者の痕跡を追い続ける。
「とは言え、応龍はそう頻繁に飛んでいる神獣ではないからね。情報の海に残した波紋は簡単に拾える。
敵は素人だな。もしかしたら皇帝の手の者ではないかもよ。
政府関係機関の者なら、ぼくのような人間のいることを知っているだろうから、こんなずさんなやり方をしないと思う」
「あゝ、愚かな敵という者は、ある意味、最もやきもきさせる存在だな。貴様らの行為はバカな勘違いなんだ、何でわかんないんだ、すぐやめろ、って叫んでやりたい気分だよ・・・」
「愚かさはほんとうにおぞましいが、当事者は気が附かない。それが愚かさの本質だ」
「だからと言って、安穏としていられないし、赦して良いものでもないじゃないか」
「だがムダに精神を消耗しても逆効果だ。真に現実主義者になろうとするなら、冷静さと、清み切った精神集中こそが肝要大事だ。そもそも誰しも愚かなのさ」
「君の言うとおりだ。反省も含め、こうした焦燥や葛藤の瞬間も鍛錬だと思おう」
「そのとおりさ。一瞬も気を許さない者にとっては、すべての瞬間が生き生きとした訓練だし、日々が新しい成長だ。
エオレアに見えたことも、大きくぼくらに何かを授けてくれた。君にとってはイースに見えたことに劣らず、大きな力となっているはずだ。すべての事物や人との出会い、一つの瞬間とて、おろそかにしてはならない。
ぼくらはこの旅で確実に成長している。刹那が歴史の奔流の中でひときわ強く輝いている。君は感じないか。ぼくの手を見たまえ。このオーラを。気が充実している。色も輝きも変わってきている。意が神気を帯びている。経験こそが真の言葉で、真実の叡智であって、現実の力なのだ。そして、そう想うことこそが希望というものなんだ。希望ということの実体なんだ。わかるかい。
昨日は負けていても、必ずや明日は勝つんだ」
その頃、ベンとサムは追われていることも知らず、応龍の背で酒盛り。
「あははは、ざまあみやがれって気分だぜ、うまくいったなあ、おい、ベンよ」
「首尾は上々、上出来だ。最高だ。これで褒賞も栄誉も昇進も思うがままだな。サム」
「なあ、ベンよ、俺らもしかしたら騎士になれるのかな」
「おうともよ、これからの立ち振る舞い次第よ、いいか、いかにも萎らしく『褒美も何もいりません、お役に立てれば、幸せの極みでございます。崇敬し、我が魂のあくがれである聖騎士様、大枢機卿様のお役にたてれば、幸せの極み。お国のためになるのであれば、女一人をさらうくらい、何でもありません、これでかような凡夫も天国に行けますでしょうか』ってな。どうだい、相棒」
「ぎゃははは、ガラじゃねや」
「笑いごとじゃねえ、ここが肝心なんだ。国じゃ、俺らみたいに欲望を剥き出しは蔑まれるんだ。俺の言ったとおりにすりゃなあ、殊勝殊勝と褒められて、ひょっとして上手くいけば、騎士様に昇進も夢じゃねえのさ」
「ほんとうかよ、ほんとうだろうな、へへ、すっかりいい気分だ。酔いも回って来ちまった。
この女、きれいだなあ、えっへへへっ」
「あゝ、俺もさっきから堪んねえんだ」
さっきまで驚きと恐怖で言葉も出なかったマリアも眼を丸くし、遂に必死に叫ぶ。
「あなたたちは何者です。何でこんなことを。わたしをどうするつもりですか」
「まあ、そう叫ぶな、エオレアちゃん、仲良くしようぜ、俺はサムって言うんだぜ」
「あゝ! あなた方の勘違いです。誤解です! わたしはエオレア様ではありません!」
「すっとぼけったってムダだぜ、お嬢ちゃんよ、ああ、ベン、俺あ、堪んなくなってきた!この可愛らしさったらないぜ。ちょっとだけだよ、なあ、ベン、いいだろ? なあ」
「あゝ、そうさな。ここが思案のしどころさ」
「おお! 止めてください、間違いです、あなた方は見当違いをしています! 帰してください、エオレア様のお世話をしなくてはなりません。助けて!」
だがそのとき彼女はふと思い至った。
自分がエオレア様でないことがわかると、今度はエオレア様がさらわれてしまうと。口をつぐむ。
「めんどくせえな、うだうだ言うな。あれ、急におとなしくなっちまったい。どうやらくだらねえ嘘で騙そうなんて諦めて、観念したらしいな。
ところで、よお、ベンよ、おい、おまえ、いつまでも何考えてやがるんだい」
「いつまでだってさ。何考えてるって、いろいろ考えてんだぜ。物事はな、思いも寄らない事態ってのがいつもあるんだ。どんでん返しだ。まずよく考えなくっちゃなんねえ」
「くそっ、辛気くせえ」
さて、イラフたちはと言えば、平原の北辺に至る。
皓々たる月の下、北の山脈の雄大なるシルエットが見え始めていた。ヨウクで越えられるルートを選び、いくらか遠回りをしなければならない。
「応龍はストレートに山を越えただろう。しかしヨウクや龍馬ではそうはいかない」
レオンは自らに言い聞かせるようにそう独りごちする。そして眉を寄せて悩み、思案する。そんな姿を見て、その夜、イラフはチヒラにぽつりと語った。
「シルヴィエは悪の帝国だと単純に思っていた。
いや、もちろん、いろんな人がいて、いい人もいることはわかっていた。当たり前過ぎることだけれども、国民や民族が皆同じ人格ということは、絶対にあり得ないこともわかっていた。
でも、やはり帝国は悪だという感覚はぬぐえなかった。何となくシルヴィエの国民は概ね同じような考え方をしているように感じていた。帝国軍のやることに反対しないのだし、兵士となって一緒に行動しているのだから同じだと、そんなふうに、心のどこかで単純に考えていた。
まあ、よい方に考えるときであっても、たとえば、庶民は純粋に信仰しているつもりかもしれないけれど、洗脳されて正しい道が見えていなくて実際には彼らのやっていることは純粋な信仰などではなく、悪の道だ、なんてね。
そんなふうに簡単に考えていた」
「どこの誰もがそんなもんさ。気が附いただけでも幸せだよ。誰もが自己を超越できているというわけではない。
人は国家や民族に少なからず自己の尊厳を投影している。国家や民族の尊厳や財産に損害が与えられれば、その国や国民を丸ごと憎悪したくなるものさ。
とは言え、客観的認識のない者は不幸だ。夢の中を勝手に妄想して生きているようなものだ。愚昧の闇に封ぜられているようなものである。何も知らず、空も海も花も知らない。精神の地下牢に繋がれている。ほんとうの感動もない。
すべて事実(または真実)というものは常に個別的だ。物的にも、時間的にもね。それぞれに、その都度その都度で、まったく事情や内容が異なるのが普通で、決して一様ではない。一様であるはずがない。
当たり前だ。
物事を国家や民族や宗教単位で悪と見做したり、憎んだりするような、一様なものとして認識することはこの世の大きな悪だ。
そのような妄想によって当事者でもないのに復讐され、殺されたら、やられた方の気持ちはいかようなものであろうか。その遺族の感情は。その恨みの炎たるや、いかほどであろうか。恐らくは天をも焦すであろう。
想像に難くない、彼らも無差別に殺すだろう。恐るべき憎悪と復讐の連鎖が起こる。
だから裁かれる者は当事者のみでなくてはならない。訴え、責める者も当事者か、その正当で直接的で(つまり最少範囲の中から選ばれた)代理人でなければならない。
漠然と同じ宗派だからとか、同じ民族だからではだめだ。復讐の連鎖を生む」
ユーカレが冷めた口調で言葉をはさんだ。
「当事者という定義が難しいな。
同じ宗教を信奉して反対しないなら、その精神を共有していると主張する者もいる。同じ国にいて反対しないなら関与していると考える者もいる。
我々はそれを殺されるほどの関与ではないと考えるが、そう考えない者もいる。同じ考えを強要することはどこまで許されるのだろうか。
自分や他人の生命や自由な言動や財産などの権利を損なう行為は、制限されて当然とは思うが、実際はケース・バイ・ケースでかなり難しい場合がある」
「そうだね。すべてはケース・バイ・ケースだ。
だからすべては個別に判断すべきで、一様に、単純に、十把一絡げ的に攻撃すべきではない。客観的な事実に反しているからだ。すべては事実に基づき、科学的であるべきだ。それが真実だし、つまりは正義だ。これは絶対に間違いのない真理だ。
私利私欲を妄りに貪ることが悪だというが、自己を超越すればそれは滅する。自己超越のために人は真の客観性を体得しなければならない。
客観性の缺如、これが悪の起源だ」