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        プロローグ -Prologue-

      

ふと。

キーボードを打っていた指を止める。



 デスク上のスタンド・ライトに照らされたキーの一つ一つは存在の鮮烈さで浮かび上がっていた。

 それ以外は青褪めたような脆弱な薄暗がりの静寂に、沈んでいる。

 壁の時計を見上げた。

 精確に秒針は動いている。

 23時4分。

 そこには何の表情もなかった。

 吐息が洩れる。諦めたかのように眼を落とし、書類の字をなぞった。いつ終わるのであろうか。しかしこれが終わっても、次の事案がある。そちらの方はどういうふうに処理してよいかイメージがまだできていない。ただ不安と焦燥だけがある。そんなさなか、新たな問題が見つかった。とても数時間では終わりそうもない。


 にわかに机の抽斗に文房具をしまい始めた。すっかりしまうと、鞄を机上に置く。朝刊が差し込まれたままだ。構わず上着をつかみ、出口へ向かう。振り返る。フロアには4、5台のデスクによって造られた島がいくつかあり、群島のあちこちではまだライトが点いていた。

 だが明日は彼らが私を振り返る番かもしれないし、もう二度と会うこともないのかもしれないし、まあ、概ねまた明日会うのであろうが。ともかくもうどうでもよくて暗い廊下に出た。


 廊下の両側には宅急便の荷物が積まれている。足早に通り過ぎる。荷物に貼り附けられた伝票を見ないようにする。

 無事にそこを抜けると、エレベーターのボタンを押した。音もなく開く。明かりの落ちた1階のエントランスに降りた。自動ドアが左右に退く。夜が頬を冷たく撫でた。夜の場末の遠い騒音に(微かではあるが)囲まれる。

 会社を出た。

 すっかり寂れてしまったかつての繁華街は心なしか街灯も薄暗く、暗がりが多い。古くて狭い住宅から漂う晩ご飯の匂い、どうやって成り立っているのかわからない小さなスナック、昭和の時代に建てられた4階建の雑居ビルディングの汚れた壁や換気扇、タバコ販売の小さな窓口などが懐かしくて侘びしい気持ちにさせる。

 家賃5万以下の安アパートの隣にある、赤ちょうちんの奥で、微かに喧騒が聴こえていた。踏切の警告音、()ぎる私鉄の音、最近駅前にできたコンビニエンス・ストア。紙パックの日本酒を買う。店を出ると、急いで袋から取り出し、短いストローで啜る。安堵の吐息が洩れた。

 高架でも地下でもない、小さな駅の上にあった、皓々たる満月を見上げる。

 今日も営みを終え、家路に就くのだ。

 心は渇き、すべてが灰色に霞んでいた。まるで膜のうちに封ぜられたかのように直接さがない。生々しさがなく、すべてのものから乖離している。現実のような感じがしない。生命がない。色彩も旋律も魂を癒してくれはしない。

歌よ。

 あゝ、しかし、それは・・・・・


もはや、謳われなくなり久しき歌の数々よ。

魂を焦がし、滾る炎のように理想を求め、一瞬それをつかんだはずなのに、手の中の砂のように崩れ去って喪われる。


 自由や平和は尊いのに、ようやくそれらをつかむと人々は腐敗する。王権が民に配られても、また新たな王威が世を覆い、権力を振るう。

 平等や人権は黄金の前で、その生命を喪ってしまった。

 いくつもの国がまだ血を流しているのに、いくつかの国は寝呆けた眼をこする。いくつもの国がまだ飢えているのに、いくつかの国は飽食する。

 自由主義を謳歌する若者たちの繁栄の裏では多くのこどもたちが過酷な労働に駈られ、学校にも行けない。戦火に晒され、人々は自由と土地と生活を奪われ、踏みにじられている。飢渇は厳しく、病患は容赦なく、医者もない。いつ殺されるかもわからない、理不尽に。生き残っても男の子は兵にされ(人殺しにされ)、女の子は搾取され、人格は破壊される。


 矛盾はいつまでも解決しない。


 私欲は果てず、永劫に同じことが繰り返される。正義は真理と道徳とで正論の城壁を廻らすも、悪辣者は正論など意に介さない。法の網を廻らせても、卑怯者は必ず実際の逃げ道を創り出す。努力の末に光明を見出し、ようやく良き世が来ると思われても、欣びは束の間、すぐに絶望が容赦なく襲う。


 神よ、あなたはなぜかように過酷なのか。

 人はなぜ、このように愚かなのか。

 だがそれを問うて何になろう。意味もない。甲斐もない。愚者が賢者をせせら笑っている。無為徒労の輩よ、現実を見ろ、と。

 たとえ無為であっても、休みなく、闘うしか選択肢はない。


 さような想いに煩い、疲れ切った頃、ようやく古くて小さな我が家にたどり着く。安堵と落胆の溜息が同時に洩れる。ちょうど雨が降り始めた。

 玄関に入り、背の後ろに回した手で扉を閉めた。重いコートを脱ぎ、帽子を椅子の背に掛ける。

 昏く静かな部屋の木の椅子に、深く腰掛け、ろうそくに火を(とも)した。小さく暖かな炎に見入ると、やがて意識は薄らぎ、瞑想に沈んでいく。諸々の幻影が()ぎる。強くなっていく雨音が次第に遠く感じられる。


 さあ、今宵も翼を広げよう。

 心の翼よ、今、将にお前は羽搏こうとする。融通無礙に、自由自在に、空想よ。刹那の解放よ。想いは無際限なる心の蒼穹を翔る翼。

 何人も自由を欣求する心を無みすることはかなわない。今このときばかりは憂き世の責め苦を逃れ、解き放たれようではないか。

 眼を瞑りたまえ。闘う者よ。この理不尽から刹那逃れる権利があなたにはある。






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