12、幸福
部屋に誰かの気配を感じて、ラゼの意識は一気に覚醒した。
こういう時は飛び起きてはいけない。
相手の位置と武器、退路を確保してから、目を開けるのが正しい。
足音からして相手はひとり。
こちらに近づいてくる。
「――誰!?」
自分に手を伸ばそうとするその人物に、ラゼは一瞬でベッドの上で戦闘体制に入った。
そして、
「――――え」
「ごめん。俺だよ……」
片手に握ったナイフを突きつけてしまったのが、アディスだと知って、ラゼは大混乱だった。
「えっ。え、な、なん……!? ど、どうして、アディス、様が……」
意味がわからなすぎて、ナイフをしまうことができない。
彼は本物のアディス・ラグ・ザースなのか?
自分は可笑しな幻術にでもかかっているのだろうか。
もしくは、まだ夢でも見ているのか。
「昨日のこと、どこまで覚えてる……?」
アディスは混乱するラゼを見て、彼女から後ずさって距離を置いた。
「昨日……。ザース邸で婚約の挨拶をして……。夕食をごちそうになって、それから……………………あ」
ラゼは酒で記憶が飛ばないタイプだった。
昨晩の失態がみるみるうちに蘇り、彼女は顔を真っ青にした。
どうして彼がこんなところにいるかって――?
そんなのは、酒に酔った自分のせいではないか!
「申し訳ございませんっ!!」
ラゼはベッドの上で土下座した。
それは見事な土下座だった。
「わ、私、なんてことを。同意もなく、アディス様をこんなボロい部屋に転移させてしまうなんて!?」
カーテンの隙間から差し込む光からして、もう朝だ。
彼はこの一晩、一体どこで寝たというのだろう。
「本当にすみません! 今すぐ! 今すぐにでも、ザース邸にお送りします!!」
ラゼは泣きたくなった。
昨日、アディスのために努力すると言ったくせに、この有様。
一体どの面さげて彼に顔向けすればいいのか分からない。
「…………ごめんなさい……。昨日、役に立つって言ったのに……」
「…………ラゼ」
「………………」
「こっちを向いて、ラゼ……」
ものすごく優しい声で名前を呼ばれた。
彼が優しい人だということは知っている。
知っているからこそ、甘えてはいけないと理解していたはずなのに……。
化粧も落とせず寝ているから、酷い顔をしていることだろう。
ただでさえ美人ではないのに、こんなことでは幻滅されるかもしれない。
「……合わせる顔がありません……」
「…………こういう時の君は頑固だよね……」
呆れた声に、びくりと肩が震えた。
せっかく彼が許してくれたのに、こんなことで嫌われるなんて最悪だ。
「…………ねぇ。ラゼ。ひとり暮らしの女性の部屋に居座った挙句、勝手にお湯を沸かしてコーヒーを淹れた俺を君は許してくれる?」
「…………え?」
話の流れが変わって、ラゼは顔を上げた。
自分が土下座をするベッドの前で、アディスはしゃがみ込んでこちらを見ていて。
「ここに俺がいるのは、俺のせいだ。君が謝ることなんて何もないよ」
幼子に言い聞かせるような、困ったように目を細めるアディスに、ラゼは肩の力が抜ける。
彼は怒っていない。そう分かって、言葉が出てこなかった。
「おはよう。コーヒー、冷める前に飲もう。二人分用意したから」
「…………………………は、い……」
落ち着いて来たラゼは、こくりと頷いてベッドを降りた。
「……顔を洗って、着替えてきます……」
「うん。……あ、そうだ。簡単に朝食用意しようと思ったんだけど、冷蔵庫のもの使っていい?」
「もちろんそれは大丈夫ですが……」
「わかった」
呆然とアディスに返事をして、我に返ると顔を洗いに行く。
化粧を落として、服を着替えて。
そっとキッチンを覗くと、袖をまくって慣れた手つきで食器にパンとベーコンと目玉焼きを載せるアディスがいて、目が釘付けになった。
「――ちょうどできたよ。一緒に食べよ」
貴族の男子なのに、料理をするのか。
ラゼはその事実に驚いたが、彼がなんでもできることには納得してしまった。
二人分用意された朝食が、自分の家のテーブルに並んでいる。
見慣れない光景に戸惑いながらも、ラゼはちょこんと席に座った。
「……いた、だきます……」
「どうぞ。ま、食材は君が用意したものなんだけどね」
アディスがそう言って苦笑するのを見た後、ラゼは目玉焼きとベーコンが載ったトーストを両手で持つと齧り付いた。
たぶん、誰が作っても、そう味は変わらない簡単な料理だ。
それでも、どうしてだか、自分で作って食べるよりも、ものすごく優しくて温かい。
ひとくち。もうひとくちと食べている間。
キラリと光ものが左手に見えて、ラゼは開いた口をそのまま閉じる。
無論、左手の薬指にあるのは、アディスからもらった婚約指輪だ。
――無性に、泣けてきた。
幸せすぎて。
「…………ラ、ゼ?」
急にぼとぼと涙を流すラゼに、アディスが大きく目を見開く。
ラゼは無言のまま、袖で涙を拭う。
自分でも、こんなに涙もろい奴だとは知らなかった。
情緒不安定すぎて、びっくりだ。
もう彼の前で泣くのは、これで最後にしよう。
全部涙が溢れた後、ラゼは笑った。
「……おいしいです。すごく――」
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