10、挨拶
(今日は指輪、していかないとな……)
正式に婚約者としてザース邸に招かれた、その日。
ラゼは自宅で支度をしつつ、アディスから贈られた婚約指輪を首元から取り出す。
普段は彼が準備してくれたチェーンに通してネックレスとして持っているが、今日はちゃんと左手の薬指に着けるべきだろう。
今回は前回のデートの反省を生かして、前もってジュリアスに服装のアドバイスをもらった。
デートの時とはまた違う緊張があるが、先方も全てを分かった上で受け入れてくれているのは知っているから、少しは和らぐ。
ザース邸までは飛んだ方が早いから、直接向かうとアディスには伝えてある。
ウェルラインの都合で、時間は夕方から。
ちなみに夕食をごちそうになる予定だ。
(……どんな料理が出るのかな。……ちゃんと味わえるといいんだけど……)
支度を整えたラゼは、時計を見て出発の時間を待つ。
自分以外誰もいない部屋で、カチカチと針が時を刻む音だけが静かに響いていた。
◆
「――待ってたわ!! 狼牙ちゃん!!」
ザース邸に着くや否や。
満面の笑みで歓迎してくれたのは、バネッサだった。
ずんずんこちらに向かってきたかと思えば、思いっきり正面から抱きしめられる。
鍛え上げた体幹がなければ、受け止めきれない勢いだった。
ぎゅうぎゅうに抱きしめられるので少し苦しいのだが、「ちょっと母さん。いきなり何してるの」というアディスのツッコミはバネッサに届いていない。
「ご、ご無沙汰しております。バネッサ様……。ご挨拶が遅くなり申し訳ないです」
「何を言っているのよ。婚約が決まってからすぐに手紙をくれたじゃない」
「…………え」
熱い抱擁を交わす中、何とか挨拶したラゼとバネッサの会話に、声色の違う一音が混ざる。
「手紙? 俺、聞いてないけど……」
戸惑いを浮かべるアディスに、その場にいた人の視線が集まった。
「そういえばアディスに言ってなかったわね」
「私たち宛だったからな。忘れていた」
バネッサとウェルラインが答えるのを聞いて、アディスは眉間に皺を寄せる。
「そういう大事なことは、俺にもきちんと報告ください。そして母さんは、そろそろラゼを離して」
「あら。ごめんなさい?」
くすくすと笑って、バネッサはラゼを離した。
「さあ。こんなところで立ち話してる場合じゃないわ。――案内するから、中まで入ってちょうだい」
そして、バネッサはそう告げるとラゼの手を取る。
相変わらずバネッサは元気そうで何よりだ。
自分がアディスと婚約することになったのに、何も振る舞いが変わらない。
ラゼはそのことにまず安堵した。
「堅苦しいのは苦手だから、気にせずくつろいで」
「ありがとうございます……。少しですが、こちら召し上がってください」
「やだ! そんな気を遣わなくてよかったのに!」
「以前、バネッサ様がお好きだとおっしゃっていた東方の品が手に入ったので……」
「きゃあ! 御堂庵の限定品じゃない!! もう、狼牙ちゃんったら!!」
客室に迎えられて、手土産を渡すとバネッサは大興奮だった。
せっかくだからいただきましょう、とメイドのココに品が渡るのを横目に、ラゼはアディスの隣に座る。
「……ごめん。母さん、張り切ってて」
「いえ。歓迎していただけて嬉しいです」
「ならいいんだけど」
こちらに気を遣ってくれているアディスに問題ないと笑って答えれば、その様子をウェルラインとバネッサが見守っていて。
「……なにか……?」
その視線に気が付いたアディスがふたりに問えば、彼らは顔を見合わせた。
「そういえば、ふたりが話しているのをこうして見るのは初めてかもしれないと思って。ね? あなた」
「そうだね。思ったより打ち解けてるみたいでよかったよ」
ザース夫妻はラゼのことをよく知っている。
しかし、自分の息子とどんな風に会話しているのかまでは知らない。
アディスが彼女をどう思っているかは聞くまでもないが、ラゼがアディスにどう接しているのか、実は気になっていたふたりだった。
「アディス様には学生時代から、よくしてもらっています」
ラゼはこの会話の流れを止めてはいけないと察して、すかさず波に乗る。
「委員会も一緒でしたし席も隣だったので、話す機会は多かったです」
「あら。席まで隣だったの?」
「通路を挟んで、ですが」
「知らなかったわ!」
バネッサは目をぱちぱち瞬く。
「最初はやりにくかったんじゃない? 隣にこの人そっくりの顔がいるなんて……」
「…………正直、アディス様を見るたびに閣下を思い出していました」
「やっぱり?」
アディスが階段を登ってきた時の、あの衝撃は今でも忘れられない。ラゼは苦笑いだ。
「でも、今は……。閣下とお会いすると、アディス様の顔が浮かぶようになりました」
ラゼはひと呼吸おく。
背筋を伸ばして、真っ直ぐに前を向いて。
「――この度は、大切なご子息との縁組をお許しいただき、ありがとうございます。ご存知の通り、私は戦うことばかりの軍人で、令嬢としては至らないことばかりの不束者ですが、アディス様の隣に立って恥じない人間になれるよう精進しますので、今後ともどうぞ……どうぞよろしくお願いします」
今言える精いっぱいの言葉に感謝を込めて、深く頭を下げる。
「「「…………」」」
しばしの沈黙が部屋を支配した。
言い切ってから緊張してきて、胸がバクバク言っている。
膝の上に置いていた手で拳を握り、ラゼは沈黙を耐える。
「――頭を上げてくれ」
何十分にも思えた静寂を破ったのは、ウェルラインだった。
言葉のままに恐る恐る顔を上げて、ラゼはそこにあったザース夫妻の表情を見てぴたりと動きを止める。
「こちらこそ、不出来な息子を受け入れてくれてありがとう。これからは上司として――家族として、君のために私ができる最善を尽くすと誓うよ」
「狼牙ちゃん……いいえ。ラゼさん。あなたがアディスと出会ってくれたことが、何よりの幸運よ。本当にありがとう。アディスのこと、……よろしくね」
感極まったバネッサの目から、一筋の涙が落ちる。
「やだ……。泣くつもりはなかったのに……。ラゼさんが、泣かせにくるから……」
「えっ……」
ハンカチで目元を押さえながら、冗談混じりにバネッサが言う。
泣かせるつもりなんて微塵もなかったラゼは、どうしていいのか分からず、あたふたするだけだ。
「もう。本当に。――アディス!」
「……はい」
「こんなに素敵な人なんて、二度と出会えないんだから。絶対大切にしないと許しませんよ」
「――はい」
バネッサのターゲットがアディスに変わるが、アディスはただ受け止める。
「それから、ラゼさんっ」
「は、ハイ!」
すぐに帰ってきたバネッサの視線に、ラゼはびくりと反応した。
「これから、ここはあなたの家よ。いつでも帰ってらっしゃい」
直球で投げられた言葉が、胸に刺さった。
毎日毎日、誰もいない部屋に向かって「いってきます」「ただいま」を言う変わり映えのない日々。
ずっとこのまま、ひとりで繰り返すのだろうかと。
漠然とした不安を抱えていた。
「……はい。ありがとう、ございます……」
涙は出なかっただけで、正直泣きそうだった。
幸せに、なれッ!!!