表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

春を待つトド

作者: 梅野飴

 野球帽のツバをクイッと上げながら空を見る。太陽が青空を空気を貫いて差し込み目が眩んだ。暑い。夏だ。そうか夏なのか。夏かも。夏だな。

 ワッ、と歓声が起きる。少し遅れて拍手と笑い声。子供の叫び。水の音。視線を下げると大きなプールがあり、その水面が太陽の光に揺れている。

 不意にイルカが跳ねた。尻尾を水に強く打ちつけ客席に向かって飛沫をあげる。その水滴はすり鉢状のスタンドの上段に座る俺にまで届いた。また歓声が上がる。俺も思わず小さな手を強く叩いた。隣で親父も笑って手を叩いていた。

「さあ、みなさんお待ちかね!ここからはアシカのマリンちゃんのショータイムです!」

 また一段と客席が沸く。マリンちゃんと呼ばれたそのアシカは、プールではなくその後ろにあるスタッフ用のドアから飼育員のお姉さんの後ろをひょこひょこと跳ねながら出てくる。更にその後ろにもう一匹、そのアシカより更にデカイやつも、こちらはのそのそとダルそうに現れた。

「父ちゃん、あれもアシカ?」

 俺はいつの間にか持っていたアイスキャンディーでそのどデカイ生き物を差しながら尋ねる。

「あれはセイウチ……いや、牙が無いしトドやなあ」

 トド。なるほどピッタリだ。あの太さ、愚鈍さ、やる気のなさ、全てがトドという音に相応しい生き物だ。俺は、アシカもイルカもそっちのけでこのどうしようもないトドに釘付けになった。

 アシカのマリンちゃんが見事な動きでビーチボールをリフティングをやってのけ、締めに客席に向けて決めポーズまで披露している。客席からは拍手とともに「おー!」「スゴい!」「賢いねえ」など称賛の雨が注がれる。一方トドは横でごろんごろんと転がっているだけだ。なんだあいつ。

「ねえ父ちゃん。トドは働かないの?」

「まああんなんが一人くらいおっても地球は回るからな。あいつはあれでいいんやろ」

 ふぅん、となんかよくわからないスケールの話をされたのでよくわからないままわかったような相槌を打つ俺。手に持っていたアイスキャンディはいつの間にかポカリの缶に変わっていた。

 その後もマリンちゃんが芸を披露し喝采を浴び、隣で転がっているだけのトドは働き者のアシカと比べられ嘲笑を浴びる。

「ママーあのトドなんもせんねー」

 スタンドの二段下に座る俺と同じくらいのガキが指を差して言うと、周囲の客がドッと沸く。俺はなんか知らんが少し腹が立った。

 それにしても暑い。グイッと煽ったはずのポカリはすでに小さな手のひらの中から消え失せていて、喉の渇きが潤わない。

「それでは最後に!このショーの間ずーっと寝ていたぐうたらトド君に働き者へ大変身してもらいましょう!」

 マイクから響くお姉さんの声に観衆は待ってましたと言わんばかりに沸き立ち、それと同時に示し合わせたかのように手拍子が響き始める。

『トード!トード!がんばれ!がんばれ!』

 大合唱が世界を包む。俺はその異様な空気が恐ろしくなって脂汗をかきながら震えている。見渡すといつの間にか客は十倍にも百倍にも増殖している。全員が立ち上がりトドに向かって手拍子を打ち鳴らしている。

「さあそれではトド君!準備はいいですか!?」

 お姉さんの声も客席の熱気に負けじと強く大きくなっていく。俺は隣にいる親父にしがみついた。

『働け働け!トード!トード!』

 これだけの大注目を浴びて煽られているトドは相変わらず寝たまま、何を考えているのかわからない表情でぼんやりと空を見上げている。

 あのトドに名前はないのだろうか。芸達者な働き者のアシカと違って寝ているだけの働かないトドは名前なんて貰えないのだろうか。

 手拍子はいつの間にか地鳴りに変わる。心臓を殴るような深い音が俺を揺らす。俺はなぜか汗が止まらない。幼い身体が震える。鼓動が速くなる。怖い。怖い。

 「それではやってもらいましょう!トド君一世一代の大仕事!超高速火の輪くぐり!!!」

 客席からは割れんばかりの歓声。やめろ。やめてくれ。できるわけないだろ。冷静に考えろよ。トドだぞ。お願いだ!やめてくれ!

 俺の音にならない願いは世界の怒号にかき消される。太陽が容赦無く照らすこの世界は暑すぎるほどに暑い。

「カウントダウンいきまーす!スリー……ツー…………」

 カウントに合わせてギュッと、世界を閉じるように目を瞑った。


 ワン!でハッと目が覚めた。天井が見える。ここは……俺の部屋だ。それは間違いない。なのにこの押し寄せる違和感はなんだろうか。自分が自分でないような。他人という容器に心だけ移し替えられたような感覚だ。

 さっきまでの光景は夢だったのか。そうだ。当たり前だ。俺はもうガキじゃないし二十年以上水族館には行っていない。

 あっという間に夢の記憶が薄れて消えていく。ほんの数秒前まで当然のような顔をして俺の意識の中に広がっていた世界が歪に崩れていく。

 身体を起こそうと掛け布団に手をかけてみる。分厚い手袋をつけているような感じがする。確かに触れているはずの布団の感触が指先に伝わってこない。

 全身が痺れたような心地の悪さに抗いつつようやく上体を起こす。やはりここは俺の部屋のようだ。カーテンから差し込む光が柔らかい。壁時計に目をやる。針は七時を指していた。喉が痛いほどに乾いている。とりあえずベッドから出ようとしたら後頭部を殴られた。いや、殴られたような強い痛みに不意に襲われた。俺は頭を抱えるようにして再び横になった。部屋の外から両親の笑い声が聞こえた気がした。

 また目が開いた。そして身体を起こした。やはりさっきと同じ場所。俺の部屋、俺のベッドの上にいる。カーテンから差し込む光が先ほどより柔らかく感じ、時計に目をやると午後四時。九時間も眠っていたのか。俺は先程の反省を生かして慎重に身体を起こし、片足ずつベットから下ろす。そしてさらに慎重に立ち上がる。同時に体の骨がバキバキと鳴った。思い切って伸びてみる。バキバキバキ、と更に骨は強く悲鳴をあげる。九時間どころか、なんだかとても長い年月を眠りに費やしていたようにすら思える。

 部屋の外、ドアの向こうのリビングからはもう先程のような両親の明るい声は聞こえない。ただ、テレビの音らしきものがささやかにドアの隙間から漏れてこちらに届いている。とにかく、部屋を出なくては。部屋を出てこの違和感の正体を突き止めなくては。そう思ってドアノブに手をかけた瞬間、頭の中にある言葉がよぎった。『変身』だ。

 そうだ、まるで今の俺はカフカの『変身』で朝起きたら虫になっていた主人公グレゴールのようではないか。だとしたら、まずい。もし俺が虫か、もしくはそれに準ずる気色の悪い生き物に変身を遂げていたとしたら今このドアを開けるのは非常にまずい。

 愛する息子の部屋からでけえ虫が出てきたら虫嫌いの母ちゃんは絶叫するだろう。悪くすれば卒倒する。親父はどうだろうか。親父は家族思いで頼れる存在だ。恐らく驚愕しながらも気絶することはないだろう。ただそれだけに怖い。非常に怖い。親父は母ちゃんを守るため勇敢に立ち向かってくるだろう。柔道有段者の親父のことだ。隙を見せれば襟首を取られ天は返り床に叩きつけられることになる。虫に襟とか首とかそんなんあるかはわからんがとにかく注意するに越したことはない。距離を取って足を使ったファイトが攻略の鍵になりそうだ。しかしそうやって目前の親父にばかり気を取られていると、気絶しているとばかり思っていた母ちゃんが背後に立っていて気づいた時には俺は羽交い締めにあっている。といった展開も考えられる。いや、そこは虫嫌いの母ちゃんのこと。直接攻撃ではなく中距離からの殺虫スプレー、それも母ちゃんの愛用である瞬間冷凍タイプの殺虫スプレーを缶容量の許す限り噴射してくることだろう。そうなると俺はひとたまりもない。さながら冷凍マグロのような哀れ無防備な姿を晒したまま床にゴロンゴロンと転がり、反抗期の学生時代に柔の道に反し拳に青春を捧げ瓦十五枚を一度に割った経験を持つらしい親父の、その大地を抉るような正拳突きによってあえなく絶命し、その後魚屋として五十年の世を渡った包丁捌きにより美しく三枚におろされることになるだろう。そして店を畳み年金生活の味付けにギターを始めた親父の勝利のアルペジオと咆哮が家中をこだまするだろう。と想定すると必然、俺は親父をアウトボクシングでいなしつつ母ちゃんの動きをケアする戦いが求められる。これではかなり分が悪い。

 やはり戦うことはできるだけ避けなければならない。やはり言葉だ。姿形こそ醜悪なれど俺が二人の愛する愚息であるということ、お二人の愛の結晶ここに在りということを言葉で証明するほか俺が哀れな中トロ化する未来を免れる道はなさそうだ。

 しかし、証明するといってもどうやって?いくら言葉で説明しようにも、おぞましい虫畜生へと変身した俺の言葉を聞き取ることは恐らく両親にはできない。声でもって言葉でもって己が置かれたこの不可思議なる現状を説明すればするほどにその声は凶悪なうめきとなり両親の耳を貫く。俺の縷々語る愛の言葉の全ては敵意に変換され彼らの元へと届き親父は怒り、母ちゃんは噴射する。やはり、言葉での自己の証明は到底不可能に思える。

 ならば妹はどうだろう。あぁ、そんなのはいなかった。グレゴールにはいたんだけどな。くそ。いいな妹。くそ。

 しかし俺には妹はいなくとも、もんたんならいる。我が愛しの犬もんたんがいる。そして何を隠そう子犬の時分に道端で今にも天に召されんとしていたもんたんを拾いこの家へと連れ帰ったのは他でもないこの俺だ。もんたんは俺に返しきれないほどの恩がある。そして人間の一万倍とも言われる嗅覚がある。たとえ見た目は虫に変身していたとしても俺の正体に気付いて擦り寄ってくるのではないか。流石の親父といえども、もんたんが懐いている俺の足をそう無闇に大外から刈りはしまい。ましてや鱗を削ぎはしまい。母ちゃんだってもんたんごと瞬間冷凍するような人でなしではない。

 しかし、ここで一抹の不安がよぎる。もんたんは少しバカだ。いや、飼い主の酌量が入ったので訂正。すごいバカだ。マジでバカだ。いまだに自分の名前を覚えていない。どころか、自分の名前は『かわいい』だと誤認している節すらある。『待て』ができない。おすわりと言ったら伏せる。ボールを取ってこない。『待て』ができない。『待て』が本当にできない。

 このかわいい、もとい、もんたんが俺を見分けてあまつさえ味方してくれるなんて有り得るだろうか。いや、厳しいか。至極リアルにシミュレーションしてみると恐らくもんたんは俺と親父の世紀の一戦の間、部屋中を尻尾をふりふり駆けめぐり、俺たちの足にまとわりつき、挙句母ちゃんにおやつをもらおうと甘えている。そしてたまに水を飲む。それくらいしかできないだろう。だめだ。あいつ役に立たない。かわいいだけだ。かわいいなもんたんかわいい。

 やはり俺一人で解決するしかない。言葉でなく、姿でなく、俺自身で俺を俺たらしめる何かを証明するほか道はないのだ。

 そこまで考え至り絶望した。俺はどうやって俺を証明すればいいのだろう。俺を俺と証明してくれるものは他にないのだろうか。俺は誰だ。俺は俺なのか。俺を俺たらしめるなにか。それはなんだ。あれか。マイナンバーカードか。マイナンバーカード作っとけばいけたか。いや、所詮あれは数字と顔写真だ。俺があれを持って切に訴えたところで、マイナンバーカードを持った虫だと言われたらそれまでだ。

 橙に染まりはじめた部屋の片隅で膝を抱え震える。己の存在の薄さに震える。メガネを割るだけで世界が曇るように、スマートフォンを失くすだけで俗世と遮断されるように、言葉と姿を失うとあっという間に歪み蒸発する自分の薄さに震える。

 頬を涙が伝った。これは涙だろうか。それともガソリンだろうか。それすら危うい。俺は人間だろうか。虫だろうか。卵男だろうか。セイウチだろうか。アザラシだろうか。トドだろうか。体型的にはやっぱりトドだろうか。

 美女と野獣。そんなおとぎ話が脳裏によぎる。野獣は王子の姿を失ったが、ベルはそんな野獣を愛した。決して野獣が王子だったからではない。野獣の持つ心にベルが向き合い認めたからこそ彼は世界に存在を許され呪いは解かれたのだ。

 そうだ。俺自身が持つたった一つの俺。それは心だ。この心が此処に在る限り、たとえ姿が毒虫になろうと声が獣になろうと俺は俺で有り続けることができる。この心の居場所がそのまま俺なのだ。

 そうと決まればできることは一つだけだ。両親に叫ぼう。俺は俺だと。たとえ言葉が伝わらなくても構わない。俺の心がここにあるから俺は俺なんだと。俺という存在の全てを叫ぼう。きっとこの思いは届く。さあドアノブを握れ。俺は世界の片隅で己の存在証明を鳴らすパンクロッカー。シドの生まれ変わり。サルトルの子供だ。歌え。叫べ。三十路がなんだ。無職がなんだ。メタボがなんだ。薄毛がなんだ。そんな言葉じゃあ俺は括れない。俺は。俺は…………。

「何やっとんお前は。そんなとこで」

 親父がいた。いつの間にかドアを拳ひとつ分開いて不審物を見るような目で部屋の隅に鎮座する俺を見ていた。

「父さん……俺だよ父さん。俺なんだ。姿は醜い虫かトドのようになってしまっているだろうけど俺なんだ。父さんの息子なんだ。信じてくれ……」

 俺は縋るような気持ちで喉を震わせる。この声は、親父の鼓膜へ、否、親父の心へと届いているのだろうか。

「…………」

 親父は何も答えない。リビングからの逆光で影になっているが、その目には困惑の色が見て取れる。嗚呼、やはり俺は変わってしまったのだ。実の父親にすら届かないほどに。

「父さん……信じてくれよ。俺なんだよ。正志なんだよ父さん」

 四つん這いになりながら親父の元へと床を這い這い躙り寄る俺はさながら赤子の様子だ。親父はこんな俺をどうするだろうか、リンゴを投げつけるのだろうか、いや、やはり昔取った杵柄、拳を振り下ろすだろうか。いや、アコースティックギターを振り下ろすだろうか。それは嫌だ。痛いのは嫌だ。気づいて父さん。お願いだよ父さん。

「何言っとん正志お前。寝ぼけとんか」

「……えっ?」

 俺は親父を見上げる。親父は俺を見下ろす。

「……父さんには俺が正志に見えるの」

「そりゃ見えるけど」

「そっか……よかった…………」

 力が抜けた。その場にへたりへたりと倒れ込んだ。よかった。俺は変身なんてしていなかった。思い過ごしだったのだ。涙が出そうだ。

 俺はゴロンと仰向けになりもう一度親父を見上げる。あぁ父さん。もうすぐ七十になる父さん。いつの間にかこんなに痩せて、顔もシミだらけの父さん。僕はここにいます。あなたの息子がここにいます。

「よかった……俺は毒虫でも醜いトドでもなかったんだ」

 もう一度自分の心の在処を確かめるように呟いた。頬を涙が伝う。これは涙だ。そう、俺は人間なのだ。正志なのだ。

 そんな俺を見て親父が慈悲もなく吐き捨てた。

「いや、まあ醜いトドやけどな」

「えぇ!?」

 俺はガバッと起きあがろうとするも大きなお腹に力が入らずごろんと床をローリングする。

「ほらもうトドやぞお前その体は。冬眠中のトドや。今何キロあるんや?最近体重計乗ったか?」

「ええと、ひゃく……いやいや違くて!そうじゃなくて!えっ、俺本当にトドなん!?虫じゃなくて?トドの方?てかトドって冬眠するの?」

 フーフー言いながらなんとか体勢を立て直して親父に叫ぶ。しかし、親父は困惑する俺に追い討ちをかけるように。

「いや、虫っちゃ虫やけどな」

「えぇ!?」

「働きもせんとワシらの老後資金食い潰す金食い虫や」

 ガハハハと親父が笑う。結構キツイこと笑って言うなこの人。なんかまた泣いちゃいそうだ。

「まあそれでも正志は正志やから。寄生虫のトドやがお前はワシらの息子の正志や。それは安心せい」

「父さん……」

 今サラッと寄生虫とか言ったなこの人。

「ところでお前、この部屋酒臭いぞ。また朝まで飲んどったんか」

「あー、あれ、そうだっけ……痛ッ」

 また頭に殴られたような痛みが走る。同時に喉の渇きも思い出した。あぁそうだった。俺は昨日PCで配信を観ながら飲んでて、そんで朝目が覚めたら二日酔いが酷くって、眠くって…………。

「まあとりあえず顔洗うてこい。ほんでもん吉の散歩ば行って痩せてこい」

「もんたんね」

「もん吉でもええやろが」

 やれやれと俺は部屋を出る。机の上に置かれていた麦茶を一杯飲んで、よしちょっくら便所にでも行ってやろうかと思ったがキッチンからなんだかうまそうな匂いが漂ってくるんでそっちに行った。

 母ちゃんがいた。

「あら正志。おはよう。ふふふ」

「おはよう母さん。いっこ食べていい?」

「今揚げたとこだからまだ熱いよ。フーフーしなさい」

「はあい」

 俺は唐揚げをつまんでハフハフと頬張る。うっま。あっつ。うんま。もいっこ。あっつ。

「味ついてる?」

 母ちゃんが口いっぱいに唐揚げを貯えた俺をみて嬉しそうに尋ねるので言葉の代わりに親指を立てる。

「あらあら。ふふふ」

 キッチンから出ると玄関からもんたんが走って飛びついてきた。こいつめ、やっと俺に気づいたのかこいつめ。遅いぞこいつめ。かわいいなあもんたん。ふふふ。

 あんまり可愛いのでまだ洗顔も便所も着替えもしてないのについつい言ってしまった。

「お散歩行こうか?」

 言ってしまった言ってしまった。狂喜乱舞とはまさにこのことか、わっふわっふともんたんが部屋を駆け回る。そのもふもふの毛を大いに揺らして駆け回る。このバカ丸出しの犬畜生めが散歩の一言で気狂いしおって。なんてかわいいやつだ。

 リードを首輪に取り付け、玄関でサンダルをつっかけていると親父が来た。

「お前、その格好で行くんか」

「別に大丈夫っしょ」

 そう言って俺は纏ったTシャツと短パンを見下ろす。まあ寝汗で少し濡れているが大丈夫大丈夫。これくらい俺は気にしないから大丈夫。

「まあ……そんなら気をつけて行けよ。車に気をつけてな。ちゃんと信号守るんやぞ。うんち袋持ったか?ほれ、水筒」

「ほいほいありがとう。んじゃあ行ってきまーす」

 いってらっしゃぁあい。という母ちゃんの明るい声がキッチンの方から響いた。


 外暑い。めちゃ暑い。長い冬も枯れ終わり、春の兆しが見え始めた三月の終わり。なのに暑い。もう夕方のはずなのに暑い。なんだこの気温は。どうなってるんだ地球は。環境破壊は。絶滅危惧種は。途上国の行く末は。子供たちの明日は。景気対策は。政治と金の問題は。今期のアニメのラインナップは。どうなってるんだ全く。

 俺がこんなにも世を憂いているにも関わらずもんたんは相変わらずベロをベロベロ出した犬ヅラで俺の斜め前を歩いている。あぁ犬はいいなあ。苦悩がなくて。きっと今目の前の道とごはんのことくらいしか頭にないんだろうなあ。いいなあ。かわいいなあ。

 よく晴れた春の柔らかな空気と平穏をどっかのクソガキの汚い叫び声がつんざく。

 俺は思わずビクッとなる。同時にもんたんもビクッと身を縮こませる。

 ガキは嫌いだ。無遠慮に叫んで暴れて世間を闊歩するその傍若無人無礼千万な態度は酔っ払いとなんら変わりない。なのに子供だからというだけで全てが許されるあいつらが嫌いだ。何も生み出さなくてもいい。無限に近いほどの未来がある。そんなところが嫌いだ。蚊よりも嫌いだ。そしてもんたんも同じように子供を苦手にしている。にも関わらずあいつらはもんたんを見つけたら犬だ犬だとベタベタと触ろうとする。それを注意するとこちらがまるで不審なトド扱いだ。なんだそれ。くそっ。ああダメだ。イラつくと過呼吸になりそうだ。

 クゥン……と、尻尾を垂れ下げて不安そうに俺の顔を見上げるもんたん。ごめんな。散歩中だったな。さあガキはどっか遠くに行ったみたいだし先へと進もうか、もんたん。

 俺たちの散歩速度は遅い。多分その辺のジジイとタイムアタックしても負けるんじゃないかってくらいには遅い。一つはこの俺の体力というか体型というか体重というか、まあそういうあれだ。これ以上早くは歩けないんだ。

 そしてもう一つはもんたんの年齢。もんたんは少なくとも十五歳だ。俺が拾った日からもう十五年は経ってるからな。もう昔のように延々と好き放題に走り回ることはできない。決まった時間に決まった道をただ歩くだけ。それなのになんだか毎日が誕生日のように幸せを噛み締めてお散歩を楽しんでいる。そんな姿に俺は救われる。今日できることはまあ明日でいいかという気分になる。明日できることなら来週でもいいはずだ。そんな風に思える。

 母校の中学の校門横から伸びる遊歩道へと入る。満開の桜が立ち並ぶ美しい道。もんたんはこの道が好きだ。俺も好きだ。ベンチがあるから。

 実家から二百メートルほど歩いてきて、みぞおちの辺りに汗が浮かび、フーフーと呼吸が乱れた始めたところでちょうどベンチがある。これが俺ともんたんのお散歩コースの折り返し地点の目印だ。

 どっこいしょとベンチに腰をおろしてリードを手すりに括り付ける。出掛けに父から渡された水をゴキュゴキュと煽ってようやくひとごこち。いや大した運動だ。毎日これほどのハードワークをこなしているのになぜ体重が三桁を切らないのか不思議でならない。

 水を手のひらに貯めてやるともんたんもそれをぺろぺろ。よしよし。お互い頑張ったな。少し休憩していこうな。

 ふーっと見上げた夕空のオレンジを桜のピンクが彩っている。綺麗なもんだ。風が吹き抜け花が舞う。俺が涼む。気持ちいい。もんたんは俺の足元で伏せてヘッヘッとやってる。

 なあ、もんたん。お互い歳をとったな。最初に二人でここにきた時なんてお前はまだ小さくて、何が楽しいのかあっちの草むらからこっちの草むらまで嗅ぎ回っては鳥にキレ散らかして猫を追い回して、俺も負けじと一緒になって駆け回って……痩せてたなあ俺。

 去勢してからもんたんはあまり吠えなくなった。加齢も相まって最近はすっかり仏のように穏やかに毎日を過ごしている。去勢をするというのはどんな気分なのか。子孫を残せない、つまりここまで繋いできた生物の営みから外れてしまった人生、もといキバを抜かれた犬生ってやつはどんな気分なんだろうか。聞いてみたいがあいにく犬語が俺にはわからんので聞けない。

 また風が吹いて桜が舞う。花びらがベンチに佇む俺たちの前に柔らかく降り注ぐ。俺はまだ立ち上がれないでいる。疲れた。実家から出てたったこれだけの距離。俺なんかもっと、私の若い頃なんて、そんな風に世間は笑うような、そんな道のり。でも疲れたんだ。もう少し、今はもう少しだけ休んでいたい。

 目を閉じる。息をたくさん吸って吐くと力が抜ける。

 俺はなぜ生きているのか不安になることがある。愛する妻のため子供のために生きるなんて未来は永遠に見えないような気がする。仕事のために生きる。好きなことのために生きる。どれも今の俺には想像もつかない。この浮世を必死こいて生きるに足る理由が俺には見当たらない。その事実が日常の刹那に猛烈な勢いで俺の心に吹き荒れる。

 座して立ちくらむ。頭がふわふわと浮かび俺の体まで浮きそうだ。俺は眠っているのだろうか。このままずっとずっと眠っているのだろうか。

 ワンッ!でハッと目が覚めた。目の前にはさっきまでと同じオレンジ色の空。ほんの数秒、意識が遠くへ旅立っていたみたいだ。俺を連れ戻してくれた声の主の方を見る。充電完了とばかりに立ち上がったもんたんが俺を見て再びワンッと促す。その額に桜の花びらがひとひら乗っかっているのが可笑しくて可愛くて頭を撫でた。汗に湿った体が夕風に吹かれ冷たい。うん。そうだなもんたん。帰ろうか。俺たちの家へ。

 もんたんはいつもの場所に小便を引っ掛けて、いつもの草むらを覗いて、尻尾を振って目の前の道を歩く。六時の町内放送が流れてまた今日が終わろうとしている。それでももんたんは家が見えると嬉しそうに尻尾の振りを強くして俺をぐいぐいと引っ張る。今そこにある幸せだけを全力で噛み締めて尻尾を振る。

 俺はどうするべきだろうか。そう考えない日はない。いや、たまにあるがまあ大体は考えている。五年前、仕事を辞めてこの家に帰ってきたあの日から、俺は『社会人』から『ニート』へ『無職』へ『引きこもり』へと変身を遂げていった。社会の営みのレールからは大きく外れてしまった。焦りはある。絶望もある。外へと一歩踏み出そうとする思いと全てを終わらせる仄暗い誘惑の両面が俺の心に交互に顔を出す。そんなことを考えるとぐるぐると意識が渦になって混濁していく。俺はどうしたらいいのか。どうあるべきなのか。俺は今何者で、何者に変わりたいのか。

 そんな風に歩いていたら気付けば実家の玄関のノブを握っていた。俺は深呼吸してゆっくりとそのノブを回し引く。五年前と同じように。

 

「ただいま」

 

 次の瞬間、二発のクラッカーの破裂音が玄関に響いた。

「ハッピーバースデー!!正志!!もんたん!!!」

 母ちゃんが大きな声でそう叫んだのを合図に、親父がアコースティックギターをかき鳴らして歌い始める。

「ハッピバースデー正志〜♪ハッピバースデーもんきち〜♪」

 俺は思わず吹き出してしまった。あぁそうだった。今日は俺の、そして出生不明だったから俺と同じ日ってことにしたもんたんの誕生日だった。

「ほらほら早く手洗ってらっしゃい!今日はパーティだから!ふふふ」

 母ちゃんが嬉しそうにそう言ってもんたんの足を拭く。親父はまだ陽気にギターを鳴らしてハッピーバースデーを歌をエンドレスリピートで歌っている。親父、ギターヘッタクソだな。

 洗面所で手を洗った俺がリビングへと入ると、そこはいつの間にかパーティ会場のような赤と青と金の飾りが施されていた。全て母ちゃんの手作りだろう。毎年のことだけど本当に手が込んでいる。親父は相変わらずギターを鳴らして歌っている。愉快そのものと言ったこの様子を見たもんたんが、嬉しそうに部屋中を尻尾をふりふり駆け巡り、舌をこれでもかと出して俺たち家族の間を回る。

「ほら座って座って。今日は正志の大好物ばっかりだからねー。あっ、もちろんもんたんの分もあるからね」

 母ちゃんが満面の笑みでキッチンから大量の唐揚げが乗った皿を運んでくる。あっという間に、ダイニングテーブルが料理と香ばしい匂いに埋め尽くされる。いつの間にかギターを下ろした親父がビールを片手に俺の隣へ座る。

「いやーついに正志も三十歳か」

「俺もまさか俺が三十歳になるなんて思わなかったよ」

「ってことはもん吉は……十五歳か?」

「もんたんね、もんたん」

 ガハハハ。と笑って親父は言った。

「いいじゃねえか名前なんてなんでも」

 料理を運び終えた母ちゃんが、最後に特大ケーキを俺の前に置いた。

「じゃあ改めて正志。お誕生日おめでとう」

「ありがとう」

 俺がそう言ったと同時にもんたんがワンッと吠えたので今度は三人で吹き出した。もんたんは部屋の隅のエサ皿の前で行儀良くお座りをしている。

 母ちゃんが犬用ケーキを目の前に置き『待て』と言った瞬間にガツガツと食べはじめた。その様子を見てまた三人で笑う。あっという間に食べ終わったもんたんはおかわりを催促するように顔にクリームをつけたまま尻尾をふりふり。

 俺は目の前に置かれた唐揚げを一つ食べる。うん。美味い。本当に美味い。涙が出そうなほどに。

 ふふふ、と母ちゃんが嬉しそうに笑う。親父がまた歌う。そして俺は唐揚げをもうひとつまみ。

 もんたんはいつまでも尻尾をふりふりとしている。

 明日か、来週か、来月か、来年か、いつかまたもんたんの声で目が覚めて、外が春になっていればいいかもしれない。その日まで、まだもう少しだけトドは眠っていよう。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ