短編 待ち受け画面の人。 雨の日に届いた携帯。
今日も霧のような雨が静かに降っている。青空を前に見たのは、確か一週間前くらいだった。
キッチンの窓から見える裏庭の紫陽花は、どんよりした梅雨空を喜んでいるかのように、色とりどりの花を咲かせていた。
「疲れたでしょう。少し座って休んでて」
キッチンに入ってきた義母は、私をいたわるように優しく声をかけてくれた。でも、義母もまだ心が癒えてないと思う。
「ありがとうございます。でも、身体を動かしていた方が気持ちが楽なんですよ」
「・・・・・そうね。じゃあ、残りの食器は私が洗うから、拭いて棚に戻してくれるかしら?」
「はい・・・・・・。じゃあ、張り切ってやっちゃいますね」
私は声のトーンを少し上げて、洗われて積みあがった湯飲みや小鉢を、乾いた布巾で拭いた。
「ねぇ、依子さん。こんな時に、こんな話をするものなんだけれど・・・・・・」
義母は少しためらいがちに話しかけてきた。気を使ってもらえているのがひしひしと伝わってくる。
「遠慮なさらなくていいですよ。何でも言ってください」
まだ、心中穏やかではないけれど、義母を心配させてはいけないと、無理に笑顔を作った。
「そう・・・・・。じゃあ・・・・・・依子さん。あなた今幾つだった?」
「今年で28です」
「そう、28なのね。だったら人生これからじゃない・・・・・・。私たちの事は気にしなくていいから、依子さんは依子さんの人生を歩んでいった方がいいと思うのよ。もちろん勇実の事を愛してくれているのは分かるけれど、もう、そろそろいいんじゃない?」
義母の言葉に息が詰まる。それは、私も頭の中では十分理解しているつもり。でも、心がそれを赦してはくれなくて、気持ちはずっと揺らいだままでいる。
「はい。義母さんの気持ちはすごくうれしいけれど・・・・・・、どこかで、まだ、割り切れないところがあって・・・・・・。うまく言えないんですけど」
「そうね。女ってそう言う所あるものね・・・・・・」
「もう少しだけ・・・・・・、気持ちの整理が済むまで考えさせてもらえませんか?」
「・・・・・・そうだわね。依子さんの問題だものね。ゆっくり考えればいいと思うわ・・・・・・」
「・・・・・・ありがとうございます」
私は、義母にお礼を言うと、「さぁ、一気に片付けちゃいましょうよ」と言って、気持ちを切り替えた。義母も「そうね。まずはこの洗い物を何とかしなくちゃね」といって、微笑んだ。
彼は、常願寺というお寺が実家で、お兄さんが後を継いでいた。幼い頃は、義父の後について兄と二人で訳も分からずに大きな声でお経をあげていたと言っていた。
高校に進学したころ、お兄さんが「お寺を継ぐ」と宣言してくれた時は、「ホッとした」と言っていて、お寺にはあまり関心がなかったみたいだけれど、仏教の事については、普通の人より詳しくて、時々その話をしてくれた。
その中でも、とても印象的だったのが、「なぜ人は生まれてきたのか」というお話で、彼は、
「この世に生まれてきた意味ってあると思う? あるとしたらその意味って何だと思う?」
と、私に聞いてきたことがあった。
私は、両親や友達に恵まれて、ぬくぬくと育ってきた方だったから、哲学的な問いにはとても困った。でも、意味があるのだとしたら今の私には一つしかなかった。
「勇実くんに出会うためだよ」
そう言うと、彼はすごく嬉しそうに照れ笑いをした。そして、
「そういう答え方もあるんだなぁ。これはやられたな。よりちゃんには敵わないなぁ」
頭を掻きながら、「参りました」と頭を下げた。私は、「どうだっ。こう見えても私だって、お寺さんの次男の妻なのよ」と、得意げに言った。
でも、せっかく何かを教えたくて私に話しかけてくれたのだから続きも知りたい。
「勇実くん・・・・・・。話しの続きってどんななの?」
そう言って、少し甘えると、彼は「いやぁ。この問いの答えがよりちゃんの答えには勝らないからなぁ。話したところで釈迦に説法だと思うよ」
「いやっ! 聞きたいの! 話の、つ・づ・きっ!」
すると彼は、「しょうがないなぁ・・・・・・。けど、よりちゃんにとってはつまらないかもしれないよ」
と前置きしてから、ゆっくりと話し出した。
「僕たちは色々と考えすぎる所がある。それは仕方のない事だとも思う。どんなにえらい人だって悩み続けてきた。だから、仏教と言う教えも生まれた。でもね。誰にでも分かりやすく、生まれてきた意味の問いに答えるとするなら、人は死ぬために生まれたという答えだけは、誰に対しても同じだと思うんだ」
確かに人も生き物なんだから生まれくれば、いつかは死ななければならない。けど・・・・・・。
「勇実くん」
「なに」
「その答えは淋しいと思う」
そう言う私に、「そういう考え方はなかったなぁ。確かに淋しいかも」と腕を組んで頷いた。
そんな彼が戻ってきて49日がたった。今でも悪い冗談じゃないかと思えるほど現実味がなかった。でも、私は彼の実家のお寺で、彼のための49日法要を行っていた。
日本を発つ時、「必ず帰ってくるよ」という約束は守ってくれたけれど、棺の中で永遠の眠りについて帰ってきた。
その時、私は彼が亡くなっただなんて信じたくなかったから駄々っ子のように何度も「嘘つき!」と言って冷たくなった彼を責めた。
周りにいた人は、気が動転している私に「依子さん、落ち着いて」と、何度も声をかけてくれていたけれど、耳には入ってこず、ただ、ただ、彼の名を呼んで、泣き崩れた。
それほどに、不安定だった私にとっても、49日という期間は心を癒す大切な時間だった。そして私の魂も死者と同様に、この世を彷徨っているようだった。
でも、私は生きている。だから頑張って彼を弔う事で、少しづつ現実を受け入れられるようになり、私の魂もようやく私に返ってきたような気がしていた。
「依子さん。あなたにお客さんが見えてるよ」
食器を拭く手を止めて、袈裟を着た義兄の方を向きやる。
「誰でしょう? なんという方ですか?」
「勇実の上官だった人で、依子さんに渡したいものがあるとおっしゃってる。玄関で待っているそうだから、ちょっといってあげて」
「彼の上官」と聞いた時、ようやく落ち着きを取り戻してきた心に波風が立った。
身体が軽く硬直し、顔もひきつっているのが自分でもわかった。
「・・・・・・わかりました。義母さん。少し離れますね」
「ここは気にしないで。ゆっくり話を聞いてらっしゃい」
私は普通の家庭よりは幾分広い、お寺特融ともいえるキッチンを離れ、玄関につながる廊下を小走りに進んだ。
玄関では、彼の上官であったという人が待っていた。葬儀の時は制服を着た関係者の方々が、沢山来てくれていたみたいだったけれど、私は何も覚えていない。
黒いズボンと水色のワイシャツという私服姿の国立さんは、目が合うと、「初めまして。突然の訪問、お許しください」と言って一度深々と頭を下げた後、「私は国立というものです。私は齋藤君が日本を離れるまでの上官でした。葬儀の時は遠方にいて出席する事が出来なくてすいませんでした」と、自己紹介をした。
「勇実の妻です。依子と言います」
私も頭を下げて、国立さんの挨拶に応えた。
「・・・今日ここに来たのは・・・、斎藤君から、あなたに渡してほしいと頼まれたものがあります」と言って、黒いショルダーバックから、何かを取り出して、「我々の職業柄、中身を確認してからでないと渡せなかったものですから、遅れてしまい申し訳ありませんでした」と言って深刻な面持ちで私の前に差し出した。
透明のビニール袋に入っているのは、見覚えのある携帯。
震える手を伸ばし、そっと受け取る。
「・・・・・・わざわざありがとうございました」
そう言うだけで精いっぱいだった。その後、国立さんと言う人は、彼について少しだけ話してくれたけれど、気持ちがいっぱいで何も耳に入ってこなかった。
それを察してくれたのか、国立さんも、「では、手短ではありますが、これにて失礼いたします。」と言って、深々と頭を下げ、静かに去られた。
私の手に渡った携帯は傷だらけだった。それでも、まだ使える状態のようだった。
ビニール袋から取り出して電源を入れると、バッテリーもまだ少し残っている。
暗証番号は、私と彼の誕生日・・・・・・。
起動させると、待ち受け画面には、私の誕生日に、ウエイターさんに撮ってもらった私と彼のツーショット写真が浮かび上がった。
思わず涙がこぼれそうになる。
データホルダーの記録を見ると一つだけ動画が残されていた。思い切って再生してみるとそこには出発前の彼が映し出された。そして、携帯を誰かに渡すと、「え~。何から話せばいいのかわからないけど……」と言った後、一つ咳払いをして、
「今から、今まで行ったことのない地球の裏側にある国にゆき、これまでに出会ったことのない人たちと協力して知らない人達と戦闘しなければなりません。なぜこんなことになったかずいぶん考えました。でも答えは見つかりません。地球の裏側の人の命を奪えば憎しみが生まれるでしょう。その憎しみがこの国で暮らすあなたに火の粉となって降りかかるかもしれません。逆に僕たちの命が奪われるかもしれません。しかし、これは命令なので僕たちはこの事態を受け入れるしかありません。だから僕が君にできることは、死なないように、相手の命もなるべく奪わないように行動して、無事に帰ってくることだと思っています」と言って微笑んだ所で動画が静止した。
私の事を一番理解してくれていた本当に優しい人だった。これから先、彼以上の人とは巡り合うことはないだろう。
でも、なぜ、私にとって一番大切な人が、国家と言う得体のしれないものの為に、命を奪われなければならなかったのだろう。
余りにも理不尽だ・・・・・・。
そう思った時、私はようやく理解した。彼はもういないのだと。
すると両手の中で、幸せそうに微笑んでいる私達に、ポツリポツリと涙が零れ落ちた。
6月の雨のようにとめどなく静かに。