前編 「軍人カップルの桜見物」
修文十五年、弥生の候。
市井の人々の身も心も凍て付かせる北風の猛威も今は昔、私達の住む南近畿地方にも漸く春が訪れていた。
おっとりとした穏やかな春の陽気に包まれていると、優しさと人恋しさとが自然と心に満ちてくる。
それは安全な銃後で生きる地方人達に限った事ではなくて、私達のような軍人にとっても同じだったみたい。
−この穏やかな春の一時を、愛しい人と一緒に過ごしたい。
そんな衝動に駆られた私こと園里香は、数ヶ月後に式を挙げる予定の婚約者と日程を調節して、ささやかな桜見物に繰り出す約束を取り付けたんだ。
降り注ぐ春陽は穏やかで柔らかく、サイドテールに結った私の青髪を揺らす微風にも春の陽気が感じられて、何とも心地良い。
天気のぐずつき易い今時分に、このような好天に恵まれたのは僥倖だと思う。
「晴れて良う御座いましたね、善光さん!少しばかり雲が見られますが、それも春空の澄んだ青色を美しく引き立てていますよ!」
婚約者に呼びかける私の声は、普段よりも随分と弾んでいた。
間もなく結婚を控えた身だというのに、まるで十代後半の小娘みたいなはしゃぎよう。
幾ら春の陽気に誘われたとはいえ、愛しい人に「年甲斐も無い」と笑われても仕方無いだろう。
「仰る通りですね、里香さん。」
だけど私の傍らを歩く長身の青年は、私の年甲斐も無いはしゃぎ振りに眉を顰める事はしなかった。
「天気は良くて、殊更に暑くも寒くもなく…桜見物には最適ですね。お誘い頂けて光栄ですよ、里香さん。」
それどころか、私以上に楽しげな様子で南近畿地方に訪れた春を満喫しているようだった。
私の婚約者である北中振善光さんは大日本帝国海軍の主計大尉で、温厚だが生真面目な青年将校として周囲から評価されている。
そんな善光さんが、まるで青春映画に登場する大学生のような快活さを見せるのだから、この桜の花咲く春の季節には、人の心を朗らかに弾ませてしまう何かがあるのだろうなぁ。
そうして春の陽気に誘われた私達の足取りは、町を闊歩する地方人の方々と同様に、自ずと軽やかな物になっていた。
とは言え、婚約者の善光さんは海軍主計将校だし、私だって大日本帝国陸軍女子特務戦隊の上級大尉。
二人分の軽やかな足音には軍靴特有の厳しい響きが感じられたし、袖を通しているのも皇軍将校としての軍服だ。
婚約前の御見合いデートでお目にかかった善光さんの私服姿は、まるで地方人の大学生や若手サラリーマンのようだったけれど、年齢相応の若さと爽やかさが感じられて素敵だった。
だけど私としては、お見合いデートの時に着ていた私服よりも軍服姿の方がよっぽど善光さんのイメージに合っているし、その長所や持ち味も遺憾無く発揮出来ていると感じるんだ。
そしてそれは、大日本帝国陸軍女子特務戦隊の士官である私だって同じ事。
何しろ陸軍女子特務戦隊の軍服である大正五十年式女子軍衣には、士官学校を出た直後の十代の頃から袖を通しているのだから。
国防色の詰襟ジャケットと同色のスカートには勿論、足元を守る黒タイツや軍用ブーツに至るまで、様々な思い出がシッカリと染み付いている。
同期の友達との楽しかった思い出に、辛くて苦しい戦場での記憶、そして善光さんとの甘い日々…
それらの全てを、この軍服は見守ってくれた。
この大正五十年式女子軍衣は、今の私にとっては「第二の皮膚」と呼んでも過言では無い。
軍服を脱いで平凡な地方人に戻るなんて、もう考えもつかない事だった。
私にとって、自分と婚約者の軍服姿がどれだけ特別な意味合いを帯びているか、これで理解して頂けただろう。
−今回の桜見物は軍服姿で臨みたい。
そう思って、行き先には私なりに拘らせて頂いた。
丁寧に掃き清められた神社の境内というのは、何とも心地良くて荘厳な気分にさせられてしまう。
鳥居を潜って境内へ一歩足を踏み入れたら、そこはもう俗世とは別世界。
吹き抜ける風や吸い込む空気でさえ、俗世とはまるで別格の清らかさと心地良さが感じられるの。
そしてそれは、桜花だって同じ事。
公園の植樹や街路樹としての桜と、寺社仏閣の境内に植樹された桜。
同じ桜の花でも、前者には庶民的な親しみ易さがあって、後者には威厳と気品が感じられる。
あくまで好みの問題だけど、私としては神社に植樹された桜の気品ある美しさに惹かれてしまうな。
今こうして私達が参詣している堺県防人神社の桜は、正しくその最たる物だよ。
「ううむ、流石は堺県防人神社が誇る桜並木…聞きしに勝る見事な物ですね。」
「そう仰って頂けて喜ばしい限りですよ、善光さん。この防人神社の桜は、私を始めとする帝国陸軍女子特務戦隊全員の誇りですからね。」
婚約者の声に頷きながら、私は改めて境内の桜を一望したの。
境内に植樹されたソメイヨシノは五分咲きで、これから満開へ向けて花開いていくという具合だった。
綻びようとしている蕾を眺めていると、この堺県防人神社に祀られている英霊達の事が、自ずと脳裏に浮かんでくる。
蕾のままで散っていった、若い命達が…
「大日本帝国陸軍女子特務戦隊の…すると、此処には…」
屈託の無い笑みを浮かべていた婚約者の整った顔が、熱でも覚めるみたいに真顔になっていく。
「お察しの通りです、善光さん。私の戦友達も、英霊として此処に大勢祀られているんです。」
「はっ…!」
小さく息を呑んだ婚約者に、私は上手く微笑む事が出来たのだろうか。
出来ようと出来まいと、私は続けなくてはならない。
何故なら今回の参詣は、単なる物見遊山ではないのだから。