エルザベルティの掌(たなごころ)
フェルディニクスが物心ついた時、彼の側には3人の少年たちがいた。帝位継承権第2位を持つディクサムスタ公爵子息キールアレイス、アールガーネス公爵子息リュドヴィクス、ポートフォロー辺境伯子息エレアノール。彼らは幼いフェルディニクスの遊び相手で、世話係のようなものだった。いつまでも側にいてくれるものだと思っていた彼らのうち、最初にフェルディニクスから離れて行ったのはリュドヴィクスだった。彼は言った。「大人になったフェリクスの一番側にいるために、今はそばから離れるよ」フェルディニクスは泣いた。側にいるために会えなくなるなんて、意味が分からなかった。
リュドヴィクスの代わりのようにフェルディニクスの側に着いたのはカストラディル公爵子息アルトレイクだった。アルトレイクはまだ幼く、フェルディニクスに「皇太子殿下」と呼びかけはするが、それが意味する立場についてはよく分かっていなかった。アルトレイクは幼子らしい無邪気さでフェルディニクスに我儘を言い、甘えた。今まで年少者と接することのなかったフェルディニクスは突然できた弟分に夢中になった。今まで側にいた少年たちがしてくれたようにアルトレイクを可愛がった。
2年後にはこの中にザハラント辺境伯子息ルードアッシュが加わった。フェルディニクスと同年のルードアッシュは身分と言うものを理解しながらも、もともとの我の強さからか感情を制御することが苦手だった。彼はフェルディニクスと全力で遊び、全力で喧嘩をした。本音をぶつけ合える友人の存在はフェルディニクスの狭かった視野を広げた。
それから更に2年後、優しい伯母を失い、同時に愛らしい従妹を得た。母を亡くしたキールアレイスはしばらくフェルディニクスの元に訪れることはなかった。一年の喪が明けて、ようやく顔を見せたキールアレイスは想定外のことを口にした。「外交官としてレビア共和国に行ってきます」と。フェルディニクスは当然反対した。大きくなったのにみっともないとわかりながらも盛大に駄々をこねた。しかし、キールアレイスは言を取り下げることも、行くことになった理由を口にすることもなく旅立っていった。
時間が経つとフェルディニクスの耳にも雑多な情報が入ってくるようになった。そして、それらの意味を知るためにたくさんの知識を取り込んだ。
爵位を持つ者は国の要職に着くことはできないということを知った。フェルディニクスの友人たちは皆、第一位の爵位継承権を持っている。つまり遠からぬ未来、フェルディニクスは1人ここに取り残されてしまうのだということだ。
幼い頃に離れて行ったリュドヴィクスは官僚としての道を歩むため、現在は宮殿で下級文官として働いている。アールガーネス公爵位がリュドヴィクスの父にある現状、彼の爵位放棄は保留となっているが、継承の意志はないらしい。彼はフェルディニクスの側に残ろうとしてくれているのだろう。だが、その時彼と築く関係性は、今までのようなものではないのだろうことは何となく予感していた。
キールアレイスの外交官着任は父であるディクサムスタ公爵の命令でおこなわれた。嫡男へのその仕打ちに宮殿内ではある噂が囁かれている。ディクサムスタ公爵は産まれた娘を溺愛し、彼女に爵位を継承させようとキールアレイスを国外へ遠ざけたのだろうと。
フェルディニクスは宮殿を訪れたディクサムスタ公爵に直談判を仕掛けた。いつかは離れていくのだとしても、どうしても今、キールアレイスに側にいて欲しかった。ディクサムスタ公爵はフェルディニクスの話を興味深そうに目を細めて聞いてくれた。
「フェルディニクス殿下、漸く一歳を迎えたこの娘はアルトレイク殿の所へ嫁ぐことが内々で決まっております」
公爵は腕に抱いた娘の頭を撫でながら穏やかに話した。
「え、でもアルトレイクは・・・・・」
「はい、カストラディル家の嫡男ですから、我が家を継がせるわけには参りませんね」
そう言って、ディクサムスタ公爵は楽し気に笑った。
「殿下、宮殿に潜む闇はとても深く、真実とは光の中よりもその中に紛れていることの方が多いものです。光の中に漂う真実面した何かに惑わされてはいけませんよ」
幼いフェルディニクスにはディクサムスタ公爵の考えを理解することはできなかった。でも彼がわざと、誤った情報を広げているのだろうことは何となく気づいた。
フェルディニクスが13歳の時に婚約者候補達とのお茶会が開催された。4人の上級貴族令嬢達で、下は5歳から上は10歳までの子供たちだった。そう、食指がピクリとも動かない子供たちばかりだった。13歳にもなれば、女体への興味が高まり始める頃だというのに、右を見ても左を見てもツルンぺタン。フェルディニクスは笑顔を張り付け、その日のお茶会を乗り切った。
実際、フェルディニクスと年齢の近い上級貴族の娘は彼女たち以外にもいたのだ。保守派派閥筆頭であるデレクシスタ侯爵の娘はフェルディニクスの2歳上だし、3歳上にはポートフォロー辺境伯の娘もいる。しかし、彼女たちはフェルディニクスの婚約者候補とはならなかった。女性の結婚適齢期は17歳から20歳。対する男性の結婚適齢期は20歳から25歳。フェルディニクスが適齢期を迎えたころ、彼女たちは行き遅れと言われる年齢になっている。そのままフェルディニクスと結婚できるのなら問題はないが、その頃には年下の令嬢達も美しく成長していることだろう。フェルディニクスが他の花に目移りしないとはいいきれない。カストラディル公爵家にフェルディニクスの5歳下の令嬢が誕生したことも大きな原因だろう。彼女たちはフェルディニクスの婚約者候補に名乗りを上げる前に、別の貴族と婚約を結んだ。そうして残ったのがまだ幼い婚約者候補達だ。
フェルディニクスは初めてのお茶会を終えるとすぐにカストラディル公爵令嬢エルザベルティを婚約者として指名する旨、父親に話した。血筋としても素質としても彼女が最も妃としてふさわしいと感じたからだ。しかし、ベルトライム侯爵がそれに異議を申し立てた。まだ候補の令嬢たちは幼い。見極めにはもう少し時間をかけるべきだと。フェルディニクスは全員を招いてのお茶会を今回限りにすることを条件に、選定期間の延長に同意した。
決定を先延ばしにしたとはいえ、依然として候補の筆頭はエルザベルティだった。令嬢達には平等に接しようと心がけてはいても、一番会話の弾むエルザベルティを呼び寄せる機会が多くなってしまうのは仕方がない。そもそも、ベルトライム侯爵が押したいのであろうご息女は、時折話に登場する“ヴィンセント”少年に淡い思いを抱いているようだ。おっとりとした性格の彼女には一貴族として穏やかな結婚をするほうが向いている。それをベルトライム侯爵が納得するまでに2年の時間を要した。
婚約者となったエルザベルティとは、今までの茶会の他に手紙での交流を行うようになった。そこで改めて、エルザベルティの頭の良さを思い知った。5歳も年下の少女だというのに、その知識量と深い認識力には舌を巻く。ここに至るまでにどれだけの努力をしてきたことだろうか。(エルザベルティは私の妻になるために育てられたんだ)依然として彼女に恋心を抱くことはできないまでも、そう思えば胸に来るものがあった。
13歳になったエルザベルティは身長をグンと伸ばした。多少肉付きの良かった体形はひきしまり、顔も体も全体的に細くなっていた。まだまだ堅いつぼみではあるが、今しか見ることができない、独特の美しさのようなものがあって、フェルディニクスは目を細めた。
エルザベルティとのお茶会を終えると、フェルディニクスは執務室へ向かった。成人後に与えられた執務室で行われるのは政務の真似事だ。上級貴族子息を招いて情報交換をしたり、父から指示された仕事をこなしたりする。部屋に入ると、中にはすでに二人の青年が待っていた。アルトレイクとラドクスシド侯爵家のヴィンセントだ。フェルディニクスに気付くと二人は立ち上がって軽くお辞儀をした。二人に座るように合図すると、フェルディニクスも空いている席に適当に腰を掛けた。
「何の話をしていたの?」
「いつものようにヴィンセントの婚約者自慢を聞いていました」
「自慢なんかじゃありませんよ。ちょっとした雑談です」
彼らの返答にフェルディニクスは軽く笑った。
「なんだか想像がつくよ。ヴィンセントは婚約者が可愛くて仕方がないんだな」
「可愛いですよ。妹のようなものですから」
いつかメレルエディスが話していた“ヴィンセント”少年は無事に彼女を婚約者とした。彼に婚約者の話を振れば溢れるように彼女の話題が出てくる。それを溺愛と呼ばずして何と言おう。フェルディニクスにとって妹のような存在といえばサーラレミリアだ。サーラレミリアのことをかわいく思っているが、彼と同じ熱量で彼女の話をする自信はない。ヴィンセントの中にある無自覚の恋心がおかしくて、友人たちはことあるごとに彼に婚約者の話をふる。
アルトレイクに目をやれば、滅多に見せることのない柔らかい笑みを浮かべていた。その笑みに込められているのは羨望だろうか。貴族の結婚の大多数は政略によるものだ。しかし、政略とはいえ配偶者と良好な関係を築きたいと思うのは何も女性ばかりではない。4歳年下の幼い婚約者に想いの芽を育てているヴィンセントは幼い婚約者を持て余している身からすればまぶしい。
14歳になったエルザベルティはあれから更に身長が伸び、その身体にわずかに女性らしい丸みを帯びてきた。元より整っていた顔立ちは子供と呼ぶには憚られるくらいに大人びていた。綻んだつぼみは今にもその甘い香りを漂わせそうだ。
その日、フェルディニクスはエルザベルティと共に特別な客を迎えた。一人は気心の知れた幼馴染であるザハラント辺境伯子息のルードアッシュ。そしてもう一人は彼の妻となったトゥンフィルド公国の大公女であるセネティローダ。
大国であるパランドブリック王国が最も恐れているのは侵略ではなく内乱だった。皇家へ迎え入れる女性達はその資質に関わらず、必ず争いの芽を持っている。他国の王女は自分の母国に益をもたらそうと動くし、自国の貴族令嬢はその肩に家の権勢を背負っている。皇后と皇太子妃が共に他国の王女であった場合は、たちまちに宮殿内で代理戦争が勃発するし、共に自国の貴族令嬢であった場合は、平時は水面下で行われている派閥争いが一気に激化する。それ故に迎え入れる妻は他国からと自国からを一世代おきにすることに決めている。
フェルディニクスの母である皇后がフォンティーヌ王国の王女であったため、フェルディニクスの婚約者は自国の貴族令嬢となることは決まっていた。だが、仮に母が自国の出身だった場合、他国とのバランスを見てもセネティローダが皇太子妃の筆頭となっていたことだろう。
フェルディニクスと同年のセネティローダは、大公女として相応しいどっしりとした落ち着きを持った女性だった。おおらかさを感じさせる話し方は自然と耳を傾けてしまう魅力を感じるし、優し気に弧を描く目は知的な光を宿している。小国とはいえ一国の頂点に立つ女性だ。フェルディニクスはさすがだと心の中でうなった。彼女なら皇太子妃を務められるだけの器もあっただろうが、我の強く気性の激しいルードアッシュの妻を務めるに、またとない人選に思えた。
15歳になったエルザベルティは大人の女性としての魅力を開花させていた。紳士としてあるまじきことに、フェルディニクスの視線は彼女の胸部に釘付けとなってしまった。慌てて誤魔化してみたものの、エルザベルティには丸わかりだったようだ。それもそうだ。あれだけの視線を浴びた本人が気づかないはずもない。「しょうがない」と言いたげな笑みに、年長者としての余裕をはぎ取られたような心地がした。
エルザベルティとのお茶会の後に控えていたエレアノールとの会合はフェルディニクスの予想通り、不本意なものとなった。「2、3年で戻ってきます」と言ったエレアノールだが、その言葉がフェルディニクスを傷つけないようにかけた言葉だということも分かっていた。嫡男であるエレアノールは、いずれフェルディニクスの元を去る。ルードアッシュが結婚を境に領地での比重を増したようにエレアノールも結婚をすればフェルディニクスの側にばかりいられない。
フェルディニクスはこれから新たな側近を作っていかなければならない。共に国政を支える信頼できる文官を拾い上げていくのだ。そんな文官たちの家格はおそらく高いものではない。彼らと信頼関係を結ぶことはできるだろう。しかし、彼らと友情を結ぶことはきっととても難しい。
フェルディニクスは去っていくだろう友人たちに想いを馳せて、最後に残った光を見つけた。エルザベルティは最後まで側にいる。そう思うとフェルディニクスの心は少し慰められた。
16歳になったエルザベルティはようやく社交デビューを迎えた。控えの間に姿を見せたエルザベルティは眩いばかりに美しかった。己が贈ったドレスを身に着けてもらえることが、こんなにも心を満たすのだと言うことをはじめて知った。
「皇太子殿下、素敵なドレスを送っていただきありがとうございます。今まで、沢山のドレスを誂えて参りましたが、こんなに美しいドレスは初めてです」
「喜んでもらえてよかった。よく似合っている。美しい姿を私によく見せておくれ」
エルザベルティから向けられた笑顔にフェルディニクスの表情も弛む。フェルディニクスの誉め言葉を聞いたエルザベルティは何を思ったのか、その場でクルリと回って見せた。今までにない少し幼さを感じさせる愛らしい仕草に、フェルディニクスは目を丸くして、その後にこらえきれずに笑った。
「今日のエルザベルティは元気がいっぱいのようだ。逃げられないようにしっかり捕まえておかないと。エルザベルティ、私のエスコートを受け入れてくださいますか?」
フェルディニクスは歌劇俳優のように跪いてエルザベルティに手を差し出した。
「ええ、よろしくてよ」
エルザベルティはフェルディニクスのおふざけに合わせるように、女王然と手を重ねた。エルザベルティとの距離がグッと近づいたようで、フェルディニクスの心は我知らず踊った。
フェルディニクスは浮かれていた。心が近づいたのなら、身体的な部分でももっと近づきたいと願うのは、男として当たり前の感情だろう。エルザベルティが怯えないように時間をかけてゆっくりと彼女を慣らしていった。エルザベルティは恥ずかしがりながらも、フェルディニクスとの触れ合いを受け入れてくれた。しかし、近づいたと思った心の距離はいつの間にか広がり、気づけばエルザベルティの本当の笑顔が向けられることはとんと無くなった。
フェルディニクスにはエルザベルティの笑顔を取り戻す方法が分からなかった。贈り物をしようとも、エルザベルティの頑張りを誉めようとも、その顔に浮かぶのは作られた笑みに他ならなかった。フェルディニクスは寂しさを埋めるようにエルザベルティに唇を寄せた。
そんな日々をどれだけ過ごしただろうか。エルザベルティは自身のそば近くに護衛騎士をおいた。ただの護衛騎士であれば部屋から追い出すことも可能だが、エルザベルティが連れてきたのは辺境伯令嬢のパルディルーザだった。共に訪れれば席を勧めない訳にはいかなかった。エルザベルティはフェルディニクスに明確な拒絶を示したのだ。
ほんの半年の間にフェルディニクスの感情は乱れに乱れた。最初に訪れた感情は自己嫌悪だった。エルザベルティの心に寄り添えずに自己中心的な行動をしていたのではないだろうかと。次に訪れたのは悲しみだった。パルディルーザを交えての交流の最中、どうにか距離を縮めようと努力したつもりだった。しかし、エルザベルティは高い壁を打ち立てて、その心のうちにフェルディニクスを迎え入れることをしなかった。最後に訪れた感情はビルゲルーダ王国から帰還したエレアノールの報告によってもたらされた。エルザベルティが隣国の公爵子息と文通をしているという話を聞いた時、フェルディニクスは頭を殴れたような衝撃を受け、猛烈な怒りが腹の底から溢れ出てきた。
エルザベルティと共にやって来たパルディルーザはエレアノールに連れ帰らせた。斜め向かいの席に腰掛けたエルザベルティは、落ち着き払った様子で紅茶に口をつけていた。フェルディニクスはグラグラと煮えるような怒りを隠してエルザベルティに問いかけた。
「さてと、随分と逃げ回ってくれたよね?」
「さぁ、なんのことかしら?」
「分かっているくせに逃げるその態度は気に食わない。ねぇ、私に触れられるのはそんなに嫌だった?」
「・・・・・」
「違うよね?君が心から拒絶するのなら触れたりしない。それとも恥ずかしがりつつも受け入れてくれているように感じていたのは勘違いだったか?」
フェルディニクスは問いかけた自分の言葉に笑えてきた。エルザベルティはカケラも受け入れてはいなかったのだ。全てはフェルディニクスの勘違い。
「知らんぷりの次はだんまり?卑怯だね」
エルザベルティの立場では肯定することなどできないと分かっているくせに彼女を攻め立てた。本当に卑怯なのはフェルディニクスの方だ。フェルディニクスはどす黒い感情を制御できないまま、エルザベルティを乱暴に引き寄せた。胸元に強く抱き寄せられて、その身体に手を這わせた。そして、クチャっとわざと音を立てるようにして彼女の耳を舐めた。
「やめて!!」
今までにない濃厚な触れ合いに呆然としていたエルザベルティだったが、耳にもたらされた刺激に悲鳴を上げてフェルディニクスの身体を突き放した。フェルディニクスはエルザベルティの頬を涙が一筋流れるのを苦い気持ちで眺めた。
「私には君が何を考えているのかわからない」
エルザベルティが何を考えているのか、わかりたくなかった。うつむいたフェルディニクスの耳にエルザベルティが部屋を出ていく音が聞こえた。
フェルディニクスは皇太子だ。生まれた時から皇太子であったフェルディニクスにとって、その立場は切り離しようのない自分の一部だった。エルザベルティが皇太子妃となるべく努力をする姿をフェルディニクスは自分のために頑張ってくれているのだと感じていたし、将来妃となるエルザベルティは当然自分に好意を寄せてくれているのだと思っていた。
自分が特段、女たらしだという自覚はない。しかし、無自覚に自分が選ぶ立場にあると考えていたことに気付いた。自分に釣り合う立場の女性を前にすると、自然と妃としての資質の有無を確認してしまう。自分のことだけでなく、女性に対しても唯の一個人としてみることをしてこなかったように思う。
しかし、エルザベルティにとっては違ったのかもしれない。
フェルディニクスが当たり前だと思っていた世界に亀裂が入った。個人と立場を乖離させること。皇太子ではないただのフェルディニクス。皇太子の婚約者ではないただのエルザベルティ。
エルザベルティを婚約者に選んだのは“皇太子”だった。家柄、資質共に妃として申し分がなかったからだ。しかしその時、“エルザベルティ”にはすでに心を寄せる男がいた。
“皇太子の婚約者”としてエルザベルティは己を磨き続け、そんな“エルザベルティ”に“フェルディニクス”は好意を持った。
エルザベルティの成長と共に磨かれていく美貌に育ち始めた不埒な欲望は、フェルディニクスの男としての本能であって、恋心と直結しているのかと言われると首を傾げてしまう。そして今、“エルザベルティ”が他の男と文通をしているという事実を前に“フェルディニクス”が抱いたこのどす黒い感情は一体何なのだろうか。
フェルディニクスは目をつむって彼女の姿を思い描いてみた。そこにひときわ輝く姿を見つけた。エルザベルティの社交デビューの夜会の日。彼女はフェルディニクスの贈ったドレスを着て幸せそうに微笑んでから、彼の前で軽くふざけてみせた。皇太子の婚約者でも、カストラディル公爵令嬢でも何でもない、素のままのエルザベルティがいた。
フェルディニクスは静かに自分の気持ちを受け入れた。あの日にフェルディニクスは自分の婚約者に恋をしたのだと。
フェルディニクスは友人たちが自分の側から離れていくことをずっと寂しいことだと思っていた。彼らはこの大国を支える大きな歯車の一つで、帝都から遠い領地でその力を注ぐべき存在だ。将来皇帝となるフェルディニクスにとって、信頼関係を結んだ彼らの存在は大きな力となる。遠く離れた地にあっても、フェルディニクスが彼らの友誼を疑うことはないだろうし、彼らにとってもそれは同じだろう。
エルザベルティはフェルディニクスの妻となる。この大国の中心で共に支え合う柱となる。彼女は模範的な皇后となるだろう。国のために公務を励み、国のためにフェルディニクスの子を産み、国のためにその子供を育むのだろう。そして彼女をそばに置くフェルディニクスの心には、これまでの比ではないほどの寂しさが降り積もるのだろう。
フェルディニクスは心に仮面をつけた。これ以上エルザベルティに心を乱されぬよう行儀の良い婚約者としてふるまった。エルザベルティから物問いたげな視線を感じたが、それは気づかぬふりをした。エルザベルティの感情を無暗に紐解きたくはなかった。
そんな日々を過ごす中、フェルディニクスは社交界に流れるある噂を拾った。「ダロンドウッド侯爵令嬢をエスコートした男は婚約者との関係が目に見えて良好になる」可笑しな話だと思った。しかし、実際彼らの様子を見てみればその噂の真実味は増す。フェルディニクスは友人たちを唆してダロンドウッド侯爵令嬢をエスコートさせた。もともと仲の良かった彼らからは目に痛いほどの親密さを見せつけられるようになった。
フェルディニクスはダロンドウッド侯爵令嬢を宮殿に呼び寄せ、エスコート役を引き受けたいと話した。ダロンドウッド侯爵令嬢はフェルディニクスの話を静かな目で聞いていた。
「あまり驚かないんだね」
「はい。ザハラント辺境伯子息、ラドクスシド侯爵子息、ポートフォロー辺境伯子息。皇太子殿下の側近方が殿下の命でエスコート役を務めてくださいました。最後の仕上げがあると考えるのは自然でございます」
「じゃあ、もちろん引き受けてもらえるのだよね」
「率直な意見を申し上げても?」
「構わない」
「わたくしのエスコート役をこなされても、殿下の望むような結果を出すことはできないと思います」
「なぜ?」
「無礼を承知で申し上げますが、わたくしの目から見て、殿下とエルザベルティ様の間で信頼関係が構築されているとは思えません。今お二人に必要なのは対話ではありませんか」
「なかなか言ってくれるね。」
フェルディニクスの言葉にダロンドウッド侯爵令嬢は少し顔を青ざめさせたが、力強い視線をそらしはしなかった。
「じゃあ、君をエスコートすることで私たちの関係がどうなると君はみている?」
「それは、なんとも。ただ、良い結果がもたらされるとは到底思えません」
「いいよ。別にいい。すでに崩壊寸前の関係だ。君はただ風を吹かせてくれればいい」
ダロンドウッド侯爵令嬢は悲しそうな目でこちらを見つめ、静かに頭を下げた。
「殿下の命、確かに賜りました」
約束の日、フェルディニクスはアルトレイクに命じてダロンドウッド侯爵令嬢を迎えに行かせた。アルトレイクはフェルディニクスに彼女を引き渡すと、早々に立ち去って行った。夜会の会場にエルザベルティを連れてくるのだろう。崩壊までのカウントダウンが始まった。
エルザベルティは美しくドレスアップして、フェルディニクスの前に立った。
「皇太子殿下、ご希望通りお迎えに参じました」
薄い笑みを張り付けるエルザベルティから怒りは感じても、彼女に対してそよ風程度の影響しか与えられていないように感じた。
「あぁ。ご苦労様。アルト、後はよろしく」
フェルディニクスはアルトレイクにダロンドウッド侯爵令嬢を託し、エルザベルティを会場の外へいざなった。
馬車に乗り込むと、エルザベルティは静かに問いかけてきた。
「仲の良い婚約者をかき乱して楽しかったですか?」
「・・・・・」
「わたくしの情報収集能力にはご満足いただけましたか?」
エルザベルティにとって今回の行動は婚約者としての義務に他ならなかった。そして、フェルディニクスの行状などより、友人たちが傷ついたことの方がエルザベルティにとって重要なことなのだと思い知らされ、フェルディニクスは薄く笑った。
「仮面をかぶっていない君をみるのは随分と久しぶりのような気がするよ」
「誤魔化さないでくださいませ!」
声を荒げるエルザベルティにフェルディニクスは冷めた目線を投げた。その視線を受けて、エルザベルティがわずかにたじろぐ。
「彼女の噂を知っている?」
「えぇ。婚約者のいる男性ばかり渡り歩くお行儀の悪い女性ですわ」
「それ以外の噂は?」
「・・・知りませんわ」
「彼女をエスコートした男は、婚約者との関係が目に見えて良好になる」
「なんですかそれ?」
エルザベルティが眉をひそめて吐き捨てるようにいった。まるでバカバカしいというように。本当にバカバカしい話だ。しかし、そのバカバカしさにすがりたくなるほどにフェルディニクスは追い詰められていたのだ。
「ばからしいと思った?でも実際あの三人はあの後、親密な空気を出すようになった」
フェルディニクスはエルザベルティの反応を待った。エルザベルティにフェルディニクスの思いが少しでも伝わればいいと願って。エルザベルティは少しの間戸惑ったように視線を彷徨わせたが、それもほんの一時で、すぐに不快気にフェルディニクスを睨み据えた。フェルディニクスの最後の願いは砕け散った。エルザベルティにこの関係を改善する気持ちはないのだ。
「君はいつも責めるような目で私を見る。どんなに心を込めて贈り物をしようとも、君の顔に愛想笑い以外の笑顔が浮かぶことはない。私は君に一体何をしたというんだ?」
フェルディニクスの気の抜けた言葉をエルザベルティは無言で受けた。
「私だって君に物申したいことはある。婚約者候補だった頃ならまだしも、君がビルゲルーダの公爵子息と今でも繋がっているのは何故?君は自分が何をしても私が傷つかないと思ってるのか?君は私に対してひどく不誠実だ」
「そんな。彼とは友人で…」
エルザベルティが慌てたように言い訳を口にしようとしたが、フェルディニクスはそれを聞くことを拒否した。
「いい、聞きたくない。聞いたって無駄なんだ。要は私が君を信じれるか否かなんだから。.....もう、疲れた」
フェルディニクスはため息のように本音をこぼした。エルザベルティとこれ以上冷えた関係を続けるくらいなら、別の相手を婚約者とし方が互いに幸せなのかもしれない。そんな思いから次に続けた言葉は完全にフェルディニクスの失態だった。
「君が望むなら婚約解消を受け入れよう。」
フェルディニクスの言葉にエルザベルティは目を見開いた。
「ただし、よく考えることだ。君の次点の候補はメレルエディス嬢だ」
口にしてみたものの、それが現実的でないことなど互いに分かっていることだ。自分たちの婚約解消が起こす波紋は大きい。そう思って口にした言葉はなぜかエルザベルティを驚かせた。
「なぜ?」
「なぜも何も。君以外の3人の婚約者候補の中で一番現実的な選択肢だからだよ」
次点の婚約者候補について、エルザベルティが考えていなかったとは思えない。エルザベルティの疑問に答えながら、想定外に混乱するエルザベルティを見つめた。エルザベルティの混乱をよそに、馬車はゆっくりとその速度を落とした。
「あぁ、着いたみたいだ。お休みエルザベルティ。よい眠りを」
フェルディニクスは迎えに出てきた公爵家の執事にエルザベルティを託すと馬車へ乗り込んだ。
だいぶ長くなりましたが、序章はこれで終了です。
本編からはアルトレイク視点ですすみます。