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私には花がある  作者: ニーナ
序章 嵐の前の恋人たち
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霞の中のエルザベルティ

エルザベルティはカストラディル公爵家の長女として産まれた。最上位貴族で皇太子殿下と年齢の釣り合いのとれた唯一の娘であったため、婚約者の最有力候補であった。そんな立場故、エルザベルティは物心もつかないうちから淑女教育を受けてきた。厳しい教育に涙しながらも、元来の負けん気の強さゆえに知識をみるみる吸収していった。

 エルザベルティが8歳の時、皇太子妃候補を集めての茶会が開催された。温室に設置された四角いテーブルの皇太子殿下の席の一番近くに案内されたエルザベルティは内心安堵しながら席に着いた。しかし、すぐに違和感に気付いた。皇太子殿下の座る上座のすぐ隣にも椅子が置かれていたからだ。おかしなテーブルセッティングをする、と首を傾げていると、招待された他の令嬢方も姿を現した。エルザベルティの向かいに辺境伯令嬢パルディルーザ、隣に侯爵令嬢シルフィアンナ、はす向かいに侯爵令嬢メレルエディス。それぞれに挨拶を交わし、雑談をしていたが、一様に上座の椅子を訝し気に見ていたことをエルザベルティは見逃さなかった。

 お茶会開始の時間になると、皇太子殿下がやって来た。エルザベルティはすぐに立ち上がると淑女の礼をもって皇太子殿下を出迎えた。同時に立ち上がって礼を行えたのは最年長のシルフィアンナだけで、パルディルーザとメレルエディスはこちらを真似るようにたどたどしく礼をしてみせた。

「楽にしていいよ」

楽し気な声に顔をあげて、エルザベルティは驚きに目を見張った。皇太子殿下はその腕に幼い少女を抱いており、何の迷いもなくその隣の椅子に腰を掛けさせたからだ。

「それぞれに自己紹介はおわっているかな?」

皇太子殿下の質問にはいと答えると笑顔で頷いて見せた。

「じゃあ、私の天使を紹介するね。サーラ上手に自己紹介できるかな?」

「サーニャミァです。仲良くしてください」

サーラレミリアは決められた言葉を言い切ると、皇太子殿下を見上げた。皇太子殿下が褒めるように頭を撫でると、フワリとほほ笑んだ。


 婚約者候補は平等に扱うという不文律がある。それを無視して上座に据えるということが何を意味するのかは分かりきっていた。

 なんて馬鹿らしい。エルザベルティはこの茶会の開催を心の底から唾棄した。上座に据えるべき人物はすでに決定していたのだ。喚きたくなる気持ちをぐっと抑えて、微笑みをうかべたまま茶会を乗り切った。

 別邸に帰還すると、父であるカストラディル公爵にお茶会の様子を報告した。他国へ嫁ぎたいと言うエルザベルティに父は盛大に顔を歪めたが、すぐに労いの言葉をかけた。

 1か月後にはエルザベルティの嫁ぎ先の候補が確定した。

 北の隣国、ビルゲルーダ王国の公爵子息のヴェネディクト。年はエルザベルティの一つ下だった。エルザベルティの教育に急遽、語学が追加された。


 その後も婚約者候補達のお茶会は度々開催されたが、そこに皇太子殿下が参加することはなかった。おそらくはサーラレミリアと上級貴族令嬢達の親睦を深めることが目的だったのだろう。目論見通りというべきか、5人の令嬢はそれぞれの屋敷に招待しあう仲になっていた。サーラレミリアはとても愛らしい性格をしていて、特にエルザベルティに懐いた。エルザベルティの努力を一瞬にして吹き飛ばしたサーラレミリアに複雑な思いがなかったと言えば嘘になる。でも、それ以上にエルザベルティに伸ばされる手が愛おしかった。

 皇太子殿下の婚約者候補達との交流は個別で行われていた。もう、確定しているようなものなのだから、早々に開放してくれればよいのに。そう思う反面、もしかしたらを望む自分がいる。それくらい皇太子殿下との時間は輝いていた。エルザベルティの今までの努力を認め、褒めてくれる。語学を学んでいると言えば、その言葉で内緒話のように語りかけてくる。甘い微笑みを向けられれば、勘違いするなと言うほうが難しい。しかし、お茶会の最後には必ず言うのだ。

「いつもサーラの面倒を見てくれてありがとう。これからもよろしくね」

皇太子殿下が優しいのは、エルザベルティがサーラレミリアに懐かれているから。エルザベルティの幼い恋心は終始乱高下を繰り返していた。


 ヴェネディクトとは手紙での交流を繰り返した。彼は好奇心旺盛な少年のようで、こちらの国の文字を使った手紙はいつも目新しいことでいっぱいだった。

 エルザベルティが10歳になった時、皇太子殿下が婚約者を指名した。驚いたことに相手はエルザベルティだった。エルザベルティはヴェネディクトへ謝罪の手紙を送った。対するヴェネディクトは分かっていたことだからと軽く流し、この先も友人としての交流を願われた。新しい発見をくれる彼とのやり取りは、エルザベルティによい刺激を与えてくれる得難いものだった。エルザベルティはこの申し出を二つ返事で受け入れた。

 皇太子殿下との交流は、社交シーズンが主で、それ以外は専ら手紙をやり取りした。視察をかねてカストラディル公爵領へやってくることもあったが、その際は、兄のアルトレイクと連れ立って出かけることが多く、話をする機会は多くなかった。

 エルザベルティは自分が婚約者に選ばれた理由を理解していた。公爵令嬢という身分はもちろんあっただろう。だが一番の理由は幼い頃から積み重ねてきた知識と、学びに対する貪欲な姿勢だろう。皇太子殿下はその役割をこなすにふさわしい人物としてエルザベルティを選んだのだ。恋情など欠片も抱いていないだろう。優し気な微笑みも、褒めてくれる手も、判で押したように行儀の良いエスコートもエルザベルティの心にいつしか苦しみをもたらした。


 婚約を交わしてから5年が経った。兄と一緒に帝都へと向かえば待ちきれないとばかりに呼び出されたのは兄だけだった。一緒に行こうと誘ってくれた兄に嫉妬心が隠せず言葉少なに断った。

 お茶会から帰った兄はエルザベルティに皇太子殿下から預かったという手紙を渡した。手紙には領地からの長旅に対する労りと会いたいという言葉が綴られていた。たとえ、兄に促されて書いた手紙であろうと、「会いたい」と願われることに喜びが抑えられなかった。

 お茶会の日、皇太子宮の温室へと案内されると、すでに皇太子殿下がソファーで寛いでいた。

「お待たせしてしまい申し訳ございません。エルザベルティ、帝都へ帰還のご挨拶に参りました」

淑女の礼と共に口上を述べる。いつもならすぐに「楽にしていい」と声がかかるところ、いつまで待っても声がかからない。無礼を承知でちらりと目線を上げれば、エルザベルティの胸元にくぎ付けになっていた目と目があった。皇太子殿下は耳を赤くして目をそらした。

「楽にしていい。君たち兄妹はやっぱりよく似ているな」

ごまかすようにかけられた言葉にエルザベルティは首を傾げた。

 この一年でエルザベルティの胸囲は恐るべき変化を遂げた。絵に描いたような紳士である皇太子殿下も自然と凹凸に目がいく普通の男であることに苦笑した。エルザベルティは勧められるままにソファーに腰をおろした。最近の近況報告等を終えると、皇太子殿下が徐に話を切り出した。

「来年の社交デビューの衣装なんだけど、私からプレゼントしたいと思っているんだ」

「でも、デビューの衣装は生家で準備するのが一般的ですわ」

「もちろん。カストラディル公爵に了解はもらっている。皇家御用達のブティックの衣装でエルザベルティのデビューを飾りたい」

「そんな。大事な国税から余計な出費などさせられません」

「私の婚約者のドレスなのだから余計なものなんかじゃないよ」

「でも。申し訳ないです」

「大丈夫だから。婚約者用の経費はたっぷりあるから、帝都に気になるブティックがあるようなら夜会用のドレスも作らせる。遠慮なんていらない」

「けいひ・・・」

経費で落ちるプレゼントとは何だろう。エルザベルティは荒れ狂う感情を抱えたまま、帰宅した。

 しかし、夜になれば大分気分も落ち着いてくる。皇太子殿下との会話を思い出せば、エルザベルティの言動のまずさも思い出していく。どうしてああも、固辞しようとしたのだろう。素直に嬉しいと受け取ればよかったものを。エルザベルティの怒りの感情は一転、自分の可愛げのなさに深く沈み込むこととなった。


 あれから一年が経ち、エルザベルティは無事に社交デビューを果たした。皇太子殿下から贈られたドレスは胸元と裾に宝石が散りばめられており、思わずため息が漏れるほどに美しかった。(いったいいくらかかったのかしら?)思わずよぎってしまった可愛くない考えを振り捨てて、エルザベルティは笑顔で皇太子殿下の前に立った。

「皇太子殿下、素敵なドレスを送っていただきありがとうございます。今まで、沢山のドレスを誂えて参りましたが、こんなに美しいドレスは初めてです」

「喜んでもらえてよかった。よく似合っている。美しい姿を私によく見せておくれ」

皇太子殿下がエルザベルティを褒め嬉しそうに笑うので、エルザベルティも少しいたずらな気分になって、その場でクルリと回って見せた。エルザベルティの反応が意外だったのか、皇太子殿下は目を丸くして、その後にこらえきれないように笑った。

「今日のエルザベルティは元気がいっぱいのようだ。逃げられないようにしっかり捕まえておかないと。エルザベルティ、私のエスコートを受け入れてくださいますか?」

皇太子殿下が跪いて手を差し出してきた。

「ええ、よろしくてよ」

エルザベルティは皇太子殿下のおふざけに合わせるように、女王然と手を重ねた。

 エルザベルティにとってその日が最も幸せな一日となった。あの日のエルザベルティは皇太子殿下に愛される婚約者という夢に浸っていられたから。


社交デビューを迎えたエルザベルティは本格的に皇太子妃教育を開始した。知識面の学習は公爵家で十分行えていたため、皇后陛下とお茶をしながら、皇家の人間としての心構えや行事の差配についてを学んだ。

その日の皇太子妃教育を終えると、エルザベルティは皇太子宮へと足を向けた。宮へ入ると前方を一人の文官が足早に歩いていくのが見えた。その文官が最近登用された女性文官であることに気づいたエルザベルティは歩みを緩めて彼女を見た。書類を抱え、誰かを探す風な様子の彼女は目的の人物を見つけたようで、通路を曲がっていった。エルザベルティの進行方向へ向かったため、あとをつけるような形で同じ通路を曲がろうとしたところで声が聞こえた。

「すみません。先程頂いた経費清算書のことで少しお聞きしたいのですが」

「装身具の請求のことでしたか?」

「えぇ、1つはエルザベルティ様の予算のものでしたが、もう1つは皇太子殿下の予算から出ていました。品は髪飾りでしたのでお間違いではないか確認させていただきたくて」

話の内容にエルザベルティの足は自然止まった。

「えぇ、それで間違いありません。殿下の予算から出ているものは殿下からの私的なプレゼントのものです。清算書の通りに決済してください」

「公的な物と私的な物で分かれているのですね。大変失礼いたしました」

「いいえ。そのように思ってしまっても仕方ありません。これは殿下の我儘のようなものです。殿下がそうご指示されるうちは仰る通りに処理をしてください」

エルザベルティの顔から血の気が引いていくのが分かった。皇太子殿下はエルザベルティ以外の誰かに装身具のプレゼントをするつもりなのだ。婚約者でもない女性に対して。文官たちの話を立ち聞きしてしまったエルザベルティは少しの間呆然として、その姿が女性文官の目に留まるのを許してしまった。

「もしかして、お耳に入ってしまいましたか?」

エルザベルティ以上に顔を青ざめさせた女性文官の声に、エルザベルティは苦笑した。そんなに焦っては疚しいことだといっているようなものだ。

「少しだけ」

聞いていないと嘘をついてあげればよかったのかもしれないが、それにしては聞いていたのは明らかでエルザベルティは正直に答えた。

「申し訳ありません。本来、エルザベルティ様のお耳にだけは触れさせてはいけないことだったのに」

言い募る彼女の様子に憐れみを感じて、エルザベルティは言葉を遮った。

「大丈夫よ。今のは聞かなかったことにするから」

(全然そんなこと気にしていない。)そう心に暗示をかけて、余裕を見せつけるように笑みを浮かべてみせた。

 数日後、皇太子殿下から贈り物が届いた。夜会用のドレスで、その中にやはり髪飾りは見当たらなかった。


 翌日、皇太子妃教育を終えた後、いつものように皇太子宮へ向かっていた。途中にある庭園のベンチにサーラレミリアの姿を見つけ、エルザベルティはそちらへ足を向けた。近づいてみたサーラレミリアの表情にエルザベルティは顔をしかめそうになった。12歳の少女が浮かべていい表情とは言えなかった。花々に向けられているように見える視線はおそらく何も映していない。ほの暗い虚無を抱えているように感じた。

「サーニャ様。」

エルザベルティはサーラレミリアの注意を引くべく声をかけた。呼びかけに振り返ったサーラレミリアはエルザベルティの姿を見つけるとうっすらとほほ笑んだ。蝶を模した髪飾りが耳の脇でキラキラと舞っていて花のように可憐なサーラレミリアをよく引き立てていた。

「エーシャ様」

サーラレミリアは立ち上がるとエルザベルティに淑女の礼をした。

「こんにちはサーニャ様。宮殿にいらっしゃるなんて珍しいですね」

「こんにちはエーシャ様。はい。お父様からついてくるように言われて。そのくせこうして放っておくんですよ。」

手を頬にあてて小首をかしげる様は、妙に艶めいて見えた。

「今から皇太子殿下とお茶の約束をしているのだけど、ご一緒しますか?」

先程の表情は見間違えだったかと誘いをかければ、ほんの一瞬、サーラレミリアの目から光が消えた。

「わたくしがここにいないとお父様が心配しますわ。それに仲の良い婚約者同士のお邪魔をするつもりはございません」

きっぱりと断りを入れるサーラレミリアにエルザベルティはそれ以上誘うことはできなかった。

「そう。でもまだまだ時間がかかるようだったらいらして。お父様への連絡はこちらでしますから」

「はい。お気遣いありがとうございます、エーシャ様」

皇太子宮へ向かう回廊へ戻って振り返ると、笑顔で手を振るサーラレミリアの姿があった。エルザベルティはそれに軽く手を振り返した。


「遅かったな。なかなか来ないから心配した」

皇太子殿下の宮へ着くと、皇太子殿下が入口まで出迎えに来てくれていた。

「お待たせして申し訳ございません。途中の庭でサーニャ様とお会いして少し話し込んでしまいました」

「サーラが来ているのか?」

「はい。公爵様に同行するよう言われたのだそうです。こちらにもお誘いしたのですが、・・・・・何かありましたか?」

エルザベルティは皇太子殿下の険しい表情に話を止めた。

「嫌、すまない。ちょっと席をはずす。すぐに戻るから先に部屋で待っていてくれ」

皇太子殿下はエルザベルティにそう言うと慌ただしく宮の外へ出て行った。

エルザベルティは侍従に案内された部屋のソファーに腰を下ろした。皇太子殿下に誘われればサーラレミリアもこちらへ顔を出すだろうと肩の荷が下りたような気持で待っていたが、予想に反して戻ってきたのは皇太子殿下だけだった。

「待たせてすまなかった。」

そう言って笑う皇太子殿下の表情はどこか冴えなかった。

「いいえ、サーニャ様をお迎えに行ったのではなかったのですか?」

「いや、サーラは家に帰した。・・・公爵には連絡してあるから心配しなくていい」

「そうですか」

苦く笑う皇太子殿下の様子に、言葉にした以上の何かがあったのだろうことが伺えた。しかし、話さない以上は追及すべきことではないのだろうと、エルザベルティは了解の返事をして話を終わらせた。エルザベルティの脳裏には先程の暗い瞳のサーラレミリアの姿がよぎった。

「ところで、前から聞きたかったのだがエルザベルティはなんでサーラのことをサーニャと呼ぶんだ?」

明るい声で話題を変えた皇太子殿下の思いを汲んで、エルザベルティも殊更に明るい声で答えた。

「前にサーニャ様に特別な呼び名で呼び合いたいとねだられたんです。可愛いおねだりがとても嬉しくって。だから思い切りひねった呼び名を二人で考えたんです。」

「じゃあ、サーラはエルザベルティを何て呼んでいるんだ?」

「私のことはエーシャと呼んでいただいています」

「私がエーシャと呼んだらサーラは意地けるんだろうな。特別な呼び名なんて羨ましいが今は諦めよう」

優し気な笑みはサーラレミリアの話をしているときによく浮かべる表情だった。深い慈しみを感じるその表情はエルザベルティの心を和ませ、自然エルザベルティの口許にも笑みが浮かんだ。

「そうだ、今日はこれをエルザベルティに渡そうと思ったんだ」

差し出された箱を開ければ、そこには蝶の飾りのついた髪飾りが入っていた。

「派手な物ではないから、普段使いで使ってほしいと思って」

皇太子殿下は箱から髪飾りを取り出すと、そっとエルザベルティの髪に挿した。

不器用に差し込まれたそれが落ちないようにそっと手で押さえて、エルザベルティは笑顔を作った。

「ありがとうございます。大事に使わせていただきます」

そう言葉には出したものの、心の中では別な言葉を呟いた。

(同じものを贈るなんて、どうかと思いますよ?)


「その後も私的な贈り物は続いているのかしら?」

例の女性文官の姿を見かけるとその疑問を口にするようになった。聞かなかったことにする等と言いながら、なんとも情けのない話だ。

「はい。でも、ご結婚前の一時的なものですよ。皇太子殿下も恋人気分を味わいたのだと思います。」

女官のフォローはどこか的を得てないが、エルザベルティは苦笑して納得して見せた。

エルザベルティの心は疲弊していた。二人で過ごす皇太子殿下は甘さを隠そうとしない。手に髪に頬に唇を寄せてくる。しかし、その裏で別の女性に装飾品を贈っているのだ。14歳になったサーラレミリアは以前のような無邪気さをなくした。よく笑いよく話す天真爛漫な少女は、いつからかお淑やかな大人の女性としての一歩を踏み出した。しかし、絶やすことのない笑みはどこか陰りを帯びていて、その瞳はエルザベルティを責めているように感じる。エルザベルティは皇太子殿下とサーラレミリアを前に疑心暗鬼になっていた。

 そんな折、エルザベルティは強力な盾を手に入れた。エルザベルティの臨時専属護衛パルディルーザだ。結構強い、と自分で言うだけあってパルディルーザは向けられる視線に敏感だった。

「みんなエルザベルティ様の胸元を見ていきます。変態ですよ」

「男性とはそういうものです。あなたも諦めなさい」

鳥肌を立てて耳打ちをしてくるパルディルーザにエルザベルティは呆れを隠せなかった。男性の視線にさらされずに今までどのように生きてきたのだろう。

皇后陛下はパルディルーザの同席を快く許してくれ、エルザベルティの希望通りに淑女教育に協力してくれた。皇太子殿下へも事前に連絡をしていたため、パルディルーザの来訪を歓迎してくれた。

「ここにも変態が」

思わず出たのであろう一言は全力で聞かないふりをした。ほんの半年。エルザベルティはパルディルーザのおかげで心の平穏を手にした。ただ、それは問題の先送りに過ぎないこともどこかで分かっていた。


 パルディルーザの社交デビューを目前に控えた秋、パルディルーザの婚約者エレアノールがビルゲルーダ王国から帰還した。エルザベルティの大事な盾はエレアノールによってあっさりと奪われてしまった。

 久しぶりの2人きりの空間に緊張が走る。エルザベルティは心を落ち着けるように紅茶を口に運んだ。

「さてと、随分と逃げ回ってくれたよね?」

皇太子殿下は無表情にこちらを見つめた。

「さぁ、なんのことかしら?」

「分かっているくせに逃げるその態度は気に食わない。ねぇ、私に触れられるのはそんなに嫌だった?」

「・・・・・」

「違うよね?君が心から拒絶するのなら触れたりしない。それとも恥ずかしがりつつも受け入れてくれているように感じていたのは勘違いだったか?」

なおもだんまりを続けるエルザベルティに皇太子殿下が鼻で笑った。

「知らんぷりの次はだんまり?卑怯だね」

皇太子殿下がエルザベルティの手をつかんで強く引き寄せた。胸元に強く抱き寄せられて、エルザベルティは身体をこわばらせた。皇太子殿下の手が腰から背中を怪しく撫で上げ、クチャっとわざと音を立てるようにして耳を舐めた。

「やめて!!」

腕を突っぱねるように距離をとれば、大した抵抗もなくエルザベルティは解放された。エルザベルティの頬を涙が一筋流れる。それを眺める皇太子殿下の表情はどこまでも冷静だった。

「私には君が何を考えているのかわからない」

エルザベルティはそれに言葉を返すこともなく、暇乞いもそこそこに部屋を飛び出した。


 それ以降も皇太子殿下とのお茶会は続いた。皇太子殿下とその婚約者の不仲説など流れたら大変なことになる。笑顔を作り、皇太子殿下を訪ねれば、皇太子殿下も笑顔で出迎えてくれる。お行儀のいい婚約者の距離で終始和やかに言葉を交わす。まるで仮面をかぶったような交流だった。それはじわじわと真綿で絞めるようにエルザベルティを苦しめた。向き合うことから逃げたのは自分のくせに。

 社交シーズンが始まって、オフシーズンでは日常と化していたお茶会の回数がグッと減った。夜会の場で被る仮面はお茶会の時ほどエルザベルティを苦しめなかった。冷静さを取り戻した頭であたりを見渡せば、羨望の眼差しがこちらになげられるのを感じる。崩壊寸前のこの関係はどうやら隠すことに成功しているらしい。そう思えば乾いた笑いが込み上げてきた。

 社交シーズンも半ばになろうかという頃、エルザベルティは不可解な誘いを受けた。とある伯爵家の夜会で、皇太子殿下が出席するようなものではなかった。エルザベルティはそこで信じられないものを目にした。上級貴族の友人であるシルフィアンナの婚約者が別の女性をエスコートしていたのだ。まさかと思い、皇太子殿下を睨み上げれば、こちらの視線に気づいているだろうに、不自然なまでにこちらを見ようとはしなかった。その後も不自然な誘いには友人たちの婚約者が件の女性をエスコートしている姿を見つけた。

 エルザベルティは即座に中級貴族の中に情報網を張った。兄のアルトレイクにも探りを入れさせ、目星をつけていた伯爵家の夜会で皇太子殿下がロレーヌを伴って現れたという連絡を受けた。準備はすでに出来上がっていた。連絡を受けるとすぐに兄にエスコートされて、エルザベルティは伯爵家の夜会に乗り込んだ。

「皇太子殿下、ご希望通りお迎えに参じました」

「あぁ。ご苦労様。アルト、後はよろしく」

エルザベルティがそう声をかければ、皇太子殿下は何を言うでもなくあっさりとロレーヌのエスコートをアルトレイクに託した。


馬車に乗り込むと、涼しい顔で向かいに座る皇太子殿下に怒りが抑えられなかった。

「仲の良い婚約者をかき乱して楽しかったですか?」

興味深そうにこちらを見るだけの皇太子殿下にエルザベルティは更に畳みかけた。

「わたくしの情報収集能力にはご満足いただけましたか?」

「仮面をかぶっていない君をみるのは随分と久しぶりのような気がするよ」

「誤魔化さないでくださいませ!」

薄い笑みを浮かべてようやく言葉を口にした皇太子殿下に対し、エルザベルティは思わず怒鳴りつけた。スッと目を細めた皇太子殿下にエルザベルティの背筋が冷える。言葉が過ぎた自覚があったからだ。だから、いきなりの話題の転換にも渋々付き合った。

「彼女の噂を知っている?」

「えぇ。婚約者のいる男性ばかり渡り歩くお行儀の悪い女性ですわ」

「それ以外の噂は?」

「・・・知りませんわ」

「彼女をエスコートした男は、婚約者との関係が目に見えて良好になる」

「なんですかそれ?」

眉をひそめて吐き捨てれば、皇太子殿下はさも面白そうに笑った。

「ばからしいと思った?でも実際あの三人はあの後、親密な空気を出すようになった」

そう言うと、皇太子殿下はまただんまりを決め込んだ。エルザベルティの反応を待つようにその目はジッとエルザベルティを見つめる。エルザベルティには皇太子殿下の意図が分からなかった。誤魔化されてはいけないと、目に力を入れて皇太子殿下の視線を受け止めた。すると、フッと皇太子殿下からの圧が消えた。

「君はいつも責めるような目で私を見る。どんなに心を込めて贈り物をしようとも、君の顔に愛想笑い以外の笑顔が浮かぶことはない。私は君に一体何をしたというんだ?」

力ないその言葉にエルザベルティは反論を口にすることができなかった。

「私だって君に物申したいことはある。婚約者候補だった頃ならまだしも、君がビルゲルーダの子息と今でも繋がっているのは何故?君は自分が何をしても私が傷つかないと思ってるのか?君は私に対してひどく不誠実だ」

「そんな。彼とは友人で…」

思ってもなかったことを追及されて、エルザベルティは慌てて言葉を紡いだが、皇太子殿下の言葉に遮られた。

「いい、聞きたくない。聞いたって無駄なんだ。要は私が君を信じれるか否かなんだから。.....もう、疲れた」

皇太子殿下がつぶやいた言葉はエルザベルティの心に大きな衝撃を与えた。エルザベルティが感じていた気詰まりを一緒に過ごす皇太子殿下が感じてないわけがなかったのだ。

「君が望むなら婚約解消を受け入れよう。」

突然の言葉に、エルザベルティは目を見開いた。

「ただし、よく考えることだ。君の次点の候補はメレルエディス嬢だ」

「なぜ?」

告げられた言葉に驚いて、エルザベルティは独り言のような疑問を口にした。

「なぜも何も。君以外の3人の婚約者候補の中で一番現実的な選択肢だからだよ」

皇太子殿下はエルザベルティの小さな問いかけに律儀に答えた。しかし、その目は分かりきったことを問いかけるエルザベルティを不思議そうに見ていた。エルザベルティの混乱をよそに馬車は静かにその速度を落とした。

「あぁ、着いたみたいだ。お休みエルザベルティ。よい眠りを」

皇太子殿下の声に見送られ、エルザベルティは公爵邸の玄関に降り立った。

 少し考えれば分かることだった。現皇帝陛下に皇太子殿下以外の子供はいない。皇后陛下は皇太子殿下の出産後、何度か妊娠をしているが、その回数分だけ流産を繰り返した。帝位継承者は先細りに少なくなっている。サーラレミリアの帝位継承権は第3位。帝位継承者を増やすために彼女の結婚相手は皇太子殿下以外でなければならない。

 だが、それが分かったところで何になるのだろう。内に抱える感情の種類は分からないが、この先もサーラレミリアは皇太子殿下の特別で居続ける。エルザベルティに求められているのは、それを見て見ぬふりを続けること。サーラレミリアはこれからどんどん美しくなる。そうしたとき、皇太子殿下の中でサーラレミリアはどんな存在になるのだろう。エルザベルティにはサーラレミリアの陰におびえる未来しか見えなかった。


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