花咲く侍女の恋事情
ここは、通称春の国と呼ばれる穏やかな気候のベセィネレア王国。
その城内の一角で、今、一組の男女がささやかな邂逅を果たしていた。
男は自らの所属する団色であるライトモスグリーンの騎士服を、訓練で鍛え上げられた肉体にカッチリと纏っている。
しかし、穏やかさの滲み出た顔面と緩くウェーブがかった赤茶の短髪の効果か、彼の存在が他者に威圧感を与えることはない。
「……そのお仕着せ、姫君付きの侍女殿と見受けるが。
なぜ、このような場所で下女の真似事を?」
王族宮と本城とを繋ぐ使用人専用通路、その片隅にある目立たぬ中庭の水場で、一人の侍女がベッドシーツの洗浄を行っていた。
彼女の立場ではありえない下級の業務だ。
とはいえ、問いかけた騎士の男も特に咎めるような意図はないらしく、単純に疑問が口をついたといった風情で、その赤い瞳にも声色にも鋭さは含まれない。
女は洗濯の手を止め、ハンカチで水気を拭ってから、ゆっくりと立ち上がり一礼する。
そして、姿勢を正し、真っすぐに彼を見つめながら、アップルグリーンの唇を開いた。
「……それは、騎士の職務としての詰問でしょうか?
もしくは、個人的な興味としての質問でしょうか?」
淡々とそう尋ね返す彼女に、男は少し気まずげな表情で側頭を掻く。
「あー……半々、といったところかな」
堂々と述べるには少々躊躇われたようだが、正直な騎士は、誤魔化しもせず心情そのままを答えて返した。
それを受けて、面様の一切を変えぬまま、侍女は小さく一つ頷いて語る。
「左様ですか。
職務が含まれているのであれば、偽りなくお答えすべきでしょうね」
妙に機械的な態度の女に対し、男は彼女の言葉が判断を事務的に表明したものか、嫌味が含まれているのかすら分からない。
ただ、この侍女の種族からすれば、そう珍しい傾向というわけでもなかった。
「私は第三王女フリージア様付きの侍女、ルデナ・ジュ・モーダンと申します。
先日の就任挨拶の際、フリージア様はアルラウネである母ゆずりの私の容姿を大層薄気味悪く思われたようで、視界に映るだけで不敬とおっしゃられ……目配せで主の命を受けたらしき同僚侍女の采配で、日々この様な下女同然の仕事をいただいております」
そう、彼女は植物系統の人種であるのだ。
この種は比較的感情の振れ幅が小さく、冗談や嘘の通じぬ生真面目な性質をしている者が多い。
「……ああ、彼の御方か。
王妃様や他の姫君であれば、そう理不尽もおっしゃられまいが……君も災難だったな」
ベセィネレア王の末子フリージアは、臣下内では有名な我儘姫だ。
幼少期、彼女は上三人の兄姉と異なり未熟児として産まれた故か虚弱体質で、幾度と命の境を彷徨った。
そんな末姫を、親兄姉は皆、彼女が健康を得た現在でも甘やかし続けている。
稀に配下より娘の近況報告を受けた王妃が諫言を施しに向かうこともあるが、姫君はその場限りのしおらしさを見せて、ことごとく煙に巻いていた。
事情を解し、騎士は分かりやすく憐憫を顔に浮かべる。
そんな彼へ、ルデナは極々僅かに首を横に振った。
「いえ、災難とおっしゃる程では。
常お側に侍るより心労も少ないのではないかと、いささか胸を撫で下ろしてもございます」
「ふむ、確かに……そう大っぴらに口にできた事実ではないがな」
彼女があまりに自然と告げるもので、思わず同意してしまうも、初対面の人間相手に語るには少々不用心な内容だと、男は注意を促すべくひとつの小声を追加した。
すると、彼の意図を察した侍女は、形の良い唇を閉じて、無言で顔を上下させる。
そこで、ルデナの容姿を改めて視界に収めた騎士の男は、首を捻り尖る顎を節くれ立つ指二本で擦りながら、唐突にこんなことを言い放った。
「うぅむ。
しかし、彼の姫君はルデナ殿の容姿の何が気に障ったものだろうな。
薄緑がかった肌は瑞々しく潤い、蔓髪は随所に秘された蕾がいかにも甘やかに香りそうで、雲ひとつない晴天のような空色一色の瞳は並大抵の宝玉にも負けぬ輝きに満ちているというのに」
途端、ここまで無表情であった侍女が一瞬、片眉を軽微に上げる。
いかにも口説き文句のようだが、彼の表情や声色から、それが純粋な感想でしかないことが窺えた。
そんな己の発言に無自覚な男へ、ルデナは呆れを含んだ溜め息と共に答えを返す。
「……私ごとき不肖の身には分かりかねます。
それと、差し出がましいようですが、植人の目を無闇に賞賛するのはお止めになった方がよろしいかと。
十年程前のコレクター事件を皆、今も怖ろしがっておりますので」
「っあ。すまない」
彼女の戒告に、ほとんど反射の速度で騎士の口から謝罪の言葉がまろび出た。
コレクター事件とは、植物系人種のみを狙った、とある殺人事件のことをいう。
犯人として捕まった商人の男は、純人種と異なるガラス玉のような単色眼を持つ彼らのソレに魅了され、殺害し眼球を抉り取って、特殊な溶液の入ったガラス瓶で保存、隠し部屋に並べて飾り、日々悦に浸っていた。
男は自身の商人としての情報網を巧みに利用して、長らく王国に暮らす緑の民を恐怖に陥れ続けたのだ。
「当時、俺はまだ見習いであったが、あの悍ましい事件については深く記憶に残っているぞ。
犯人の家から押収された三十対以上に渡るコレクションとやらの整理を手伝わされたからな。
アレには酷く吐き気と憤りを覚えたよ。
確かにそれなら褒められたところで恐怖こそすれ、喜ばしいものではないだろう。
ルデナ殿。忠告、感謝する」
「いえ」
堅物ではないにしろ酷く生真面目な人間なのだな、とルデナは自身の性格を棚に上げて思った。
一般的に貴族男性は、働く女性も多く存在する市井の民よりも、男尊女卑の思想傾向が強い。
よって、女から指摘を受けるなど、侮辱と取って憤慨する者も少なくなかった。
そんな厳しい現実の在り様を理解していながら、わざわざ差し出口を挟む程度には、彼女もまた融通の利かぬ性質をしている。
侍女としては優秀な部類のルデナが第三王女付きへ配置換えとなったのも、実は、そんな人柄を一部の者たちに疎まれてのことだった。
「さて、と。あまり仕事の邪魔をするのもよくないな。
俺は、第二騎士団の副長、ロッドレイ・ル・ワズズワースだ。
君の主人の件でも城内の揉め事でも、何かあれば気軽に訪ねてくれ。
可能な限り相談に乗ろう」
「お気遣い痛み入ります」
「あぁ。ではな」
「はい、ごめんください」
片手を上げて立ち去る騎士ロッドレイを、礼をとって見送る侍女ルデナ。
こうして、彼と彼女のささやかな邂逅は終わりを迎えた。
敢えて否定の意は返さなかったが、ルデナは現状、たった一度職務交じりに会話しただけの男を頼るつもりなど毛頭ない。
故に、当の騎士とはこれ限りの縁になるだろうと考えていた。
のだが、業務のルーティンによるものか、意外と庭先や廊下で互いを見かける機会は多く、また、それなりに彼が話しかけたりするもので、彼女の予想に反して、二人は早々に赤の他人から知人の間柄へと変わってしまったのである。
とはいえ、どちらも下心などは持ち合わせておらず、更に、相手が異性ということで距離を詰めすぎることもなく、出会いから数か月が経過しても、友と呼べるほど彼らの仲が深まることはなかった。
今日も、主にロッドレイからの声かけで、他愛ない雑談が王城の片隅にて開始される。
「やぁ、ルデナ殿。なんだか随分と久方ぶりのような気がするな」
「ごきげんよう、ロッドレイ様。
毎年、建国祭の時期になると、騎士様方はお忙しそうですものね」
邪気もなく健全な思考の持ち主である騎士に幾度と友好的に接され続けた結果、お堅い態度に定評のあるルデナも、彼を前に僅かながら纏う雰囲気を綻ばせていた。
「うむ。町の警邏隊では数が足りぬと騎士の面々も駆り出されるのだが、当然、市民に限定開放される城内の警備も強化せねばならないので、その日ばかりはほぼ全団員が何かしらの任務にあたるのだ」
腕を組み、どこか疲れの滲む顔で、第二騎士団の副長はそう語る。
「せっかくのお祭りに毎度お仕事では、恋人やお子様がいらっしゃる方はさぞ心苦しいでしょう」
特殊な立場にない限り、この日ばかりは常の仕事から離れて、家族など親しい人間と過ごすのが一般的だ。
普段は商人の立場にある者にしか許されていない屋台や露店業も、事前に審査は必要なものの、祭り当日に限り全国民に出店が許されており、玉石混合の品々が王都にあふれ返る。
ベスィネレア王国の民が総じて心待ちにする、年に一度の一大イベントなのだ。
そんな建国祭に不在となれば、自らの愛しき者たちから顰蹙を買うのは、まず間違いない。
「そうだな。我が第二騎士団は、各人の家庭環境などを考慮して事前聴取とシフト調整を行うようにしてはいるが、必ずしも希望に沿えるとは限らないわけで……」
悩ましげに唸るロッドレイ。
ルデナはその無表情の代わりか驚きを表すように口元に手を添え、瞼をゆっくりと一度瞬かせた。
「まぁ。騎士団に斯様な配慮があるとは存じませんでした」
「いや、ただでさえ忙しい建国祭に、そんな効率の悪いことをやっているのはウチぐらいだ。
侯爵である団長の強い意向によるものだが……ま、部下たちの感情を思うと俺としても苦労のしがいはあるよ」
そう言って、苦笑しつつ肩を竦める騎士へ、植人侍女は空色の瞳をほんの数ミリ細めて告げる。
「奇特な方ですのね」
「あぁ。団長は見目は厳ついが、大層なお人好しでな」
「いえ、ロッドレイ様のことでございますよ」
「俺が?」
どちらかといえば淡泊な気質の彼女から想定外の言葉をかけられて、ロッドレイの目が大きく見開かれた。
「えぇ、貴方様です。
己の発案でもなく自らの益になるわけでもない苦労を負わされて、その様に言える方がどれだけいらっしゃるか」
「……そういうものかな」
「少なくとも私は、ロッドレイ様を尊敬いたします」
「そうか。ありがとう、ルデナ殿。
少し、報われたような気分になるよ」
照れも揶揄いの色もなく淡々と語るルデナの姿に、だからこそ、彼女の称賛は心からのものなのだろうと、異性の言と構えることなく男の胸に素直に染み入った。
それから更に半年程の時が経過した頃。
ロッドレイは珍しく、顔馴染みとなった侍女相手に、紳士然とした彼らしからぬ愚痴を深いため息と共に吐き出していた。
「どうして、女性は結婚だけが人生だと言わんばかりに、男を狙うのだろう」
顔面のそれなりに整った、老若男女に公正な性格の、二十代半ばと若くして騎士団の副長を務める、伯爵家の三男である彼、ロッドレイ・ル・ワズズワースは未だ婚約者の一人もおらぬ独身男性だ。
そして、これだけの条件が整っていれば、彼を婿にと望む女性はそれなりに多く存在する。
また、彼が未婚でいることに特に深い理由はなく、ただ齢十三で騎士団の扉を叩いた日から、脇目も振らず業務に打ち込み続けてきたというだけの話だった。
半人前が己以外の誰かを抱えるなど傲慢だという考えもあったし、三男であるロッドレイに無理に嫁をあてがおうとするような両親でもなく、故にろくに恋人も作らぬまま、彼はここまで独り身を貫いていたのである。
ただ、彼も近頃になってようやく、精神的、肉体的に余裕が生じてきたようで、周囲にも緩やかに視線を向け始めたところだった。
途端、その辺りの意識変化を目ざとく感じ取った女性陣から、待ってましたとばかりに熱烈なアプローチを仕掛けられるようになってしまったのである。
時も場所も問わぬ彼女らの激しい求愛行動に、色事に慣れぬ生真面目な騎士は辟易していた。
「その様にご家庭で教えられているからでしょう。
女の最大の幸福は結婚にあり、最大の功績はより良い男性を夫とすることである、と。
他の生き方があるなど知りもしなければ、誰しもそうなり得ます」
知人男性に吐露された異性への偏向的認識に対して、非難も同情もなく、侍女ルデナはただ淡々と持論を述べる。
それを受けて、ロッドレイは何事か考えるように顎に指を当て十秒ほど沈黙した後、神妙な面持ちで暗い呟きを落とした。
「……教育の犠牲者というわけか。
そう考えれば、彼女たちの必死さがむしろ憐れに思えてくるな」
本人たちからすれば、余計なお世話もいいところだろう。
彼は善人ではあるが、しょせんは男所帯で育った唐変木だ。
繊細な心を持つ年頃の女性の機微など、到底理解できようはずもない。
「大海を知らず囲いの池に生きるも、それはそれで幸せではあるかと。
自由の枠を広げるほど、危険も深まるのが世の道理でございますし」
「む。なるほど、一理ある」
だからこそ、すぐに感情的にならず冷静沈着で、己と異なる見識を備えた侍女ルデナとの会話は、ロッドレイにとって新鮮で、本をめくるに似た良き娯楽のようになっていた。
「ちなみに、君という女性は自身の結婚についてどう考えているんだ?
あぁ、もちろん嫌なら答えなくていい。ただの興味本位だからな」
「構いませんよ。
私はこのまま侍女を続け、生涯独身を貫き通す心算でおります。
両親もすでに説得済みであり、余程の事案が発生しない限り、夫を持つ未来はあり得ません」
「ほほぅ、そういうことか。
ルデナ殿が年齢の割に落ち着いているのは、先の人生を明確に見据えているが故なのだな」
いかにも納得したという顔で、彼は二度ほど顔を上下させる。
ここで否定的な意見を挟むことなく、ただ耳にした事実を受け入れるのみの男であるから、一部に辛辣鉄仮面と煙たがられがちなルデナの側としても、珍しく饒舌になってしまうのだ。
「それで……なぜ、と問うても?」
「……そうですね。
私は私という存在だけで、すでに満ち足りる術を得ておりますので。
要は、己の幸福に異性を必要としないのです。
であれば、わざわざ不安要素となる他人を懐に迎えるなど、したくはないと思いまして」
「ふぅむ。聞けば、もっともな話だ」
癖であるらしい指で顎を擦る仕草と共に、ロッドレイは彼女の主張を肯定する。
その後、彼は視線を宙に彷徨わせて十秒程一人で考え事に没頭していたかと思うと、ふとルデナに真面目な顔を向け、口を開いた。
「そうした君の事情を理解した上で、敢えての提案なのだが」
「はい」
「俺のことを好いてみないか?」
「……何をおっしゃっているのか分かりません」
そう間を置かず、疑問よりも否定の色を濃く滲ませた返答が侍女の唇からキッパリと放たれる。
「けんもほろろだな」
対して、ロッドレイは気を悪くした様子もなく、わはは、と男らしい豪快さで笑った。
「貴方様のことです、なまじ冗談という訳でもないのでしょう。
ですが、そこでなぜ私なのです。
既にそれなりの数の好意を寄せられていらっしゃるのですから、お話を持っていくなら、まず、そちらの女性の中からにすべきでは?」
彼女からすれば当然の見解だ。
だが、騎士は両肩を竦め、首を横に振る。
「申し訳ないが、彼女たちでは無理だ。
一通り会話してはみたが、自身が幸せになるために将来有望と噂の騎士が欲しいだけで、俺の幸福についてなど微塵も考えてはいない様子だった。
だが、本来、愛とは与えあうもののはずだろう?」
「……はぁ、左様ですか」
割にロマンチストであるらしいと、ルデナは内心で呆れの感情を抱いた。
彼は模範的かつ紳士的な男だが、所々で貴族らしからぬ独自の拘りを有する人間でもあった。
「君なら、少なくとも肩書きに目を曇らせ俺という人間を見もせず、妙な期待ばかりを押し付けては来ないはずだ。
俺ももちろん、君の主義主張を蔑ろにするつもりはない。
とどのつまり、自立した女性であるルデナ殿にこそ、俺を好いて欲しくなった、という訳だ」
ロッドレイの発言に、植人侍女は束の間、アップルグリーンの唇を薄く開いたまま沈黙する。
「……貴方様も独自の幸福をお探しになれば宜しいのでは」
ようやく零れ落ちた回答は、しかし、この稀有な騎士にとっては的外れのものであったようだ。
彼は、どこか人懐こさを含む苦笑と共に、追加の説明を施し始める。
「うん。いやぁ、それがなぁ……俺はこれで、結構な結婚願望の持ち主であったらしいのだ。
おそらく、独り身では寂しさが勝って、満足のいく幸福は得られないだろう。
……改めて問うが、この難儀な男を僅かばかりにでも憐れと思うなら、互いに愛し合う努力というものを試しに一度してみないか?」
こうして軽率に乞えるのも、彼自身まだ彼女に恋情を抱いているわけではないからだ。
最初に本人が宣言した通り、告白ではなく提案に過ぎないので、断られても心情的なダメージは軽微にとどまる。
そして、その事実を正確に理解しているからこそ、ルデナにロッドレイを受け入れる選択肢はなかった。
「そうおっしゃられましても。
あの……無礼を承知で、申し上げてよろしいでしょうか」
「構わない。先に非礼を働いているのは俺の方だからな。
どうぞ、何でも正直に言ってくれ」
握った拳で胸を叩いて頷く彼に、彼女は初手、珍しく言いよどむ様子を見せる。
けれど、一度言葉の糸が紡がれ始めれば、すぐに毅然とした口調に変わり、細い喉から男にとって予想外の真実が告げられていった。
「では、その、貴方様という花に侍る麗しの蝶たちの反感を買うだけで、私に何の益もないお話ではないかと愚考いたします。
私自身は、そちらの何も、必要としている部分はございませんし。
それに、騎士とは一見して華やかなようで、いつ命を落とすとも知れぬ職業でありましょう。
また、有事の際、己の家庭より国を優先し、危険な地へと赴かねばならぬ立場におありです。
その様な、日々不安の種との格闘を続けねばならぬ夫を持つのは、個人的心情として憚られます」
前半はともかく、騎士だからこそ拒絶するという彼女に、ロッドレイは驚きながらも深く得心した。
夢見がちな乙女では有り得ない、彼の職の現実を知る者であるが故の冷静な判断だったのだ。
さしもの優良物件も、これで重ねて懇願するような厚かましさは発揮できない。
「……うん。なるほど、そうか。
俺が相手ではデメリットしか齎さない、と。
話してくれて、ありがとう。
君のそういった実直な性格にも、好感を覚えるよ」
そう告げる騎士の顔には、どこか寂しそうな笑顔が浮かべられていた。
ルデナのように聡明な女性を求めようとすれば、彼女と同様に自らの生業が枷となりかねないことに、彼は初めて気が付いたのだ。
「ご期待に添えず、申し訳ございません」
「いや、君が気に病む必要はない。
残念だが、仕方がないことだと理解できたからな。潔く諦めるとしよう。
ま、俺の問題は抜きにしても、ルデナ殿との会話は小気味良い。
また顔を合わせた際に状況が許すようなら、こうして相手をしてもらえると息抜きになるのだが」
「……はい、それぐらいでしたら」
無表情ながら心苦しそうな雰囲気を醸す植人侍女に、ロッドレイは努めて朗らかに笑う。
初見の印象と異なり、彼女がかなり情に厚い性格をしていることは、これまでの雑談から推察していた。
だからこそ、彼もルデナと仲を深めることに前向きであったのだが、まぁ、結果は御覧の有様である。
「ありがとう、もちろん今後も適切な距離は保たせていただく。
勝手に外堀を埋めて強引にでも手に入れようなどと、愚かな真似は誓ってしないので安心してくれ」
「ロッドレイ様相手に、そのような懸念は抱いておりませんよ。
ですが、ご配慮ありがたく」
生真面目な騎士と侍女であるからして、二人は自らの発言に違わず、以後も互いの関係を目に見えて変化させることはなかった。
ただ、己と向かい合う人間が、はっきりと異性であると、些細なきっかけ一つで性欲の対象となり得る存在であると、一度その事実を認めてしまえば、無意識の範囲で身構えてしまうことは避けられない。
二人の他愛ない雑談は、これまでより明確に、危うい均衡の上に成り立っていた。
それでも、知人として良好な縁を保ち続けていた彼らであったが、ある日、そんな二人にまさしく騎士という職業が起因となる大きな転機が訪れる。
「次の大型魔獣討伐遠征に参加することになった。
来週からしばらく居なくなるが、そういった理由なので心配は無用だ」
「左様ですか、遠征に……」
驚きはなかった。
春の国ベセィネレアは緑多き豊かな土地を有しているが、故にこそ、他国のソレより一回りも二回りも肥大化した魔獣が数多く生息する過酷な環境下にもあるのだ。
そうした存在から国民を守るのも、騎士団の職務の内であり、けして少なくない頻度で彼らは討伐の旅に出立してゆく。
国家間での争いこそ遠き過去の出来事でしかないが、さりとて平和とは程遠く、男たちは戦いに明け暮れる日々を余儀なくされていた。
「どうぞ、神の御加護を。
私はここで、貴方様の無事のご帰還を心よりお祈りしております」
「ありがとう。
必ず、などと軽率な約束事は俺にはできないが……せめて生きて戻れるよう、全力を尽くすよ」
元より洗練された所作ではあるが、常より一層、丁寧に丁寧に頭を下げるルデナ。
魔獣退治のノウハウは騎士団に蓄積されており、余程不測の事態が起きない限りは、そう命の危機にさらされることも少ないのだが……それでも、一切の怪我人もなく遠征が完了するなど、まず有り得ない。
必要事項を伝え終えたロッドレイは、姿勢を正した侍女へ軽く返礼し、その場を後にする。
ただの知人であってすら、こうして胸を痛めている様子の優しい彼女が、夫のような最も近しい者に騎士を選びたがらないのは無理もないと、彼は小さなため息を吐きながら自身の短髪を掻き上げた。
そうして、第二騎士団が討伐遠征に駆り出されてから、十日ほどが経った頃。
植人侍女のルデナは、時と共に徐々に剥き出しになってしまった自らの本心に驚き戸惑っていた。
「あぁ、あぁ、なんてことかしら……。
私、とっくに彼に知人以上の好意を抱いていたのだわ。
あのような危険な職に就いている男性なんて、絶対に愛すべきではないと思っていたのに。
まさか、彼の安否が仕事も手につかないほど気にかかってしまうなんて。
あぁ、どうして? どうして、こんなに胸が苦しいの?
どうして私、こんなにも彼に会いたくなっているの?」
現在、彼女は有休を取って、城の敷地内にある上級使用人専用宿舎の自室でベッドに腰かけ項垂れている。
一年近くに渡って二人で短く言葉を交わしていく中で、ルデナは彼という人間に対する好意がゆっくりと恋へ、そして愛という形へ変質していっていることを微塵も自覚していなかった。
それが、当の騎士の不在により、やにわに表面化したのだ
本人にとっては突然の感情で、困惑するなという方が難しかった。
「一体、私どうしたら……」
穏やかでいられない彼女を置き去りに、ただ刻々と日は流れていく。
だが、そうした自覚を促されたのは、なにもルデナだけではなかったらしい。
「遠征先では君の顔ばかりが浮かんでいた」
「え?」
出立から一月と十日ばかりが過ぎれば、ロッドレイを含む騎士団の面々が無事に大型魔獣の討伐を終え、王城へと帰還した。
凱旋で凛々しく馬を駆る彼の姿を確認し安堵の息を吐きつつも、まだ顔を合わせる覚悟の決まっていなかった植人侍女だったが、翌日、当の騎士が彼女の部屋を訪ねてきて、開口一番、神妙な顔でそんなことを告げてくる。
「ふとした瞬間に、早く君とまた他愛ない会話をしたいと、ルデナ殿の元へ帰りたいと、そんなことばかり考えてしまうのだ。
一度振られた身で何をと思うかもしれないが、俺はルデナ殿を愛してしまった。
以前のような戯れとは違う……ルデナ殿、いや、ルデナ嬢。
俺は貴女に改めて、結婚を前提とした交際を申し込みたい」
「そ、それは……」
思いもよらぬ急展開に、彼女はたじろぐばかりだった。
当惑に空色の瞳をさまよわせる愛しい人へ、ロッドレイは逸る気持ちそのままに次々と想いを音にして紡いでいく。
「俺は三男で、継がねばならぬ領地もない、名前だけの貴族だ。
だが、それ故に融通が利く。
こちらが騎士である代わりという訳ではないが、子も仕事も家も金も、何もかも貴女の望むままにしてくれて構わない。
ただ、妻として同じ屋敷に帰ってさえくれれば、俺はルデナ嬢の全てを受け入れよう」
対面する騎士は、あくまで手のひとつも触れず、常の紳士然とした態度が崩されているわけでもない。
ただし一点、彼女を見つめるその赤い虹彩だけが、熱く熱く燃え盛っていた。
ルデナは、焼けてしまいそうなその視線に眩暈を覚えて、咄嗟に逃れるべく軽く顔を俯ける。
「……何もかも私の望む通り、とは、さすがに甘すぎませんか?」
「それだけ必死ということだ。
あぁ、そうそう。有事の際に夫が不在となるのが不安と言っていたな。
部下に年齢を理由に退役しようと考えている男がいるが、実力は折り紙付きだ。
人柄も穏やかであるし、軍部の事情にも通じている。
彼に護衛役として雇われてもらえないか打診してみるのもいいだろう」
晒した頭部に注目されている事実を感じながら、侍女は必死に彼のセリフを飲み込もうと思考を働かせていた。
普段の自身からすれば相当に回転の鈍い状態だが、そんな中でも理解せざるを得ない真実はある。
「本気……なのですね……」
「もちろんだ。
こんな悪質な冗談など、吐けるわけもない。
しかし、俺としては、またあっさり袖にされるものとばかり思っていたが……」
いつもの毅然とした彼女と違い、どうも煮え切らない態度でいることに違和感を覚えたロッドレイは、直後、ふと妄想にも近い想像が浮かんで、頬を羞恥に薄く染めた。
「意外と自惚れてもいいのだろうか?」
本人は独り言のつもりだったが、静かな空間に落とされたソレは思いのほか響いて、自然と呟きが耳に入ってしまった侍女の頬をも同様に染め上げる。
「……知らぬ間に、手遅れになっておりました」
「え?」
そして、ついに色々と観念したルデナは、自らの脳で導き出した結論を彼に伝えるべく顔を上げ、控えめに唇を緩めていった。
「遠征に向かった貴方様が、無事でいるのか怪我は負っていないかと、とにかく毎日、胸が痛くて、苦しくて……。
騎士の夫を持つことには未だ否定的ですが、その安否を確実かつ早急に知れるのであれば、妻となるのもやぶさかではないと……自分でも信じられませんが、そう思ったのです」
「へ?」
「それに、もし、貴方様が大きな怪我を負って帰ってきた時、冥界の川に片足を踏み入れた時、知人の立場では傍に寄ることすら叶わないかもしれない。
そんな非情な現実に、私は耐えられそうにありません。
ですので、貴方様が私を愛しているとおっしゃるならば、私は……私も、愛するロッドレイ様のためならば、騎士の妻となってみせようと……今しがた、そう心に決めました」
「っおお!」
彼女の宣言を受けて、ロッドレイの表情が歓喜に光り輝く。
次いで、自らの内側から溢れ出ようとする感情群を抑えるように拳を握り、彼はこれまでにない幼子のごとき満面の笑みで、心境を赤裸々に叫んで告げた。
「なんと! これほど喜ばしいことはない!
まさか、遠征疲れで都合の良い白昼夢を見ているということはあるまいな!?」
「間違いなく現実です。
宿舎内で大きな声を上げるのはお控えくださいませ。
夜勤のために就寝していらっしゃる方もおりますので」
「あっ、すまない」
両想いとなった直後でも、言うことは言う植人侍女である。
注意されて少々興奮の落ち着いたロッドレイは、改めて愛する女性に向き直り、潤む瞳でそっと窺うように逞しい両腕を差し出した。
「そ、その、ルデナ嬢。
触れても……抱きしめても構わないだろうか」
「……はい」
許しを得て、騎士は侍女をひしと胸にかき抱く。
間近に迎えた彼女からは、彼の当初のイメージ通り、花そのもののような甘い香りがした。
そうして互いにしばらく無言で体温を分け合っていたが、やがて、華奢な背に回す腕を解かぬまま僅かに体を離したロッドレイが、その先を求めて小さな耳に囁き尋ねる。
「……口付けを許してもらえるか?」
すると、ルデナの頬の緑が濃くなって、空色の瞳が波のように揺れた。
「い、いちいちお聞きにならないでください。
私にも恥じらいというものがございますっ」
「えっ。いやっ、す、すまないっ」
女性の機微に疎い彼に、彼女の言い分を正確に読み取ることは出来なかったが、「どうやら許しを与えるのは恥ずかしいものらしい」という事実だけは何とか理解して、慌てて謝罪しつつ、今後のために深く心に刻み込んだ。
ともあれ、ルデナの性格なら嫌な時は嫌と声を上げてくれるはずという信頼もあり、騎士は気を取り直して、瑞々しいアップルグリーンの唇に己のそれを寄せていく。
共に、自らの鼓動をうるさいぐらい頭の中に響かせながら、そっと交わした触れるだけの口付けは……その軽さと裏腹に、彼らの胸に惜しげなく染み入り、そこに宿る互いへの愛を熱く大きく燃え上がらせた。
「……あぁ、美しいな」
植物系人種であるルデナの蔓の髪の蕾が、彼女の感情の昂りに呼応し咲き乱れている。
それを目の当たりにしたロッドレイが瞼を細めて感嘆の声を漏らせば、侍女は彼の腕に囲われたまま、己の顔面を両手で覆った。
「おっしゃらないで……っ」
植人が心の底から嬉しい時、楽しい時、彼らの花は自然と満開になる。
自らの高揚が明白に晒されている現状に、彼女はこれまでの人生で最大の羞恥心に襲われていた。
悶えるルデナを前にして、ロッドレイはその珍しくも可愛らしい姿にニヤケた笑みを堪えきれず、片腕を未練がましく細腰に回したまま、もう片方の手のひらで緩む口元を押さえて隠す。
互いに無言でありながら、どこまでもくすぐったく甘やかな空気が室内を満たしていた。
かくして、ベセィネレア王国の騎士と侍女は一組の夫婦となるに至る。
当初、意外な取り合わせだと周囲を驚かせた彼らは、この時代の貴族にあって異色の、常に互いを尊重しあう姿勢を保ち続け、老後、死が二人を別つまで、いつまでもいつまでも睦まじく暮らしたのだという。
「愛している、ルデナ」
「えぇ、ロッド……私も……」
おしまい