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魔術による柔らかな灯りが馬車の中を薄青い月光のように照らしていた。
驚くほど滑らかな動きの馬車は、
心地よい揺り椅子に腰かけているような快適さだったが、
身体の快適さと心情は著しい乖離が見られている。
こんな状況でなければ心地よく寝られるのに。
ワンダが不快感を味わい始めてから、軽く数時間は過ぎ去っている。
もう、深夜と言っても過言ではない。
リントン子爵がハイネとワンダを別の馬車に乗せたのは、
十中八九『話を聞く為』だろう。
二人の話の差を照らし合わせるなら、別々に同じ話を聞くべきだ。
ワンダはそう信じて疑わなかった。
だからこそ、リントン子爵の尋問への対応を考えながら今か今かとワンダはリントン子爵が口を開くのをひたすら待ち続けていた。
けれどもリントン子爵は何時になっても口を開かない。
うんともすんとも言わないで、
ただただ、ただただ、ワンダを眺め続けている。
ソニアお嬢さまの侍女として、使用人として、その質やらを値踏みされることはないとはいわないけど…
あまり、こうただ見られるような経験をしたことがない。
サリバンもワンダを興味深げに見るが、
サリバンとリントン子爵とでは同じ視線ではない。
思い出すように、望郷するような視線の先に私がいるような気がしてならないのだ。
話を聞く以外で私を自分の馬車に乗せる意味がないはずよね?
ハイネさんと同じ場所に置いておくのが心配なら、平民の怪しい女は荷物か御者と一緒に括り付けておくのが正しい待遇のはずよ。
このまま黙っている選択肢もあるが、
リントン子爵を会話ができるタイミングなんてそうないだろう。
それなら話せばいい。
質問すればいいのだ。
このままだと、ただただ我慢比べになっているのかも分からない沈黙で時間が過ぎてしまう。
リントン子爵は名前を失った『あの子』を召喚した人である可能性が高い。
そして、『あの子』を召喚して名前を奪ったのだとしたら、
この人もサリバンと同じ悪魔の可能性だってある。
「こんな時間になると、お腹が空いてしまいますね。」
のんびりとそう言うと、リントン子爵は眉をひそめた。
警戒するだろうか?それとも、気を抜くだろうか?
「…君はお腹が空いていたのか?」
リントン子爵は警戒とも軟化とも違う反応を見せた。
「え?」
「夕食は取っていなかったのか?」
「ええ、まあ。
そんな時間もありませんでしたので。」
肯定すると、
リントン子爵は無言で足元の鞄を探り出す。
おもむろに手渡されたのは口の大きい硝子瓶だった。
透明な瓶の中には薄い緑色の結晶が魔術の灯りで鈍く輝いている。
恐らく、砂糖を結晶にした菓子だろう。
「綺麗な砂糖菓子ですね。」
「何も食べないよりましだろう。」
「私が頂いても宜しいのですか?」
ワンダがリントン子爵に伺いを立てると、リントン子爵は「ああ」と短い返事をする。
不思議と危険だとは思わなかった。
でも、食べたいとも思えない。
「食べないのか?」
「…なんだか、私だけ頂くなんて申し訳なくて。
リントンさんも何か食べませんか?
実は私、ビスケットを持っているんです。」
ワンダは自分の鞄からビスケットを取り出すとリントン子爵に差し出す。
ビスケットはサリバンの部屋から拝借したもので、サリバンが用意していただけあって、ワンダが食べるビスケットよりも遥かに質の良いものだ。
「お一つ、如何でしょうか?」
当然、断るだろうと思ってのことだった。
「有難う。」
リントン子爵は静かに礼を言うと、
ビスケットを一枚摘まみ、ザクザクという音を立てて、食べてしまった。
「………。」
「君は食べないのか?」
「いえ、私も頂きます。」
ワンダは乾いた口でビスケットを頬張る。
背教者の容疑がかかる罪人を連行する貴族が、
罪人のビスケットを食べてしまうなんてそんなバカな話があるだろうか?
毒でも入っていたらと警戒してもよさそうなものなのに。
ワンダがビスケットを咀嚼し終わると、
馬車の中には馬が走り車輪が回る物音だけが響く。
そして、リントン子爵は再びワンダを見ていた。
「あの、何か話があるから、
ハイネさんと別の馬車に乗せたのではないのですか?」
「ああ、そうだな。」
リントン子爵は素直に頷くが、なかなか言葉が出ない。
「では、問いかけてもいいですか?」
「いや、待て。」
そう言うと、リントン子爵は時間をたっぷりと使った。
「………好きな食べ物は?」
「?」
意図が読み取れずまじまじとリントン子爵を見る。
サリバンのように別の生命体として愉快そうに観察しているようには見えず、
やはり、どう見ても真剣に問うているようだ。
「食べ物、ですか?」
食べ物で何が分かるというのだろう?
いや、分かることもあるけど、今話す話だろうか?
「嫌いなものでもかまわない。」
「好きなものはそれなりにありますが、嫌いなものはあまり思いつきませんね。」
「好き嫌いがないのは、幸いなことだな。」
リントン子爵の口角は少しばかり上がっているように見える。
まずは雑談をしようということだろうか?
「リントンさんの好きな食べ物はなんですか?」
「私か?そうだな…レモンは好きだ。」
「レモンですか?」
「ああ、レモンや柑橘類を使った料理や焼き菓子が好きだな。」
ふと、故郷の焼き菓子の味を思い出す。
さっくりとしたバターの香りと甘酸っぱいレモンカード。
故郷のレモンタルトの味は忘れられない。
ソニアお嬢さまはミルクティーと一緒に食べたがっていたけれど、
私はストレートの紅茶の方が好きだった。
また、食べたいな。
「私も、」
ワンダは同意しようとした口を寸前で閉ざす。
「…私は、王都の焼き菓子が気になります。」
「そうか」
その後もリントン子爵は背教者や審問、魔女、ルイス教授やハイネとの関係のことは一切口に出さず、
「趣味」や「最近読んで面白かった本」など極めて個人的で要領を得ない質問を繰り返した。
お陰で、リントン子爵は特に趣味のない人間で、最近読んで面白かった本はなく、仕事の関連の本しか読んでいないという極めて個人的な話だけだった。
けど、リントン子爵が私を丁重に扱っているのはどうやら確かなのよね。
まるで意味が分からないけれど。
判断材料が少ない中でワンダが導き出した答えは、
あの少女が影響しているのではないか?というものだった。
「リントンさんは、リントン子爵令嬢のお父様でいらっしゃいますか?」
「養女に迎えている。」
「やはり、そうだったのですね。身分を知らず、失礼な態度をとってしまっておりました。
リントン子爵令嬢とは学園で親しくさせて頂いておりました。
改めてご挨拶をさせて下さい。」
「その必要はない。
私は君のことを知っている。」
「私を?ですか?」
「ああ、あの子から『お茶会の作法をウェンディさんに教えてもらっている』という趣旨の文を受け取っていた。
でも、まさか、君がウェンディ・コナーだったとはね。」
どんな話が手紙に書いてあったのかは分からないが、彼女に厳しくした記憶はある。
「そうでしたか。私は何と書かれていました?」
「確か『鬼のようだ』と書かれていた。」
ワンダは誤魔化すことも出来ず、笑みを浮かべた。
お茶会の練習中の無邪気な様子を思い出しながら、少しばかり忌々しく思う。
「それから、『凄く助けてもらった』とも書かれていた。」
「そう、ですか。」
今度は、焦げるような痛みが胸に広がる。
全くもって助けた訳ではなかったからだ。
「ご令嬢も審問を受けるのですよね?
さぞ、ご心配でしょう。」
「…君は?」
「私、ですか?もちろん心配です。」
状況を顧みても、今はソニアお嬢さまのことが一番心配だが、あの子のことも心配であるという気持ちに嘘はない。
あの部屋を出たあと、彼女はどうしただろうか?
最後に見た姿は怯えた様子で、
扉に出した後のことは分からない。
話を聞いた限りだと、あの子もソニアと同様に審問を受ける予定にはなっているものの、魔女はソニアお嬢さまということになっている。
「ソニア・バロイッシュ令嬢には会わせられないが、
あの子とは会わせられるかもしれない。」
私は、
ソニアお嬢さまの話なんて、
一言も
出していなかった。
なのに、なんで?
ワンダは混乱しながらも静かにリントン子爵を見つめた。