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ナナバへの挨拶の後、
ワンダは自室として使わせてもらっていた部屋を素早く片付けた。
荷物の量は全く増えておらず、学園に来た時と同じ鞄を速やかにもって部屋を出る。
正面門を確認すると、生徒が学園の門外へ出ることを止められている様子が見える。
この状況だもの当然よね。
ワンダは一人納得して、リントン子爵令嬢を殺した場合の逃亡経路として考えていた抜け道の一つを使うことに決める。
恐らく、他の生徒達は寮か教室、食堂にいるはず…。
古典魔術塔の近くの塀には大きな木があり、三階の教室の窓からその木へ飛び移ると塀を越えられるはずだ。
古典魔術塔に行くと、やはり人の気配はほぼない。
ワンダは考えていた通りに、三階の窓から木に飛び移り、塀を越えて学園の門の外へ出た。
こんなに簡単に出られるなんて警備をもっと頑丈にしないと駄目じゃないの。
仮にも王族や貴族が通う魔術学園である。
警備は強固だと聞いていたのに拍子抜けだ。
正直なところ、ルイスが図書室で捕まえようとしたようなことが起こるのではないかとワンダは内心冷や冷やしていた。
でもそう言えばルイス教授…
図書室の本棚には魔力なしに本が動くと部屋のベルが鳴る魔術をかけていたと言っていたわね。
それなら魔力を探知する類いの魔術がかけられている結界魔術って私には効果がなかったりするのかしら?
そんなこと試したこともないが、
もしそうだとしたら私の天職は侍女ではなく、盗賊になってしまう。
そんなことを考えながらも、
ワンダは木々の茂る森の先にあるアルテの街を目指すため、馬車道に近づいていく。
抜け出たこともあるから見つからずに街へ降る方がいいけど、
もうすでに辺りは薄暗く、迷子になることは避けなくてはいけないわね。
降りながら馬車道に近づくと案の定、人通りも馬車通りもなかった。
生徒の外出を禁じていたことから、
予測はしていたが一時的に馬車の出入りを制限しているらしい。
ワンダはすっかり暗くなってしまった夜空を見上げながら街まで降りる小一時間の道のりにうんざりとした。
それから半刻、ワンダは疲労感に足取りを重くしていた。
そういえば私、三日間寝ていたのよね。
体力には自信がある方だが、丈夫な人間でも三日と動いてなければ身体は次第に弱る。
サリバンに食事をとらされていなかったら、動く気力さえなくなっていただろう。
自らも美味しそうに食事をとっていたサリバン姿を思い浮かべ、
ワンダは困ったように口元をほころばせた。
それにしても、サリバンを愛しているという嘘がナナバ庶務長を納得させる理由になるなんて思わなかった。
ナナバの「愛しているのか?」という問いには
ワンダがソニアを愛しているのかという「愛」には含まれない「愛」が暗に織り込まれていた。
見合い話を断ったことから結婚話すらまともに出ないワンダだったが、
そもそも愛や恋をしたいを避けたいとすら思っている節があった。
多くの人にとっては恋が悪いものではない。
恋の妄信は人と人を繋げるのに役立つし、人は一人では生きてはいけないのだ。
だから家族を作って、集団を作って、
共に支え合っていかなければならない。
だから、誰かと一緒にいるきっかけを作るための「恋」は非常に大事なことなのだろう。
しかし、ワンダは大事だと思う反面、
どうしても魔力のない子どもを産み、自害した母のことを思い出してしまうのだ。
貴族の男に見初められた母がその男を愛していたかは知る術はないものの、
アルテ魔術学園で学び、魔術の才があった母がわざわざ不幸になりそうな家に嫁ぐだろうか。
それこそ、魔術師を生業にして生きる道もあるはずだし、
従者の一族なら魔力のない子どもを産んだ末路が予測できるように思う。
それに、お嬢さまのような貴族の結婚だって結婚に付随するもののために結婚するのだ。
貴族の結婚や周囲の恋愛を見回しても支え合うということが恋愛と直結するなんて到底思えない。
動物としての本能があるからこそ、人は支え合うことができる。
でも、その支え合いと本能が上手くかみ合わなければ結局のところ上手くはいかないのだろう。
それに…そもそも、サリバンは人間ではない。
人の理を持っていないものと集団を作って支え合うことなんて到底できないのだ。
もしもサリバンがアルテ魔術学園のなんでもない教諭だったなら、ああでもないこうでもないと言いながら生活するのも楽しかったかもしれない。
でも、彼は悪魔だ。
たまに見せる人ならざる力や人の理を外れた考え、
ぽっかりと空いた心臓、
狂気的な笑い声、美しい顔
彼を作り上げる全てが人からは外れ、
むしろ人を人から外れさせようとしているように感じる。
きっと、私がもしも…と考えたことでさえ、
悪魔に惑わされているのではないだろうか。
そこまで考えたところで、
後方から数羽の鳥が一斉に飛び立つ。
逃げるような羽ばたきに咄嗟に大きな木の後ろに回り、身体を小さくして様子を窺う。
馬車?
物音からするに馬車が蹄の音だ。
学園は閉鎖され、馬車の出入りは禁じられていたはずなのに一体どういうことだろうか?
馬車は一定のリズムを刻んでどんどんと近づいてくる。
道は馬車が近づくにつれて明るくなり、その明るさから魔道具が使われていることに気が付く。
貴族の馬車、それも恐らく男爵又は子爵。
もしくは豪商の馬車という可能性もあるわね。
それ以上となると更に高価な馬車や翼のついた魔獣の馬車になることが多いのだ。
ワンダはとっさにそう考え、目を凝らした。
この騒ぎで学園の中に入れる男爵や子爵、それに商人がいるとしたら、このキナ臭い件に関わっていると考えて間違いはないだろう。
馬はこげ茶、御者はそれなりにいい身なりの屈強そうな男性、暗くて分かりにくいが馬車塗りは濃く光沢感がある。
あとは紋章があればいいのだけれど…
そう思い更に目を細めるが、流石にこの暗さでこの距離では確認できない。
ワンダは馬車を見送りながら、
疲れた身体に鞭を打って街までの道を走ることにした。
夜の城壁外は魔獣が出ないとも限らない。
それに早朝に出かけた方が夜に出るより馬にかける負担は確実に少ない。
街外へ向かう馬車でも夜中出発することはせずに今夜はアルテの街で過ごすはずだ。
早く街へ降りてあの馬車を探さなくてはいけない。
やっとのことでワンダが街へ到着する頃には賑やかな露店は既に店仕舞いが終わっている時間になっていた。
どうやら、空いている店は夜の飲食店か宿屋くらいのものだろう。
サリバンに言われた通り星屑宝飾店のハイネも尋ねなければならないが、
まずは胡散臭い馬車が先決とワンダは主な宿屋を見て、先ほど見た場所の行方を確認していく。
「駄目ね、見つからない。」
特徴のない馬車のため、人に聞くにも難しい。
流石のワンダも疲労困憊だ。
仕方なく諦めて星屑宝飾店を訪ねようと高級な店の並ぶ一角へ足を伸ばす。
すると、ワンダの目線の先には茶色い馬に艶やかな深い紺色の塗りをして、屈強な男性が馬を撫でて主の帰りを待っている様子だった。
「なんでここにいるのよ…」
星屑宝飾店の店先に停まる先程の見た馬車を見ながら、ワンダはうんざりと呟いたのだ。




