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放課後を知らせる鐘の音が鳴る。
ワンダは人通りの多い廊下を避けながら学生用の食堂に向かっていた。
食堂は相変わらずの賑わいで、
食事の時間ではなくとも自習をする生徒や談話をする生徒に解放されている。
人ごみは避けたかったけれど、
正直な話この様な状況になるなんて想像もしていなかったので仕方のない話だった。
こんなことなら、食堂での待ち合わせは了承せずに適当な空き教室を待ち合わせ場所に指定しておけば良かった。
ワンダは眉間に皺を寄せながらため息を吐く。
今日は『マリー』に成り代わってしまった少女と話をすることになっている。
人の多い食堂に足を踏み入れるや否や一人の生徒がワンダの前に飛び出してきた。
「サリバン先生の掃除係さん!
あの!!サリバン先生はいつ帰ってきますか?」
眼鏡をかけた真面目そうな男子生徒は大きな本を大事そうに抱えており、ワンダに話しかける熱量も高い。
彼はソニアお嬢さまと同じ時間に同じ講義を受けていた生徒だ。
真剣に講義を聞き、講義後もサリバンを呼び止めて質問をしていたことが印象的でワンダもこの生徒の顔に見覚えがあった。
「私の方には何も連絡がなくて…
何時と返答できず大変申し訳ございません。」
「そんな…掃除係さん、サリバン先生に言って何とか戻ってきてもらえないんですかね?
サリバン先生の授業が一番分かりやすいんですよ!!」
生徒は困った様子だ。
何か手助けをしてあげたい気持ちにならなくもないが、ワンダが出来ることなどなにもない。
私だってあの人が何処に行ったのか知りたいくらいだもの。
返答に困っているとどこからともなく騒ぎを聞きつけた生徒たちも集まり、いつの間にかワンダは食堂の人だかりの中心にいることになってしまった。
まったく、頭が痛いわ。
もう、一週間以上こんな調子なのである。
ルイス教授の付き添いで街にいってから既に一週間以上経過しており、
私を「掃除係くん」と呼ぶ悪魔は今日で三週間もの間学園を不在にしていることになる。
講義に関してはサリバン教授に代わって講師や准教授の先生方が講義に入っているはずなのだが、
他の先生方が講義に入ってからというもの、廊下を歩くたびにワンダは生徒に呼び止められている。
入ったばかりの庶務がどれだけ教授のことを把握していると思っているのか?
と聞きたいくらいだが、そうもいかない状況らしい。
あまりにも生徒やら終いには教諭たちにまでもサリバンの行き先を聞かれるため、
事あるごとにワンダを呼び出すようになったルイスに相談をしたところ、
「光栄なことだ!諦めたまえ!」と恨みがましく言われる始末だ。
これまでサリバンは「影の薄い普通の人」として認知され、
関わっている間はサリバンを捉えられているのだが、
関わらない時間が増えると輪郭がぼやけるように、薄くなってしまうという。
サリバンと関りがあった人物に関しても靄がかかったかのように薄くなり、関係性もあやふやで曖昧な印象になるそうだ。
しかしながら、ワンダがなりすます架空の人物のウェンディ・コナーだけは「サリバン先生の掃除係」として印象付けられてしまっているらしい。
「だからこそ、掃除係に聞けば分かるのではないかいう発想に至っているのだよ、分かったかね?サリバン先生の掃除係!!」
結果としてルイス教授まで「サリバン先生の掃除係」と呼ぶようになってしまった。
ワンダは取り囲んでいる生徒一人一人に謝りながら「もうしばらくお待ちください。」と伝えていく。
姿を隠し、あまり人に強い印象を与えたくない身としては現状のような生徒に取り囲まれるのは流石に困るが、こうなってしまったら私が対処する他仕方ないらしい。
けれど、本当にあの人は今何をしているのだろう?
あの悪魔から出されていた課題は二講義分だった。
つまり、予定では二週間以内に帰るつもりだったということになる。
なのに、まだ戻ってきていない。
悪魔なのだからそういう感覚も人間とは違うということも考えられなくもないが、
この生徒たちの様子からしてみてもサリバン教授は教師として優れており、短い時間ながら仕事を楽しんでいるように見えた。
そう思うとワンダ自身何とも収まりがつかないような何とも言えない焦燥に近い感覚に襲われるのだ。
生徒たちは口々に質問をしており、掃除係の返答に納得していないのがありありと分かる。
場所がやはり悪かった。
騒ぎ出す人ごみに他の生徒たちも「なになに?」と興味深々と知った様子で加わってしまっているのだ。
人の野次馬根性というのは本当にすごい。
貼り付けた笑顔がはがれそうになるのを必死で抑えながら、道を開けてもらおうとしてもそうはいかずワンダはこの場の切り抜ける方法を考えるがあまりいい判断がつかない。
すると、
「皆さん、何を騒いでいるのですか?」
大して大きな声でもないのに、凛としたよく通る声が響いた。
出来ていた人だかりが一気に飛散して、疎らになる。
顔を上げると銀色の輝く髪の美しい人が嫋やかにほほ笑んでいた。
「そっ、ソニアさん!!」
最初にワンダに声をかけた男子生徒が声を出すと全員の注目が良く通る声の主の方に向かう。
久しぶりにこんなにも近くでお嬢さまを見た気がする。
学園に来てからワンダはソニアと距離を置いていた。
何かあったときに、また何かをしなければならなかったときに
ワンダとソニアの関係を周囲に悟られることを避けるためだ。
近くで見るソニアはやはりやつれて見えるが、
恐らくワンダくらいしか気付かない程度で凛とした高貴な空気には淀みが一切感じられない。
現時点ではこの状況がいいのか悪いのかは分からないが、
お茶会後はやはり次の王妃はソニアだろうとする意見が優勢になっていることも少しだけ顔色がましになっている大きな理由の一つだろう。
「あの、その…講義で分からないことがありまして、サリバン先生に聞きたかったので…」
眼鏡の男子生徒はおずおずとソニアの質問に答える。
「今、サリバン先生はご不在ですからね。
私もこれから友人たちと基礎魔術塔の先生のところに行くつもりですので貴方も如何ですか?」
ソニアの後ろには仲良くしている友人もいたようでにこにこと頷いている。
「えっ、そんな!!いいんですか?」
「ええ、勿論です。他の皆さんも講義の質問であれば協力して取り組みましょう?」
男子生徒や野次馬の如く集まっていた生徒たちは既にワンダのことなど気にしていない様子で、圧倒的存在感を放つソニアに惹きつけられている。
騒いでいた生徒たちは離散して、ワンダの周囲には通り道ができた。
少し離れたソニアと一瞬だけ目が合って、ソニアは小さく口角をあげた。
私に助け船を出して下さった。
お嬢さまを助けるつもりでここに来たのに、
不甲斐ないことに助けて頂いてばかりだ。
結局、今の所何一つ生贄の儀式についても分かっていないどころか、
お嬢さまへの裏切りに繋がるのかもしれないと思いながらも
『マリー』が『マリーではない』ということを信じて身代わりの少女に肩入れしてしまっている。
あまりにも中途半端すぎて笑えないわ。
ワンダは眉間によった皺を自分の指でぐりぐりと指圧しながら、食堂の隅の方に目をやると可愛らしい少女が小さく手を挙げた。
「ウェンディさん!すみません、わたしが呼んだのに…何も出来なくて!!」
「いいんですよ、貴女が悪い訳ではないでしょう?
むしろお待たせしましたね。
それでは行きましょうか…リントン子爵令嬢。」
ワンダがそう呼ぶと少女は目をぱちぱちとさせて一瞬固まったあと、小走りで近づいてきた。
「リントン子爵令嬢ですか…ちょっと聞きなれないですね。」
静かな廊下を歩く中、少女はぽつりとつぶやいた。
それもそうだろう。
この子は『マリー』で通っているのだもの。
けれど、何となくそう呼んでしまうことがいいことではない気がしてリントン子爵令嬢と呼んでしまったのだ。
「呼び名はとても大事でしょう?」
「…!!」
少女は驚いた様子で、けれども強く同意するように頷いた。
「はい!そう思います!
元の世界では名前の意味が大事で『名は体を表す』って言葉もあって…
わたし、結構…自分の名前!気に入っていたんです!」
「呼び名がその人を作るか…いい言葉ね。」
「確かに、わたし、ウェンディさんにちゃんと名前で呼んでもらえるようになりたいです!
だから、今はわたしのことリントンって呼んでください!」
元気にそう言う彼女の瞳には強い力があり、
その瞳の輝きにワンダは言葉を詰まらせてしまった。
名が体を示すのならば、
今の私は、彼女に向かう私は何なのだろうか?
彼女が言ったように彼女を助ける役割のウェンディ・コナーなのだろうか?
それともソニアさまの侍女でバロイッシュ家のエンブレムを背負ったワンダ・コンロイなのだろうか?
ウェンディ・コナーになったのもソニアさまを守る為なのに
彼女にそう呼ばれると中途半端な自分が更に中途半端なものになってしまいそうだ。
「……リントンさん、
私のことは掃除係と呼んで頂けませんか?」
苦し紛れの発想だった。
「えっ!?何でですか?」
「そちらのほうが最近は馴染みがいいので…。」
「はぁ、そうなんですか?」
「ええ、まあ。」
「分かりました!これからは掃除係さんって呼びますね!」
夕方の廊下を歩く、
赤い光がちかちかとして眩しくて魔が差す。
「私もいつか…」
「なんですか?」
「いえ、なんでもないわ。」
ワンダ・コンロイは
私という人間は死んだのだ。
ワンダは何でもない顔をして静かに息を吐き殺した。