35
サリバンの講義の準備のため、ワンダは基礎魔術塔に足を向ける。
少し重い足取りであったが階段を上がり、昨夜逃げかえった最上階のサリバンの研究室の扉の前に立つ。
ノックをして部屋に入ればいいだけなのに、動きは自然に止まっていた。
「他から調べてみる」と少女には言ったが、悪魔について調べられる先は限られている。
魔力のない私が悪魔について調べる為にはどう考えてもサリバン教授を頼る他ないからだ。
そもそも、これから講義があるのだからサリバンを頼っても頼らなくても、扉をノックしない訳にはいかない。
ああ、昨日逃げ帰った後だと会い辛い。
それに…私がノックできないのは怖いからだ。
ワンダはサリバンに抱きしめられ、甘言に揺らいだ自身を恥じながらも、
もう一度同じことが起こったら契約してしまうかもしれないとも思っていた。
「怖いけど、行きます!」と言い放った少女の方がよほど強い。
私は臆病だなとワンダは自分自身を笑った。
ノックをためらっているとワンダが上がってきた階段の下の方からゆったりとした硬い足音が響く。
教室は下階の為生徒は階段を殆ど使用しない上に、最上階に上がる為の魔術を使っているサリバン以外の教員も何らかの魔術を使っているのか、これまで自分以外の人間が階段を使用しているのを見たことがなかった。
ワンダは不思議に思ったこととノックしてサリバンと対することから逃げたいという思いも相まって、
サリバンの部屋のノックはせずに足音を確かめるため階段を下ることにした。
階段を降った先にいたのは朝も会った庶務長のナナバの姿だった。
「ナナバ庶務長?」
「ああ、ウェンディさん…よかった。
はぁ、基礎魔術塔の階段は長いですね…
はぁ、歳はとりたくないものですね、疲れてしまいました。ははは…。」
高齢のナナバの息は大げさなほどに上がっている。
庶務を統括するナナバが各塔に来ることは珍しく、それこそ来て当初の施設を説明した時くらいしかナナバが本部棟を離れているのは見たことがなかった。
何か大事な用向きだろうか?
用事があるなら私に伝えれば、
余計なプライドなど皆無なサリバンは自らナナバの元に行くことも厭わない気がするのだが…。
「サリバン教授にご用事でしたか?」
「いいえ、いいえ。
サリバン先生がしばらくの間アルテを出ることになりましたので
ウェンディさんにそのことを伝えに来たんです。」
サリバンがアルテを出る?
昨日までは全くそんな話はしていなかった為、ワンダは少なからず驚いていた。
そもそも休みや休講の調節は庶務であり講義の準備を行うワンダの仕事である。
ワンダの記憶ではサリバンに外出しなければいけないような用事や学会などは入っておらず、むしろ基礎魔術塔の教授がこの予定でいいのかと疑問に思っていたくらいのものだった。
「申し訳ありません予定は確認しているつもりだったのですが…」
「仕方ありませんよ、本当にいきなりのことだったので…
つい先程、研究の為に王都へ向かうとこちらに直接連絡が入りまして、
既にアルテを発たれたとのことです。」
「サリバン教授は…もう、いないのですか?」
既に発った後と聞いて、驚いていたワンダは驚きを通り越して呆けてしまう。
ではいつ戻るのだろうか?という疑問が浮かんだ後に、
疑問はそもそも戻るのだろうか?というものに変化していく。
朝の濃い霧のように、いつの間にか日上がる水のようにいなくなる。
そもそも人ではない魔のものならば突然姿を消すことも可笑しくはないのかもしれない。
でも、そんなに突然いなくなるなんて、
そんなの…
「何時頃帰られるのでしょうか?」
ナナバは眉を下げて首を横に振る。
「いつ帰られるかは私も聞いていません。
そんな顔しないで下さい…別れというわけではないのですから。」
「す、すみません。」
サリバンがいないことを寂しがっているように見えたのかもしれない。
そう思われたと思うとワンダは恥ずかしくなる。
どちらにせよ、ナナバの表情は穏やかに子どもを落ち着かせるようなものへと変わり、古い金色の鍵をワンダに握らせた。
「サリバン先生の部屋の鍵です。
貴女に管理させるように預かりました。
サリバン先生は貴女のことを信頼されているのですね。」
「…そう、ですか。」
そこはかとなく居心地が悪くなりワンダは眉をきゅっとあげる。
信頼されているというよりも、私のようなただの人間なんて悪魔にとっては箸にも棒にも掛けられていないという方が正しい気がした。
「暫く、ウェンディさんにはまた配属前にしたような雑務や他の教諭の方々の手伝いを行ってもらうことになります。
取りあえず、まだ生徒たちには伝えていないので、教室に来る生徒に休講になったことを伝えて下さい。」
「休講の間の課題などは?」
「サリバン先生の部屋の方にあるそうですよ。
そちらを配布するようにお願いします。」
「承知致しました。」
「この階段は年寄りの膝には堪えますね」と言いながら階段を降っていくナナバを見送ってワンダは再びサリバンの研究室の扉の前に立った。
先程はノックを躊躇っていたが、今回はノックはせずにそのまま預かった金色の鍵を差し込む。
ガチャリという開錠の音が響くと、いつも明るい室内は暗幕で閉じられ僅かに周囲が見えるほど暗く、人気がない。
それでもサリバンの使っているテーブルの上に紙の束が置いてあり、小さいメモが残されている。
『掃除係くんへ
講義の課題、宜しく。
部屋も物も自由に使っていいけど、
他の人は入れないでね。
キミの悪魔より』
「なによ、これ…。」
不満そうに紡がれた言葉に安堵があったことにワンダは気付かないふりをして、
幾つかに分割されている紙束を一つ一つ確認し、次の講義に来るはずであろう学年のものを引っ掴むと部屋を出て荒っぽく鍵を閉めた。
その後、ワンダは生徒への連絡と課題の説明のため忙しく動いて回ることになった。
サリバンの講義は分かりやすく丁寧で面白い。
それはワンダ自身も身をもって知っていることだったが、
同じように思っている生徒が多いことを嫌というほど実感することとなった。
他の教諭の講義が休講になった時は「やったー休講だ!!」と飛び跳ねている学生もいたが、休講になったことを伝えると残念そうにする生徒がやたらと多い。
その上、ナナバから依頼を受け雑務にあたっている時でさえ生徒に呼び止められることが増えた。
「サリバン先生の掃除係さん!
先生が戻ってきたら振替の講義頼めるか聞いて下さいね。」
「あ!サリバン先生の掃除係さん、サリバン先生は帰ってきましたか?」
一応、ウェンディ・コナーというちゃんとした偽名があるのだが、サリバンがいなくなってからの数日間はウェンディという偽名よりも『サリバン先生の掃除係』と呼ばれるほうが多くなった気さえする。
掃除係という役職はない。
それはアルテ魔術学園に来る前から知っていたのに、
いつの間にかなかったはずの役職についている自分に違和感を感じなくなっていることに違和感を覚えた。




