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ワンダはマリーが泣く様子を横目に、ぼんやりと温室を観察した。
エメラルド色の蝶が舞い、鮮やかな色の花が咲く室内は初夏のようで心地がいいはずなのにどこか人工的で落ち着かない気持ちにもなる。
マリーは直ぐには泣き止まないであろうし、些か手持ち無沙汰である。
ジジとの手紙受け渡しの際に不自然でないようにと買ったお菓子の入った紙袋を開くと甘く爽やかなレモンの香りがふわりと漂う。
ルイーダ地方の特産品と言えば柑橘類である。
そのため柑橘類を使用した焼き菓子は有名で、地元でもよく食べられるものであり、爽やかな柑橘類を甘く煮た香りはワンダを懐かしい気持ちにさせる。
本来なら懐かしさに駆られながらいそいそと食べたいところだが、
好きなはずの甘いお菓子たちも昨晩の悪魔の瞳を呼び起こし、食べたい気分ではなかった。
ワンダはそっと菓子の袋を閉じると、
行商から買ったサンドイッチを遅い朝食として食べ始めることにした。
あまり意識はしていなかったが、昨晩は夕食を食べていない。
どうやら空腹だったようでなんでもない玉子とトマトのサンドイッチが物凄く美味しい食べ物ように感じられ、短時間で全てを平らげてしまった。
ワンダは少々早く食べ過ぎてしまったかと泣くマリーを伺うとどうやらこちらも落ち着いてきたようだ。
次第にマリーの泣く声が段々と小さくなっていき、鼻をすする音が聞こえる。
その内、音は聞こえなくなり、その代わりにワンダの偽名を呼ぶ声が聞こえた。
「ウェンディさん…」
マリーはまだ顔を伏せ、ぐもった声ではあるがもう泣いてはいない。
「はい、何でしょうか?」
極めて落ち着いた声で返答する。
「ウェンディさんは優しいですね…」
「……優しくはないですよ。」
マリーは顔を埋めたまま「そんなことない」と首を振る。
そんなことあるのよ、マリー。
マリーのマナー指導を引き受けたのも、こうやって慰めているのも、お嬢さまのためだ。マリーが優しくされていると感じたとしても、理由なく優しくしているわけではないのだ。
「馬鹿みたいな話なんですけど、
わたし、あんなに皆から嫌がられてたなんて気づかなくて…。」
「誰かから嫌がらせされたのですか?」
将来有望な男子生徒から好意を向けられつつも誰を選ぶこともないマリーを嫌う生徒は少なくない。
マリー達の年齢の貴族ともなれば婚姻というのはとてつもなく重要なため、婚約者のいる男子生徒とデートする下級貴族の養女など何を言われて何をされても可笑しくないはずなのだ。
『神様の愛し子というレッテル』と『ソニアという規律』がなければそもそもマリーは現状のような学園生活は送れてはいないだろう。
マリーは小さく首を縦に振る。
「教室に行ったら、『卑しい』とか『売女』とかそういう噂話がいっぱい聞こえてきて…びっくりしちゃって…。」
この子、今まで気が付いてなかったの?
ワンダは若干呆然として反応に困ってしまった。
ワンダはマリーのことを以下のように解釈していた。
一、世間を知らず、絶望的に周りが見えていない天真爛漫さのある子。
一、全く周りを気にしないでいられる精神を持った子。
前者の場合、遠い国から来たということを考えれば世間知らずも納得が行くが、周りが見えていないに関しては本当に絶望的である。
だからこそ、マリーは一周回って後者の何を言われても気にしない人間なのではないかと思っていたくらいだ。
ワンダから見ると可愛い生徒になってしまったが、昨日のお茶会での反応を見ても周囲の生徒たち、とくに女子生徒からはよく思われていないのは確かだろう。
気が付いていなかったとすると、学園に特別入学して約半年以上気が付いていなかったのにどうして今更気が付いたのかしら?
「…やっぱり、ウェンディさんは知っていましたよね。」
顔を伏せていたと思っていたマリーは泣いてはいないが泣いた後のぐちゃぐちゃの顔でワンダの表情を伺っていたようだ。
「気にしていないのかと思っておりましたので、忠告の必要はないかと…。」
「わたしは『マリー』だから大丈夫だって、思っていたんです。
でも、実はウェンディさんと話すようになってから、周りが…こう、はっきりと?見えるようになってきていたんです。
それが今日、なんていうか霧が晴れたみたいに周りのことが聞こえるようになっていて。
…やっぱり、わたしなんかじゃ『マリー』になれるはずなかった…。」
マリーの言葉の最後の方は聞き取れないくらい小さかったが、確かにワンダの耳に届いた。
マリーになれるはずなかった?
マリーになれないとはどういうことだろう?
『マリー』になれるはずないだなんて、この子が『マリー』じゃない別人みたいに聞こえる。
ワンダは発言に困惑しながらあまりにも馬鹿げた問いかけを零すように投げかけていた。
「マリーさんは『マリーさん』でしょう?」
マリーは小さく首を横に振る。
「…ウェンディさん、わたし、本当はマリーじゃないんです。」
「それは……どういうことでしょうか?」
「こんなこと言われても困ると思うんですけど、
この世界は私がいた世界の乙女ゲームにそっくりなんです。」
「乙女ゲーム?」
「すみません分かりませんよね。
えっとあの…恋愛小説みたいなものです。
わたし、その話が大好きで、ずっと主人公のマリーになりたかったんです。
ここに来るときに……『願い事はないか?』って聞かれて、
色々嫌なことがあったから逃げたくて『マリーみたいになりたい』って願いました。」
にわかに信じがたい話にワンダの思考は滞るが少女のにわかに信じがたい話はまだまだ続く。
「この顔、私のもともとの顔じゃないんです。
私はこんなに華奢じゃなくて…父さんに似て背も高いし、お菓子が好きだからどっちかというとぽっちゃりだし、ソバカスだってありました。
だから、『マリー』みたいな可愛い子になりたかったんです。」
思わずワンダは少女を眺める。
少女は相変わらず華奢で可愛い、まさに守ってあげたくなるような女の子だ。
「その…、魔術で容姿を変えているという訳ではありませんよね?」
考えられるとすればそれしかないけど、凄く高価だったはず。
見た目を変える魔術や魔道具もあるとワンダは夜会の給仕で聞いたことを思い出すが少女はやはり小さく首を振った。
「ここに来た時にはこの…『マリー』の姿になっていました。
わたし、魔法が使えて、可愛くなって、妖精も精霊も男の子もちやほやしてくれるから…ここに来れて嬉しかったんです!
ウェンディさんと話すようになってから何だか周りの声が聞こえるようになったんだけど、それでも『わたしはマリーだから大丈夫』って思ってた。
だって、『マリー』は可愛くて、明るくて、優しくて、みんなから好かれて愛されるそういう存在だから、みんなから嫌がられているなんて思わなかったんです。
…こんな話、意味わかりませんよね?」
黙ったまま考え込んでいると少女は諦めたように呟いた。
分かると同意したところで分かっていないことは少女にもばれるはずだ。
「確かに、分かりませんね。」
「そっ、そうですよね!」
明らかに絶望した表情でこみ上げる涙を抑え込みながら「もういいです」と立ち去ろうと腰を持ち上げる少女の腕をワンダは掴んで、少女の瞳を見つめる。
「ですから、分かるように私に教えて下さい。」
そう言うと、少女は顔をぐしゃぐしゃにしてまた泣き出す。
別に彼女に肩入れしているわけではない。
ただ、『マリー』の召喚について疑問があるだけだ。
ワンダはそう自分自身に言い聞かせて、再び隣に座った彼女背中をゆっくりと撫でる。
ほろほろと涙が流れる真っ白な頬にこれまで気付くことがなかったソバカスの存在に気が付いた。