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囁かれた言葉は恐ろしいもののはずなのに恐怖感はまるでなく、夢と現実の境目の浮遊を漂いながら、サリバンの腕の中でごちゃついた部屋をぼんやりと眺める。
積み上げられた古い本、何に使うのかも分からない魔道具、瓶に入った金色の粉、怪しい民族人形、砂時計、透明なガラスか宝石で出来た繊細な置物。
サリバンのものになるということは、
私もこういった物の一つになるのかしら。
ワンダは考えることを放棄していた。
何せ、腕の中はいい匂いがするのだ。
こんなに密着しているのにサリバンの心臓の音が聞こえないのは不思議だったが、
心地よい流れが身体の中を巡って、気持ちよく酔っぱらっているような酩酊状態は非常に離れがたく、どんどん力が抜けていき、どんどん身を任せてしまいたくなっていく。
「ねぇ、どうする?掃除係くん?」
「…わたし…」
ああ、いいかもしれない。
どうせワンダ・コンロイは死んだ。
頷いてしまえば、何もかも忘れて穏やかに暮らせるかもしれない。
その時、不意に暖炉の火が暗くなり、
青白い光が窓に差し込みワンダの目に月が映り込んだ。
恐らく、かかっていた雲が晴れて月が出たことと暖炉の火加減が上手い具合に噛み合ったのだろう。
青い月の晩のことをワンダはふいに思い出す。
幼いアイスブルーの瞳が潤んで次から次へと頬を濡らしていく。
ああ、そうだ彼女はあの日私に誓ったんだ。
「私、王妃になるわ」と。
ああ、駄目だ。
彼女のように正しくはなれなくても、やるべきことはやる必要がある。
だから、私は…私は
「っ…!!」
ワンダは椅子から転げ落ちるように立ち上がり、サリバンの腕から逃れる。
今度はサリバンも離れたワンダを追いかけることはない。
ワンダは勢いのままサリバンに背を向けて下へ降りる階段に繋がるドアまで行き、手をかけた。
「帰るなら、送るよ。」
あまりにもいつも通りなのんびりとした声に振り返りそうになる身体を必死で耐えた。
「結構です。」
「まあまあ、そんなこと言わないで。
あー、おかし持っていく?見ての通りちょっとありすぎるくらいなんだよね。」
「結構です。」
「そっか、ならまた一緒に食べようよ。
別に食べなくても平気だから食べるの忘れちゃうんだよね。
三十年物のお菓子がふとした瞬間に見つかるなんて笑えないでしょ?」
声色が少し寂しそうなものに変わる。
掃除係になって物が多いこの部屋を必死で掃除した時に、
いつの物だか分からないどろどろに溶けたキャンディを懐かしそうに眺めていたサリバンの顔が浮かぶ。
ワンダは何も答えず、振り向かず、扉を開き、塔の石で出来た階段を足がもつれそうになりながら小窓から見える月の光だけを頼りに転がるように下っていく。
塔の外に出ると月は雲に隠れて、真っ暗な林が凍りそうな冷たい風に揺らめいてざわめいている。
普段なら不気味だと感じてもいいところだが、
そんなことも気にならない。
ただただ、何も考えないようにしながら職員寮の自室に向かって走る。
着く頃には肩で息をしている状況で、喉はひりついていた。
出来る限り静かに、廊下を歩き、簡素な鍵を開けてドアを開くと靴も脱がずにベッドの上に倒れ込んだ。
自室の時計を見ると既に深夜も深夜だった。
一日で起こったことが多すぎて、頭の中の整理がつかない。
落ち着け、冷静に考えなければならない。
儀式、お嬢さま、マリー、生贄、悪魔、契約、魔力…
優先すべきはお嬢さまだ。
そこは変わらない、変わってはいけない。
でも…きっと
月が出なかったら悪魔と契約していた。
それに、魔力を得てしまえば…
背筋がぞわりとする。
私に父も母もいないのは、
捨てられたのは自分に魔力が少ないからだと未だに思っている。
私にとっての魔力と魔術は仄暗い憧れの的であり、得られないものだった。
侍女になりたての頃はお嬢さまに悪いところなんて一つもないのにお嬢さまが嫌いだった。
理由は簡単なもので、自分が得られなかった魔力を持つお嬢さまに嫉妬していたからだ。
今考えれば恥ずかしいだけど、私だって魔力を持っていれば、侍女として世話をする立場ではなく、身分は高くなくとも綺麗な洋服を着て世話をされる立場だったのにと考えていたのだ。
そんなお嬢さまを大事に思うきっかけは、
奇しくもお嬢さまとメイナード殿下の婚約だった。
その日、私は婚約パーティーの後、忽然と姿を消したお嬢さまを探していた。
屋敷の中には多くのお祝いをお嬢さまに伝えたいという貴族が集まっているというのにお嬢さま当人がいないと言うのだ。
祖父母に指示され、私は屋敷の中を隅から隅まで探し回り、ついにバルコニーでお嬢さまを見つけた。
月が綺麗な晩で、お嬢さまの淡いブルーのドレスを青い月が照らしていた。
お嬢さまは泣いていて、到底綺麗とは言えない顔で探しに来たただの侍女である私に「王妃になって魔力を重要視する貴族社会を変える」と誓った。
たまたま、私が一番最初に彼女を見つけただけで、この誓いを聞く役割は誰でも良かったのかもしれない。
けれど、その時からお嬢さまは私の一番の魔法になった。
魔力がなくても、魔術が使えなくても、この人が王妃になれば魔力なんて関係なくなると思えることが出来たからだ。
お嬢さまもバロイッシュ家のことも大事に思っている。
でも、月が出なければ私は私でいることを放棄して、悪魔の誘いに頷いていた。
私の根幹にあるのは魔力への仄暗い憧憬だけなのかもしれない。
「魔力なんかいらない。」
欲してはいけない。
ワンダは自分を戒めるように呟いた。
まずはマリーと話をして、コーネリアス様からの指示通りマリーを聖夜祭の聖女役になれるようにしなければならない。
例えそれがお嬢さまを守る為の一時しのぎにしかならないとしても、必要な犠牲と考えるべきだ。
私はお嬢さまのように正しいことを正しく行えるわけではない。
お嬢さまには今まで同様に正しいことを行える王妃になってもらわなければならない。
だからこそ、私のような人間が必要なのだ。
ワンダは倒れ込んでいたベッドから起き上がると、髪を解いていつも通り明日の準備を行った。
残念ながら入浴はできない時間であるが、明日のサリバンの講義は午後からである。
朝一でナナバ庶務長に鍵を返し、半日の休みを貰えないか相談して、ゆっくり入浴してから午後の仕事に取り掛かればいい。
講義はソニアとマリーが受講しているのものはずだから、それが終わり次第マリーに声をかけよう。
明日の段取りを自身の中で確認すると、ワンダはランプの小さな明かりを消して今度はしっかりと靴を脱いでベッドに横になりながら、暗い天井をしばらく見つめる。
疲労感はあるというのに全くもって眠くなる気配がない。
揺らがないと決めたはずなのに、
あの何も考えられなくなる抱擁が忘れられなかった。




