13
嫌な夢を見た気がする。
倦怠感を感じながらワンダが目を覚ますと、石造りの天井が見えた。
起き上がり周囲を見渡すと、部屋には木製のベッドと簡素な机と椅子、小さなクローゼット、小さなドレッサー。高級なものはないが必要なものはそろっていると言ったところだ。机の上には持ってきた旅行鞄が置かれている。
時計を確認すると、六時半指し、小さな窓から覗く様子では既に日が昇っている。
腹が動き、鳴る音が聞こえる。
ワンダは空腹に気が付くと、ベタベタとして埃っぽい身体やら、ぼさぼさになってしまった結いがとかれた髪やらにも気付いてげんなりした。
風呂に入って、食事をとりたい。
服も着替えたいし、出来れば汚れた服の洗濯もしたい。
けれどここが何処か分からない以上、誰に会うか分からない。
なら、出来る限り綺麗な方がいいに決まっている。
ドレッサーの前に座り、鞄に入っている櫛を取り出してぼさぼさの髪を結うと見た目は大分ましになった。
まあ、シャツはしわくちゃだし、紺色のロングスカートは汚れているけど。
そういえば御者に上着をかけてやったまま回収していなかった。
御者は大丈夫だろうか?
御者のことを思い出すと同時に、魔術師との一連のやり取りが蘇ってくる。
あの魔術師、普通じゃない。
疲れてたとは言え、ワンダの記憶はあの魔術師とのやり取り以降記憶がないのだ。
ワンダは魔術を使うことは出来ないが魔術の知識がない訳ではない。
基本的に魔術は、火のないところに火を灯すなど力の大小はあるが限定的なものであり、魔術的な理屈がいるのだ。もちろん、これまで多くの魔術師が応用に応用を重ね複雑なことが出来るようになっている。
例えば、ワンダが作ってもらった『人間もどき』は『地』の魔術、ゴーレム作成の応用であるらしく、土ではなく猿などの動物の死体を変化させて形成したとリリーは説明した。
でも魔術は万能じゃない。
嘘を吐いている人間に本当のことを言わせる魔術。
もしくは名前を言わせる魔術なんて、四大元素のどれにも当てはまらい。
一体全体、どんな妖精や精霊に頼んでどういう機序でやったか全く想像がつかないのだ。
それも、まだ魔法陣や術式、詠唱をしているなら複雑なことをしているのだと納得することもできるが、あの魔術師は目を合わせただけでやって見せた。
ぐるぐると考え込むワンダだったが、その思考はドアをノックする音で止んだ。
「入りますよ?」
「はっ、はい。」
入ってきたのは腰の曲がった高齢男性だった。
「目覚めていたんですね、よかった。」
「すみません…私、ウェンディ・コナーといいます。えっと…。」
「ええ、ウェンディさんですよね、アマーキン伯爵より紹介状が届いてます。
私はアルテ魔術学園庶務長のナナバといいます。」
「これは、大変ご迷惑をおかけしました。これからお世話になるというのに来て早々このようなことになってしまい、申し訳ございません。」
「いえいえ、盗賊に襲われるなんて道中大変でしたね。恐ろしかったでしょうに…。」
笑い皺のあるナナバは好々爺といった雰囲気で物腰も柔らかだ。
それにいたく心配してくれている様子でワンダはほっと息を吐く。
「もう大丈夫です。よく眠れたのか頭もスッキリしていますし…
けれど、アルテの街に着いたことは覚えているのですが、どうして私はここに?」
「サリバン先生がここまで運んで下さったのですよ、あまりの疲労に気を失ってしまったと聞いています。」
「サリバン先生?サジ・サリバン教諭ですか?」
サリバン先生?
サリバンといったら『サジ・サリバン』という名前をジジの噂で何度も聞いた名前だ。
もしかして、あのリントン子爵お抱えの魔術師、あの頭の可笑しい魔術師だというのだろうか?
「ええ、貴女と道中一緒になったとおっしゃっていました。」
「…そうですか。」
これは非常に不味いな。
あの魔術師は私を間者だと思っている。
証拠は掴ませていないものの、取り入りたいと思っていた人物に間者だと既に疑われてしまっているなんて不味いことはない。
「サリバン先生はこの部屋から見える基礎魔術塔にいますから、機会があれば挨拶にいくといいでしょう。」
そう言って、ナナバ部屋の小窓から見える高い塔を指さす。
「そうですね…そうさせて頂きます。」
内心では出来るだけ関わらず、他の方法でマリー・リントン子爵令嬢と接点を持たねばならないと考えていたが、ナナバの言葉に頷いた。
その後は庶務の制服である濃い灰色年季が入ったローブを手渡され、風呂の場所に案内される。ナナバは気が利く男で、「風呂に入ってきなさい」と言ってくれたためすぐさま汚れた身体を洗った。
それが終われば食堂に通され遅い朝食をとった。
豆とトマトのスープとパン、ゆで卵。
豪華ではない料理だが、空腹のワンダにはこの上なく美味しいものに感じた。
あんまりにも胃にしみわたり美味しい、美味しいと褒めると一緒に食べていたナナバはにこにこと笑いながら自分の分のゆで卵をくれた。
ワンダは確認の為にナナバにもサリバンがどういう人間か聞いてみることにした。
ナナバは穏やかに『影の薄い普通の方です』と言う。
「ナナバさん、『普通』って一体なんでしょうか?」
「?深いお話ですね…。
やはり『普通』というのは自分が基準になっているのではないかと思います。
私もそうですが、貴女も自分を基準にして物事を考えるでしょう?」
「そうですよね、そう思います。」
「色々な先生や生徒さんがいらっしゃいますから、自分と違う考えに戸惑うこともあるかと思いますよ。」
会ったばかりのナナバに聞くような話でもなかったが、ナナバは真摯に答えてくれた。
けれども、サリバンのことを『普通』といったことに関しては何も不思議に思っている様子はない。
そんなナナバの話を聞いていると、ワンダは自分の判断がおかしい可能性も考えなくてはならないと思うようになる。
やっぱり、私の『普通』から外れただけだったのかな?
それともあの魔術師が私の前だけ『普通』から離れた言動をとっていたのか?
サリバンが私の何らかに興味を持ち『普通』から外れた態度をとっていた可能性もある。
ご飯を食べ終わり、食器を返却する。休暇中ということもあってか人は少なく、食堂は半分も埋まっていない。
そのことをナナバに聞くとこの食堂は庶務や司書、庭師などの学園就業者用の食堂で、学生や教員には別の食堂があるとのことだ。
リントン子爵令嬢に女性の友人がいないのであれば昼食を共にできる人間になれればとも考えたが、食堂が違うというならそれは難しいだろう。
その後は各所への挨拶回りと仕事の説明をされる。
ワンダが驚いたこととして、廊下や教室には魔術がかかっているらしく掃除の必要がないということだ。
屋敷の掃除の中でも様々人が歩く廊下は汚れやすく綺麗に保つ為には何度も掃除しなければならない。それがなくなる魔術があるとは思わず、ワンダはとても感心する。
魔術を羨ましいとは今更思わないけど、これはいいな。
ナナバは三基の塔へワンダを連れて行き、庶務としての仕事は担当する塔によって異なると説明した。
例えば三基ある塔は古典魔術塔、近代魔術塔、基礎魔術塔と呼ばれ九つの分野に九名の教授がおり、基本的に教授につき一名の庶務が配属される。
そして、その教授の考え方の違いにより方針がことなることから庶務の仕事も異なるとのことだった。
「多分、ウェンディさんの配属は古典魔術塔になると思いますが」
「そうなんですね、近代魔術塔と基礎魔術塔の配属にはならないのですか?」
「近代魔術塔の教授がなんと言うかで変わると思いますが、基礎魔術塔の教授の庶務は一名すでにいますので。」
人数としては基礎魔術塔が一番少ない。
不平等感はでないのだろか。
「一名ですか?基礎魔術塔の庶務は少ないように思うのですが…。」
「ええ、そうなんです。
基本的に教授に一名ずつ庶務がつくのですが、
学園長が基礎魔術塔の教授を兼任し学園長は私が担当しております。
残り二名の教授はのうち一名は庶務は必要ないと言っておりますので基礎魔術塔の庶務はこれまでずっと一名なのです。
反対に古典魔術塔と近代魔術塔の教授は人員が不足しているとおっしゃっています。
今年は古典魔術塔の人員を増やすと学園長が決めましたのでそうなるとは思うのですが、近代魔術塔の教授は何と言うか…まあ、会議でどうなるか決まるという形ですね。」
ワンダは頷きながら、納得していた。
貴族同様、学者の中にも権威の主張や張り合いのようなものがあるということだ。
「ウェンディさんにはそれまでの一か月、本部で色々な場所の手伝いをしてもらいます。学園内も広いので場所を身体で覚えて頂くというような形ですかな。」
「承知しました。」
次の日に言い渡された仕事は、
本部の地下の怪しい瓶が並ぶ倉庫の片づけだ。
瓶の中には太陽光に当たってはいけない魔術素材が入れられおり、夏季休暇などの長期休暇に掃除をすることになっているらしい。
ナナバは出来れば分類をみて整理をして欲しいと言っていたが、ワンダと共に仕事に当たる四十代くらいの女性はぶつくさ文句を言っていた。
確かにかなり埃っぽく、ランタンの灯りでは掃除しても綺麗になっているのか分かり辛い。
しかし、やれと言われたことをやるのが仕事だ。
ワンダは一つ一つ間違えないように一番上の棚から掃除にかかる。
制服のローブは埃だらけで大分見汚くなってしまったが、日が暮れる頃には部屋の整理が出来ていた。
「あんた、すごいねー。一日でこんなに片付くとは思わなかったよ!」
文句はよく言うが、手のしっかり動かく人だったため、学園話を聞きながら仕事も片付けることが出来た。
「疲れましたね、いやいや、貴女のおかげですよ!」
「何言ってんだい!あんたなら、サリバン先生の掃除係になれるんじゃないの!?」
女性はわははと笑う。
サリバン先生の掃除係の話は事前に情報屋のジジから聞いていたが話が出てきたのならチャンスだ。もう、サリバン先生の掃除係に立候補したいとは絶対に思わなかったが敵情視察は必須だ。
「なんですか?そのサリバン先生の掃除係って?」
「ああ、ただの冗談さ。
基礎魔術塔にサリバン先生って先生がいるんだけど、部屋が汚くて基礎魔術塔でサリバン先生のお手伝いになった庶務は他に行きたいって泣いてナナバ庶務長に縋り付くって冗談。」
「そんなに汚いんですか?」
「さぁ?実際を見たことある人いるのかも分からない冗談だよ。それに実際にサリバン先生の担当者は出来たことがないんだ。
まあ、どの先生についても大変だよ。特にワタシは古典魔術塔担当だからね!
ウチの教授は字が汚いから、代筆ばかりして肩がこってしかたないね。
あんたもきっと近代魔術塔の教授がキーキー言わなきゃ古典魔術塔配属だよね?古典魔術塔の教授は引きこもりだから中々塔から出られないよ!覚悟しときな!」
古典魔術塔の配属になれば、塔の外に出られずリントン子爵令嬢との接触が難しい。
結局、ワンダは何のいい案も浮かばないまま配属が決まるまでの一か月、
淡々と仕事をこなすことになった。