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ワンダ・コンロイは死んだ。
といっても、名前が「ウェンディ・コナー」という別人になっただけの話だ。
宿屋の一室に備え付けられている小さなドレッサーの鏡に映る姿はいつもと全く変わりない。
何処の国でもいる黒い髪に黒い目、綺麗でも不細工でもない愛想のない顔、一般的な肌の色。
普通の容姿は別人として生きるには最適だ。
髪をまとめ、準備していたこれもまた何処にでもあるような白いシャツに紺色の揃いの上着とスカートを着る。
これは前から持っていたもので、どこからどう見ても真面目そうでつまらない女に見えることだろう。
別人になったところで、私は同じような身分の別人になるだけなので大きな準備も変化も嘘も必要ない。
それでも、私の仕事着は白い襟のついた黒の長いワンピース、白いエプロンだった。
あの黒いワンピースは質がよく、洗濯してもなかなかヘタレない優秀さがあった。
その上、白いエプロンで隠れてしまうのだが、バロイッシュ家のエンブレムが刺繍されていた。
誰にも言うことはなかったが、私はあのエンブレムのついた服を着ることに誇りをもっていたし、今日も私はあの服を着ているつもりでいる。
ワンダは宿を出ると昨日交渉しておいた荷馬車へ向かう。
往路四日の長旅も今日で終わりだと考えると少し晴れやかな気持ちになる。
体力に自信のあるワンダでも流石に三日間の荷馬車を乗り継ぐ生活は座っているだけとはいえ疲れるものだった。
羽根のある馬を使用した飛馬車を使えば目的地まで一日かからずに着くことが可能だが、
乗合馬車や荷馬車に乗って宿をとった方が圧倒的に安い。
魔物や盗賊が出る危険もないわけではないが、どの方法でも出るときは出るものだ。
ワンダは贅沢する必要もないと考え、最も費用の掛からない荷馬車での旅を選んだ。
御者に声をかけると、積荷の準備がまだ来てないらしくもう少し待つことになると言われる。
「お姉さん、すまんな。
もう一人、他に乗る奴がいるんだ、ちょっと安くしておくからそれでもいいか?
普通の奴だから安心してもらっていいぜ。」
「分かりました、私の方は構いませんよ。今日はよろしくお願いします。」
簡素な荷馬車は布で覆われており、少し薄暗く、多く荷物が乗っている。
その荷物と荷物に挟まれた状態で、分厚い眼鏡をかけ、ぼさぼさ頭の男がやたら大きな本を読んでいた。
御者は「普通の奴」と言ったがワンダにはとても普通には見えなかった。
どちらかというと変人ではないだろうか?
こんなぼさぼさ頭ではまともな職につけるとは思えない。
けれども、身なりは小汚い訳でなく、上着に着ている長いローブの素材は悪くなさそうだ。
あまり身なりを気にしない学生か、学者ならありえるかもしれない。
普通の範囲は幅が広い。
であれば、広く見れば『普通の人』ということか。
集中している様子だったため、ワンダは声をかけるべきか迷ったが目的地まで半日はかかるため挨拶くらいはすべきだと判断した。
「こんにちは。」
「ああ、こんにちは。」
一瞬だけ、顔を上げ本に戻る。
ワンダは驚いていた。
僅かに覗いた顔はこれまで見たことがないほど完璧に整い、瞳は見たこともないような吸い込まれる複雑な色をしていた。
職業柄、高貴な人を見ることは多くある。
何があっても動じず、必要な対応のみ行うように躾けられてもいた。
それに、私が仕えているお嬢さまは類まれな綺麗な顔だ。
大抵の人間ではそう驚かないはずだけど、何というか非常に魅惑的で誘惑的な顔だった。
特に瞳の色は見たことがない。
青に赤がところどころ混ざったような、光の加減でそう見えただけか…。
不躾に見てしまったことに焦るが、男は全く関心がないようで黙々と本に集中している。
変人でも人と関わるつもりのない人間が乗合相手でワンダはほっと息をついた。
そんな中でトラブルを起こしそうな人間が乗合になることほど面倒なことはない。
少し荷台で待っていると、御者が重そうな樽を二、三積みいれる。
「じゃあ、出発!!」
気持ちのいい声が前方の席から聞こえると荷馬車は走り出した。
小さな町から離れるとすぐに森になる。
荷馬車は布で閉じられているため外は隙間から少ししか見えないが、荷馬車の中は昨日、一昨日と乗ったものよりも遥かに快適だった。
御者がいいのか馬がいいのか分からないが、特有の尻に当たるゴトゴトという衝撃が少ない。
それに、風が良い具合に入ってくるためこの地方ならもう少し汗ばんでも季節のはずだが涼しいのだ。
まるでつい四日前までいた辺境のバロイッシュ家領地、ルイーダ地方のようだ。
ルイーダ地方の冬は寒い。けれども夏は最高の避暑地である。
このいい時期にルイーダ地方を離れるなんてどうかしている、既に故郷を懐かしんでしまう。
ワンダは主人のソニアか他の使用人に着いて行く以外はルイーダ地方を離れたことがなかった。
初めての一人旅ということになる。
いつか、王都には行くことになるだろうとは思っていたが、
王都に住む前に学園都市アルテに行くことになるとはまるで思わなかった。
ワンダは物心ついた頃からバロイッシュ家の使用人だった。
何故かというとワンダの祖父母のその前の前くらいからワンダ・コンロイの一族はバロイッシュ家の使用人だったからというだけの話である。
けれど、ワンダの母親は違った。
母親には平民でありながら魔力があり魔術師としての才能があったのだ。
勉強も好きだったらしく、アルテ魔法学園に入学し、そこで貴族の男性に見初められ結婚したそうだ。
しかしながら、生れてきた子どもである私には魔力がなかった。
貴族には魔力が必要だということになっており、魔力は血で受け継がれる。
恐らく、母親と結婚した貴族には既に魔力持ちが少なく、平民の母親と結婚したのは魔力を持ちの子どもが欲しかったのだろう。
だから、魔力のない子どもは必要がなく、私は祖父母のところに預けられることになった。
また、出産時の難産が祟ったのか、母はその後妊娠できず、ついに自殺したそうだ。
この国のよくある貴族と平民の不幸な結婚の悲劇を絵にかいたようだ。
我が母ながら、我が母だからこそ可哀想で腹が立つ。
当然ながら祖父母はその貴族を恨んでいたようで祖父母は死ぬまで絶対に私にはその人の名前を教えなかったし、自身も知ろうともしなかったため今後も父親を知ることはないだろう。
そういうこともあり、擦れた子どもだった。
自分の出自を理解していたからこそ、この国では有名な神様に愛された子が魔法を使って奇跡を起こすような童話は嫌いだった。
理不尽な気がするのだ、努力してもどうにもならないことが。
大人になってもそれは変わっていない。
神様と精霊は嫌いだ。
それに神様や精霊に愛されて魔力を貰える人も大嫌い。
でも、例外はいる。
関わっていくと嫌いでいたいと思ったものを大事に思ってしまう場合もあるのだと、
人の感情も努力ではどうにもできないと、
お嬢さまに教えられた。
ワンダの主人のソニア・バロイッシュは侯爵家で強大な魔力を持ち、魔術学園に通っている。
ワンダの嫌いなものを詰め込んだような人物だったが、ワンダは主人を全くもって嫌いになれない。
それどころか、今回のようにワンダ・コンロイ(自分)の存在を殺すのも厭わないほど可愛がっている。
夏季休暇のため学園から戻ってきたお嬢さまの顔色がやつれて顔色の悪くなっている様子だったことを思い出す。
旦那様や大奥様、奥様、私を含めた他の使用人達にも口々に休養をとるように言われていた。
しかしながら、休めと言って休む人ではない。
だからこそ、手伝いたくなり休ませたくなるのだ。
屋敷のお部屋でこっそり仕事をしようとする、お嬢さまを休ませるのは私の役目だった。
せめて、好きな人に会いには会いに行っているといいのだけど。
荷馬車は静かに揺れる。
簡素な布の覆いの隙間から青々と茂る木々が見える。
ワンダは静かに目を瞑った。