第三話、「ただいま」後編
〇
十畳ほどの居間はきれいに片付いていて、円形の卓袱台以外に小さな抽斗と鏡台があるほかは、ほとんど物はなかった。
襖の反対側は庭先に面した縁側になっており、いまは障子が開け放たれている。襖の向こうは板の間で、台所にもなっている土間とつながっていた。
「まったく、おまえは乙女の扱いをまるでわかっておらぬ」
台所からガラスコップがのったお盆を携えてやってきた少女は、ぶつぶつ愚痴りながら襖を大きく開け放った。風の通り道ができて、少し蒸していた室内が途端に涼しくなる。
卓袱台の前であぐらを掻いていた佐久也は、眉をひそめて何気なく口を開いた。
「乙女って。ひみかはたしか――」
「おい!」
「はぁい?」
「いま、何を言おうとしたのじゃ?」
「なにって、これから言うつもりなんだけど。だからさ、乙女っていう齢じゃ――」
「これ! おまえ! な、何を口にするつもりじゃっ」
佐久也はため息をついた。
「あのね、きみ。そうやって、いちいち突っ込んでたら最後まで話せないでしょ?」
「話さなくてよい!」
「どうしてよ。べつに変なことを言うつもりじゃないぜ?」
「よい! もう、口を開くなっ! 聞きとうない!」
「へいへい、そうですか。ったくこれだからコミュ障は困る」
「困るのはわしじゃ! このたわけがっ」
「けっ……べつに俺はただ、ひみかが千年近く生きてるおば――」
「だから言うなーっ!」
「……アッ」
綿あめにすごく似ていたな――そのときに見たものを佐久也はあとになって振り返った。
とっても大きくて、ものすごい重圧。嵐で飛んできたお相撲さんが顔面に直撃したら、こんな衝撃を味わうんだろうなあ――佐久也はそんなことを思いながら、「アッ」という声を漏らして気絶した。
きっかり十分後に目覚めた佐久也は、「豊ノ島!」と叫んで跳ね起きた。
はっとして辺りを見回すと、少女が足を崩して座っている。卓袱台の上には鮮やかな色をした冷たそうな緑茶と、買ってきた王子屋のカステラが上手に切り分けられていた。
「え、俺はいままで何を?」
「つ、疲れてたんじゃろう? 寝こけておったわ。ほれ、おまえが買ってきたきゃすていらじゃ」
「ああ、どうもありがとう……じゃ、なくて! たしかに眠かったけど、そんなんじゃなかった。……衝撃、そう、衝撃だ! たしかあれは、何か、こう、もふっとした、こげ茶の綿毛のような――って、テメーじゃねえか! オラァ、ひみか!」
「……な、なんのことかの。そ、それより冷たい煎茶が温くなってしまうぞ。さ、早くお八つにしよっ」
「しよっ、じゃねえぞ! 殺す気かボケナス!」
「おまえが悪いのじゃ! おなごに年齢の話をする愚か者めが」
「おいおい、ひみかさんよ? 俺ァ、事実を言おうとしただけで死にかけたんだぜ? こんなことがあっていいのかなあ? 殺人未遂って知ってるかぁ? ええ?」
「ふんっ。一回死ねば、そのマヌケも治るじゃろうて」
「あー……言っちゃったね。いま、マヌケって言っちゃいましたね」
「言うたがなんじゃ? マヌケをマヌケと言ってなんぞ差し障りがあるのかの?」
「かっちーん、ですよ、かっちーん。はい、カステラ没収」
佐久也は卓袱台からカステラののった皿を取り上げた。
「た、たわけ! それがわしの好物だと知っての狼藉か!」
「罪と罰だ。ドストなんちゃらがそう書いてる」
「知るか! はよう、きゃすていらを返すのじゃ!」
「これはもともと俺のだ。ババアには一口たりとも――」
次の瞬間、最大級の警告音が佐久也のお粗末な脳みそに響き渡った。背筋にぞわりと冷たいものが走り、しかしながら、気づいたときにはもう手遅れだった。
「オーケー、俺が悪かった。もう二度とババアなんて口にしませんし、カステラもたんと召し上がれ。ですからその威容をどうにか収め――」
佐久也の早口な願いもむなしく、「ウッ」という言葉を残して、彼はふたたび意識を手放した。
午後二時を過ぎて、気温はぐんぐんと上昇した。春がつい先日終わったばかりとは思えないほどだ。すでに大気は濃密な夏の気配を宿している。
白妙町の旧市街ではベンガラ格子の路地裏に打ち水が撒かれ、町を東西に横断する川では、水しぶきを上げて子どもたちが歓声を上げていた。とにかく暑い日だった。
「外は暑そうだなあ」
縁側の先、草原のような広い庭では、かんかんと照りつける日差しに草花が輝いていた。池の鯉は水面にあがってきては底の方へ帰っていったりと、なんだか忙しそうだった。暑くてじっとしていられないのかもしれない。
卓袱台に肘をついて佐久也が呟くと、少女が得意げに言った。
「中は涼しくて、こころよいじゃろ?」
可愛らしい小さな鼻の穴を膨らませるなぜか誇らしげな少女が癇に障ったが、とりあえず佐久也は訊ねた。
「まあ、たしかに。なんでだ?」
「風が通るからじゃ。天然の冷房かの」
少女は縁側の向こうで風に揺れる木々を振り返って言った。
「ふうん……まあ、エアコンの方が断然涼しいけどね」
佐久也のぼそりとした発言に少女は首を傾げる。
「えあこん、とはなんじゃ?」
「え? 知らないの? うん、そうだな、エアコンってのはね……エ、アールモール、コグルドナー、ゼオンの略なんだ」
「な、なんじゃ、その怪しき言葉は。外来語か?」
「それは秘密だ。軽々しく他言はできない」
ふいに、佐久也は腕を組んでまぶたを閉じた。何かのスイッチが入ったらしい。
その面持ちは頑固一徹。まさに質実剛健。眉間には深いシワが刻まれ、匂い立つような厳の雰囲気が体中から芬々と漂っていた。
少女はごくりと唾を呑みこんだ。そうして、物欲しげな顔で不動明王のような男を見つめる。
佐久也はチラっと少女を見やった。そうして「殊勝、殊勝」と呟く。
「まあしかし、良い子には特別に教えてあげてもいいんだけど、なあ……?」
「……いいのか?」
「良い子には、だぞ?」
「わ、わしは良い子じゃぞ」
「……ふうん、そうなの? じゃあ、しかたないなあ。今回だけ特別だぜ? ったく」
「う、うむ!」
「……アヤパネコという言語でね。知っている人間はほんの一握り。世界の秘密なんだ」
佐久也は声のトーンを低く落とした。
「だから絶対に誰にも話しちゃいけないよ。ちなみにね、エアコンというのは魔法の一種だ」
「ま、魔法じゃと!?」
「声が大きい!」
「す、すまぬ……でもこの辺には誰も――」
「そういう問題じゃねえ! 静かにしろ!」
馬鹿デカい声だった。
「……はぁい。そ、それで魔法なんじゃな、ほんに?」
「ああ。じつは俺も、エアコンを見たのは数えるほどしかない。あれには本気で驚いたぜ……」
「魔法とは実在するものじゃったのか……」
「おい!!」
「ひゃっ……急になんじゃ!」
「絶対に、他言するなよ?」
少女はコクコクと頷く。佐久也はそれを見て安心したように息をついた。
「誰かに話したのがバレたら、俺の命が危ないからな」
「相判った。指きりじゃ」
「いや、そこまでする必要はないよ」
「どうしてじゃ? わしは指きりの誓いは絶対に破らぬのじゃぞ?」
「大丈夫さ、信じてるから」
「そ、そうか。……な、なら余計に指きりをしなくちゃならんな。互いが互いを信頼しているという儀を執り行うことは古来より――」
「……うわぁ……面倒クサ」
「なんじゃ?」
「え?」
「いま、面倒臭いだかなんだか、聞こえた気がしたのじゃが」
「そんなこと言うはずないだろう。メドゥーサと言ったのさ」
「めでゅーさ?」
「メドゥーサ。これも魔法の一種だ。唱えられた相手は石になる」
「な、なんと!」
少女は両手をばたばたして驚きを露わにした。
「おそろしや……めでゅーさ、おそろしや……ハッ、わしも石になってしまうのかの!?」
「……いや、ならないよ」
「じゃが、いま石になるって!」
「……あー、まあ、ならないときもある」
「なぜじゃ!?」
「え? えーっとね、あーっと、そうそう、気分の問題」
「き、気分じゃとー!?」
今度は足をばたばたとさせて驚愕する少女。
はじめは面白がっていた佐久也だったが、そろそろダルいな、と思った。
「ほっ、ほかにも魔法はたくさんあるのかっ?」
「……」
「ど、どうなんじゃ!?」
「……えっとお――」
その後、少女にせがまれるまま、佐久也は一時間近くもファンタジーを語り聞かせることになった。
結局、指切りはした。
〇
夕日が山の向こうに落ちていく。
にわかに驟雨が軒を叩き、そして雲が晴れた頃には、淡い紺碧の空が星々の明かりを兆していた。
いまだ残光を孕んだ西の彼方とは違い、鬱蒼とした山中にある離れはすでに宵闇に没している。辺りでは、蛙が運命の伴侶を探し出そうと大合唱を奏でていた。
「王子屋のきゃすていらは、なんじゃ、少し変わったの」
少女は膝元で繕い物をしながら呟いた。天井近くの柱時計が、ぼおんと鐘を叩く。7回だった。
畳に肘をついて横になっていた佐久也が「うん?」と声をあげる。
「味がか?」
「うむ。濃くなったような気がする」
「へえ。そういえば、作ってる人が代わったそうだよ。いまは5代目なんだとさ」
「なるほど、どうりでじゃな。……そうか、代替わりか」
「最後に持ってきてから、もう10年近く経つからなあ。そういうこともあるだろうね。さて、ちょっと俺は――」
「……急くなぁ、人の世は」
その声音があまりにか細かったので、立ち上がろうとしていた佐久也は再度、体を横にして少女に視線を送った。
少女はいつの間にか針の手を休めて、卓袱台の上のガラスコップをひたと見つめていた。
「人が代われば、味も変わる……きっと町もずいぶんと変わっておるんじゃろうな……」
「そうだね」
「変わらんのは、わしだけじゃ」
「……」
「ずっとひとりで、変わらないのは……わしだけじゃ」
少女はただ空虚な面持ちをしていた。悲しげでも、切なげでもなく、ただすべてを諦めたかのような虚ろな表情だった。
しばらく二人とも口を開かなかった。
沈黙の中、蛙の鳴き声だけが相変わらず初夏の夜に響き渡っていた。
やがて佐久也が言った。
「ひとりじゃないだろ」
少女の瞳がかすかに揺れる。
「いまは、ほら、俺がこうやってお前を訪ねてるわけだし」
「でも……」
「でも?」
「……おまえは、いなくなってしまうじゃろ」
「え」
佐久也は言葉に詰まった。
心の中で、なんだか雲行きが怪しいぞ、と呟く。自分も、少女も。
少女は、なおも茶葉が沈んだガラスコップの底を一心に見つめている。まるで、それが――濃い緑色に濁った水が、今の自分の気持ちだとでも言うように。
しかし、少女はふいに顔を上げて、寝転がる佐久也の顔に焦点を合わせた。
「わしはな、おまえが帰って来てくれて、ほんに嬉しかったのじゃ」
無理に作ったような笑顔だった。
「あのとき、わしはもう諦めておった。何もかも、すべてじゃ。なぜわしは山犬なんぞに生まれてしまったのじゃろうと、悔しく思ったものさ。悲しくて、苦しゅうて、仕方がなかった」
ところが、それも短い間で、少女はすぐに憂いを帯びた目を伏せてしまった。
そういえば、と佐久也は腹に力を入れながら思い出す。
日中に伽賀櫛神社を訪れた老婆は、少女のことが見えていなかった。
つまりはそういうことなのかもしれない。いや、そういうことなのだろう。
少女は、きっと長い間、独りだったのだ。ただの独りではない。一方通行の孤独だ。相手の姿は見えて、声も聞こえる。しかし自分は――、自分はまるで透明人間だ。そんなの、果たして存在していると言えるのだろうか? 他者と関わり合えない牢獄のような生活。そんなの果たして――。
そして佐久也は、そういう日々に摩耗していく存在が少女だけではないことを知っていた。脳裏にはこれまで出会ってきた多種多様な異形たちの姿がよぎり、しかし一瞬で掻き消えて、なぜか代わりに精神統一という言葉が色濃く滲み上がっていた。
「じゃからな。わしは、おまえが帰ってきてくれて――わしはな、ほんに嬉しかったんじゃ」
佐久也は歯を食いしばり真剣な表情で黙ったままだった。
少女の形の良い眉が八の字にひそめられる。
「でも、な。またおまえは、あの時みたいに、またねって――そう言って、手を振ってどこかへ去ってしまうんじゃ。ううん、それはおまえだけじゃない。みんなそうじゃ……人間は、みんなそうなんじゃ」
少女はまた顔を上げた。そうして、一度くちびるをきつく結んでから、やさしく微笑んで言った。
「わしは、それが怖くてしかたがない。何百年何千年生きてたって、それが一番、おそろしいんじゃ。……ふふっ、おかしいじゃろう?」
柱時計の刻む秒針の音ががらんどうの部屋にこだまする。
佐久也は、笑みを浮かべながら瞳を潤ませた少女から目が離せなくなっていた。彼のその顔は強く何かを訴えかけているようだった。
「神なんて、そんなものじゃ。少なくともわしは、崇められるような強く気高い存在なんかではない。ちっぽけなただの山犬じゃ」
一筋の涙が少女の頬を伝って、畳に小さなシミを作った。
少女ははっとすると、両手で目元を拭った。
「……のう。もし、またいずこへ去ってしまうなら、そのときは――そのときは、魔法でわしを石にしてくれるかのう? そうすれば、もうあんな気持ちにならなくて済む。わしは、いやなんじゃ――」
そして最後に少女は、吐き出すようにぽつりと言った。
「寂しいのは、もういやなんじゃ……」
また沈黙、――にはならなかった。
「それで、終いか?」
「……え?」
「もう、言いたいことはないか?」
「っ……うむ」
「そうか……ならっ――」
佐久也は威勢よく立ち上がると、猛烈な勢いで少女の方へ迫った。
「なにをっ――」
少女は咄嗟に身構える。
もしかしたら、衝突されるのでは――いや、抱き寄せられるのではないかと思ったのか、体を固くする。
しかしながら、佐久也は少女には見向きもせず、乱暴に襖をこじ開けて台所の方へ走り去っていった。
一瞬の出来事に呆然とする少女。
「な、なんじゃ……?」
遠くの方でどたどたとした足音が聞こえ、戸を引く音がすると静かになった。
しばらく呆けたように板の間の方を見つめていた少女であったが、やがて何かに得心がいったのか、みるみるうちに眉がつり上がっていく。
少女は拳をぎゅっと握り込むと憎々しげに呟いた。
「あやつぅ~っ」
数分後、佐久也がなんとも爽やかな顔で居間へ舞い戻ってきた。一点の曇りもない晴れ晴れとした面持ちだった。
「ふう。いやあ、爽快爽快。で、なんの話だっけ?」
「お、お、おまえというやつはぁ~~っ!」
「あー、ストップストップ! 鎮まりたまえ、清めたまえ! 冗談だって!」
毛を逆立てて憤る少女に、佐久也は両手を前に出して振った。
「冗談も件もあるか! わしが本気で語らっているというのに……おまえはっ……」
「いやや、待てっ、待つんだひみかっ」
「わしはっ……わしは……」
「しかたないだろっ、漏れそうだったんだから! じゃあ、何か? この畳に垂れ流せってかっ!? いいのか? 俺はやるぞ? いいなんて言おうものなら、俺はやっちゃうぞ!」
「……っ」
「いや、嘘だ。そんなことはしない! そんな粗相はしません! だからっ、怒らないで! 変化しないで!」
顔を伏せてぷるぷると震える少女が、怒髪天状態だと思った佐久也は、なんとか怒りを鎮めてもらおうとあれこれ考えたが、ふいにはっとすると目を見開いて、「ええ……」と嘆息した。
「泣いてるの?」
少女はびくりと肩を震わせると、長い髪の毛を揺らしながら首を振った。小さく鼻をすすり、嗚咽らしき音が漏れている。
佐久也は驚愕した。
「な、泣いてる……!」
「泣いてなどっ……おらん……」
「いや、泣いてるじゃん! ひみか、あんたそれ泣いてるよ!」
「うるさいっ、ばかものっ」
「おいおい、本気で泣くやつがあるか」
「うううっ、だまれだまれっ……うううっ」
佐久也はマジかよ、と思った。
千年も生きてる神様が泣いちゃったよ、俺泣かしちゃったよ、いや、俺のせいかな? わからん、オシッコして戻ってきたら泣いちゃったんだもの、そりゃわからないよ、やれやれ、どうすんだこれ? と考えた。
しかし、すぐに思い直すと、気を引き締めて佐久也はジャージのポケットからティッシュを取り出した。
少女の傍らに屈みこむと、ティッシュを鼻にあてがってやる。
「ほら、もう泣くなって。ちーんしな、ちーん」
少女はむぐむぐ口ごもったが、やがてちーんした。ティッシュをはみ出した大量の鼻水が佐久也の右手にべったりとくっついた。
佐久也はすかさずジャージにこすりつけて、それから言った。
「ごめんな、ひみか。あのときは突然いなくなったりして」
もう一枚、ティッシュを取り出して少女の鼻に持っていきながら、佐久也は続ける。
「ガキの頃は仕方なかったんだ。俺にもいろいろ事情があってさ。どうしようもなかったんだ、時間もなかったし。けど、それは言い訳にもならないよな……ずっと一人だったんだもんな、お前」
佐久也はティッシュを丸めると、一度少女から離れようとしたが、ジャージが引っ張られていることに気が付くと、その場に座り込んだ。そうして、少女の頭をわしゃわしゃと掻き混ぜる。絹のようななめらかな髪が少し乱れた。
「うーんとな。そうだな……まあ――」
佐久也は少し考えてから口を開いた。
「たしかに人間とお前はべつの理に生きてる。それはどう足掻いてもひっくりかえせないことだ。人間の一生は短いんだ、生きる早さが違うのもわかるだろう?」
「……」
少女はこくりと頷いた。
「そこは諦めなくちゃいけないよ。それに、お前の姿が人間たちから見えなくなってしまったのだって、仕方のないことなんだ」
「っ……」
「見る力がだんだん失われてるんだ。けど、それを人間のせいにしちゃいけない」
誰しも、必要のないものには見向きもしなくなる。
明治を迎え、急速に近代化を遂げた日本は戦争をくぐり抜け、現代に至った。その過程で、人は太古からともに暮らしてきた隣人の存在をすっかり忘れてしまった。信じることを辞めてしまった。もういらないと切り捨ててしまった。それも仕方のないことだった。なぜなら、人はもう超自然的な存在に祈る理由がなくなったからだ。祈りは、日々おそろしい早さで進化する科学にとって代わられてしまったのだ。それは動かしがたい事実で、おそらくこれから先も絶対にひっくり返すことのできない真理だ。
ところが、彼らは、遥かなる神代からこの葦原に住まい、人とともに共生してきたあの隣人たちは、いまでも確かに存在していた。人に忘れられながらも、ときに人を想い、ときに人を呪い、ときに人を愛しながら、彼らは生き続けているのだ。そして、それは少女も同じだった。
「いつか、必ず別れはくるものだ。必ずだ、必ず。でも、そんなことを考えて生きてちゃだめなんだ」
佐久也は、今度はやさしく少女の頭を撫でた。
ありきたりなことを言っているという自覚はあった。しかし、ありきたりだからこそ本当に大事なことなんだと佐久也は思った。
「ほら、顔をあげてごらん」
「……」
「うわっ、ヒドい顔だなこりゃ。――あっ、ごめんごめん、冗談冗談、ははっ」
佐久也は赤く潤んだ少女の瞳をしっかりと見つめながら言う。相手の心に直接語りかけるように、一言一句丁寧に言葉を紡いでいく。
「時間は残酷だからね、神も妖魔も人間も平等じゃないんだ。いつか別れの時がきて、誰かが悲しむことになる。それは絶対の理なんだ――だけどね、いいかい、ひみか。よく聞くんだ」
佐久也は、少女の下睫毛にこごったようなひとしずくの涙をすくって、やさしく、だが力強く語りかけた。
「今、なんだ。忘れちゃいけないのは、今、なんだよ。今はどんな存在にだって平等なんだ。誰にも奪えない掛け値なしの黄金なんだ。今があるから――今が連綿と受け継がれてきたからこそ、俺たちはこうして一緒にいられるんだ。わかるか? え? わからない? ったくしょうがない奴だな」
佐久也はふうと息をついて、眉をそばだてる少女に笑いかけた。
「簡単にいえば、そうだな……俺は俺が生きている限り、お前に王子屋のカステラをお土産として届けに来てやるってことさ」
「……っ」
「どうだ? 簡単な話だろう?」
「……ぅん」
「うきうきしちゃうだろう?」
「……ぅむ」
「え? 聞こえないよ。ちゃんと返事をしなさいな」
「うむっ」
ようやく少女は表情を和らげた。
「過去や未来なんてね、そんなものはお前にも俺にも、神にも人間にも関係ないんだ。クソ喰らえって話だ。ね? 今なのさ、今! 今が一番大事なんだ!」
「……ふふっ。なんじゃ、それ」
「おっ、笑えるようになったね。まったく、手のかかる神さまだこと」
「う、うるさいな」
「へへっ、悪態がつけるなら、もう大丈夫だな」
佐久也はジャージの袖口で乱暴に少女の顔を拭ってやると、今度こそそばを離れて、卓袱台の脇に座った。
「何度だって、会いに来るからさ。もう泣くなよ」
「……うむ」
「あと、変化もするなよな」
「……それは、おまえ次第じゃ」
「いやするなよ」
少女はぷっと噴き出して、それからくすくすと笑った。
その様子を見て、佐久也は小さくため息を漏らし、そして同じように笑った。
「それにしても、いい歳こいて泣くなんて――」
「なんじゃ?」
「……イートゥッシ、コッテ、ノケナンテという魔法があってだな――」
「いま、作ったじゃろ、それ」
目を細めた少女にじっとりと睨まれた佐久也は、一瞬真顔になってから、ぱっと表情を明るくした。
「よし! んじゃ、しんみりした空気を吹き飛ばすために、ここで一献頂戴するとするか!」
「へ?」
「台所でさっき見つけたんだ。隠してるのバレバレだったぞ、高そうな一升瓶」
「こ、こらっ。あれは、わしのとっておきなんじゃぞっ」
「まあまあ、いいじゃないか。こういうときにこそ、呑んでパーッとしようじゃないか」
「むぅ」
少女が渋々頷くと、佐久也は颯爽と立ち上がった。
「よっしゃ、久々の酒だぜ」
「呑みすぎるでないぞ」
「わかってるって! 一献、一献、神のお酒、これぞまさしく、お、み、き」
鼻歌を歌いながら居間を出ていった佐久也だったが、ふと板の間の途中で立ち止まった。出し抜けにぽんっと手を叩いてから、「あーそういえば」と振り返った。
「言い忘れてたことがあったぞ」
少女は首を傾げる。
「なんじゃ?」
佐久也はにっこりと笑った。
「遅くなったけどな、ひみか――」
そうして、また少女に背を向けて台所に向かいながら――
「ただいま」
そう、言った。
〇
夜更けだった。
あれほどうるさく鳴いていた蛙の声もいまは止んでいて、離れは夜のしじまに包まれていた。
障子の隙間から忍び込んできた柔らかな風に、はらはらと前髪が揺れる。
ひみかは長い髪の毛を耳にかけて、自身の膝元を覗き込んだ。
「……よく眠っておるな。ややこのようじゃ」
酔いつぶれて寝入る青年の頭に手をやると、ひみかは愛おしげになでつけた。
「違うな……ほんに大きくなった。見違えるようじゃ」
ひみかは、昔日の少年の面影を、膝の上で寝こける青年に重ねた。
「もう二度と会えないと、そう思ってたんじゃがなあ……」
ひみかは胸がいっぱいになるほどのあたたかな気持ちを感じた。
――今なのさ、今! 今が一番大事なんだ!
「そうじゃな。今、が大事よな」
ひみかは慈愛に満ちた表情で微笑んだ。
――何度だって、会いに来るからさ。もう泣くなよ。
「うむ。もう、泣かぬからな」
悲しみに、切なさに、寂しさに嘆いていたあの日々は、今、過ぎ去った。
「佐久也、帰ってきてくれてありがとう。わしを忘れないでいてくれて、ありがとう」
だから、ひみかは幸福だった。
「人の子はかわいいのう」
今、誰よりも幸福だったのだ。
「……おやすみ」
そうして、ひみかは、いつまでもいつまでも青年の頭をやさしく撫で続けた。
(了)