第二話、「だだいま」前編
桜の梢から花が散り、夏を兆す鮮やかな新緑の季節がやってきた。
一時は荒涼としていた真室山の木々も、すっかり目に眩しい緑に色づいている。気温も日を追うごとに上がり、近頃は羽織った上着が鬱陶しくなるほどだった。
木漏れ日の落ちる石段を上りながら、遠野佐久也はジャージの前を開いた。
「あっつぅー」
自然と声が漏れる。
麓の鳥居をくぐった先にそびえる長い石段を半分程度しか上っていなかったが、すでに額や首筋には汗がにじんでいた。
ひと月前は上着を二枚重ねて寒いくらいだったのに、これでは夏が思いやられる。しかも、まだ午前中だ。
「なんでわざわざ高いところに建てるかなあ」
佐久也は恨めしげな眼差しを頭上に延びる石段に向けて愚痴をこぼした。
――効率が、――利便性を、――時代の変遷になどと、その後もぶつぶつ言いながら、五分ほどかけて、佐久也はようやく石段を上り切った。
二つ目の鳥居をくぐって振り返る。すると白妙町の全景が目に飛び込んできた。
「ふうむ。まずまずの景色だな」
過去に養蚕や機織りで栄えた白妙町は、小都市まではいかない地方の町村だ。
町のほとんどを田畑などの農地が占め、この季節は田植え前に土の手入れをする農家の姿があちこちで見られる。一方、商店や住宅が密集した地域は町の中心にあり、歴史的建造物が各所に散見され、その美しい街並みは観光にも一役買っている。町村とはいえど、学校や病院などの施設もあり、規模は比較的大きいと言えた。
「しっかし、相変わらず進歩のない町だな」
町の中心から南下した場所には、真室山という小高い山があった。
大した装備は不要で、一時間も上れば頂上までたどり着ける比較的低い山で、手軽なことから気分転換などに訪れる人間は多い。山の形は円錐形を成しているが、富士の称号を与えるには少々いびつなところがあり、あえて白妙富士などと呼ぶのは、年寄りや一部の人間だけである。
そんな真室山の中腹に――といっても、麓から十分程度の場所ではあるが、いま佐久也が立っている伽賀櫛神社はあった。
「こりゃ、若者が都会に出ていくのも当然だな」
「――なんぞ、文句でもあるのか?」
背後で声がして、佐久也はびくりと振り返った。
「え、え? なに、なんか言った?」
「な、ん、ぞ、文句でも、あるのか? と言ったのじゃ」
佐久也の視線の先には、臙脂の袴に白衣という古風な恰好をした少女がいた。巫女のようにも見えるが、どちらかというと勘違いした痛い子がコスプレをしている感が強い。
少女は薄茶色の長い髪の毛を風になびかせて、怒ったように目を細めている。
「えー、あれ? なに? 俺、別になにも言ってないんだけど」
「進歩がないだとか、若者が出ていくなどと、言ってたじゃろが」
「えー、うっそお? 聞き間違いじゃない? ただ深呼吸してただけだし」
佐久也はそう言って、わざとらしく胸を上下させた。ぶつぶつとひとり言を呟いていたのを聞かれ、ものすごく恥ずかしかったのだ。とはいえ、まったく誤魔化せていない。
「あー、空気が美味しい。爽やかだなあ」
「わしを、馬鹿にしておるのかの」
「さあて、お参りでもするかな」
佐久也はそそくさと少女の脇を通り過ぎて参道を歩いていく。
「こぉれ、待つのじゃ。話はまだ――」
少女を置いてずんずん進んでいく佐久也だったが、拝殿の前で立ち止まると、ジャージのポケットを検めて、ふいに硬直した。
「あっ!」
「な、なんじゃ?」
「ひみか」
「きゅ、急にまめだって、いったいなんじゃ?」
ひどく真剣な表情に変わった佐久也に見つめられ、ひみかと呼ばれた少女は顔を赤くして狼狽えた。なかなか初心な反応である。真正面から人にじっと見つめられるという経験から遠ざかっている者特有の挙動不審さも醸し出されていて、はたからみてかなり滑稽であった。
そんな少女の様子をよそに、佐久也は気の抜けた声で言った。
「金がない。さっき使っちゃったんだ。悪いけど、小銭貸してくれ」
「へ?」
「ご縁があるっていうから、五円でいいよ。あるでしょ?」
「……ば、馬鹿者っ! 何を言うかと思えばっ……!」
「えぇ……そんなに怒ることかなあ。だって、五円だぜ? 持ってないの?」
「持っておらんわ! そも、わしに借りようとするなっ!」
「ちょ、ちょっと、そんな大きな声出さなくてもいいじゃない。怖いよ」
「うるさい、たわけがっ! まったく、おまえという奴はっ」
ぷりぷり憤る少女に、佐久也は本気で引いていた。そして、社交性のない者は怖いな、と思った。
しばらく少女は肩を上下させて佐久也を睨んでいたが、ふっと息をつくと小声で言う。
「……まったく、緊張して損したじゃろが」
「緊張って」
佐久也が失笑すると、ふたたび少女は顔を赤くする。
「何も言っておらんわ!」
「いや、いま緊張して損したって言ったじゃん。この近さで聞き間違えるはずないだろ」
「言って、お、ら、ん!」
「言ったよ」
「お、ら、ん!」
「……やれやれ」
佐久也は肩をすくめた。
口に出さず、心の中だけで呟けばいいのにと思ったが、この憐れな少女のコミュニケーション能力の低劣さは、人と接する機会に恵まれていなかったからだろうと察し、指摘するのは控えることにした。そして、そんな自分の寛大さが、少し誇らしかった。
「じゃ、とりあえず参拝だけするかな」
「わしは言っておらんからなっ」
「わかった、わかった。だから落ち着いてね。……ま、言ってたんだけどな」
ぼそりと佐久也が呟くと、少女は頬を膨らませながら「んむぅ!」とヘンテコな音を発して、なおも抗弁しようとする。
佐久也はそれを軽くいなし、否、ほとんどいなしきれていなかったが、なんとか無視して、参拝を済ませた。
〇
平日の昼間だからか、境内にひと気はない。
見上げれば雲一つないまっさらな青空が広がっている。風は凪いで、辺りは静かだった。
佐久也は大きく伸びをすると、拝殿の階段に腰かけた。木造特有のカビっぽいがどこか落ち着く匂いが漂っている。
少女は一瞬ためらうそぶりを見せながらも、佐久也の隣に腰を下ろした。どうやら、もう怒りは収まったらしい。
二人は黙っていた。黙って、透き通る日差しにくっきりと際立つ境内を眺めていた。
ときおり少女は横目で佐久也を盗み見るが、声をかけようとはしない。なんと声をかければいいのかわからない、というふうにもみえた。
ただ静かに時が過ぎていく。
しばらくすると、鳥居をくぐって老婆が参道を歩いてきた。
「トヨ」
少女は呟いた。
「また来てくれたか……」
労りが込められた声音だった。
老婆は賽銭箱の前に立つと、「こんにちは」と言った。
「こんにちは」
佐久也が返事をする。
「いい天気ですねえ。お兄さんもお参り?」
「はい。あの長い石段を上ってきたんですか。健脚ですね」
佐久也が感心してみせると、老婆は顔をほころばせた。
「昔は毎日お参りしてましたよ。いまは足腰が悪くなったので、週に一度しか来れなくてねえ」
「それでもすごいや」
「大神さんには大変良くしていただいたもので。死ぬまで続けるつもりですよ」
そう言って、老婆は賽銭を投げ入れた。
鈴を鳴らし、頭を下げて柏手を打つと、まぶたを閉じて、長々と拝礼している。
老婆がお参りをしているあいだ参道に下がっていた佐久也は、少女が老婆のそばに立っているのに気が付いた。
少女は穏やかに老婆の横顔を眺めている。やさしげで、どこか寂しげな表情だった。
「おひとりで来られたんですか?」
参拝を終えると、老婆が佐久也に尋ねた。
「いまどき、めずらしいですね」
佐久也は少女にちらっと視線を向ける。
少女はいつの間にか、また階段に腰かけていた。
「そうですかね。まあ、ちょっと知り合いがいるもんで」
「お知り合い? 伽賀櫛神社に?」
「まあ、そんなところです」
わりと規模の大きな神社ではあったが、宮司や禰宜の類は常駐していない。社務所は無人の日が多かった。
それゆえ老婆はおや、というような顔をした。だが、その相手をあえて尋ねようとはしなかった。
「では、わたしはこれで失礼します」
「下まで送りますよ」
「いえ。まだまだ、人様のご厄介にはなりませんよ。百まで自分の足で上り下りするつもりですから」
老婆はそう言って笑うと、参道を引き返していく。
佐久也は石段の手前、鳥居までついていき、ゆっくりと下っていく老婆、そして彼女を支えるようにして寄り添う少女を見送った。
「ご苦労さん」
戻ってきた少女に佐久也は言った。
「あの人はもう長いの?」
「……うむ。小娘の頃からじゃ」
「そりゃ、長いね」
「いつもわしを気にかけてくれておる」
「そっか」
「わしだって、トヨに負けず劣らず、気にかけておるのじゃがなあ……」
少女は眼下に広がる白妙町を眺めながらため息をついた。
「ちゃんと、知ってるさ」
少女は首を傾げて、佐久也を見る。
「あのおばあさん、ちゃんとひみかが見守ってるってこと、感じてるよ」
「……そうかの」
「うん。俺はそう思うよ」
「……そうであれば、わしは嬉しいのう」
少女は遠くの空に視線を移して、もう一度「そうであればのう」と小さく言った。
やがて、佐久也と少女はまた口を閉ざし、しばらくの間、雄大な光景をじっと眺め続けた。
〇
時計を確認すると正午を過ぎていた。
どうりで腹が減っているわけだ、と佐久也は思った。ずいぶん長い時間景色を眺めていたようだ。
正直なところ、だいぶ前にいい加減飽きていたのだが、隣の少女がいつまで経っても動く気配を見せないので、「上等だ、我慢比べしてやろうじゃないの」という気になり、つい長引いてしまったのだ。
「さーて、そろそろだな」
あまりにも阿呆な勝負に限りある時間を浪費してしまったと後悔しながら、佐久也は言った。
「お腹も減ったことだし、そろそろ――」
「なんじゃ、もう帰ってしまうのか……?」
少女が眉をひそめて、佐久也を仰ぎ見る。
ものすごく悲しそうな顔だ。瞳が不安げにゆらゆらと揺れている。
「え? なになに? もしかして帰ってほしくない?」
「た、たわけ! そんなこと、あるものかっ」
「ふうん。あ、そう」
「じゃ、じゃがな、おまえがまだここに居たいと申すのならば、わしは、別段、これといって、特に、文句はないのだがの。わしも、めずらしく暇じゃからな」
「ふうん」
「何を、へらへらしておるのじゃ!」
「べっつにー」
こいつ、本当に素直になれない奴だな、と佐久也は思ったが、ただ鼻を鳴らして、やや人を不快にしそうな笑みをこぼすだけに留めた。
「帰らないよ」
「……本当か?」
「うん。お土産も持ってきたし」
「お土産?」
「王子屋のカステラ」
「な、な、なにぃ! いま、王子屋のきゃすていらと言ったかのっ?」
「そうだけど。いちいち声がでかいな」
「そうか、そうか。王子屋のきゃすていらかー」
「カステラね。だから、お茶でも出してもらおうと思ってね」
「うふふ。そうか、そうか、きゃすていらか。まったくおまえも、ずうずうしい奴じゃのう」
少女はだらしなく顔を崩して、うんうん頷いている。
喜怒哀楽がころころ変わる少女の忙しさに、佐久也は呆れかえった。
「んじゃ、行きましょうや」
「王子屋のきゃすていらなんぞ、何年ぶりかのう……おまえがまだ小童のころじゃから――あっ、これこれ、わしを置いていくな!」
二人は参道を引き返し、境内を突っ切って本殿を回り込んだ。
摂社や末社がある神社の奥から真室山の頂上までは、ほぼすべて鎮守の森になっている。登山客などが通れるのは、山を縫うように伸びる数本の登山道だけで、それ以外は禁足地となっていた。
本殿の裏手には、頂上の奥宮へと繋がる一本道の入り口が、鬱蒼とした木々の中にひっそりと口を開けている。この道も原則として一般人の通行は禁じられていた。使えるのは神職の者や神社に所縁のあるものだけだ。
そして二人が立っていたのは、その特別な入口から少し離れた竹垣の間にある木戸の前だった。
少女は古びた木戸を押して、鎮守の森へと足を踏み入れる。佐久也もその後ろをついていった。
青々とした森の中、細い道をしばらく進むと、少女は振り返って言った。
「承知のことと思うが、この先に結界がある」
「うん」
「じゃから、ほ、ほれ」
少女はためらいがちに白衣から伸びる小さな手を佐久也に差し出した。俯いているからか、薄茶色の髪の毛に隠れてその表情は見えない。
「なに?」
「ほ、ほうれ、て、手を……」
「うん、手ね。それで手がなに?」
「むう、わ、わからんのか!」
「すぐ大きな声出さないでよ。うるさいなあ」
「す、すまぬ――ではないっ、ああもうっ、手を繋ぐのじゃ!」
「……いや、いいよ。手なんか」
「結界があると言ったじゃろが!」
少女は地団駄を踏んで、察しの悪い佐久也を恨めしげに睨む。言外には、乙女に何を言わせているのだ、という怒りが込められているようだ。
佐久也は、しかしながら、何食わぬ顔で諭すように言った。
「あのね。前も言ったけど、子どもじゃあるまいし、手を引いてもらわなくたっていい」
「そういう問題ではない。この結界は妖魔どもを寄せ付けぬよう、強力に張られておってな。しかるべき者以外は通れぬよう出来ておるのじゃ。わかったら――」
「だから、大丈夫だって」
「このたわけ! 調子に乗りおって! 全然、大丈夫じゃ――」
「あー、もう、わかった、わかった。はい」
「あっ……」
手を握られると、少女は途端に腑抜けたようになった。
「はっ、はじめから、素直にこうしておれば、いいのじゃ。おまえもしつこい奴よのう」
「そうですね」
しつこいのはおまえの方だろ、と佐久也は口に出しかけたが、上機嫌になったところへ水を差すのも意地悪だと思い、なんとか呑みこんだ。手を繋いだだけで機嫌が良くなるなんて、ずいぶん扱いやすいものだ。
少女は恥ずかしげに俯きながらも、顔をほころばせている。
「……おまえの手は大きいなあ」
「男だからね」
「それに温かい」
「ああ、そう」
「そうじゃ……ふふっ」
「……」
さすがにちょっと恥ずかしいなと思ったが、横を見れば、手を繋いでいるのはコスプレしているようにしか見えない中学生くらいの少女である。かような相手に羞恥の念を感じるのも馬鹿馬鹿しい。堂々としていればいいのだ。
そんなことを考えていると、ふいに佐久也は何かぬるま湯に浸かったような感覚に包まれた。服を着ているのにもかかわらず、地肌に直接、ぬめりとした質感を覚える。しかし、それも一瞬だった。何事もなかったように、妙な感覚は消え去った。
結界を越えたのだ。
首をめぐらせて辺りを確認してみたものの、風景に変わったところはない。相変わらず森の中だった。
「気づいたか?」
「結界を抜けたね」
「うむ。もうすぐ、わしが起居している離れじゃ」
少女はそう言うと、佐久也を引っ張るようにしてずんずん歩いていく。頭にはお土産のことでもあるのか、足取りは軽く、随伴者を急かすようだ。一方の佐久也は何か思うところがあったのか、眉を寄せて考え込んでいる様子だった。
ものの数分も進むと、松や杉、檜などが生い茂る森から、辺りは竹林に変わった。さらにその竹林をしばらく歩くと、突然目の前が開けた。
竹林の中にぽっかりと空いたその場所は、野球のグラウンドくらいの広さがあった。中心には池があり、静かに揺れる水面が初夏の透き通った日差しにきらきらと輝いている。池の真ん中には大人数人がぎりぎり立てるくらいの小島があって、小さな社が建っていた。
池のそばには茅葺屋根の平屋があった。少女の離れである。茶屋のような佇まいで、外観から見る限りかなりの大きさだ。
玄関前までやってくると、少女がおずおずと言った。
「戸を開けるから、手を、放してくれんかの」
反応がない。
少女は再度声をかけた。
「……え?」
さきほどからずっと沈思していた佐久也は、いつの間にか離れまでやって来ていたことに驚いた。
「あれ、もう着いたの?」
「う、うむ」
「そう、じゃあ入りましょう。のど渇いた」
「じゃ、じゃからの、その、手を、な。べつにわしはこのままでも、いいのじゃが――」
「ああ、ごめんごめん」
佐久也はやや強引に手を放した。
「あっ」と呟くと、少女は乱暴に振りほどかれた手を呆然と見つめる。
しばし間が空いた。
ふつふつと怒りが込み上げてきたのか、少女がきっと睨もうとしたそのときには、すでに佐久也は玄関の戸を開けて、上がり框に足をかけていた。
「こおれ! わしより先に入るな! おおいっ、茶の間でゆるりとするなっ」
「冷たい玉露を頼む」
「いい加減にせい!」
頭をはたかれた佐久也は、「やれやれ」と肩をすくめた。