百年の孤独
一陣の風が吹いて、木々が揺れ、花びらが空に舞う。
ひらり、ひらりと蝶のように浮遊して舞い落ちた先は、朱塗りの鳥居の下、長い長い石段のひとつ。
その淡い桃色の花びらを手に取る者がいる。
古風な袴姿の少女は、指先の花びらをじっと見つめると、小さくため息を吐いた。
――春じゃのう。
誰にともなく呟いた少女は、ざっと吹いた突風になびく髪を抑えて、頭上を仰ぐ。
桜の花びらが一斉に舞い踊り、紺碧の大空を美しく彩った。
――あやつと出会ったのも、こんな日じゃった。
少女は、移ろいゆく季節の無常を儚むように、そして慈しむように再び呟いた。
――……春じゃのう。
雪解け水が泉を満たし、獣たちが眠たげに顔を上げ、草木が芽吹き始めた、とある山の春の日のことだった。
〇
仲睦まじい男女が、身を寄せ合って参道をやってくる。
二人は楽しそうに話しながら、賽銭箱へ硬貨を投げ入れた。
つと真剣な顔になると、鈴を鳴らし、拍手を打って、頭を下げる。目を閉じたまま両手を合わせ、静かに祈りを捧げている。
しばらくすると、二人は目を開けて、顔を見合わせる。そして示し合わせたかのように笑顔を浮かべた。
何をお願いしたの、と男が尋ねる。
秘密だよ、と女は悪戯っぽく返す。
えー、教えてよ。
だめ。こういうのは口に出したらいけないんだって。
そうなの? じゃあ、俺も黙ってよう。
うん。そうしなよ。
ちゃんと、神様に届いているといいね。
きっと届いてるよ。
女はそう言って、男に笑いかける。
男は少しかがむと、大きく膨らんだ女の腹を撫でた。
二人は、また身を寄せると、蝉時雨のかまびすしい境内を、ゆっくりと支え合いながら去っていく。
――しっかり届いておるぞ。
少女は拝殿の扉のそばに座りながら、穏やかな表情を浮かべて、男女の後姿を見送っていた。
――元気なややこが生まれたら、またここに来ておくれ。
男女には聞こえずとも、少女は語りかける。
――わしも楽しみにしているからの。
鳥居の向こう、石段の先に男女の姿が消えると、少女はまた独りになって、寂しげに空を見上げる。
――人の子はかわいいのう。
〇
石段を上ってくる気配を感じ、少女は身を起こす。
杖をついた老婆が緩慢に落ち葉の敷かれた参道を歩いてくる。
拝殿までくると、老婆は巾着袋から財布を取り出して、一万円札を数枚、賽銭箱へ納めた。
鈴を鳴らし、手を合わせる。老婆は目を閉じて、口を開いた。
「助かりました。息子の嫁が助かりました。大神さん、ありがとうございます。本当にありがとうざいます。みんな大神さんのおかげです」
幾度となく老婆は礼を言うと、顔を上げ瞼を開いた。目元は涙で濡れていた。
「赤子のとき死にかけていた息子も救っていただいて……それに私が小さい頃も大神さんには……覚えておられますか? 本当に何度も何度も――」
老婆は嗚咽を漏らして、ふたたび顔を伏せた。
――覚えておるとも。
少女は小さく震える老婆の頭に手を置いた。
――トヨ、おまえはやさしい子じゃったのう。
老婆は頭を上げて、それからまた手を合わせると、晴れやかな顔をした。視線は、目の前の少女ではなく、その背後の拝殿に送られているようであった。
「大神さん、また来ます。本当にありがとうございました」
それでも少女は笑いかける。
――長生きするのじゃぞ。
相手の瞳が自分を映していなくとも、耳朶に声が届かずとも、やさしく微笑み、語りかける。
――また、会える日を楽しみに待っとるからのう。
昔日の追憶。
老婆がまだ十にもならない頃の話だ。
糊口を凌いで暮らすのにも限界を迎え、家族のため食い物を探して彷徨っていた彼女に、たくさんの果物を差し出したのは少女だった。厳冬に身を震わせて軒下に佇む彼女に、わずかな賽銭を渡して送り出したのも少女だった。そして、少女と家族はなんとか赤貧に耐え抜いて、希望の帆はついに風を孕んだ。
それからというもの、老婆は毎年必ず少女のもとを訪れた。
――トヨがわしの姿を探すようになったのはいつぞやのことか。またむかしのように言葉を交わせたらのう。
ふたりが交流を持てたのはほんのわずかな日々だった。しかし少女に会えなくなっても、老婆は神社へ足を運び続けた。自分を救ってくれたのは少女の姿をした神様だと信じていた。
そして、少女もまた、老婆を見守り続けた。
――ともあれ、元気そうでなによりじゃ。トヨ、達者で暮らせ、またな。
少女は石段の下まで老婆のそばに寄り添うと、白髪頭に乗った紅葉を払ってやる。
――人の子はかわいいのう。
少女は胸にくすぶる思いを抱えながら呟いた。
〇
ある日、少女は山中のどこかで響く悲鳴を聞いた。
悲鳴は麓近くの泉で上がったらしい。
少女が駆けつけると、小学校高学年くらいの男児二人が、水面を揺らして必死にもがいている。それほど深くない泉だが、足を取られやすい。
少女は自身の肢体を大きく、強靭に変化させると、冬の凍てつくような冷たさの泉に飛び込んだ。
男児二人はなんとか助かったが、意識が朦朧としていて、体温が下がり、危険な状態だった。
少女は巨大な体で二人を包み込み、震えが収まるまで、生命力を送り、温め続けた。
そして、二人が自分たちを救ったのはバケモノの類なのかどうか、夢うつつで判然としない程度に意識も回復したころ、少女はその場を離れた。
数日後だった。
男児の一人が神社を訪ねてきた。
男児はきょろきょろと境内を見回しながら、おそるおそる何かを探しているようなそぶりを見せている。ちらちらと淡い雪が舞う中、手水舎、神楽殿、神木、摂社や末社、本殿を巡り歩き、拝殿までくると、落胆とも安堵ともとれるため息をこぼした。
拝殿の中から、その様子をうかがっていた少女は、男児が自分のことを探しているのだと気が付いた。
ふいに少女の胸が高鳴った。
もしかしたら――そう思い、拝殿を出る。
男児はスポーツメーカーのロゴがついたマジックテープの財布から硬貨を一枚取り出して、賽銭箱に放り投げた。
次の瞬間、鈴に手を取ろうとしていた男児は、体を硬直させて賽銭箱の奥、少女のいる辺りを凝視した。
まさか、と少女は思う。
男児は訝しげに目を細めたが、はっとした表情を浮かべ、しばらく黙り込んだ。
「神様、ありがとうございます」
男児はそう口火を切った。
「この前、ぼくとカズくんが溺れたとき、助けてくれたでしょ。ぼく知ってるよ」
少女の眉は、一瞬憂いを帯びたようにひそめられたが、すぐにその表情は柔らかくなった。
「おじいちゃんに話したら、神様が助けてくれたんだぞって言ってた。おばあちゃんも言ってたし、ぼくもそう思った。だって、ぼく見たんだよ。でっかい犬みたいなふわふわしたのが、ぼくとカズくんを池から出してくれて、温かくしてくれたんだ。ちゃんとぼくは覚えてるんだ。夢じゃないよ。……神様、そこにいる?」
男児の声は徐々に暗くなり、途切れ途切れになった。
「だからお礼をしないといけないし……ぼく、あのとき、苦しくて寒くて本当に死んだと思った。でも助かって、わかった。生きてるってすごいことなんだって。嬉しいことなんだってっ」
ふと、男児の目に涙がたまる。
「カズくんと、一緒に来たかったけど、行きたくないって。怖いし危ないし、バケモノがいるから、もう山には行かない、それに親がっ、行くなって言ったんだって。神様、そこにいるんでしょ?」
男児はついに泣き出した。かつて感じたことのない複雑な気持ちが湧き起こり、胸が張り裂けそうだったのかもしれない。
「い、命を、助けてもらったんだから、お礼をしないとダメだって言ったんだけど、あいつ、カズくんは嫌がって……、それでユウタ行ったら、絶交だからなってっ」
少女は目じりを下げて笑う。そうして男児をあやすようにその頭を撫でた。
男児は顔をくしゃくしゃにして嗚咽を漏らした。
「カズくんは、ぼ、ぼくが、こっちに引っ越してきて、はじめて、できたっ、友達なんだ。一緒にゲームとか、泊りっことか、体育のときもペアだしっ……来年は二人で野球チームに入るかもしれないんだ……だからっ――」
少女はやさしく包み込むように頭を撫で続けた。
「だからっ、で、っでもあいつ本当はいい奴だからっ、山に来るのは裏切り、かもしれないけど、助けてもらって、ぼくっ生きてて、嬉しかったから、ありがとうって言いたかったんだ。カズくんの分もっ」
男児は羽織っていたジャンパーの袖で乱暴に顔を拭った。鼻をすすり、のどを震わせながらも歯を食いしばった。
「だからっ、神様、ありがとうございました。それでっ、もう来れないかもしれないから、ごめん、なさい」
男児は言い切ると、踵を返して走り出した。
――よいよい。おまえたちが無事でなによりじゃ。
「神様?」
男児は参道の途中で立ち止まり振り返った。
「やっぱりいるんだ。ねえ、どこ?」
――カズくんと仲良うするといい。大切にするんじゃぞ。わしは、おまえたちが来なくとも、ずっと見守っておるからの。さ、もうおかえり。
男児はしばらくその場に立ちつくして、正面の拝殿に見入っていたが、やがて勢いよく頭を下げると、大きく手を振って参道を駆けていく。
――安心せい。わしはいつもここで、見守っているからの。
羽のような雪がはらりはらりと落ちてくる。
少女は薄く残った男児の足跡をぼんやり眺めている。
性根のやさしい純粋な童。
少女は男児に、ある少年の姿を重ねた。
ここ百年の間で、唯一面と向かって対等に交流できる人間だった。
出会ったのはほんの少し前のことで、少女の長すぎる生涯においては、昨日のように近しい日のことだ。
しかしその少年もいつの日か、ここへ来なくなった。
男児のように大きく手を振って、
――またね。
と残し、少年は去っていった。
少女の姿が見えなくなったのかもしれない。
あるいはおそろしくなったのかもしれない。
けれど、少女は、またね、という言葉を信じていた。
――あいつは息災かのう。
雪景色の中に男児の姿が霞んでいく。
――また、会いたいのう。
鼻の奥がつんとする。
少女は頬を伝って手の甲に落ちるまで、自分が涙を流しているのに気がつかなかった。
おかしいな、と少女は苦笑した。
外気は冷たさを増しているが、胸の中はほんのり温かい。しかし、なぜか切ない気持ちが涙をこぼさせる。
いつのまにか、雪は止んでいた。
男児はもう家に着いただろうか。
カズくんとユウタはきっと莫逆の友となるだろう。
一生涯、忘れられない間柄。
少女は真っ白な空を仰いだ。
――……寂しいのう。
〇
また季節が巡った。
大気は、冬の終わりを告げるうららかな風で満ちていた。
人里や山野で新たな生命の息吹が聞こえはじめる。世界は生まれ変わった生きとし生けるものたちでざわめいている。
しかし、少女の暮らす山は、冬が終わったというのにいまだ静けさに包まれていた。
なおも寒風が吹きすさび、桜の梢は裸のままで、動物たちは冬眠から目覚めずにいる。
そして少女は、境内をはずれた離れの暗い一室に重い体を横たえていた。
心身が何かに蝕まれている、と少女は感じた。かなり悪い。事態は深刻なのかもしれない。
新年を迎えたころから、ずっと体の調子がおかしかった。気力も湧いてこない。塞ぎがちになり、いつも憂鬱で、悲しいことばかり脳裏によぎるようになった。
気が晴れれば体も良くなると思うが、一向に明るい考えが浮かんでこない。
そしていまも少女は天井の木目を見つめながら、深く暗い思考に沈んでいく。
いつから人間は、自分の声が聞こえなくなったのだろうか。
この世に生を受けた時代は遥か遠い昔のことだ。あれから千年近く過ぎただろうか。ずいぶんと長い間、人間と交わり合ってきた。
氏子が集まる祭りは、自分が仕えている姫大神も来臨して、大層な賑わいをみせていた。人間の姿を借り、正体を隠して遊んだのはいい思い出だ。しかし、いまや人に化けたところで誰にも見えない。
明治の代になり、侍が消え、鉄道が走り、ガス灯が並んだ頃までは、まだひとりではなかった。それらの産物は東京や大阪などの大都会に限られていたからだ。
境内には自分を慕う数多くの人間がいた。世話を買って出てくれ、言葉を交わし、ともに食事をして、――たしかな繋がりがあった。
しかし時代が下り、人の世に新たな文化が次々と生まれ、都会を離れたこの地域にも文明の波が押し寄せて、それからだ。
徐々に自分の姿を見えるものが減り、声を聞くものが少なくなっていった。
とどめを刺したのは、あの大きな戦だろう。
この国が海を越えた見知らぬ異国と戦争を始め、それが終結したのを機に、人々はこの社に昔ほどの崇敬や関心を示さなくなった。
参拝者が減ったわけではない。定期的に人々は訪れ、賽銭を持ち寄り、手を合わせる。しかし、自分と心を通わせるものは皆無となった。
つらく、悲しい日々だった。
誰にも顧みられない寂しい隘路のような道程だった。
このまま自分は一生、真に誰とも触れ合えず消滅していくさだめなのだろうか。
そうやって朽ち果てていくくらいなら、この地を離れてやろうかとも思った。
うろうろと迷っている間に、また長い年月が過ぎ去った。
そして、そんなとき――ある晴れた春の日に出会ったのが、あの少年だった。
――ねえ、ちょっとお手洗い貸してもらえます?
我が目と、我が耳を疑った瞬間だった。
少年はだらしない顔をしていたが、きっと自分も負けず劣らずだったにちがいない。
少女は天井から視線を外して、横向きになった。
すると、溜まっていた涙がこぼれ落ち、枕にシミを作った。それでも少女はあの日のことを思い出して、くすっと笑う。あれほど心躍った日々は本当に久方ぶりだった。
視線の先には薄く開いた障子と縁側、その向こうに鎮守の森が見えた。
森の中を何か怪しい影が蠢いている。
楽しくなりかけていた気分がにわかに吹き飛んだ。
山が春を迎えられないのは、管理者である少女の力が弱まっていたからだ。そのせいで、異形のよそ者どもが山域を跋扈し始めている。
このままではいけない。
少女はそう思うが、どうすればいいのかわからなかった。
少女の力は、外的な要因はもちろんのこと、気の持ちように大きな影響を受ける。心が暗澹とした状態では、魔を祓うことはできない。
だが少女の心は晴れなかった。
むしろ刻一刻と荒んでいく一方で、自身では手の施しようがない。
この世でもっとも恐ろしい害悪のひとつ、孤独が彼女を蝕んでいたのだ。
少女が失意に嵌まり込めば、山は穢され、山が穢されれば、少女は蝕まれていく。絶望的な悪循環で、もはや手遅れのように思われた。
――もう、立てぬかもしれぬな。
そして、同じく恐ろしい害悪である、諦めの毒が少女に回りはじめる。
――姫さまはどこにおられるのかのう。そうだ、常世じゃったなぁ。わしも消えれば、常世に行きつくやもしれぬな。ふふっ、いや無理じゃろうな。
少女は瞑目する。
空咳が漏れる。
もう起きられないかもしれない。あとは、ぐずぐずと床の上で腐っていくだけなのだろう。
それはそれでかまわない。
孤独はもう飽きた。独りは悲しい。
けれど、それならば……。
それならば、最後にもう一度、もう一度だけ。
――寂しいのう……。
ぽつりとつぶやいて、少女はいつ果てるとも知れぬ昏い眠りに落ちた。
〇
みな消えていく。
わしも消えていくのか。
ここはどこじゃ。
みなはどこじゃ。
暗い。寒い。寂しい。
なあ、そなたは――そなたはどこぞにおるのじゃ。
また、ほら、一緒に……みなで……。
わしは、ずっと、ここにおるからの。待っているからの。だから……。
――人の子はかわいいのう……。
――そなたはかわいいのう……。
〇
希望の足音がする。
夜明けとともに清廉な気配が山を覆う。
新鮮な息吹が風に乗って木々を揺らしている。
目覚めの時が来る。
希望の足音は、もう、すぐそこまで来ている。
〇
体中に漲る力を感じて、少女は跳び起きた。
愕然として、それから胸がひどくざわめいた。
何が起こったのかなんてわからない。けれど、確信があった。
弾かれたように縁側から、裸足のまま鎮守の森へと駆け込む。
履物を履いている時間が惜しい。遅疑も逡巡もない。
山中には途方もない祝福の香りが充満していた。
少女は袖をなびかせ、袴を翻しながら、結界を跨ぎ、境内の裏手に出る。
カラン、カラン――、鈴の音が鳴った。
少女ははっとして、足を止める。深呼吸を繰り返す。
本殿の裏から一歩ずつ、ゆっくりと拝殿の方へ進んでいく。
我知らず、涙が両目からあふれ出てくる。
神木の横を通り過ぎ、震える唇をきつく結ぶ。
やはり歩いてなどいられない。
少女は拝殿のわきから飛び出した。
境内一帯が視界に広がった。
「っ!」
少女は胸がいっぱいになり、頭の中が真っ白になった。
「ひみか」
青年が、少女の名を呼んだ。
「ねえ、悪いんだけどさ――ちょっとお手洗いを貸してくれる?」
「……この、たわけ!」
山神である狼の化身、木山津見比彌火はだらしない顔をした青年の胸に飛び込んだ。
――おかえり。
季節は春。一夜にして蘇った桜の花びらが、二人を包むように舞い散っていた。
(了)