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ナマケモノと私

作者: 宮澄詩乃

 二十四歳、OL。

 二十歳の私は、その言葉からどんな連想をしていただろう。

 全身が甘く痺れるようなオフィスラブ? キラキラした、会社から期待されるキャリアウーマン? 仕事終わりも休日も自分磨きに精を出すデキる女?


「ばーーーっかみたい」


 鼻で笑って、私は親指と人差し指でつまむように持った缶を振る。

 社会人三年目。今の私は、大学時代の自分が夢見ていたような『きれいでかっこいい自分』とは正反対だ。

 仮病で会社をサボって、缶チューハイ片手に動物園で時間を潰す。四年前の自分にはとても顔向けできないような情けない姿。

 気怠そうにあくびをしているライオンを見ながら、私は小さくため息をついた。

 スーツは着ている。本当なら今日も普通に通勤するはずだった。


 ――ああ、無理。嫌だ。


 満員電車の中で、私の意識がそう言った。

 起きて死にたくなるのは今朝に限った話ではなかった。それでも毎朝、無理やりに会社へ行く準備を始める。重たい体を引きずって、沈んだ心に鞭打って、息の詰まる職場へ向かう。

 今日もそんな最低な一日になるはずだった。サラリーマンのおじさんたちに押されながら、いつもの電車に乗った。


 なのに、内なる声が拒絶した。

 初めての感覚だった。体が言うことを聞かない。心が私の手綱から放れる。

 やるべきことをやれと言う理性をぶっちぎって、私は見えない手に押されるようにして電車を降りていた。


(……何やってんの?)


 自分で自分がわからなかった。だけど、会社に休む旨の連絡を入れたとき、どうしようもなく全身が軽くなった。

 今日は無駄に過ごそう。明日何を言われても、今日一日は私の自由なんだから。

 スマホの電源を切って、私は一歩を踏み出した。


 コンビニに行って、安いお酒を買う。私はアルコールに強いけれど、一人で飲むことはめったにない。

 堕落に裏打ちされた背徳感。

 そこまで言ってしまうとおおげさかもしれないが、とにかくそういう『ちょっと悪いこと』がしてみたかった。


「……だっさい」


 前足に顔をうずめたまま、ライオンは動こうともしない。土日のグロッキーな私でももう少し動くのに。

 何かに追われることのない、退屈な生活。それを羨ましいと思った自分に、私は呆れた。


 ――死を待つだけの時間。


 私も彼らも、その本筋は変わらない。死なないために生きている。死にたくなるほど辛い仕事か、死にたくなるほど暇な自由か。


「なーに考えてんだ」


 益体もないことを思うのは心が疲れている証拠だ。たった一日だけど、せっかく仕事から離れられたのだから、そんな思考に侵されたくない。

 楽しいことを考えよう。心が躍るような、楽しいことを。


「………………楽しい、こと……」


 何も思いつかない。数学の難題を出されたときのように、思考が空白になる。

 私は何を楽しんでいたのだっけ。


 仕事を始めてから、平日はほとんど丸々潰れるようになった。朝起きて、心を殺して仕事をこなして、終電手前でようやく解放される。ゴールデンのバラエティを、最後にリアルタイムで見たのはいつだろう。


 休日は昼まで寝る。平日に取れなかった分の睡眠を補填しなければ、次の一週に響く。夕方まで目を覚まさないこともしばしば。

 起きてからも、心身の疲れのせいでまともなことはできない。死んだようにスマホをいじって、最低限の食事洗濯を済ませる。誰かが来る時にしか部屋も掃除しない。


 ――息ができない。


 何をしていても、そう思うようになった。好きなことをしても楽しめない。趣味や夢にかけるだけの気力が湧かない。


「情けな」


 ポンと時間をもらっても、何をしたらいいのかろくにわからない。今日ここへ来たのだって、『仕事に疲れて、一人酒を片手に動物園で黄昏るOL』がそれっぽかったからだ。私の意志で、私の考えで足を運んだわけじゃない。


「ママー、早くーっ!」


 後ろからそんな声が聞こえた。肩越しに振り返ると、三歳くらいの男の子がてとてととこちらに走ってきている。


「あーもー、待ちなさい」


 ベビーカーを押しながら、後から女性が現れる。歳は私より二つか三つほど上だろうか。薄くだがちゃんとしたメイク、動きやすく小綺麗な身なり。大変そうにしながらも活気のある表情。


「………………」


 彼女と目が合う前に、私はふっと視線を逸らした。彼女たちから逃げるように、ライオンの檻の前から離れる。

 結婚。家庭。子供。

 女の婚期はクリスマスケーキ。結婚適齢期が低かった昔は、女性は二十四歳までに結婚しなければ売れ残りと言われたらしい。

 母から初めてその話を聞いたとき、私は馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばした。価値観の冒涜、女性蔑視、個人の自由。当時高校生だった私は、覚えたての言葉を自慢げに吐いた。


 ――違う。


 感覚の問題だ。なんとなく世の中に流れる空気を、私は嫌でも感じ取ってしまう。

 二十代のうちに結婚。三十代までに子供をもうけて、家事と子育てをちゃんとする。子供の手がかからなくなってきたら、また仕事に復帰するかもしれない。


 そういう人生設計が『正解』。その青写真を辿ることが『幸せ』。


 無意識のうちに膨れ上がっていく焦燥を、私は必死で否定する。

 仕事が忙しいから。恋愛に割く余力がないから。

 並べた理由は、どれももっともらしいものだった。

 もっともらしい詭弁だった。

 真に自分を欺ける嘘なんてない。嘘は誰かを騙すためのもので、自分に向ければただの言い訳に成り下がる。


(……何にもできないだけ)


 職場にいれば上司にいびられる。理不尽な客に怒鳴られる。営業成績があるから同僚とは打ち解けられない。

 ストレスを覚え続ければ、思考は鈍る。仕事のミスが増える。上司に怒られ、同僚から嘲笑(わら)われる。負のスパイラルだ。

 でも、大人である以上、一人の足で立たなければならない。お金を稼いで生活しなければならない。だから軋みを上げる心身を無理やりに動かして、今日も仕事へ行かなければならない。


 ……生きなければ、ならない。


 時々、もう一人の自分が問いかけてくることがある。

 あなたはどうして、そんな辛い思いをするために生きているの、と。

 私は目をつむって、鼻から息を吐く。

 その疑問はダメだ。考えてはいけない類の命題だ。


 そういうとき、私は考える。何も考えないようにすることだけを考える。

 それは意外と難しくて、会社のことや将来のことがぐるぐると私の脳内で巡る。

 繰り返し。ただただ日々をしのぐだけの繰り返し。


「はーーーー…………」


 大きく息を吐いた。空は青く晴れているのに、その下にいる私はこんなにも暗い。

 前を向こう。せめて、形だけでも。

 そうやって顔を上げて。

 私は、そいつと出会った。


























 会社を休んだ週の日曜日。私は再びあの動物園にいた。

 昨日は休日出勤させられた。欠勤した翌日、会社からの電話に出なかったことを散々怒られ、それとは関係のない嫌みを延々と聞かされ、針のむしろに座らされる思いで仕事をした。

 自業自得だ。それでも、キツいものはキツい。


 だけど、退社して終電に飛び乗ったとき、不思議と気持ちは沈まなかった。いつもなら涙が零れるくらい辛くなるはずなのに、その日の私は口角を上げる余裕さえあった。

 やりたいことがある。行きたい場所がある。

 たったそれだけで、心が少し軽くなる。


「……はぁ」


 お目当ての動物の檻前まで行って、私は柵に肘をつく。

 ナマケモノ。木にぶら下がったまま動かない、よくわからない生き物。

 休日だけあって、ここのゾーンにも多くの人がいた。スマートフォンやカメラを構えている人もけっこういる。

 なのに、ナマケモノはただのんびりと枝につかまっていた。自分を見ている人間たちを気にすることなく、脱力し切っている。


(……いいなぁ)


 何物にも影響されないそいつを見ていると、不思議と心が安らぐ。気張らずに、ありのままの自分でいていいのかなっていう気持ちになる。

 勝手な感傷を向けられても、ナマケモノからすれば迷惑な話だろう。私があっち側ならそう思う。

 だけど、そいつはそんなわがままさえも許してくれるような気がした。小さなことに憤るのさえ面倒臭いと言わんばかりに。


 ナマケモノ。漢字にすれば怠け者。

 どんなことをすれば、そんな名前がつけられるのだろう。いやむしろ、何もしていなかったからそう名付けられたのか。

 私はそいつに、並々ならぬ興味を覚えた。



























 ナマケモノと出会ってからも、私の実生活に劇的な変化はなかった。

 だけど休みのある週は、動物園に行くようになった。

 ぼーっと、時が経つのも忘れてナマケモノを眺める。彼の動きは本当にのろくて、初めの頃は見ているこっちがじれったくなった。

 でも通っているうちに、そのリズムが落ち着くようになった。ずっと見ていられる。何もかも忘れて、癒しに浸ることができる。


 ――ここはとても、息がしやすい。


 仕事で動物園に行けない日は、ナマケモノの動画を見て暇を潰した。終電で一人ニヤニヤしながらスマホをいじっている私は、傍から見ればずいぶん奇妙に映っただろう。

 ナマケモノは一日の大半を寝て過ごすらしい。十八時間とか、二十時間とか、とにかく長く寝る。

 それは何も、私たちが考えるように『怠けている』のではなく、生存戦略の末に根付いた性質らしい。

 エネルギーを消費しない代わりに、食料を多く必要としない。彼らが一日に摂取するのは、葉っぱわずか八グラム。ネットに記されていたその情報は、私を大いに驚かせた。


「あんたも、ちゃんと生きてんだね」


 木の上で寝ているナマケモノを見て、私は一人呟く。

 土曜日の朝。雨が降っているため、普段より客の入りは良くないようだ。ここのゾーンにも、今は私一人しかいない。

 パタパタと、雨が傘を叩く音がする。今までは雑音にしか聞こえなかったそれも、どこか楽しく感じる。休みの日に外出してるんだなって、そう実感できる。


 ナマケモノには表情らしい表情がないそうだ。その理由は、顔にほとんど筋肉がないから。

 何とも悲しい理由だった。その馬鹿馬鹿しい悲しさに、私は笑ってしまった。

 それを知ってから、朝仕事に行く前、鏡でナマケモノの表情を真似するようになった。顔全体の力を抜く。ぬぼーっとした脱力感を体現する。間抜けな自分の顔を見ていると、思わず笑みがこぼれる。


 思い返してみれば、私の顔はいつも強張っていた。

 平日も休日も、心が休まる時間はなかった。力を抜けば心の糸が切れそうになる。するとまた、仕事に行くのがとんでもなく辛くなる。

 ずっと臨戦態勢でいるのが、結局は楽な方法だった。心は削れるけれど、柔らかいままでいればすぐに壊れてしまうから。


 臨戦態勢。


 ナマケモノは他の動物と争うことがないらしい。筋肉が少ないから、天敵に見つかっても抵抗せずに捕食

されるのだとか。

 全身の力を抜く。少しでも死の痛みを和らげるために、全てを諦める。

 弱い生き物だ。足掻くこともせず、どうしようもない運命を受け入れる。

 私にはとてもできない生き方だった。だけど少しだけ、その生き方に憧れた。

























 

 心に、ちょっと余裕ができ始めた。

 相変わらず仕事は辛い。上司から理不尽に怒られ、いつも営業成績に追われ、取引先のところへ行くときはお腹が痛くなる。


 それでも、空っぽだった自分に活力を感じるときがあった。重たい体がわずかに軽くなったというか、精神的なアクセルをかけられるようになったというか。

 最低限しかしていなかったメイクにも、少し気をつけるようになった。Youtubeでメイク動画を見るのは学生の時以来だ。職場に何かを求めるわけではないけれど、綺麗にメイクが仕上がると少し良い気分になれた。


 高校や大学の友達とも遊びに行くようになった。今までは無気力に過ごしていた土日が、ちょっとずつ予定で埋まり始める。ショッピングは楽しいものなのだと、ほとんど三年ぶりに実感した。

 親からのLINEにも、まめに返信するようになった。心配さえも鬱陶しいと思っていた自分は、どれだけわがままだったのかと恥ずかしくなった。休暇があれば、たまには父と母のところへ帰ろう。素直にそう思えた。


 以前より、息が苦しくなくなった。世界が、少し広くなったように思えた。

 何だか、色々と上手くいき始める気がする。

 そんな淡い予感が砕かれるのに、大した時間はかからなかった。

 

























 仕事のミスが発覚した。

 私が同期の榎田に引き継いだ仕事。


「吉川! 榎田!」


 課長の怒号がオフィスルームに響き渡る。

 彼のデスクの前に立たされ、私たちは怒鳴られながら事の顛末を知った。

 何でも、取引先から苦情が来たらしい。納期内に頼んでいたものが届かなかった。おかげで多大な損害が出た。もう貴方方とは取引しない。


 頭が真っ白になった。お得意先と言うほどではなかったが、その相手方はウチがこれから積極的に関わっていくはずの会社だった。


「お前ら何やらかしたかわかってんのかッ!」


 ドンと拳を叩きつけて、課長は物凄い剣幕で怒鳴りつけてくる。

 頭を下げながら、私は必死でここ最近の記憶を辿った。

 この仕事を受けたときのこと、途中で他の取引を任されたときのこと、着手していた元々の取引を同期の榎田に引き継いだときのこと。


「課長、私は――」

「――口答えしてんじゃねぇよッ! ぶっ殺されてぇのか!」


 弁明は課長の怒りに塗り潰された。

 こうなってしまった課長には話が通じない。暴言も理不尽も、嵐が過ぎ去るまで耐えるしかない。

 ちゃんと確認した。取引先との打ち合わせで話したことを、全て榎田に伝えた。口頭では不十分だと思ったから、同じ内容をメモにして彼女に渡した。引き継ぎの前に、榎田とともに相手方とも話をしに行った。

 不備はなかった。私が犯したミスはなかった。


「――――――――――――っ」


 息が止まった。

 ちらりと、横目で隣を見た。

 真っ青になっている榎田は、私の方を見てこなかった。

 決して見ないように、頑なに怯えているようだった。




























 メモではなく、榎田にメールで伝えていればよかった。その上で、課長に弁明できていればよかった。

 そしたら、私の潔白は証明された。


(…………だから?)


 今回の件はそれで済んだだろう。

 だけどきっと、これからも同じようなことが起こる。


 入社一年目の頃は、彼女と飲みに行くこともあった。

 支え合いながら、二人で会社を良くしよう。いなくてはならない人材になろう。夢見るように語った私たちには、熱意や思いやり、……恥ずかしい言い方をすれば友情と呼ぶべきものさえあったかもしれない。


 だけど、月日を経るごとに、私たちは『適応』していった。

 仕事をミスなくこなすこと、課長から怒られないようにすること、取引先から気に入られるように振る舞うこと。

 必要なのはそれだけだった。営業成績がある以上、同僚は全員蹴落とすべき敵だ。熱意も思いやりも、適切なタイミングで『もっともらしく見せられれば』、本心が伴っている必要なんてない。


 大きい案件を取ってくるな。自分の代わりに課長に怒られろ。


 同僚たちの死んだ瞳からは、そんな声が聞こえてくるような気がした。


 ――……ぁぁ。


 この子も同じだ。

 私だけ堕とさないで。

 堕ちるなら――あなたも一緒に堕ちて。

 申し訳なさそうなその目には、どうしようもなく後ろ暗い弱さが見えた。

 真面目な子だった。人の役に立ちたいと、気丈に頑張っていた子だった。


 彼女が歪んだのは、……彼女が歪まざるを得なかったのは、全てここの空気のせいだ。

 淀んだ空気を吸うごとに、ここでの呼吸の仕方を覚えていく。夢だとか情だとか、曖昧で役に立たないものを削ぎ落として、ただただ心を殺して仕事をするようになっていく。

 ここで生きていくには、それが『最善』だった。


(…………ほんとに?)


 ずっと抑え込んでいた疑問が顔を出す。

 ここの仕事を辞めれば、再就職先はなかなか決まらないかもしれない。もっとひどい職場に行きつくことになるかもしれない。

 だから、ここで生きるのが最善だと結論付けた。間違いだらけの環境の中に正解なんてないから、最善を体現し続けるしかないのだと思っていた。


『ブラックなんじゃないの?』

『たぶん、良くないよ』


 親からも友達からもそう言われた。心配してくれる彼女たちに、私は『ありがとう』『大丈夫』と返した。


 ――何もわかってない。


 内心ではそう思っていた。外から見てるからそんなことが言えるんだ。実際に私の立場になれば、安易に辞めろなんて言えるわけがない。

 同情の言葉が蔑みに聞こえた。提案の言葉が陥穽に思えた。

 私は、親切や思いやりを受け取る心さえ失っていた。


「…………ははっ」


 知らず小さく笑った私を、課長はものすごい形相で睨んできた。


 ――全身の力を抜く。どうしようもないときは、それが運命なのだと受け入れる。


 深く息を吸った。押し潰されそうだった心が、少しだけ軽くなった。

 怖いとは思わなくなった。この人は、……課長はこんなに醜悪な顔をしていたのかと、ふと思った。

 浴びせるような怒鳴り声は、すでに私の心を叩かなかった。彼の怒気は、不思議と私の思考を冷やしていく。


「榎田ッ! てめぇもてめぇだよ!」


 課長の怒りは、私の隣にも飛び火した。びくりと体を震わせて、同僚は泣きそうになりながら頭を下げる。

 それから延々と、私たちは暴言のサンドバッグになった。
























 その日の夜、私は久しぶりに榎田と飲みに行った。

 課長が退社してから、私たちは同僚たちから押されるようにして帰らされた。

 思いやりというよりは、榎田があまりにも沈みすぎていて仕事になっていなかったのが主な理由だろう。


 個室の居酒屋で、彼女は声を抑えることもせず泣いた。泣きながら、何度も私に謝ってきた。

 ミスをしたのは自分であること。非のない私を巻き込んでしまったこと。


 うんざりだった。

 彼女が涙を流すのは自分のためだ。彼女が謝罪の言葉を吐くのは、少しでも罪の意識を和らげるためだ。

 そう思ってしまう私自身にも嫌気が差した。

 私たちは弱い。自分のことだけで精一杯なときに、誰かを思いやれるほど強くない。


「ねぇ、榎田ちゃん」


 だから、二年ぶりに、彼女の愛称を口にした。

 私たちが夢を語り合っていた頃に呼んでいた、友達としての名前。


「今度、ナマケモノ見に行かない?」























 二十六歳、OL。

 二年前、人生に絶望していた自分は、今の私をどう見るだろう。

 転職先でも、相変わらず仕事は忙しい。お給料はそんなに良くないし、業務だって大変だ。


 だけど、今の職場には淀んだ空気がなかった。

 営業成績を競うような風潮がないから、同僚同士で蹴落とし合うこともない。上司は厳しいけれど、あの課長のように理不尽な怒りをぶつけてくることはなかった。


 ――息の吸えるところだった。


 今にして思えば、前の職場は明らかに良くなかった。息を潜めて、心を殺していなければ、私はあそこで生きられなかった。

 退職願を出してからも、私は榎田ちゃんと時々会っていた。彼女は今もあそこで働いているけれど、もうすぐ辞めるかもしれないと言っていた。実家の知り合いが、新しい働き場所を紹介してくれるかもしれないのだとか。


「……人生、意外と何とかなるもんだねぇ」


 缶ジュース片手に、私は呟く。

 肘をついているのは、ナマケモノのいる前の柵。晴れの日の平日。午前休の私は、今日も今日とて動物園に入り浸っていた。

 ナマケモノは死んだように眠っている。起きていたとしても、私の方を気にすることなくだらりとしているだけだから、あまり変わらないと言えば変わらない。


 弱い生き物。

 かつてそう称した私は、果たして弱くなかったのだろうか。

 他と争えないナマケモノは、自分が生きられる場所でしか生きられない。ある意味で悟ったその生き方に、私は未だ憧れている。


 完全に真似はできない。だけど、少しくらいならそういう生き方を目指してみてもいいのかもしれない。

 ぐいっと缶ジュースを飲み干して、私はナマケモノに背を向ける。縋るようにここへ通っていた頃に比べれば、私はちょっとだけ前向きに生きられるようになった。


「…………ぁ」


 振り向いた先に、私は一人の男性を見つけた。スーツ姿のまま、ベンチに座っている。


(新社会人、かな)


 スーツを着ているというよりは、スーツに着られているという印象。まだ初々しい彼の顔は、しかしとんでもなく翳って見えた。

 晴れの日なのに、まるで真っ暗闇の中で息を殺しているような、暗い表情。


 見覚えがあった。二年前まで、私は何度も鏡で同じ表情を見ていた。

 顔を上げた彼と目が合う。疲れ切った瞳と、強張った表情筋。

 息ができないと、言葉よりも雄弁にその顔が語っていた。


(話をしてみよう)


 仕事まで、まだ少し時間がある。大して考えることなく、私は彼の前まで歩を運ぶ。

 そして、こちらを見上げてくる彼に、私は聞いた。


「ナマケモノ、見ませんか?」


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― 新着の感想 ―
[良い点] とっても良かったです(*^^)v ナマケモノを見ながらの、前向きだか?後ろ向きだか?解らないけど自分なりの答えを見つけて、 「ショウガナイヨネ」って感じがとっても良かったです [一言…
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