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堤千代/春光の下に 『主婦之友』昭和20年4月号掲載


「へえ、大そう立派な構へだねえ」

 お米は、三階の窓から、目下に見る庭園や、築山の向うの別館なぞを余念なく眺めた。

「この私等の部屋でも、子供づれで住むのが気の毒なやうだねえ」

「だつて、おつ母さん…」

 と、嫁の初代は、「どれ、いつぱい上げようね」と、膝の赤ン坊に襟を寛げながら、

「ここは、土地一番のお料理屋だつたのを、援護会の方で、出征遺家族の疎開用に買ひ取つたんですもの。お湯殿なんか、大した拵へですわ」

「まるで、気保養に来てゐるみたいだねえ。これも敬吉のお蔭だ…」

 と、母は、遠い南の基地にある我が子の上を、すぐ口にしたが、上の方の孫が、乳を飲んでゐる小さい方のをからかひにかかつたのを見ると、

「どれ、一夫。お祖母ちゃんのお背中に来てごらん」と呼んで、「下の方の事務室に行つて、移動表を出して来ませうかね。それから初代さん、部屋続きの皆さんに、御挨拶は、どういふことにしようかね」と、心遣らしく訊く。

「それは、今夜、寮の隣組常会の時、皆さんに御紹介してくださるさうですよ」と、運び入れたばかりの手荷物の中から手提げを取つて、移動表を姑に渡した。

 お米は、なるほど昔日の名残らしく、鏡ほどに光る階段を下りて、昔の帳場、今の事務室の方へ行つた。

「おや、坊やはもうねんねだね…」

 と、背の孫を揺り上げながら、

「御免なさいまし」と伺ふと、

「どうぞ」と、はつきりと透りのいい声がした。食事時分の故か、部屋の中の人影は一人だけだつた。紫紺のモンペの後姿が、すらりと書類棚の前に見えた。

「あの、今日入寮した者でございますが…」と、覗き込んだお米と、「ハイ」と振り返つた顔と合ふと、瞬間お互いに惑つたが、

「まア、戸畑さんのお嬢さん…」

 と、お米が先に声を出した。

「あら、佐原の小母様でいらつしやいますのね…」とこちらも叫んだが、強い感動の色が見えて、

「小母様もここへ疎開なすつたのね。では、敬吉さんは御出征ですわね…」

 と、半ば独言のやうに呟いた。

「ええ、敬吉は去年の春お召を頂きましてね。学徒兵の大先輩だなんて大得意で出かけました」

 と、お米は笑つて答へたが、

「それで、あなたも、こちらに疎開してお出ででいらつしやいますか…」

 と懐かしげに、相手の様子を見直す。

「いえ。私は、援護会に勤めさせて頂いてゐますの」

 と言ひながら、お米の背中の上の小さい寝姿を見ると、

「まア、お可愛い。敬吉さんのお子さんでいらつしやるんでせう。そつくりですわ」

 と側に寄つて、祖母の背につけた肥つた頬へ、自分の睫が触れるほど近く覗いた。

「はア、この下が女でございますよ。それで、あなたはもうお幾人…」

 と、笑顔で尋ねると、

「いいえ。私、まだ嫁きませんの」

 と、当然至極のやうに答へられて、

「まア、私共はゆき乃さんはもうとつくにお嫁きになつただらうつて、お噂してゐましたのですよ…」

 と、お米はむしろ訝しさうだつた。

「あら、私、もうお嫁入なんて、忘れてしまふやうな年になつてしまひましたわ」

 と、サッパリと笑つて、「女なんて、時分からお嫁に行きたいところなんて、一生のうちに二度と見当りにくいんですもの」

 と、寝入つた子の手を取つて、自分の頬に当ててみる。その、ふと言葉になつて出た魂の吐息のやうな数語は、お米の耳にも、胸にも、痛かつた。お米は、ほろりとして、相手の品も器量もいい、地味なモンペの作りの、床しい姿を眺めたのであつた。



「初代さん、坊はねんねしましたよ」

 と、お米は部屋に帰つて来たが、手荷物の取り散した中に座つてゐる嫁の姿に驚かされた。初代は、良人の大学時代の制服を膝に広げて、泣いてゐるのだつた。

「まア、どうしたの」

 と気のいい姑はあわてて訊いた。

「いいえ、何でもないんですけれど」

 と、初代は極り悪そうな涙の顔で、「鞄の中から、敬吉さんの制服が出て来たものですから。いつか、これを着た敬吉さんとお母さんが、父の見舞ひにお出てになつた日のことを思ひ出して、何だか…」

 と、昔の我が影に誘はれるやうな涙の目を伏せた。

「さうさう。あの日、あんたに茶碗蒸しの御馳走になつたつけ…」

 と母は、思ひに沈んでゆくやうな面持で、孫を背中から膝に抱き直してゐた。

「さう、あの日、この初代を嫁に取ることに決めたのだつた…」と、お米は、心で言つてみたが、同時に、先刻の思ひがけない再会の人のその頃の様が、お互の縁を引いて、記憶に浮び出て来た。

「さう、同じあの日の夕方、ゆき乃さんが、結ひ立ての唐人髷を見せに、家へ遊びに来たつけ。それがまた、ほんたうによく似合つて、可愛らしかつたが…」とお米は、先刻事務室で見た、きりりと賢そうで寂しい面影を、昔の唐人髷の主と同じ人とは思へない心地がした。



 その頃お米は、良人の一周忌を済ましたばかりだつた。一人息子の敬吉は、大学を出て横須賀の海軍予備学生に入つてゐた。世間の耳に、予備学生の名も疎いやうな頃で、お米は、週に一度隊から帰つて来る我が子を待ちつつ、文房具店ー小体に営んで暮してゐた。

 ゆき乃は、お米の郷里の大地主の娘で、上京して、女学校の寄宿舎に入つてゐたが、小母さん、小母さんと遊びに来ては、泊まつてゆくこともあつた。ゆき乃の親の方では、いつそ寄宿生活より、お米の手許に預つくれないかと、依頼して来たこともあつたが、考へたことがあつて、お米は、気の悪いのは承知で引き承けなかつた。といふのは、或る春の夕方だつた。お米の家は、親代々の持ち地だから、表の店は小さいが、庭などは一寸広い。二本の木蓮が、八重の紫と白に咲き重なつて、如何にも晩春らしい庭の中で、横須賀から帰宅してゐた敬吉とゆき乃は話し込んでゐた。もう木蓮の花蔭から、月の光が煙つて来る頃になつても、若い二人の笑ひと話は尽きない風だつた。お米は、庭に向つた小座敷から、解物の手を休めて、時々そちらを母らしい優しい目で眺めてゐたが、ふつと心附いたものがあつて、夕べの色の庭へ二人の名を呼び立てた。敬吉は木蓮の花弁を毟つてゐたが、そのうちにゆき乃が側から一ひら二ひら掌に受けると、そのまま唇の間に含んだ。そして酸漿のやうに、白い花弁を唇にちらちらさせながら、敬吉を見上げて微笑んだ。その仇気ない嬉しさうな微笑は、すぐ敬吉の面にも反射した。彼は、自分も手の花弁を口に銜へると、ふつとて強く吹いて、ゆき乃の方へ飛ばした。その罪のない動作の中に、お米の世馴れた眼には、花弁に乗つて通ふ若い美しい想ひがはつきりと映つたのである。

 ところがその後間もなく、郷里から出てきた知人が、ゆき乃の両親の依頼を帯びて話を持ち込んで来た。つまり、一人娘の気持を計らつたゆき乃の父母の、敬吉の嫁にといふ仲人役であつた。お米は、一通りの挨拶をしておいて、次の日曜の帰宅を待ち受けて、敬吉に聞かせた。

「どうかえ。お前さんの気持は…」

 と、お米は、どこか笑ひのある目許で、我が子を眺めた。

「ヤァ…」

 と、敬吉は頭を掻き、閉口の体をした。

「お前さんがよければ、私は、どうでもいいけれど、ただ、ゆき乃さんの家があんまり大身代だから、何だか、こちらが肩身が狭いやうなことがありはしないかと思つてね…」

 と、母が取り越し苦労を持ち出すのを、敬吉は笑つて聞いてゐた。

「さうさう。序に話しておくけれど…」と、お米は思ひ出した風で、声を低めた。

「あの、久松町の田上ね。あそこの初代さんのことだがね。実は、家も、お父さんが盛りの頃、初代さんを家の嫁にといふ内々の話が出来てゐたんだよ。当人達には、も少し年がいつてからと聞かせないでゐるうちに、お父さんが亡くなつてしまつたらう。それなりそのことは、口の端から拭いて取つたやうに、気振りも見せないやうにしてゐるから、こちらもすつかり忘れたことにしてゐたのだよ。それが近頃になつて、ちよいちよい田上の小父さんの方から、聞かせ始めてね、今では、あそこも不幸続きのところだから、娘のことが心配になつて、昔の縁の染め返しがしたいのだけれどね、初代さんには、不足はないが、今までのことを考へると、横を向きたくなるやうでね。しかし、あつたことなんだから、一応田上の方をハッキリさせないとね…」

 と、お米はひそひそと言ひ聞かせたが、敬吉は「ほう」と目を瞠つて、「初耳だナ。しかし、そんな配給洩れの縁談は問題にしないでいいですよ」と苦笑した。

 数日後母子は、田上の重体の報せを得て見舞ひに出かけた。田上は、すつかり逼塞した中風気味の身を、他人の二階借りに寄せて居た。薄暗い四畳半に電灯の笠もなく、火鉢代用の七輪の火も、割り箸で空き箱の底から計り炭を挟んで入れるのを見て、お米は哀れに思つた。田上は、不自由な身を起して喜んだ。

「初代、お婿様に何か御馳走しないか」と、そんなことを言つた。お米は思はず顔を顰めたが、敬吉は微笑してゐた。初代は、父の言ひつけるまでもなく、食事時が来てゐるのにも、気がついてゐた。しかし、その日は、使ひに出る風で往来に出て、屑屋を呼び止めたにしても、履いて出た草履でもやる他には何にもないほど、詰つて来てゐた。

 それでも初代は、母子の客に、心だけでも届く限りをしたかつた。初代は、たうとう針箱代用の空箱から、過去のお嬢様の名残の唯一の品を取り出した。彼女が十六の春、初島田に結つた髷祝ひに、亡き母が、誂へて絞らせてくれた、鹿子の切れであつた。一度使つたばかりで、その後は、櫛の歯もろくに入れない、ひっつめ髪でゐるのてぜ、油の香の染みてゐない真新しさなのも、悲しかつた。売買の論外のやうな品で、これだけ残つてゐたのである。初代は、美しい切れを懐にして、思ひつくままに、一町ほど先の髪結ひの店に走つた。台所の水口に立つて、

「一寸、お師匠さんに、お願ひなんですけれど…」と言ふと、おふじさんといふと響いた上手の髪結ひが、油手を拭き拭き出て来た。

「今、お客様に掛かつてるところなんだけど、何の御用…」と、初代の母の丸髷を手にかけたこともあるので、さまでぞんざいでもなかつた。

「あの、本当に御迷惑なお願ひなんですけれど、これを、お店の使ひ用に取つて頂けませんでせうか。そして、あの…」と言ひさして、初代は、水口の引き戸のガラスに顔を当てるやうにして俯いた。おふじさんは、一寸、妙な顔をしたが、

「どれ、一寸拝見、一度でも使つたのは、お客様に、お掛けするわけにはゆかないんですけれどねえ」と、鹿子の切れを取つて、「おお、いい絞りだ」と呟いて、天井窓の下へ行つて調べる。その時、

「一寸、お師匠さん…」

 と、店との仕切りの障子のすぐ蔭から、若い声がした。覗いてゐたものと見えて、細目に引いた障子の隙から、華かな花の色が零れた。

「はア、只今。お客さんが、呼んでいらつしやるから、御免なさいよ」

 と、切れを持つたなりで、おふじさんは、引き込んだ。初代は、ガラスの面に指で條を幾つも引いて見ながら、ぼんやりとしてゐると、おふじさんは引き返して来た。

「あのね、今、丁度、お唐人に、お上げしてゐたお嬢さんがね、あの鹿子を、自分のにして掛けて、使つて欲しいつて、仰言るんですよ。それで、お代を頂いて上げたけれど…」と、おふじさんは、自分が気前を見せたやうな上機嫌で、「あんた、運がいいんですよ。そら、新しく買うより、余分に下さつたわ」

 と、紙幣をよこした。初代は、自分の初島田を一度飾つたばかり、知らぬ女性の髪に結ばれる、鹿子の切れを、自分の不幸せの記しのやうに悲しく偲んで、掌の札も忘れて暫く佇んでゐた。

 やがて、敬吉母子の前には、湯気の立つ茶碗蒸しが運ばれて、お米は、気の毒な思ひをしながら箸を取つた。

 母子が帰宅するのと同じに、軽い下駄の緒とが格子戸に停まつた。ゆき乃が、珍しく結つてみた日本髪の出来を見せがてら遊びに来たのだつた。

「まア、唐人髷が良く出来たこと。お人形より美しいこと。どこで結はせたの」

 と、お米は見惚れた。

「お友達から聞いて、下谷の、おふじさんといふ人のところまで行つてみましたの」と、ゆき乃は、羞しさうな、嬉しい光に充ちた笑顔で、そつと鬢に触る。

「アア、下谷のおふじさんは知つてますよ。田上といふ家の知り合ひの近所に昔からの店ですよ」と、お米は、言ひながら、その髷に、ふさふさと掛けられた鹿子に目を惹かれた。金糸で鶴の丸を一粒、鹿子の地に縫ひ入れた好みは、確かに見覚えがあつた。同時に、初代の、十六の初島田のために、初代の母が、下町まで誂へに行くのに誘はれで行つた日の思ひ出が出て来る。鶴の丸は、お米の選んだ形であつた。

「これは、出来合ぢやありませんねえ…」

 と言ふ。お米の調子は少し震へた。

「ええ。これはおふじさんのところに近所の娘さんが売りに来ていらつしたのを、譲つて頂いたんですの」

 と、ゆき乃は、お米と敬吉へ、等分に笑顔を向けながら、「その御様子が、大変、お気の毒なので。私、使い古しでも構はないと思つて、自分の髪に掛けてもらひましたの」

 と、ゆき乃はその出来事に、心を動かされてゐる風だつた。「後で、おふじさんが、色々、話してゐましたわ。その娘さんは、中風のお父さんの看護をしながら、配給所に勤めて、近所の褒めものの人ですつて。今日は、親戚のお客が見えたのに、お膳を上げたいからつて、手絡の切れで、都合をしに見えたのださうですの」

 と、ゆき乃は話して、

「私も、この切れから、その娘さんの、お心掛けに、あやかりたいと思ひますわ」

 と、素直に言つて、微笑んだ。

 お米は、その艶々と照る黒髪を眺めながら、同じ鹿子の切れが掛つた、もう一人の娘の島田を思ひ浮かべた。そして、いつか、つくづくと涙ぐんでいつた。

 食後は、母と子は、話に身が入って、しんみりと向ひ合つてゐた。

「ねえ、敬吉…」と、母は思ひついた様子で言ひ出した。

「どうも、初代さんは、昔のままで、私たち母子を考へてゐるんだらうねえ。何れ、姑なり主人なりを、大切にかける気持で、そんな苦労をして、私やお前に、温いものをとつたのだらうと思つてね。何だか、いぢらしくつてあ、可哀さうで…」

 と、お米は、ほろほろ涙を零した。

「私は、初代さんに、今日私達のために失くした初島田の鹿子の切れの代りに、丸髷の初手絡を買つてやりたいやうな気がしてね。それが、胸の辺に固まつて取れないみたいなんだよ…」

 と、母は、我が子を、ぢつと見詰めて、心の底の声を待つ風だつた。黙つてゐた敬吉の顔には、微かに苦痛の色が動いていつたが、やがて、しかし、気の籠つた微笑に代つた。

「さうですね。それは、つまり、あの、茶碗蒸しの中に、湯葉や椎茸の他に入つてゐたものが、こなれない故ですね」

 と、ふつと母から外らした敬吉の瞳は、どこか哀愁の気を帯びて、灯影に向いた。

「僕も、やつぱり、そんな気持がしてゐます」



「アレで、敬吉もゆき乃さんとの縁談はずゐぶん気に入つてゐたのだらうけれど、やつぱり、もとからの初代に縁があつたのだねえ…」

 ゆき乃との奇遇から、過去の日々を思ひ調べてから、お米は、自分で結論をつけて、ほッと長い吐息をして、膝の孫を抱へ直した。

「お母さん。また頭痛ぢやありませんか。大そうめ入っていらつしやる」と、初代は訊ねる。

「いえ、昔の知り合ひの方に逢つてね。色々のことを思ひ出したの」と、お米は笑つた。

「今、ここを片附けてから、マッサージをして上げますから」と、初代は立ち上つた。その後姿を見ながら、お米は、「誰が来たつて、初代より良い嫁あるものか」と考へて、内心で満足の微笑をした。

 その翌朝だつた。お米は、一夫を広い庭園で遊ばせてゐると、ゆき乃が、通りがかりに挨拶したが、そのまま足を停めて、子供の遊ぶ様に見入つてゐた。

「本当に、お父様、そつくり…」と、ゆき乃は、可憐に堪へないやうな微笑を洩らした。その時、頭の上の高みから、激しい炸裂音が響いたと思ふと、地を奮はせる一大音響が、それに続いた。「あッ」と叫ぶより早く、ゆき乃は、地の宇に伏せた身の下に、一夫を被ひかくしてゐた。

 「空襲」「投弾」の叫びが、一斉に、人々の口を突いた。ところが、事実は、直覚した空襲に全然関係のない、国民学校の化学教室のボヤから生じた爆裂音であつた。れ比較的多量に蔵してゐた戸棚の化学薬品に引火して、勢ひが屋根を吹き上げたのであつた。

 泣き入る一夫を、抱き寄せながら、

「出征遺家族のお子さんにお怪我をさせてはと、張り切ったら、却て、一夫さんを転がしてしまひましたわ」と、頬を寄せると、「御免、御免ね。大事の坊やのお頭に、瘤を作つてしまつたわ。お父ちやまに、申し訳がないわ…」

 と、勢い吹き掛けて、さする様を、お米は、見てゐるうちに、涙が出て来た。

「ゆき乃さん、あなたは、ほんたうに、敬吉を悪く思つておいでなさらないんですねえ」

 と、お米、袖口で涙を拭いて、沁々とした心地で呟いた。

「悪く思ふなんて、そんなことが、あるものですか」

 と、ゆき乃は子供を胸に抱き寄せたまま、遠い戦野のその父を思ふやうに、朝の空を眺めた。

「私、敬吉さんはお立派な方だと、今も存じ上げてゐます」

 ゆき乃は、老母の上に瞳を返して、しめやかに言つた。

「あの、昔、私との御縁の揉め事の時、かけ合ひに伺つた、私の伯父に、敬吉さんが、ゆき乃さんは、三十万円の持参金付きの人だし、一方は、茶碗蒸し二つが土産の花嫁だ。この二つの縁談の何方を取るとなつた時、日本の男の取る方は、自から決つてゐるのを考へてくださいと、仰有いましたのね。それを伯父から又聞きしますと、私は、自分の怨めしいやうな気持が、さらりと取れたのを覚えてをります」

 ゆき乃は、過ぎ去った年月を通して、今尚床しいその面影を、その人の愛児の上に偲ぶやうのに、優しく尋ねた。

「今頃、坊やのお父様は、南の基地で、どうしていらつしやるでせうね――」

 子供は、大きな涼しい目で、ゆき乃と祖母を見上げながら、ハッキリ答へた。

「お父ちやんは、神鷲の乗る飛行機のお支度だよ」

 敬吉は、整備中尉である。

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