クトゥルフの影
本話にはらい病(ハンセン病)について、2016年現在に分かっている医学的事実とは異なる記述があります。本作の舞台は大正時代なのでこの時代の常識をそのまま書きましたが、患者さん及びご家族の方には不快感を与えてしまうかもしれません。この場を借りてお詫びします。
「藪蛇だったか…」
佐村は早急に発砲を命じたことを後悔した。これから自分たちは、未知の能力を持つ怪物数十体と戦うことになる。だがその直後思いもよらぬ事態が起きた。怪物の上に乗っていた人間から、日本語で呼びかけがあったのだ。
「我々に敵意はない。むしろ貴軍に協力する者だ」
呼びかけは確かにそう聞こえた。
「ど、どういうことだ?」
周りの兵たちがざわめいた。相手は確かに日本語を話していて、自分たちは味方だと言っている。もちろん素直に信用できるものではないが。
「それなら、とりあえず私が指示する場所に着陸しろ。そして武器を持っているならそれを引き渡せ」
佐村は上空の相手に向かってそう言った後、兵たちに発砲を控えるよう指示した。やがて怪物たちは着陸してきた。
上に乗っていた人間たちが次々と降りてくる。さっき見た通り彼らは全員が黄色いローブを着用していた。ローブは薄く伸ばした皮のような奇妙な素材でできていて、何とはなしに不快な違和感を与える形状をしていた。
さらに不気味なのはこれまた全員が顔全体を覆う白い仮面をつけていることだ。これでは表情が読めないばかりか、こいつらが本当に人間かすらわからない。
「それであなた達は何だ。さっきは我が軍の味方だと言っていたが」
佐村は近づいてきた一人、おそらくリーダー格らしき人物に声をかけた。その人物は横柄に返答した。声の質からすると男らしい。
「貴殿がこの部隊の最高指揮官かね」
「いや、私はただの本部付の少尉だ」
「では本部まで案内してくれたまえ」
黄色のローブの男はそう言った。佐村は怪しんだ。この連中が味方になるつもりなら、確かに連隊本部に引き合わせる必要はあるだろう。
だが、そもそも本当に味方である保証がどこにもないのだ。むしろ半漁人たちの仲間である可能性のほうが遥かに高そうに思われる。
そんな連中を軽々しく連隊本部に入れるのは危険だ。相手は本部内に乗り込んで中にいる連隊長や参謀たちを抹殺し、こちらの指揮系統を混乱させる気かもしれない。
「分かった。だが、あなた一人でだ。あなたの部下たちはここに残っていただく」
とりあえず佐村はそう頼んでみた。得体のしれない数十人を本部に入れるわけにはいかないが、こいつ一人なら仮に敵だったとしても対処できるだろう。
「では、案内してくれたまえ」
意外にも相手は素直に要求を受け入れた。佐村は腰の拳銃に手を当てながらも、黄色のローブの男を本部のテントまで連れて行った。
「それで貴様の名は何だ。どこの組織に所属している」
指揮所に黄色いローブの男を連れて入り今までの経歴を説明するや否や、滝村参謀長が大声で質問した。
「私は実田と言う。セラエノ神智教会に属している」
「セラエノ神智教会?」
全く訳の分からない単語に、滝村は当惑したような声を上げた。
「詳しく説明している時間はない。貴軍に協力を要請したいのだ。宇賀那侵攻と、あの村に巣食う深き者どもの抹殺のためのな」
「深き者、とはあの半魚人共のことか? そして貴様らは、我が軍が宇賀那を攻略することを望んでいると」
滝村は聞き返した。彼が先ほど主張していた宇賀那攻略を、この怪しげな男が支持したことに興味を覚えたらしい。
「その通りだ」
実田と名乗る男はどこか嬉しそうに答えた。滝村が乗り気であることに気づいたのだろう。
「参謀長、この男の言葉に惑わされてはなりません」
清水作戦参謀が切迫した調子で叫んだ。
「恐らくそいつは宇賀那から来た間諜です。我が軍の侵攻をけしかけ、罠にはめるつもりに違いありません」
「ふん、信じてはもらえんか」
「当然だ。大体、何故そんな妙な格好をしているのだ? 大方貴様はあの半魚人の仲間なのだろう。それで、そんな仮面と服で全身を隠しているに決まっている」
清水の疑いは当然だ。実田は本部に入ってきてからも仮面を外していない。しかも実田が着ているローブは彼の指の先まで覆っており、たとえ彼が半魚人であっても分からないだろう。
「私はらい病(現在で言うところのハンセン病)でな。他人に感染させないために、これを着用しているのだ」
実田はそう答えた。らい病は進行性の奇病であり不治の病だ。そして症状が進むと全身の皮膚が爛れていく。
実田が本当にこの病気に罹っているなら、ローブと仮面を着用していても確かにおかしくない。しかし佐村にはその言葉を信じられない理由があった。
「ではなぜ貴様の仲間まで、そんな恰好をしているのだ? まさかセラエノ神智教会とやらの会員は全員がらい病だとでも?」
佐村は清水に代わって実田を詰問した。ローブと仮面をつけているのが実田一人ならまだ頷けるが、この男が連れてきた数十人まで同じ格好をしていたのだ。あまりにも怪しい。
「疑いを晴らしたければ、その仮面を取って頂きたい。我々は軍人だ。危険に身をさらす覚悟はできている」
佐村はそう言った。清水も同調する。とりあえず目の前の男が半魚人、彼が呼ぶところの深き者でないことが証明できなければ、味方だという主張は全く信用できない。
「では、仕方がないな」
そう言って実田はゆっくりと仮面を外し、さらにローブの腕の部分をはだけた。中にあったものを見て、全員が息を呑んだ。
実田の顔は半ば溶けていた。いやそうではない。ヒトでない何かになっていたのだ。顔面全体が鱗に覆われて異様な形に変形している。眼球さえも鱗に覆われていて視力があるかも定かではない。
一方の腕はやはり鱗で覆われているが、それは半魚人の鱗とは違う硬質のものだ。その所々から触手が伸びていて奇怪な法則に従って蠢動している。そして腕全体は本来構造的に曲がらない方向にも曲がるようだ。まるで、骨がすべて無くなってしまったかのように。
これはらい病ではない。それどころか、この世に存在するどんな病気とも違う。
「これでご納得いただけたかな。私がこの仮面とローブを着用する理由と、私が深き者ではないことが」
実田は素顔を晒したまま言った。確かに実田の体の特徴は半魚人たちとはまるで違う。だからと言って、彼らの仲間でないと決まったわけではないが。
「それは分かった。だが貴様の正体は何だ。それと目的は。我が軍に宇賀那侵攻をけしかけて、何の得がある」
佐村は吐き気をこらえながら実田に質問した。そもそもこいつは人間なのか、あるいは半魚人とは別種の怪物なのか。人間だとして、何のために行動しているのか。
「私は人間だ。我らが神、ハスターとの契約によりこのような姿となっているがな。目的については。そうだな。強いて言えば、人類の滅亡を防ぐためかな」
「嘘ならもっとましな嘘をついたらどうだ」
実田の突拍子もない発言に、佐村はあきれ返った。人類の滅亡を救うだと? 馬鹿らしいにも程がある。
「では聞くが、何故宇賀那の深き者どもは今になって暴れだしたのだと思う。奴らは数千年来、基本的にはおとなしくしていたはずだ」
確かにそれは事実だ。佐村が昨日記録を調べたところによると宇賀那周辺は平均より行方不明者が多いほかは、おおむね歴史的に見ても平穏な地域だった。
「そんなことは知らない。大体、連中が暴れだしたことと、人類の滅亡とやらに何の関係がある?」
「深き者どもの神、クトゥルフの復活が近づいているからなのだよ。既にクトゥルフの神殿、ルルイエは南太平洋上に浮上している。後は連中が復活の儀式を成功させれば、クトゥルフは甦る」
全く訳が分からない単語だった。クトゥルフと呼ばれる神に、その神殿であるルルイエ。おそらく実田が適当にでっち上げた言葉なのだろう。
ただ、その響きには出鱈目に作られた単語とは思えない不吉さ、果てしない深淵を覗き込んでしまった者のみが感じ得る恐怖感が確かに存在した。大海に浮かぶボートの上で安穏としていた船乗りが、ふと足下の果てしない闇に気づいた時の感覚に近いかもしれない。
そう、確かに「それ」は存在する。佐村は理由もなくそう思った。人間の理解を超える曲線で形成された巨大な都市、原初からの澱みに横たわる者。昨日の夜に錯乱した兵たちはおそらくその姿を見た。
「何をバカなことを言っている。クトゥルフだと?そんな神は聞いたことがない。ましてやそれが復活するだと?」
清水作戦参謀があきれ果てたように言った。佐村も無理やりそれに同調しようとしたが、何かひっかかるものを感じた。
自分は確かにクトゥルフという単語を耳にしたことがある。あれは確か、南方の部族の伝承に関する文献を読んだ時のことだった。
「クトゥルフは確かに世界各地で信仰されている神だ。伝説ではクトゥルフは空から飛来して今は眠りについているが、星辰が正しい座標に着いたときに復活するとされている」
佐村がそれを思い出す前に、今まで黙っていた中里情報参謀がそう述べた。彼は学者を志望していたが、家が貧しかったために軍に入ったという経歴の持ち主だった。
「そちらの方は物分かりが良くて助かる。そのクトゥルフは今、眠りから目覚めようとしている。そしてその復活は人類の滅亡を意味するのだ」
実田が言った。とりあえず、この男が全くの作りごとを述べているのではないことが分かったが。
「百歩譲って貴様の善意を信じるとしよう。だが証拠はどこにある?そのクトゥルフとやらが、復活しようとしているという証拠は」
清水が実田を詰問した。問題はそこなのだ。実田の話には証拠と言えるものが全く存在しない。そんなものに基づいて、軍の行動を決めるわけにはいかないのだ。
「いや、この男の話について間接的な証拠ならあるのだ」
中里情報参謀はいかにも言いにくそうに言うと、新聞の切り抜きをいくつか取り出した。それはここ数週間、世界各地で狂信者の蜂起が相次いでいるという記事だった。
アメリカの地方都市、アフリカや南太平洋の植民地、中国の僻地などあらゆる場所で、怪しげな宗教団体が一般市民を襲撃、殺害する事件が相次いでいるのだ。
そしてその狂信者たちが信仰する神の名には、おそらく共通性があった。彼らは一様に主張したのだ。自分たちの行為は全て偉大なる、クトゥルー、クスルフ 、ク・リトル・リトルなどと呼ばれる神への帰依に基づくものだと。
「そして彼らはこう言っているらしい。クトゥルフが復活する時、地上の全ての虚栄は消滅し、殺戮と無秩序が全てを浄化していくとな。実田、貴様が言う人類の滅亡とはそういう意味か?」
「まあ大体そういうことだ。本当にあなたは物分かりがいい」
実田はどこか嬉しそうに見えた。
「この宇賀那での暴動もこれら狂信者の蜂起と関係があるのかもしれないと、私は出撃前から思っていた」
さらに中里はどこか苦渋に満ちた顔で言った。自分の主張が常識から逸脱することは分かっているが、さりとて言わずにはいられないという表情をしている。
「ふむ、それが本当なら…」
滝村参謀長が話に加わった。
「やはり宇賀那は攻略するべきかもしれんな。クトゥルフとやらが復活するかは別にしても、放置しておけば奴らは際限なく住民への襲撃を繰り返す恐れがある」
「参謀長の主張は正しいかもしれん。狂信者は何をしでかすか分からん。一刻も早く討伐すべきだ」
さらに松田連隊長までが、滝村の、ひいては実田の宇賀那侵攻案に賛成の構えを見せた。
「侵攻を行うとして、勝算はあるのですか?」
清水が抗議した。連隊長と参謀長がともに賛成してしまえば、おそらく侵攻案の採用は避けられない。だが本当にそれでいいのかと言いたげだ。無謀な作戦を行って失敗すれば、狂信者をさらにつけあがらせることにならないか。
「それと実田とやら、貴様らは我が軍に協力するというが具体的に何をしてくれる?」
清水は次に実田に聞いた。実田と彼が率いるセラエノ神智教会は軍への協力を持ちかけているが、そもそも彼らに実質的な協力などできるのだろうか。
「貴軍はずいぶん苦戦していたようだな。特にショゴスに」
「いきなり何を言い出す? 我が軍を侮辱するつもりか?」
実田の唐突な発言に松田が不快感を示した。だが連隊がかなりの苦戦を強いられていたことは事実だ。
実田がショゴスと呼んでいるあの不定形の塊は恐るべき脅威だったし、今日の戦闘の後半戦では深き者たちが異様に正確なライフル射撃を放ってきたという報告が届いている。
何より問題なのが、敵の早期発見が容易ではないことだ。森の中を進む深き者を見つけるのは容易ではないし、ショゴスに至っては樹木に擬態して襲ってくることがある。
「我々はショゴスと戦うことができるし、ビヤーキーからの偵察で奴らの擬態を見抜くこともできる。そうすれば貴軍はずいぶん楽になるはずだが」
松田、滝村、清水は互いに顔を見合わせた。セラエノ神智教会が本当にそんな能力を持っているなら、実田の言う通り軍にとって大きな助けとなるだろう。
「ついでに言うとだ。貴軍は大砲でショゴスを破壊したと思っているようだが、人間の武器ではあれを殺すことはできん。ビヤーキーから見たところでは、もう既にショゴスは半ば再生している。」
「何だと!?」
連隊本部の皆が息を呑んだ。さっき苦心惨憺の上に倒したはずのショゴスが再生しているとすれば由々しき事態だ。宇賀那から出てくるであろう新手の敵と交戦しているうちに、再生したショゴスが後方から襲って来れば連隊は破滅する。
「どうかな。ここは我々に任せてもらえないだろうか。おそらく貴軍よりはまともに戦えると思うのだが」
連隊本部の動揺を見た実田は甚だ傲岸な口調で言った。だがその無礼を咎める者はいなかった。事態はそれどころではない。挟撃を食らう前に再生中のショゴスを破壊しなくてはならないのだ。
松田はすぐさま連隊をさっきショゴスと交戦した位置に後退させるよう命令した。その上空を、ビヤーキーという名前らしい怪物に乗り込んだセラエノ神智教会が飛翔していく。
異様な光景だが動揺したものは少なかった。あるいはこれまでの戦いで、将兵の恐怖や違和感を感じるための神経は既に焼き切れてしまっているのかもしれない。