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蹂躙

「射撃開始!」

 松田連隊長は命令した。それを待っていたかのように、松田の指揮下にある全部隊が発砲を開始した。小銃、機関銃、速射砲、山砲、重砲、その全てがただ一体の怪物めがけて発射されたのだ。6.5mmから150mmまでの数千の銃砲弾が、遥か昔にクトゥルフと共に飛来した異形の生命体目がけて降り注ぐ。

 

 弾着の瞬間、クトゥルフの落とし子の周囲は硝煙と無数の鉄片、さらに巻き上げられた土埃で覆われた。その中に無数の閃光が走る様子が朧げに見える。落とし子が並の生物であれば、この一撃で肉片と化しているはずだが。

 

 「ほとんど無傷だと?」

 

 煙をかき分けるように進んできた怪物の姿を見て、松田は絶句した。クトゥルフの落とし子は、表面に僅かな傷を受けただけだったのだ。巨大な胴体に破孔が開くことも、8本の脚のどれかがもぎ取られることもない。ただ鱗の一部が剥がれているだけだ。

 落とし子は悠然と歩いている。あるいは自分が攻撃を受けたことにすら、気づいていないのかもしれない。

 

 「驚くほどのことはないのかもしれません。ショゴスも砲撃で殺すことはできませんでした」

 

 清水作戦参謀が奇妙に落ち着いた声で言った。確かにその通りだった。相手はこの地球とは異なる星からやって来た生き物だ。であれば、人類が把握可能な常識を超えた耐久力を兼ね備えているのは、むしろ当然ともいえる。

 


 クトゥルフの落とし子にさらなる銃撃と砲撃が加えられる。敢闘精神と言えば聞こえはいいが、実際にはパニックに陥って発砲しているだけにも見えた。そして効果はほとんどない。陸上を歩行する蛸のような異様な怪物は、間断なく降り注ぐ銃砲弾の中を悠然と進んできている。

 

 「奴の脚に攻撃を加えろ、そうすれば転倒するかもしれない」

 

 松田連隊長は新たな命令を出した。怪物の脚が胴体より弱いというのは何の根拠もない推測だが、今はそんな希望的観測にすがる以外になかった

 


 だがその命令が実行されるより早く、クトゥルフの落とし子は奇妙な変化を始めた。

 その鱗に覆われた胴体の一部と、無数の触手の前端が奇妙な光を放ち始めたのだ。その光は青のようでもあり、黄色のようでもあり、白色のようでもあった。

 

 そしてそれを合図としたかのように、軍の一角が突然崩壊した。これまで懸命にクトゥルフの落とし子に攻撃を加えていた兵士たちが、何の前触れもなく地面に倒れ、のたうちまわり始めたのだ。彼らの身体の表面に目立った外傷はないが、一様に凄まじい苦悶の表情を浮かべている。

 

 何らかの方法で声を封じられてでもいるのか、倒れた兵士たちは全くの無言で手足だけを救いを求めるかのように動かした。そして数秒後、彼らの中で何か固いものが砕ける音が響き始めた。続いて兵たちは次々に口から赤黒い液体を吐いた。

 液体は血のようにも見えたが、それにしては異様にどす黒くて粘り気を帯びた色をしていて、所々に固形の物体が浮かんでいた。液体は口だけでなく鼻や耳からも流れ出し、周囲を悪臭を放つ沼地に変えていく。

 

 赤黒い液体は凄まじい速度で兵たちの体内から放出され、それに合わせるかのように彼らの身体は縮んでいった。その光景はまるで、加速度撮影された衰弱と腐敗のようにも見えた。

 おそらくある種の凄まじい圧力が体内に加えられ、血はおろか破壊された内臓の破片までが吐き出されているのだ。悲鳴は全く聞こえないが、彼らが極限の苦痛に苛まれていることが明らかだった。

 

 やがて倒れた兵たちは動きを止めた。その体は奇妙に圧搾された残骸と化し、自らが吐き出した血と内臓の海に漬かっている。

 それを見ていた他の兵の何人かが耐えられずに吐き始めた。銃弾や刃物による死体はこれまでにも見てきたが、このような奇妙な方法で破壊された人体は彼らの常識の埒外にある存在だった。

 



 クトゥルフの落とし子の巨体はまた発光しはじめた。軍からの砲撃は続いているが、全く意に介するようすはない。

 今度はさっき全滅したのと反対側に位置していた部隊の兵が倒れる。体内で骨が砕ける鈍い音と、押しつぶされた内臓が口から押し出される水気の多い音が周りの将兵の聴覚を侵していく。

 

 「て、撤退だ! 撤退しろ!」

 

 松田は絶叫した。クトゥルフの落とし子を自分たちの武器で破壊するのは不可能だ。そして敵は得体のしれない方法でこちらを攻撃してくる。あの化け物には勝てない。ここは逃げるべきだ。

 

 「致し方ありませんな」

 

 軍の窮状を眺めていたセラエノ神智教会の人々もそう言った。彼らとしては軍に深き者を掃討してほしいのだろうが、このままクトゥルフの落とし子との戦いを続ければこちらは全滅する。そうなっては元も子もないという判断だろう。

 

 退却のラッパが慌ただしく吹き鳴らされ、軍は逃げ始めた。砲や機関銃などの重装備はおろか、小銃や背嚢まで投げ捨ててしまった兵もいるが、それを咎める士官は存在しなかった。

 相手が普通の敵なら重罰の対象となってもおかしくない行為だが、今戦っている相手は化け物、銃や砲など何の役にも立たない。そんなものを後生大事に持っていくよりは、逃げ足を優先したほうがいい。士官たちはほぼ瞬時にその判断を下していた。

 


 クトゥルフの落とし子の攻撃は連続する。その巨体が光を放つごとに一群の兵が必ず倒れ、全身を押しつぶされて息絶えた。

 そして同時に、追いかけてくる。8本の脚による動きは一見鈍そうにも見えるが、それは錯覚だ。巨体である分鈍重に見えるだけで、実際にはかなりの速さでこちらに迫ってきていた。

 

 「どうすれば、どうすればいい?」

 

 必死で逃げながら松田は自問していた。深き者はこちらの武器で殺すことができた。ショゴスにもある程度のダメージを与えることは可能だった。それがクトゥルフの落とし子には通用しない。

 こちらの全火力を集中しても掠り傷しか負わせることができず、逆に相手の攻撃はかならずこちらを殺せる。このような敵とどう戦えばいいのか。

 

 クトゥルフの落とし子がいるほうを振り返った松田は、その上空を数十頭のビヤーキーが飛んでいることに気づいた。セラエノ神智教会の総出撃のようだ。そう言えば実田の姿を見ないが、上空で彼らを統率しているのだろうか。

 セラエノ神智教会はクトゥルフの落とし子の上空を旋回しながら、何か呪文のようなものを唱えていた。どのような効果があるのかはよく分からないが、とりあえずクトゥルフの落とし子の攻撃は止んだ。心なしか、その歩みが鈍っているようにも見える。

 

 だがそれが限界だった。ショゴスと戦った時のように無力化することはできないようだ。クトゥルフの落とし子は動き続けているし、ダメージを受けた様子もない。おそらくその力を少し鈍らせるだけで精一杯なのだろう。

 奇妙な光による攻撃を封じられたクトゥルフの落とし子は、球状の胴体から伸びる触手を使って、セラエノ神智教会を攻撃し始めた。ビヤーキーの一体が触手の直撃を受け、載っている人間もろとも地面に叩きつけられる。

 

 残りのビヤーキーは慌てて上昇して難を逃れたが、それは呪文の効果が弱まることを意味していた。クトゥルフの落とし子が再び歩みを早める。こちらを攻撃してくるのも時間の問題だろう。

 

 「あれが… ただの落とし子、眷属だと?」

 

 松田は呟いた。怪物は「落とし子」であり、クトゥルフという神そのものではないと言うことだが、本当にそうなのか。少なくとも松田の目には、あの怪物は神にも等しい力を持った存在に見えた。

 

 クトゥルフの落とし子がまた発光を始めた。近くにいた将兵が瞬時に倒れていく。まるで神の杖に打たれたかのように。距離は数百メートル離れているはずだが、攻撃に何ら支障はないようだ。

 

 さらにもう一度の発光、その瞬間松田は全身に途轍もなく巨大な蛇が巻き付いたような苦痛を感じ、その場に倒れた。胸郭が圧迫され、全く声が出せない。全身の骨が軋む音が身体の中から聞こえてくる。今度の攻撃が自分と周囲の人間を狙ったことを、松田は悟った。

 

 「終わりか」

 

 松田は覚悟した。あと数秒で自分には死が訪れる。さっき死んでいった者たちと全く同じように全身の骨を砕かれ、押しつぶされた内臓を口から吐き出しながら死ぬことになるのだ。

 


 だがいつまでたっても、その時は来なかった。自分の骨が砕ける音は全く聞こえてこない。代わりに聞こえたのは、巨大な爆発音だった。明らかに砲弾が炸裂する音だが、陸軍が持つ最大の砲でも到底出せないほどの巨大な音だった。

 

 「まさか…」

 

 松田はそう言った後、自分が声を出せるようになったことに気づいた。あの凄まじい圧力はいつの間にか消えている。

 そして松田はクトゥルフの落とし子の向こう側、海岸線を見た。そこには見たこともないような巨大な爆炎が上がっている。

 そしてその向こうにさっきの砲撃を行った存在がいた。一応要請はしていたが、来訪することは全く期待していなかったものが。

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