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そは永久に横たわる死者に非ずして

 まず巨大な球状の塊が水面から持ち上がった。ショゴスとは違って濃緑色をしていて、表面は何か鱗のようなものと緑色の粘液で覆われている。そしてその球体の下には蛸の触腕を思わせるような形の器官が8本あり、直径数十メートルはあろうかという巨体を支えていた。

 いわば脚の働きをする8本の太い触手に加え、上の球体からはより細い触手が無数に伸び、奇妙な動きを繰り返していた。その様子はどこか糸ミミズの群れを思わせる。


 「何だ、あれは!?」

 

 連隊本部の皆を含む全将兵が口々に声を上げた。海から出現した怪物は全体としては、あるいは既存の生物に無理やり例えるとすれば蛸に似ているが、その大きさは隔絶している。おそらく体積で言えばクジラより巨大だろう。

 いや問題は大きさのような些末なことではない。あの怪物の姿はどこか地球上の生物とは本質的に異なる点がある気がするのだ。どこがどう異なると明確に言うことはできないが、それが蛸ではないし、それどころか人類的な概念で言うところの生物ですらないことを皆は直感的に理解した。

 

 その巨体からは深き者が放つ腐った魚のような臭いとはまた異なる、異様な臭気が立ち込めている。それが正確な意味での臭気かどうかすら定かでないが、ただ感じられるのだ。鼻孔から脳に金属の棒を差し込まれたような苦痛と不快感を。目を背けても耳を塞いでも精神に送り込まれる圧倒的な存在の気配を。

 異臭を感じた者たちは、ある情景を何の前触れもなく思い出した。まさに思い出したのだ。そこに行った者など人界には一人も存在しないにも関わらず、「彼ら」の記憶にあるその情景を連隊の将兵は克明に反芻することができた。

 



 広大な海とそこに浮かぶ島のようなもの。その島には黒々とした石造りの巨大な建造物が立ち並んでいる。全体が緑色の粘液のようなものに覆われた不気味な建物で、それを構成する線は既存のいかなる幾何学からもかけ離れたものだった。

 建物だけではない。この島では全てが歪んでいる。宇賀那に突入した将兵たちはその建物の輪郭が大きく崩れたかと思うと、一瞬で他の形状に再構成されるのを見た。島の上空に入って来た鳥が、奇怪な怪物となって飛び去っていくのを見た。

 

 彼らはそれがルルイエという名をもつ神殿であることを、理由もなく理解した。星辰は正しい座標につきつつある。大いなるクトゥルフは永い眠りから目覚め、再び世界を支配する。

 人類と呼びうる生命体が地球上に現れたのはせいぜい数百万年前、地上の支配者であった期間は数千年に満たない。そう、この地球はずっと彼らが支配してきたし、今彼らは還ってきた。人類は一瞬にも満たない栄華を、永遠のものと錯覚していた。

 

 「そは永久に伏したる死者にあらずして、怪異なる永劫のうちには死すら死さん」

 

 クトゥルフ、ガタノトア、クティラ、ムナガラー、ゾス=オムモグ、ユトグタ、ダゴン、ハイドラ、その名が胸中で反響を繰り返す。彼らの前に深き者どもが跪いている。主の帰還を祝福しているのだ。 

 

 ルルイエが蠢動している。眠りについていた主は目覚めつつある。将兵たちはそれを感知した。

 もはや彼らのうち大部分の精神からは、現実世界の光景がほとんど追放されていた。憑かれたように立ち尽くす将兵の焦点を失った目は、ただルルイエを、深き者たちの聖地を見つめている。

 彼らはさらに、主の囁きを聞いた気がした。そして、自らの精神が瓦解する音を聞いた。

 

 

 ある者は怪物の姿を直視した瞬間、糸を断ち切られたかのように崩れ落ちた。彼を叩き起こそうとした周囲の兵は、その鼓動が停止し、瞳孔が完全に開ききっていることに気付いた。海から現れたものの存在をまともに感知したことが、彼の生命活動を停止させたのだ。

 

 さらにある者は怪物が現れるや否や、絶叫しながら自らの眼窩に指を押し込んで眼球を押しつぶした。血と漿液と神経の束が顔面に開いた真っ赤な穴から流れ出す。

 普通なら狂気の証としか思えない行動だったが、周囲の者たちはどこか納得したような顔で、この衝動的な自滅行為を観察していた。彼らも出来ればそうしたいと思っていたのだ。海から現れた怪物の姿を見て、その声を聴き続けるよりは。

 

 「ダメだ、見える。あれが見える」

 

 自らの目を潰した兵は、泣き笑いのような悲鳴を上げた。空っぽになった眼窩からは血と混じった涙が流れ、頬を伝って軍服に滴った。彼はふらふらと隊列をさまよい出ると、何かに導かれるかのように海に向かって行った。

 それを止める者はいなかった。救う方法はないと直感したのだ。

 

 そのすぐ近くにいた士官は、ある意味その兵よりは賢明だった。その士官は石化したような顔でしばらく怪物の姿を見た後、拳銃を取り出して口にくわえ、引き金を引いたのだ。くぐもった音と共に白い欠片が後頭部から撒き散らされ、彼はどこか幸せそうな顔で倒れた。  

 実際、相対的には幸せかもしれない。これ以上、怪物の存在を感じずに済むのだから。隣にいた兵は、自らに吹きかかった脳漿を拭いもせずに立ち尽くしながら、外部から注ぎ込まれた意思に占領された精神の片隅でそう思っていた。

 

 


 連隊本部を始めとして、誰も隊列のあちこちで起きている自滅的行動を止められなかった。連隊の最高責任者である松田ですら、ルルイエの光景に囚われて一歩も動けずにいたからだ。非ユーグリッド的な曲線で構成された島の姿が目の前にあり、そこから発せられる呼び声が聞こえてくる。

 松田は耳を塞いだが、呼び声は消えなかった。侵入してきたその声を感じるたびに、剥き出しになった神経系にやすりをかけられるような痛みが走る。一方でその声は熟練した娼婦の指先のように、松田の精神の内側を甘美に愛撫しもするのだった。

 

 松田は深き者の儀式の生贄となった村人たちが、一様に恍惚の表情を浮かべていた理由を理解した。彼らはこの声を聴いていたのだ。矮小な理性や道徳などは投げ捨て、人の本来の姿である深き者へ戻れ、それが神の意思なのだという囁きを。


 「あれは… あれが奴らの神… クトゥルフか?」

 

 隣にいた中里情報参謀が恐怖と畏怖をふんだんに含んだ声で言った。海から出現した怪物の奇怪な姿と圧倒的な巨体、そして精神を他者の脳内に投射する能力は確かにそう思わせるに十分だった。

 

 「落ち着け、奴は神ではない。神に近い存在ではあるが、決して神ではない」

 

 無機質だが、どこかに強い感情を秘めた声が響いた。連隊とともに行動していたセラエノ神智教会の者が、松田たちを叱咤したのだ。

 

 「あれはクトゥルフの落とし子だ。クトゥルフと共に地球に飛来した眷属だが、クトゥルフそのものではない。クトゥルフ自体は、まだ完全には復活していない」

 

 だがその言葉は松田たちの耳には届いていない。彼らはただ、クトゥルフの落とし子が放つ呼び声を聴きながら、呆然と立ち尽くしていた。深き者に還れと言うその声に抗うのに全身全霊の力を注ぎこんでいたのだ。

 

 「埒が明かんか」

 セラエノ神智教会の男は吐き捨てるように言った。所詮、ハスターの加護を受けてもいない普通の人間たちなどこんなものか。そんな軽蔑の視線を彼は軍に注いでいた。

 

 クトゥルフの落とし子は8本の脚を緩慢に動かしながら、軍にゆっくりと接近し始めた。深き者たちが狂喜の叫び声を上げている。落とし子が復活した以上、クトゥルフ自身の復活も近いことを知っているのだろう。

 

 「止むを得んか。生贄はなるべく温存しておきたかったのだがな」

 

 彼は他の神智教会員に指示を出した。すぐさま、周囲に展開していたビヤーキーが飛び上がった。彼らは各々が、奇妙な形状をした血塗れの物体を抱えている。

 よく観察するとその表面には鱗があり、ずたずたに引き裂かれてはいるが頭部も存在する。物体は抵抗するように蠢いているが、セラエノ神智教会の者たちはしっかりと押さえ込んでいた。

 

 これは昨日の戦いで重傷を負って動けなくなった深き者だった。セラエノ神智教会は戦闘の終了後、生贄として用いるために彼らを戦場から回収していたのだ。

 人間を遥かに上回る深き者の生命力はここでも発揮され、手足を吹き飛ばされて胴体にも重傷を負っているにも関わらず、彼らのほとんどは1日経ってもまだ生きていた。

 


 元がどのような姿だったのかも分からないほどに銃砲弾で破壊された深き者たちは、不倶戴天の敵であるビヤーキーに搭載されて、クトゥルフの落とし子の頭頂よりさらに上空まで上昇した。その中で眼球が残っている者は一様に恐怖の表情を浮かべている。これから何が行われるかを悟ったのだ。

 古の者の機械から発せられるのとはまた異なる呪文の詠唱が、宇賀那を包み込んだ。ビヤーキーに乗り込んだ黄衣の者たちが唱えている言葉だ。

 



 詠唱が最高に達した瞬間、押しつぶされた血肉で構成されたグロテスクな赤い花が宇賀那の至る所に咲いた。深き者たちが、ビヤーキーから投げ落とされたのだ。 鈍い音と共に起きた開花を合図として、落とし子から投射されていた精神波が止んだ。宇賀那全体に蔓延していた狂気が別の狂気によって押さえ込まれたのだ。

 

 


 「ここは?」

 松田連隊長は掠れた声で言った。自分はルルイエにいたのではなかったか。そして、深き者たちと共にクトゥルフの復活を見ていたはずでは。

 

 だが、今目の前にあるのは荒廃した漁村の風景であり、自分が指揮していた連隊だった。

 

 「気が付いたか、お陰で貴重な生贄が消費されたが」

 

 松田の隣には白い仮面をかぶった黄衣の男が立っていた。あの光景は、幻影だったのだ。そしておそらくセラエノ神智教会が何かを行って、あれをかき消したのだろうと松田は悟った。

 他の将兵も概ね意識を取り戻したようだった。少なくとも、突発的な奇行を行う者はいなくなっている。

 


 松田は前を見据えた。クトゥルフの落とし子、海から出現した巨大な怪物が連隊に近づいていた。

 

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