Cの目覚め
グスタフ ヨハンセン達は奇怪な島に上陸していた。島の地面には黒い汚泥が降り積もり、非常に歩きにくかった。汚泥は太陽に照らされて湿気と悪臭を振りまき、ヨハンセンたちの靴にへばりついた。
さらに不愉快なことに、島の至る所で海洋動物の死骸が腐臭を放っている。一部は見慣れた魚や甲殻類だが、大部分は全く馴染みのない、正常な進化の道筋から外れたような奇怪な生き物だった。船員の1人は死骸を蹴っ飛ばそうとした後、それがまだ動いていることに気づき、慌てて足を引っ込めた。
「最近の地震の影響で現れたのでしょうか。この島は」
ヨハンセンの隣を歩いていた船員のブライドゥンが質問してきた。この数か月、南半球では地震や火山活動などの地殻変動が活発になっている。この島もその影響で新しく形成されたのかもしれないと言いたいらしい。
ヨハンセンもそうかもしれないと感じていたが、断定は避けた。地面が海水で濡れていることから判断すると、この島は新しく出来たというより、むしろ海底から浮上したのではないだろうか。
「まるで街みたいだな、嫌な感じだ」
ヨハンセンは周囲に乱立する巨大な岩山を見ながら、忌々し気に言った。岩山は自然の造形と片づけるにはやけに鋭角的かつ規則的な形状をしていて、ギリシャ神話のサイクロプスの住居を思わせた。山肌は妙に滑らかであり、所々に得体の知れない緑色の粘液が付着している。
「ほ、本当に街なんじゃないですか? ほ、ほら、オカルトの本でよく見かけるじゃないですか。南太平洋にはムー大陸があって、高度な文明が栄えていたって」
今度はやはり船員の1人であるパーカーが話しかけてきた。ヨハンセンは余りに空想的な発想だと思いつつ、むげに否定する気にもなれなかった。
この島の地形は自然に形成されるものとはとても思えない。何らかの意思を持った存在が、島に林立する不自然に揃った形状の山や巨岩群の形成に関与しているのではないだろうか。
数分後、7人は一際奇妙な形状の岩山の前に立っていた。いや、それは山と言うにはあまりに人工的な形状をしていた。奇妙な曲線を描く岩石群が無数に積み重なり、全体として一つの巨大な建物、そう、建物と表現するしかないような構造を形成している。
ただ、建物と言うには余りに巨大でもあった。ヨハンセンたちが知る限りで最も高い建物はフランスのエッフェル塔だが、目の前にある岩石の集合体は優にその倍はある。体積に至っては、比較するのも馬鹿らしいほどだ。
「あれは…文字か?」
船員の誰かが呟いた。建物の表面を覆う歪んだ石板を見ると、確かに複雑な線が彫り込まれている。石板全体に無秩序に散らばってはいるが、確かに文字のようにも見えた。もちろん、解読は不可能だが。
「文字があるということはやっぱり、これは遺跡なんだ。遥か昔のムー大陸の痕なんだ」
パーカーが熱に浮かされたような口調で言った。どこか喜んでいるような口調だ。確かにこの島が遥か古代の文明の痕跡だとすれば、考古学上の大発見だ。
その場合、この島の発見について報告すればヨハンセンたちは一躍有名人であるし、うまく立ち回ればこれから一生遊んで暮らせるが。
「いや、パーカー、これは違うと思う」
ヨハンセンは直感的に、目の前の建物が古代文明の遺跡などではないことを悟っていた。まず余りに巨大すぎる。これを建てた者、そしてここに住んでいる者がいるとすれば一体どれほどの大きさがあるのだろう。ギリシャ神話のサイクロプスにとってさえ、この建物は巨大すぎるのではないか。
しかも形状も、人類が建造した遺跡としてはあまりに異質だ。人類が今までに生み出した幾何学や構造力学とは、明らかに相いれない曲線を目の前の建造物は描いている。もっと言えば、地球上の物理法則では理解できない形状だ。
これを建てた存在は明らかに人類ではないどころか、既存の生命体ですらないのではないか。その感想を裏付けるように、建物の表面はあの緑色の粘液で濡れ、生臭さや腐敗臭とも異なる奇怪な異臭が漂っていた。
「…うん?」
ヨハンセンは建物の上に何かが立っているのを発見した。「それ」は概ね人型をしていて。
「そんな馬鹿な!」
建物の上にいたのは、船室にあったあの死体だった。邪教徒の生贄にされて爬虫類と頭足類と縫い合わされた人間の亡骸、この島に上陸する前、撃ち込めるだけの銃弾を撃ち込んだ後で海に捨てたはずの物体。
いあ いあ くとぅるー ふたぐん
船室で聞いたあの声がする。祈りと賛美と呪詛を混ぜたような響きが、ヨハンセンたちの聴覚を侵した。
「撃ち殺せ!」
ヨハンセンが絶叫するまでも無く、船員たちは発砲していた。硝煙の臭いが建物から漂う異臭と相まって鼻孔を焼く。
発砲の効果を確認する前に、ヨハンセンたちはその音に気づいた。信じられないほどに重く、湿った音。とてつもなく巨大な何かが、粘液に覆われたその足で地面を踏みしめている。その音は目の前の建物から聞こえてくる。
「あ、開き始めている…」
ブライドゥンが石板の1つを指さして、呆けたような声で言った。
松田連隊は奇妙な声の発生源である海岸近くの広場、深き者が集合しているであろう場所にたどり着いた。
数百人ほどいる彼らは、中央に何とも形容しがたい色彩と形状をした物体を囲んでいた。そこからどのような言語体系から来るのか全くわからない、支離滅裂な言葉の詠唱が聞こえてくる。
いあ いあ くとぅるー ふたぐん
いあ いあ くとぅるー ふたぐん
いあ いあ くとぅるー ふたぐん
いあ いあ くとぅるー ふたぐん
ふんぐるい むぐるなふ くとぅるー るるいえ うがなぐる ふたぐん
ふんぐるい むぐるなふ くとぅるー るるいえ うがなぐる ふたぐん
ふんぐるい むぐるなふ くとぅるー るるいえ うがなぐる ふたぐん
ふんぐるい むぐるなふ くとぅるー るるいえ うがなぐる ふたぐん
その奇妙な声は村に響き続けた。反響を引き起こすものなどここにはないはずなのに、何故か無限に増幅されているように聞こえる。
声を聞いた将兵は自分たちが全くの異界にいるような錯覚を覚えた。この宇賀那村はこの世には属していないのではないか。自分たちは絶対に来てはならない場所に来てしまったのではないか。
連隊の中央にいた松田連隊長も奇怪な呪文の影響を受けた。何か自分が沖縄の北部の村ではなく、あらゆる法則が崩壊した異世界にいるような気がする。
理性でそれを否定しようとするのは虚しい努力だ。理性は現実世界のみで通用するものだ。何か不定形の意思のようなもの、古代人が「神」と呼んだであろうものが語り掛けてくる。精神が軋み、そこから出てくる音が神経系を壊していく。
松田は必死で意識を引き戻すと、深き者が囲んでいる中央の物体に目を凝らした。見たところ、それは人間の身長の倍ほどの直径がある数十個の球体を組み合わせたような形状をしていて、全体から無理に表現すれば虹色だがそれとも明らかに異なる色の光を放っている。材質はおそらく金属だろう。
松田は昨日佐村少尉が報告した古の者と、それが捜査していたショゴスの操縦装置のことを思い起こした。もしかしたらあれも、古の者が作り出した機械なのかもしれない。
そして機械の表面には、何かが大量にぶら下がっていた。双眼鏡でその正体を確認した佐村は、もはや吐き気を通り越して痛みで胃が痙攣するのを覚えた。
奇妙な機械にぶら下がっていたのは数百人の人間、服装から判断するとおそらく宇賀那周辺で誘拐された村人たちだった。そこまでは松田たちも覚悟していた。彼らが宇賀那から生きて帰れるとは、最初から期待できなかった。
だから人間の死体を目にする覚悟はできていた。問題だったのは、機械表面に磔になっている村人たちが厳密にいうと「死体」ではなかったことだ。
金属の球体上にいる彼らは、球体から伸びるパイプのようなものを体中に差し込まれていた。パイプは金属光沢を放っているにも関わらずしなやかに動いており、どこか海洋生物の触手を思わせる。
そして彼らは生きていた。1人当たり10本以上のパイプを頭と胴体に差し込まれ、それが身体の奥深くで動いているにも関わらず、微妙に全身を痙攣させていた。
それだけで十分見るに堪えない光景だったが、さらに酷かったのが彼らの身体の変形だった。パイプからは血液と体液、もしかしたら脳漿までが吸い出されているらしく、機械につながれた人間たちの身体は萎み、生きながらにして朽ちかけている。
松田は一瞬、彼らの姿から宇賀那のあちこちに飾られていた神像を連想した。乾燥した肌はひび割れて所々が剥離し、まるで爬虫類の鱗のように見える。ひび割れた部分からは緑がかった膿が垂れ流され、全身に滴っている。肉が削げた頭部からは髪がすべて抜け、どす黒く変色した皮膚とそこを覆う膿と相まって、まるで蛸の頭部のようにも見えた。
にもかかわらず彼らは生きていた。そして奇妙な呪文を詠唱し続けていた。その顔は苦痛ではなく恍惚に歪み、何かを待ち望んでいるようにも見える。
「早く攻撃し、儀式をやめさせろ。クトゥルフが復活すれば、事態は貴軍、それどころか人類の手には負えなくなる」
隣を歩いていたセラエノ神智教会の人間の声を聞いて、松田は我に返った。そうだ、ここはルルイエではない。沖縄北部の宇賀那村であるはずだ。向こうには深き者たちがいる。彼らを倒さなければ。
「よし、全軍射撃開始」
呆けたような顔で機械に繋がれた人間たちを見つめていた松田は、慌てたように命令を下した。相手にショゴスはいないし、それどころかこちらに応戦する姿勢すら見せていない。すぐに全滅させられるはずだったが。
いあ いあ くとぅるー ふたぐん
いあ いあ くとぅるー ふたぐん
いあ いあ くとぅるー ふたぐん
いあ いあ くとぅるー ふたぐん
ふんぐるい むぐるなふ くとぅるー るるいえ うがなぐる ふたぐん
ふんぐるい むぐるなふ くとぅるー るるいえ うがなぐる ふたぐん
ふんぐるい むぐるなふ くとぅるー るるいえ うがなぐる ふたぐん
ふんぐるい むぐるなふ くとぅるー るるいえ うがなぐる ふたぐん
村全体に響いているその声が一際大きくなったような気がした。そして松田は機械の向こうに見える海が、大きく泡立つのを目にした。何か巨大なものが海の中にいる。
そしてそれは黒い影を水面に覗かせた。水面から出た部分を見るだけで、とてつもない大きさであることが分かる。
いあ いあ くとぅるー ふたぐん
いあ いあ くとぅるー ふたぐん
いあ いあ くとぅるー ふたぐん
ふんぐるい むぐるなふ くとぅるー るるいえ うがなぐる ふたぐん
ふんぐるい むぐるなふ くとぅるー るるいえ うがなぐる ふたぐん
ふんぐるい むぐるなふ くとぅるー るるいえ うがなぐる ふたぐん
ふんぐるい むぐるなふ くとぅるー るるいえ うがなぐる ふたぐん
泡立つ海とその下の黒い影はこちらに近づいてくる。距離はもうすぐそこだ。何か触手のようなものが水面に覗いている。そして巨大な音と水柱とともに、それは地上に姿を現した。




