惨戦
「出てきませんね」
宇賀那への道を進みながら、滝村参謀長が松田連隊長に言った。確かに人類側の2つの連隊が宇賀那からほど近い場所に来ているにもかかわらず、深き者もショゴスも姿を見せる気配がないのだ。
現在松田と高木の連隊は宇賀那に進撃しているが、最も太い道が昨日クトーニアンによって破壊されたため、他の道を3隊に分かれて進んでいる。
兵力を分散するのは危険だが、大兵力で細い道を進めば進撃速度が低下する上に敵に隊列を分断されやすくなり、それ以上に危険と判断された。また、昨日の戦いで確認されたクトーニアンの存在もあった。集団で進撃したのでは、クトーニアンが引き起こす地割れによって全員がやられる危険があったからだ。
重砲部隊はやはりクトーニアンを警戒し、分散して山中に展開している。一応全門が宇賀那を射程に収めているので、作戦上の問題はないはずだ。
「北本中佐殿の部隊から入電、現在、深き者と交戦中。数は推定2000」
不意にそんな報告が来た。現在軍は松田連隊、高木連隊、北本中佐が指揮する高木連隊の別動隊の3つに分かれている。報告によると、その別動隊が深き者の攻撃を受けているらしい。
「連中はやはり人類の原型だけのことはあるのだな」
清水作戦参謀が忌々し気に言った。2000というのは、セラエノ神智教会の偵察結果から推定される敵の残存兵力全てにほぼ等しい。深き者たちは馬鹿正直に3つの部隊全てを迎撃するのではなく、「我の全力をもって彼の分力を討つ」という方針を採用したらしい。
北本中佐が指揮する別動隊の戦力は一個大隊に毛が生えた程度で、3つの部隊の中で最も小さい。しかも松田連隊と異なって、深き者との戦いはこれが初めてだ。持ちこたえられるかは微妙なところだった。
「どうします? 救援に向かいますか?」
滝村参謀長が松田に質問した。松田がそれに答える前に、清水が意見を出した。
「小官はむしろ、このまま宇賀那に向かうべきだと考えます。どのみち我が連隊と別動隊との距離は遠すぎます。北本中佐の救援は近くを進撃している高木大佐の部隊に任せるべきでしょう」
「それも道理か」
松田は納得したように言った。現在位置から考えると、確かに別動隊の救援に向かうより、宇賀那に向かうほうが時間がかからない。清水は続いて、自らが考えるところを述べた。
「報告が正しければ、敵はほぼ全力を北本中佐の部隊に向けています。我が軍は迎撃されることなく、宇賀那に突入できるはずです」
「要は別動隊を囮に使うということか?」
滝村が少し不快そうな表情を見せた。清水の案は北本の部隊が深き者の攻撃を受け止めている間に、自分たちが敵の本拠地に突入するというものだ。合理的といえば合理的だが、戦友愛に欠けるのも事実だった。
「深き者はショゴスを使えなくなっています。北本中佐がそう簡単に敗れることはないでしょう。それに、しばらく持ちこたえれば高木大佐の本隊も到着するはず。見捨てるという形にはならないと考えます」
「それはその通りだが」
「加えて言えば、我が部隊が宇賀那に突入して補給線を遮断すれば深き者は弾薬の補給が出来なくなります。このことは北本中佐の助けにもなるはずです」
「それで行くか」
松田は清水の作戦案に乗った。確かに敵と正面からぶつかるばかりが戦いではない。深き者とはいえ銃を使っている以上、戦うには弾薬が必要なのだ。後方を襲ってその弾薬の補給を断ってしまえば、戦わずして勝利できる。
「よし、連隊はこれより全速で宇賀那に向かう」
森の中を進んでいた松田連隊の歩みがやや速くなった。
その別動隊は、松田連隊の決定を知る由もないまま深き者との戦闘を開始していた。一応昨日の時点で将兵は深き者の死体を見ているが、それでも不気味な半魚人が生きて動いている姿は彼らにとって衝撃的だった。
「撃て、撃て!」
小隊の一つを指揮する工藤少尉は目の前の光景に恐怖を覚えながらも、軍刀で麾下の兵に射撃目標を指示していた。昨日交戦した松田連隊によると、半魚人はとにかく銃弾が命中すればダメージを受けるらしい。今はそれを信じるしかなかった。
「化け物め! とっとと失せろ!」
兵たちは恐怖感を忘れようとするかのように、罵声を浴びせながら深き者を攻撃した。彼らが半ば人間であることは、松田連隊の幹部以外には伏せられている。将兵に無用な混乱を与えないようにという配慮からだった。
林内から次々に出現する深き者に対し、北本の部隊は隊列を崩さずに銃砲撃で応戦している。松田連隊から、「林内での白兵戦を避けて火力で圧倒せよ」という助言が届いているためだ。確かに森林という環境は、どちらかというと深き者に対して有利に働くようであり、乱戦に持ち込まれるべきではなかった。
「戦力はほぼ互角、いや、こちらがやや優勢か」
工藤少尉は独白した。深き者のほうが数は多いが、装備ではこちらが上だ。やはりライフルしか持たない敵に対し、こちらは機関銃や砲を持っているというのは大きい。
その感想通り、部隊に接近した深き者は次々に倒れていた。小銃が束ねて発射される重々しい音が響くたびに、半魚人たちは手足を半ば切断され、胴体を撃ち抜かれて積もった落ち葉の上に倒れ伏す。
即死する者もいるが多くは死にきれず、苦痛とも呪詛ともつかない不快な声を上げながらもがき続けた。
小銃だけではなく、機関銃や砲も次々に深き者を葬り去っている。機関銃は突撃してくる深き者を射殺、というより破壊し、直立歩行するカエルのような生き物を前衛芸術を思わせる有機物の塊に変えていく。彼らの破壊された胸郭の中で未だに蠕動している内臓の形状は人間のそれに酷似していたが、幸いなことに人類側の兵たちがそれに気づくことはなかった。
時折深き者の中で炸裂する爆炎は、後方の林内に展開する砲兵部隊によるものだ。砲弾が落下するたびに大量の粉塵がまき散らされ、視界を遮る。その粉塵の中には大量の肉片と骨片、さらには引きちぎられた脳や内臓の破片が含まれており、周囲の木々を極彩色と呼ぶには余りに不快な色に染め上げていく。
砲弾が炸裂した周辺では、幸運、と言うよりは不運にも即死を免れた深き者たちがずたずたになった皮膚の残骸と筋繊維の束を全身に引きずっている。よく観察すると、巨大なカンナで削り取られたような彼らの体表からは一定間隔で血と体液が流れ出し、露出した内臓器官がそれと同期して蠢動していた。
地獄の幽鬼でさえ目を背けそうな姿となった彼らは、なおも覚束ない足取りで人類側の軍に向かって進んでくる。人間であればとっくに倒れているはずなのに、深き者たちは自らが流した血と体液の水たまりを踏み越え、ぼろ雑巾のような皮と肉の塊を引きずりながら歩いてくる。
真っ赤な仮面を被ったような状態になったその顔からは眼球が失われているが、その跡に残った昏い空洞はしっかりと人間たちに向けられているのだ。その光景を見た何人かの若い兵が泣き笑いのような狂った声を上げて銃を放り出し、上官に殴り倒された。
「頑丈な奴らめ」
工藤少尉は恐怖を忘れようとするかのように叫んだ。人間は心臓を撃ち抜かれても数秒間は意識的な行動を取れるというが、それも目の前の半魚人どものしぶとさには到底及ばないだろう。脳を破壊するか、手足の機能を完全に失わせない限り、こいつらの進撃を止めることはできないのではないか。そんな考えが浮かんだ。
やがて慈悲深くも落下した次の砲弾が、ボロボロになりながらも向かってきていた深き者に止めを刺す。至近距離で爆発した重砲弾の爆風と無数の破片が、深き者たちの肉体を消滅させたのだ。
後には焼け焦げた無数の破片が残され、さらに有機物が焼けるときに発せられる、不快だがどこか食欲を催させる複雑な臭気が漂った。工藤はその臭いから焼き魚を連想し、続いて自分がそんな連想を抱いた事実に吐き気を覚えた。
一方、人類側も被害を受けている。深き者たちが放つライフルの射撃は、威力の点では小銃と遜色ないどころか、やや上回るのだ。深き者の隊列に銃火が走るたびに、何人かの将兵が確実に倒れていく。
ある者は小銃の引き金を引こうとした途端に銃弾で指を砕かれ、自らの手から流れる血を見ながら呆然とする。
ある者は片目を撃ち抜かれ、壊れた人形のように数秒間ふらふらと歩いた後、地面に倒れて無意味な痙攣を繰り返す。その眼球の片方は無傷だが、彼がもはや何も見ていないのは銃弾の射出孔から破壊された脳が覗いていることから明らかだ。
工藤の小隊の兵も、一人が腹を撃ち抜かれた。その兵は気丈にも再び銃を構えようとしたが、その前に2発目の銃弾が胸部に命中する。
「これは…助からないな」
倒れた兵を見て工藤は内心でそう判断していた。ライフルは人間より遥かに頑丈な野生動物を倒すために作られた武器だ。その銃弾を2発も食らえば、体内の臓器のほとんどが破壊されるか機能不全に陥ったはずだ。
続いてもう一人が、銃弾で肩甲骨を砕かれる。その兵は驚愕と絶望が入り混じった表情で、銃弾を受けた側の腕をもう片方の手で掴んだ。
その腕は皮と靱帯によって一応つながっているが、主要な神経と筋肉は全て破壊され、無残に垂れ下がっている。それでも彼は、動かない腕を掴んで揺さぶり続けた。まるでそうすれば、この状況がなかったことになると信じているかのように。
一部では白兵戦も発生している。至近距離まで接近した深き者が弾切れになった銃を捨てると、腰に差していた槍、もしくは自分自身のカギ爪で将兵に飛びかかっているのだ。
彼らの半数ほどは集中射撃を浴びて射殺されたが、もう半数は複数の銃弾を食らいながらも襲撃に成功した。
人類側のある士官は、体のあちこちを銃弾で削り取られた深き者が最期に投げつけた槍で串刺しにされた。槍の穂先が脊髄を傷つけたらしく、士官は糸を切られた人形のように崩れ落ちると腕だけを空しく動かし続けた。
さらに隊列に突入した深き者の一匹が兵を殴り倒すと、泣きわめくその顔にカギ爪を立ててずたずたにする。湾曲した黒っぽい爪が顔の表面を大きく抉ると、その跡には血と体液と脂肪、それに破壊された眼球から流れ出る透明な液体が溜まった赤い池が残されている。
人間が発するものとも思えないような濁った絶叫が響く中、隣にいた兵が深き者の背を銃剣で何度も突き刺した。それでも深き者の攻撃は止まない。「せめてこいつだけでも道連れにする」、そのような憎悪と執念が感じられる動きだった。
埒が明かないと判断したもう一人が、銃の台尻で深き者の頭部を思い切り殴りつけた。頭蓋骨が叩き潰される異音と共に、深き者はようやく動かなくなった。
だがその時には、攻撃を受けていた兵もただ呼吸をしながら手足を痙攣させるだけの状態になっている。深き者のカギ爪が目から頭蓋骨の内部にまで達して脳の前部を攪拌し、地面に叩きつけられた豆腐のような状態に変えたのだ。
そのことに気付いた仲間は、無言で彼の口に小銃の銃口を押し込んで引き金を引いた。凄まじい苦痛に苛まれているか、あるいは痛みすら認識できなくなっているであろう人間を救う方法はそれしかなかったのだ。
「これは…」
周囲の惨状を眺めた工藤の思考はほとんど停止しかかっていた。彼にとって、これが士官学校を出て初めての実戦だ。戦争がどのようなものかについては散々学んだし、日露戦争や第一次大戦、シベリア出兵に従軍した教官の話を聞いたこともある。
だが今起きている戦いはそのような戦争、領土や利権をめぐっての人間同士の衝突とはかけ離れている。相手は得体の知れない化け物である上に、何が目的かも定かではないのだ。
「小隊長殿!」
下士官の怒鳴り声を聞いて工藤は我に返り、前方を見つめた。相変わらず多数の半魚人が執拗な突撃を繰り返している。今のところこちらの隊列は破られていないが、このままでは危ないかもしれない。それほど彼らの突撃は執拗だった。




