05.リーナ
「……ここは少しだけど森に入るんだ。一人で来るのは止めろって言ってるだろう、リーナ」
「一緒に来てくれる誰かさんが居なかったから、探しに来たのよ」
悪かったよ、と黒髪の少女――リーナに頭を下げるヴェン。よろしい、とリーナは腰に手を当てる。少し胸を張ったために強調されたスタイルは、男なら目を惹かれずにはいられないものだ。
豊満な胸部に、折れてしまいそうなほどに細い腰。引き締まった臀部からスラリと伸びる足はしなやかで瑞々しい。これ程のスタイルでありながら、いやらしさは感じられず、健康的な魅力がある。
後ろで一つに纏めた黒髪は大した手入れなどしていないだろうに艶やかで、背に届く程の長さがある。日焼けを防ぐために色々と苦心しているらしい肌は、白く抜けるよう。
少し端が吊った大きな瞳には生き生きとした光があり、光の加減によっては金色にも見える薄い茶の色をしている。顔の造形は非常に整っていて、活発な印象の美少女といったところ。
「……何よ、ジロジロ見て」
「いや、お前は相変わらず美人だと思ってただけだ」
俺にはまったく勿体無い位にな、というヴェンの言葉に、リーナは少しだけ顔を赤らめる。
「い、いきなり何言うのよ……それに、ヴェンだって、その、格好いいん、じゃない?」
「どうだかな」
疑問形でそう言ったリーナに、ヴェンは肩を竦める。確かに客観的に見ても平均以上に整った顔立ちだとは思うのだが、年寄りでもないのに灰色の髪に、猛禽類を思わせる程鋭い瞳。そこに狩の中でできる細かい傷が絶えないせいで、『格好いい』よりも『迫力がある』や『獰猛そう』と言われた方がしっくりくる容姿をしているのだ。
リーナにつり合うのかと言われれば、おそらくつりあわないのだろう。リーナに関していえば、ヴェンがイメージする華やかな貴族社会の中に入っていっても違和感がない程なのだ。
「……どうだろうなぁ」
リーナが、もしキールの恋人と同じように徴税官に目をつけられたら、自分はキールと同じことが出来るだろうか。そんな考えが、ヴェンの口から意図せず漏れ出していた。
「何が?」
リーナに問われたことで、ヴェンは思考の切れ端を無意識に口に出していたことに気が付いた。
「ん、ああ……いや」
誤魔化そうかと考えて、なんとなく罪悪感が込み上がってきたヴェンは、口を開いた。
「隣村の連中が反乱を起こしたって話は知ってるよな?」
「もちろん。お祖父ちゃん、長いこと話し合ってるみたいだしね」
リーナの言うお祖父ちゃんとは、タテノ村の村長のことである。つまり、リーナは村長の孫娘なのだ。
「その反乱は、一人の男の愛故に起きたって話だ」
ヴェンはそう言ってキールの話を省く部分は省いてリーナに教える。ヨコノ村の住人はおそらく全員知っているであろう話だ。特に隠す理由もなかった。
「へぇ、凄いわね。恋人のこと、凄く大切に想ってるんだ。そのキールさんって人」
「だろうな。それで――」
「待って。ヴェンが言いたいこと、当ててみせるから」
言いながら、リーナは人差し指をヴェンの唇にあてがう。指ばかりは白魚のような、とはいかず、農作業に慣れた者の手をしている。
「俺にそれができるのか――でしょ?」
違う? と小首を傾げるリーナ。答えを待つリーナの瞳は悪戯っぽく輝いている。余程自分の予想に自信があるとみえるな、とヴェンは溜息混じりに口を開いた。
「……降参だ。その通りだよ」
「ふふっ、やっぱりね」
まったく、よく分かるもんだな、とヴェンはやや呆れた口調で言う。
「当然でしょ。何年の付き合いになると思ってるのよ」
「十七年だろ」
ヴェンが生まれた時、視界がはっきりする前に、母親は逝った。そのため、生まれた直後から自意識のあったヴェンでも母親の顔は知らない。ともあれ、母親を失った赤ん坊が生きるためには代わりに母乳を与えてくれる人が必要になるわけで。
当時ヴェンよりも少しだけ早く生まれていたリーナと共に、リーナの母親の乳でヴェンは育てられたのだ。殆ど兄弟同然に。そのため、ヴェンはリーナの母親には未だに頭が上がらないし、村長のことも実の祖父のように慕っているのだが、ともあれ。
それこそ物心つく前――尤も、ヴェンには縁のない言葉ではあるが――から一緒に育ってきたのだ。お互い知らないことの方が少ないくらいだろう。とはいえ、ヴェンは前世のことは黙っているため、最も大きな秘密を明かしていないということにはなるのだけれど。
「それで、お前は俺にそれが出来ると思うか?」
「うーん、そうだ。今度はヴェンが当ててみなさいよ」
分かるかしら? と言うリーナ。ヴェンは深々と溜息を吐いた。リーナの言う通りだなと思う。それは、長年の付き合いがなせる業か。ヴェン自身が口にした問にリーナが何と答えるのか、ありありと想像出来たのだ。
そしてそれは、ヴェンにとっては情けない答えで。
「出来ない、だろ」
「なぁんだ。ヴェンだって分かってるじゃない」
「……それは、そう。だけどさ」
嬉しそうに笑うリーナに対して、ヴェンの表情は複雑だ。何せ、お前と村の皆を天秤に掛けて、村の皆を取ると告げているようなものなのだから。情けなくなってくるし、罪悪感が込み上げてくる。
「なぁに、私に悪いとか思ってるの?」
「思ってちゃ悪いかよ」
少し不貞腐れたように、ヴェンは言う。非道いことを言っているはずなのに、笑っているリーナに申し訳ないやら、少し腹立たしいやらで拗ねたような口調になってしまったのだ。
「ううん。嬉しいわよ。でも――」
――もしそんな状況になったら、私のこと、見捨てていいからね。
そう言って、リーナは笑う。気負うようなところのない、極自然な笑顔だ。ヴェンには分かった。リーナがこの言葉を本気で言っていることが。ヴェンと同じように、リーナも村思いだ。自分よりも、村の安全を選んで欲しいと考えているのだろう。
――本当、俺には勿体無いいい女だよ。
ヴェンとリーナは、共に育ったこと、家族ぐるみの付き合いだったこともあって、幼い頃から結婚することが決められていた。村人達にしても、稼ぎ頭である猟師の息子と村長の孫娘の結婚は自然なもので、当然の事実として受け入れられている。
お互いがいずれ夫婦になると分かってはいるのだけれど、恋人同士かと言えばそれも違う。今すぐ結婚しろと言われればお互い断らないだろうけれど、すぐに結婚しようとも思わない。どうにも、男と女と言うには近すぎる距離。ヴェンとリーナの関係は、傍から見れば奇妙なものだった。
――恋人同士じゃないって言っても、大切な幼馴染だ。
ヴェンは少しばかり気合を入れて、深呼吸一つ、口を開いた。
「……あのさ」
「な、何よ。そんなに緊張して。こっちまで緊張するじゃない」
少し動揺した様子で視線を逸らすリーナ。ヴェンはそれに構わず言葉を続ける。一旦言葉を止めてしまえば、再び口に出すには大変な労力が必要になりそうだったから。
「俺、自分で思ってたよりも、強いみたいなんだ」
ヨコノ村の男達も、代官の私兵も、少しも怖くなかった。俺の力は、村の外でも通じる程度には大きいみたいだとヴェンは言う。
「気付いてなかったの? 鬼熊を狩れる人はそうはいないって商人の人も言ってたじゃない」
「あの悪徳商人な……いや、世辞の類だと思ってたんだよ」
鎧猪や鬼熊の毛皮や骨を毎度買い取ってくれる行商人が居るのだが、明らかに買い叩かれている上に、売り物の値段は足元を見てくる。それでもこんなど辺境に来てくれる商人など他には居らず、仕方なく利用しているのだった。
ちなみに、ヴェンはこの商人を酷く嫌っていたりする。命を賭して狩った鎧猪や鬼熊が買い叩かれると、自分の命の値段まで安くなったようで気分が悪いから。
「それで、まあ、力の分だけ伸ばせる腕は長くなるって話でさ」
「……ああっ、もうっ、早く言いなさいよ」
まどろっこしいわね、と言うリーナに、ヴェンは分かったよ、と苦笑いを浮かべる。何となく視線が合わせ辛くて、ヴェンは視線をリーナから少し逸らした。
「村の皆を守っても、お前を守れる余裕はあるって話だ。もし、キールが陥ったような状況になったら、俺も我儘を通す」
――意地でも、助ける。
そう言い切ったヴェンの頬は、赤い。まったくもって柄じゃないし、大体、家族同然のリーナに対して改まった態度でキザったらしい言葉を吐くというのが、ヴェンは気恥ずかしくて仕方がなかった。
「…………」
黙り込んだまま、言葉を返して来ないリーナに、ヴェンは横目でちらりと視線を向けると――
――真っ赤。
熟れた林檎のように顔を赤らめ、今にも頭から湯気を吹き出しそうなリーナの姿があった。それを見たヴェンも余計に恥ずかしくなって、更に顔の朱を増した。
ヴェンの視線に気が付いたのだろう。リーナが顔を上げる。重なる視線。非常に気まずく、気恥ずかしい沈黙が森の広場を支配した。
「あ、アンタねぇ……いきなり、その……びっくりするじゃない!」
「わ、悪い。というか、そんな反応されるなんて思ってなかったんだよ」
余計恥ずかしくなるじゃないか、と文句のようにぼやくヴェン。「悪いのっ!?」とやけくそ気味に叫ぶリーナに、ヴェンはごめんと頭を下げる。
「悪かったよ。あれだ。言葉は忘れといてくれ」
ヴェンは赤い顔のまま、気まずそうに頭を搔いて言った。ただ、見捨てるようなことはしないって事実だけを覚えててくれりゃいいからさ、と付け加える。
「……忘れないわよ」
掠れ、囁くようなリーナの声。それに重なるように強い風がびょう、と吹き、ヴェンの鋭敏な聴覚をして、その声を捉えることは出来なかった。
「何て言ったんだ?」
「……からかうネタにしてやるって言ったのよ!」
怒ったような、安心したような奇妙な表情でリーナは言うと、森の出口に向かって駆け出した。
「ちょ、ちょっと待てって。それは勘弁してくれよ」
ヴェンもそれを追って駆け出す。すぐに追いつくと、夜の森は危ないんだから一人で帰ろうとしてくれるなよ、と疲れた口調で言った。あと、それをネタにからかうのは勘弁してくれとも。リーナは、送ってくれるなら送って貰うけど、からかう方は絶対に容赦しないんだから、と楽しげに笑った。
ヴェンとリーナ。
色々と言い合いながらも楽しげな二人の姿を見ているのは、夜空の星々だけだった。