09.後始末
――ヴァンハルト。
ヴェンの父であり、非常に優秀な猟師だった男。身体能力は、ヴェンの方が、上。しかし、猟師として見た時、ヴェンは自分が父よりも優秀だとは思えなかった。
鬼熊という魔獣がいる。
文字通り鎧のように硬い外皮を持つ鎧猪に伍するほど強靭な外皮を持ち、目算五メートル近い巨躯。外皮を抜いても筋肉の鎧が二層目の壁となる。
頭も良く、滅多なことでは罠にも掛かってくれない。そして、どんな原理なのかヴェンには分からないが、口から衝撃波を吐き出す。鬼熊の名の由来ともなっている一本角は硬く、鋭く、生木すらあっさりと貫いてしまうほど。
ヴェンが知り得る限り最強の魔獣であり、真っ向から戦いたくはない相手だ。何の策も無く戦えば二、三日戦闘が続いてもおかしくない。勝てるかどうかも、周囲の状況や他の魔獣の乱入などによっては危うい、それ程の相手。
それを、父はあっさりと狩っていた。
戦いにすらせず、一矢で瞳を射抜き、狩ってみせるのだ。これは簡単に聞こえて、その実超絶技巧。神業だと言ってもいい。少なくとも、ヴェンには出来ない。偶然出来ることはあっても、それは運が味方したに過ぎないのだ。
更に、ヴェンは弓で失敗して接近されても戦えるし、ほぼ確実に逃げ切れる。しかし、父は違う。一矢外せば待つのは死。当然、時間を稼ぐために罠を仕掛けておきはするのだが、それでも逃げ切れる確率の方が低い。
死の重圧に曝されながら、手製の今ひとつ精度の信用ならない弓でそれを成す。圧倒的な技量、精神の強さ。それを持った、ヴェンが誰よりも尊敬する男だった。
しかし、ヴェンが父に知っていることは驚くほどに少ない。
ヴェンの父は非常に無口な男だった。一日通して何も言葉を交わさないことも珍しくはなく、ヴェンが知っていることも村長などから聞いたことで、ヴェンの父は自分のことを何も語ってはくれなかったのだ。
ヴェンが父について知っているのは、タテノ村の生まれではないことと、恐らく元々は何か立場のある人間だったのではないか、という予想だけ。
ヴェンは鞘から剣鉈を抜くとその刀身に視線を落とす。銅にも似た赤い輝き。しかし、ヴェンの知識の中に存在する金属でないことは確かだった。
――コイツ、異様に頑丈なんだよな。
今のところ、どんなものを斬っても折れないどころか刃こぼれすら起こさないのだ。刃が分厚いせいで斬れ味は悪く、ヴェンのような人並外れた腕力がない限り、骨どころか肉を断つことすら難しいそれは、しかし間違いなく名剣だ。
折れず、曲がらず。
そんな武器をなぜ父が持っていたのか、ヴェンには分からない。ただ、これを譲り渡された時、寡黙な父が珍しく「大切にしてくれ」と念を押すように言ったのが印象に残っている。
ともあれ、そんな父について知っていそうな男が居たのだ。話を聞きたいと思うヴェンだったが、いかんせん、そんな暇はなかった。縛り上げてこそいたが、侍女含め五十人以上の人間が屋敷の中には居るのだ。目を離すわけにはいかないし、世話もしなければならない。
オウノ村から何人か人手を借りられたから良かったようなものの、それがなければどうなっていたことやら。キールが捕らえた者達をどのように扱うのか分からないため、水や食事も少ないながら与えなければならず、人間食えば出るもので、拘束を一部解いて下の処理をさせたりと非常に面倒が多かった。
そのせいで件の男から父の話を聞く暇など無かったのだ。しかし――
――これで、少しは時間が作れる。
ヴェンは窓の外に見える集団の影に、慣れないことをすると疲れるもんだ、とぼやきながら溜息を吐くのだった。
■ □ ■ □
「正直、予想外でした」
「俺もだ……悪かったよ」
報告を受けたから随分急いだようで、普通なら七日かかるところを五日でオウノ村に到着したキール。その顔色は、悪い。先の方針を崩されたせいか、と彼に向かい合ったヴェンは、溜息混じりに頭を下げる。
「頭を上げてください、ヴェン。予想外ではありましたが、何も悪いことばかりではないんですから」
「へぇ、そいつはどうしてだ?」
言いながら頭を上げ、首を傾げるヴェン。キールの声音からは嘘の色を感じなかったから。
「名を売ることは出来ませんでしたが、逆に反乱が起きたという情報も広がりませんでしたからね」
どちらにしろやり様はありますよ、と言うキールに、そいつぁ頼りになるな、とヴェンは肩を竦める。しっかしなあ、と前に置いて、ヴェンは口を開いた。
「お前、顔色悪いぞ。別に、俺に気を遣ってくれなくても構わないんだが……」
「いえ、これは単に疲れているだけです。自分の体力のなさを甘く見てましたよ」
驢馬を早駆けさせて来たのですが、尻の皮は剥けるし、酔うしで酷い目に会いましたよと言うキールに、ヴェンは苦笑いを返す。本当に言葉の通りなのか、気を遣われているのかは定かではないが、詮索は無粋だろう。
「……ヴェン」
急に真剣な表情になったキールに、ヴェンは若干たじろぎながら何だよ、と返す。
「ありがとうございました」
「いきなりどうした?」
何か礼をされるようなことをしたっけか、と首を傾げるヴェン。むしろ今回の件じゃ迷惑を掛けた位だと思ってるんだけどな、と呟いたヴェンに、キールは苦笑いを浮かべ、言う。
「貴方も大概ズレてますねぇ……」
「何処がだよ?」
心底分からないといった様子で聞き返すヴェンに、キールは溜息一つ、いいですか、と前に置いて喉を震わせる。
「四十人以上の兵を、たった一人で制圧する。常識的に考えて、これは無茶もいいところ、というか常人なら自殺行為です」
まあ、貴方なら出来ると思っていましたし、その自殺行為を僕はさせるつもりだったわけですけど、と疲れたように笑うキール。ヴェンはキールの言葉を受けて、考えてみれば確かにそうかもしれないと思う。
今回は何の苦労もしなかったせいで実感が無かったが、自分のやったことは日本人の常識に当てはめればほとほと異常だ。
――まあ、日本人の常識に意味があるのかは怪しいが。
そう考えたヴェンであったが、その考えはまだズレている。この世界の常識、というのはキールも完全に把握しているわけではないが、キールの知る範囲でヴェンのやったことはこの世界の常識からも逸脱しているのだ。
「その働きを労うのは当然でしょう?」
「そうかもしれないけど、駄目だな。むず痒い」
人から褒められるってのは、どうにも苦手だよとぼやくヴェン。キールはお礼くらいは言わせて下さいよと笑う。
「……国に反乱を気取られていない内にできる限りのことはしておきたいですから、しばらくは貴方に負担を掛け続けることになります」
「分かってるさ……お前もサボるなよ?」
言って、鼻を鳴らすヴェン。キールはこちらこそ、分かっていますよと苦笑を浮かべる。
「そういや、捕まえた連中はどうするんだ?」
思い出したとでもいう様子で切り出したヴェンに、キールは暫し躊躇うように黙り込んだ後、少しもブレのない調子で喉を震わせた。
「……女性を除いて、全員殺します」
「…………」
「もっと規模が大きくなれば捕らえた兵を取り込むことも考えられましたが、今は毒にしかなり得ない。かと言って逃がす訳にもいかず、捕らえたままでは食料の負担が大きすぎますから」
言って、キールは瞳を閉じた。表情は少しも変わらなかったが、ヴェンには何となく余裕がないように感じられて、確認するように口を開く。
「あー、その、何だ。どうかしたか?」
「いえ、大丈夫ですよ」
ヴェンは数秒キールの瞳を覗き込んだ後、ならいいがねと言い捨てて踵を返す。今日一日位休ませてもらうぞ、と立ち去りながら背中越しに言うヴェンへ、キールは勿論構いませんよと返し、溜息を吐いた。
――やれやれ、気付かれましたね。
何が、というところまでは分かっていないかもしれないが、キールが内に押し込めたもの、何か不安要素を抱えていることをヴェンは見抜いたのだろう、とキールは思う。
そして、それは当たっている。
ヴェンは前世、日本人としての甘さを捨てきれていない。尤も、あの甘さは本人の性質もあってのことではあるのだが。キールもまた、日本人としての感覚が抜け切っていない。むしろ、キールの方がその傾向が強いと言える。
ヴェンは良くも悪くも単純で、身内に甘く、外敵には躊躇無く牙を剥く。そこに倫理観などというものは存在せず、リーナ一人を救うためなら、無辜の民を虐殺することも厭わないだろう。身内にはとことん甘いが、必要とあれば悪鬼にもなれるのがヴェンという男だ。
キールも、大切なものを守るためなら手段を選ばないという決意はある。しかし、同時に日本人としての倫理観も捨てきれていない。決意で押し殺しているだけなのだ。
タテノ村を反乱に巻き込んだ時も、自分の我儘で多くの人の命を犠牲にするという事実に吐きそうになった。今もそうだ。無抵抗の人間を手に掛けるという事実がキールを苛む。
反乱を起こしてから、耐えず頭痛と悪夢がキールと共にあった。これからは腹痛とも長い付き合いになることだろう。
――こうなると、前世が邪魔で仕方ないですね。
現金なものです、とキールは自嘲する。それでも、止まるわけにはいかないのだ。キールには多くの人を巻き込んだ責任があるのだから。
■ □ ■ □
――ありゃ、何かあるな。
キールの態度にそう思うヴェンだったが、特に詮索しないことにする。反乱全体に関わることなら言っていただろうし、そもそも聞いたところで、ヴェンに出来ることなどたかが知れているのだから。身体能力が関わってこないところでは、今ひとつ頼りにならない。
――お、居たな。
探していた人物の姿を見つけて、ヴェンは歩み寄りながら声を掛けた。
「少し良いか?」
「ふむ、ヴェンリットか」
父のことを知っているらしい男がそう返して来たのを聞いて、ヴェンは僅かに眉を顰める。
「そういや、何で俺の名前知ってるんだ? もしかしてファンか?」
しかし、ファンって通じるのかねとぼやくヴェンを妙なものを見る目で見つつ、男は口を開く。
「お喋りな奴だ……あいつとは正反対だな」
苦笑を浮かべて言う男。どうにも久しぶりに会った親戚に成長の具合を測られているような居心地の悪さに、ヴェンは身じろぎする。
「父さんは無口過ぎ……って、そうじゃなくて。そもそも、あんた何者で、父さんとはどんな関係なんだよ」
「せっかちだな。まあ、いい。俺はガイ。お前の親父さんとは、戦友だ」
そう言って男――ガイは笑う。その笑みは、どこか昔を懐かしむようなものだった。
三日も間が空いてしまい、申し訳ありません。