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提出したもの

作者: 芦地翠子

 長らく掃除をしていなかった為に、部屋の中は熱気が篭っており、酷く暑くて溜まったもんじゃありません。先週母に強請って購入した空気清浄機にシトラスの香りのするアロマオイルを何滴垂らしても、この6畳間に篭った臭気は一向に良くはなりませんでした。部屋を見渡すと、なんだか全てが汚れている、そう思い、夕刻の六時はまだ回っていなかったと思いますが……しかし外は既に太陽が消えて、鈴虫が仕切りに鳴いている、秋の夕方です。そんな時間に、私は部屋を掃除しようと、今座っている机から重たい腰を上げました。部屋は誰がどう見ても散らかっています。なぜこうも散らかるのでしょう。自分でも分かりませんが、先日とあるサイトで部屋が散らかる人の性質を取り上げた記事を目にして、私は驚き、そして不覚にも笑ってしまいました。十あるか無いかの……その幾つかの性質は、まるで私を観察して書かれたかのように当てはまっていたのです。そこで、私は今もなお目の前に広がる6畳間を見て、はたしてこの部屋はいつから汚れていたのだろうと、考えました。壁に染み付いた染みは、確か数年前に癇癪を起こし投げたマグカップから零れ出たココアによるものです。この時は、確か部屋は散らかっておらず、床が見える状態でした。でなければ、ココアが零れて床に落ちている物にかかってしまいますから。そんなこと、癇癪を起こしていてもどこか変に冷静な自分が許す筈も無いのです。癇癪を起こしたのは、確か試験直前に雪崩のような膨大な知識を詰め込もうと必死だった時でした。つまりは一夜漬けです。数学は何個ものクラスに分けられ、その中でも一番下のクラスでした。私は当時から勉強のできない子で、良く教師を悩ませていたものです。そんな劣等性の私にも関わらず、人並に焦りを覚えていました。しかし、直に全てが嫌になり、眠気が波のように押し寄せてくる。それなのに焦りは拭いきれない。どうして自分は嫌いな学校の嫌いな授業を嫌いな教師の為に眠気と言う欲望を抑えてまでやらねばならないのだ。そんな呪いのような感情はむくむくと芽を出し始め、次第に内臓機器にまで蔦を伸ばして絡め取っていったのです。母が戸を叩く音、それが耳に入り、私は眼を開きました。完璧に眠りに落ちていました。母が部屋に入り、ココアを机に置きました。その時、私は堰を切ったかのように、その呪いのような感情を言葉に出しました。そうして、入れたばかりのココアの入ったマグカップを壁に投げつけました。ですが、運が良いのか悪いのか、マグカップを投げたにも関わらずなぜだかココアは少ししか零れず、しかも床にごとんと落ちた時にはひっくり返っているとか、倒れるとかいうことは無く、ただ床に置かれたマグカップとなっていたのです。私はやり切れなくなりました。悪事を働こうとした不良が、悪事を遂行できなかったように、先程の感情とはまた違う不安定なものが次第に大きくなっていきます。私は泣きました。情けなくて仕方が無く、そしてどうしてこんな感情に塗れた生活を送っていかなければならないのか……言い換えると、自分が憐れで可哀想だったのです。人間とは、涙を流す時こんな思いをする時もあるでしょう。しかし、悲劇のヒロインとは酔いがなければ成り立たないので、私は悲劇のヒロインではありません。ただの悲観にくれたくたびれた女子Aといった所でしょう。この頃、母と私は対立してばかりでした。癇癪を起こす前は皆ささくれ立っているものですから、私もささくれて思ってもいないようなことばかり母に吐露しておりました。私には母しかいなかったのです。感情の捌け口が母であることは、大部分の子供がきっと同じなのだと思います。母は私を腫れ物のようには扱いませんでした。きっと、母や身内でなければこんな大きな子供相手に踏み込んだ真似などそうそう出来るものではないでしょう。さっさと部屋を出て行くのが普通ではないかと思います。母は私に何も言いませんでした。マグカップを投げたことにも一言も文句を言わなかったし、癇癪を起こし口汚く言葉をぶん投げたことにさえ怒らなかったのです。ただ、発作的な癇癪で過呼吸状態になり引き付けを起こしているみすぼらしい私の背中を、擦るだけでした。決して大きくは無いその掌が、とても心強かったのを今でも覚えています。私の母は十七の時に母……私から言わせるならば祖母を亡くしました。母はそれから、何十年ものあいだこうして母の掌のぬくもりを感じることなく生きてきたのです。どうして、そう強い母としての優しさを持っていられるのでしょうか。それはきっと母が母として生きているからなのでしょうが、今の……無論当時の私には分かりっこありません。そうして、申し訳なさと自分への怒りで尚更眼から塩辛い海の雫を生み出し続ける私を部屋に残し、母は静かに部屋を出て行きました。母は私を知っているのです。私のこの涙が、どうしようも無い、行き場の無いぐちゃぐちゃの宇宙の成れの果てだということを。


だから、部屋が散らかっているのは……散らかせるということは、きっと私がこの部屋を許している、ということになるかもしれません。だけれども、それはなんだか少し言い訳染みているような気がします。だから、私は床に散らばった小説や衣服類を片付け、掃除機をかけ、しばらく窓を開けっぱなしにしたあとこうして机に座り空気清浄機から放たれるシトラスの香りを香っているのです。

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