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義妹

 第一章 

 

 いつまででも走っていたい。それは今も昔も変らない。走っているときは苦しくて一体なにが楽しいのか悩むときもある。

 でも、風を切るあの感覚や走り切った後の快感は一度体験すると病み付きになる。暖まった体に伝う汗が心地良い。

 だから、俺はこうして今日もトレーニングを積む。何度も何度もトラックを回りひたすら馬鹿みたいに走る。

 足を下げて上げる。地面について空中へ。それを幾度と繰り返した。周りにはもう帰り支度を済ませた友が一人いる。

 俺の自主練習に付き合ってくれてるいい友達だ。ストップウォッチを持って今か今かと俺が走り終わるのを待っている。

 最終ラップに差し掛かりなんのトラブルもなくゴール。俺に駆け寄ってきた友はタイムを伝える。すると、次にはタオルを投げてきた。

 俺はそれを受け取り体を拭く。


「なかなか調子よさそうだね」


 俺の友達の総一郎(そういちろう)はストップウォッチをぶら下げながら陽気に話しかけてくる。爽やかな物言いは王子様のようだ。しかし、こいつの実態を知れば大半の女子は幻滅する。


「さぁ? まだまだ全然だ! これじゃ全国には通用しないな」


 俺は元気よく答える。そう、全国じゃこのタイムでは勝ち抜いていけない。もっと実力を底上げさせないと。

 そんな俺の態度に総一郎はやれやれと両手を挙げた。


「目指してる先がどでかいね。いやだね。スポーツ馬鹿は」


「なに言ってるんだよ。そんなのに付き合ってるお前も相当馬鹿だよ」


 すでに部活は終っていて辺りには俺達以外誰もいない。マネージャーもいなければ顧問もいなかった。

 夏前で日が傾くのは遅くなっているが時刻はもうすでに六時半を過ぎている。オレンジ色の夕日が俺たちを照らしている。

 今日は午前授業だったので部活動は早くに開始されていた。

 そして、開始するのが早かったため終る時間も早かった。だが、俺はまだ練習が物足りなかったのでこうしてトラックを走っていた。

 それに総一郎が付き合ってくれた。俺は最初断った。しかし、できることがあるなら少しでも協力したいとこうしてタイムを測ってもらっていた。

 そうならと、俺は行為に甘えることにしたんだ。スポーツ馬鹿の俺に付き合うなら総一郎も同類。友達思いの馬鹿野郎になる。決して悪い意味ではない。


「まぁ、僕は君のようにはスポーツ馬鹿にはなれないよ。サッカー部に入ったのも女の子が目当てだし」


 総一郎はそう言うと俺に制服を投げつけてきた。俺はそれを受け取る。もう、グラウンドには誰もいないので俺はその場で着替えてしまう。裸になってもパンツさえ穿いていれば誰も見ていないのだから平気だろう。


「なんだよ。女子目当てって。不健全だな」


 俺は総一郎に批判の眼差しを向ける。


「はぁ? むしろ健全でしょ。男子高校生の八割はエロで構成されてるからね」

「確かにそうだけさー」


 俺はズボンを穿いてワイシャツのボタンを閉めながら返答する。総一郎の意見は間違っていない。俺の脳内もスポーツを抜いたらそれしか残らないはずだ。

 男子高校生など、基本そんなもの。


「でしょ? 逆に啓戸(けいと)みたいなやつがめずらしーと僕は考えてるよ」

「反論できない」

「ほらね」


 俺は着替えを済ませるとスクールバックを肩に下げた。それを合図に俺と総一郎は歩き始めた。

 ここは榊学園(さかきがくえん)と言って中高一貫の私立校だ。

 俺はここの学校の一年生で陸上部所属。

 ちなみに、俺はエスカレータで中学校からここの高校にいたわけではない。

 普通の公立高校から陸上の推薦でやってきた人間だった。種目は長距離。千五百メートルと三千メートル。こう見えても、中学校の頃は全国大会などに出てて名が知られていた。その関係で目をつけて入学させてもらえたわけだ。

 五月の大会には出れなかったので今度の大会はっと生き込んでいる。こうして自主練習をしていたのもそのため。

 まだ高校生活始まって少ししか立っていない。だが、なかなかいい青春を送っている。彼女はいないがそのうちできるだろう。

 隣に一緒に歩いているのは昔からの付き合いの友人の総一郎。中学時代にサッカー部でスポーツマンとして切磋琢磨した中だ。

 うちの中学のサッカー部は県大会常連さんで総一郎はそこで部長を務めていた。ここには俺同様スポーツ入学だった。俺のことをスポーツ馬鹿と煽ったが総一郎も筋金入りだ。俺の事は批判できない。

 まぁ、腐れ縁のようなもの。断っても断ち切れない頑丈な糸で結ばれてしまってる。

 俺たちはいつも『野郎となんで……』っと口癖のようにお互いを貶しあっていた。実際男同士の赤い糸など気持ち悪い他ならない。

 けれど、それを含めて順風満帆な高校生活。何一つ不自由は無い。

 勉強は――あんなものは知らない。滅びてしまえとさえ思っている。

 俺と総一郎はくだらない会話をしながら校門を目指していた。あそこの店には可愛い店員がいるとか。こないだ貸したエッチなDVDな話など。男子高校生らしい会話を繰り広げながら歩いていた。

 こういう時間がどれほど大切なのかは、昔親父によく教えられていた。俺の親父は現在単身赴任で家にはいない。

 けれど、家に帰ってくるときはこれでもかというくらい一緒に話をしていた。

 親父は高校生活は自由に送れなかったため、俺にはそうなってほしくないといつも嘆いていた。なぜ、自由に出来なかったのこと尋ねると、気まずそうに答えてはくれなかった。

 幼い頃の俺はきっとなにか特別な理由があったのだろうと察した。だから、親父が過ごせなかった分、俺はこうして最大限に青春を謳歌している。

 好きなスポーツをやって、友達と馬鹿な会話をする。俺はこの大切な時間をずっと守っていたかった。高校生三年間。俺は悔いの無いように過ごしたい。親父が不可能だったからこそ、息子である俺が達成しないとな。誰にも邪魔なんかさせない。

 そんなことを考えて、校門を出ると、少女が一人誰かを待っているようにそこに立っていることに俺は気付いた。いつもなら気にせず通り過ぎる。だが、俺は視線をそちらに向け立ち止まる。総一郎もそれを察知したのか俺の視線に焦点をあてた。

 そこにいる少女は制服を着ておりここら辺では見かけないもの。他校の生徒であるのは間違いない。俺は不審に思い目を細める。

 こちらからは少女の顔は伺えない。唯一わかるのは長い黒真珠のようなつやつやした黒髪と、肩に背負っている竹刀袋。身長は百四十半ばくらいで、みようによっては中学生。いや、小学生くらいに見えた。

 一体、なぜあそこに突っ立っているのだろうか。うちの生徒ならまだわかる。しかし、他校の生徒。怪しい。

 俺が見つめていると総一郎が軽く肩を俺にぶつけてきた。どうやら早く帰りたいようだ。俺は黙って歩を進める。

 校門から数メートル離れたところで総一郎が話しかけてきた。


「どうしたんだい? 急に止まってあの子みたりなんかして」

「いや、誰かを待っているのかなー……って」

「どうせ剣道部かなんかに知り合いがいるんでしょ?」

「そうだろうなー」


 少女が背負っていたものから推測するとおそらくそれであっている。しかし、怪しい他に、なんとなく不気味だった。どう言葉で言ったらいいのかはわからない。でも、特別な感覚が俺の体を刺激したのは確かだった。

 俺は歩きながら後ろを振り返る。すると、さっきまで校門に立っていた少女がいなくなっていることに気付く。

 もしかしたら、待ち人を我慢しきれずに校内に入ったのかもしれない。俺は別段気にせずに総一郎との会話に集中する。

 あれが一体誰だったのか。俺はその日のうちに知ることになる。


                      ☆


「やっべ、おそくなっちまった」


 総一郎と寄り道をしながら帰ったら時刻はすでに九時を回っていた。俺は陸上で鍛えた体力を果敢に発揮して帰宅を急ぐ。

 今日は母親に夕飯の準備をさせているのでなにを言われるかわかったものではない。俺はこれもトレーニングだと、言わんばかりの猛スピードで住宅街を駆け抜ける。ここは一通りが多いわけでもないし、交通量も少なめ。飛ばしても問題はない。

 道にある電柱が視界に入っては消える。その繰り返しだった。

 ここからだと家までは大体十分くらい掛かる。走ればもっと短い距離のはずだ。俺はとにかく腕を振って足を上げた。

 家の目の前まで来ると、蹈鞴を踏みながら止まる。荒げた息を整えるために深呼吸をする。俺は両手を膝にやる。そして、家全体を眺める。そこで違和感に気付いた。部屋に明かりが灯されていない。


(お? なんだ?)


 母親がいるはずなので電気は点いているはず。なぜ、どの部屋も明かりが灯っていないのか。

 もしかしたら、急用で家にはいないのかもしれない。俺はホッと一息ついた。どうやらどやされる心配はなさそうだ。

 俺は門を開いて自宅の扉までやって来る。念のため扉を引いてみるが鍵は掛かっている。俺はポッケの中から鍵を取り出した。

 それを鍵穴に刺してシリンダーを回す。開錠する音と共に扉が開いた。俺は鍵穴から抜くとポケットの中に鍵をしまう。ドアの中に入り、玄関へ。真っ暗でなにも見えないので電気を点ける事にする。靴を脱いですぐ近くにあるボタンを押す。

 すると、玄関に明かりが灯り、廊下も照らされる。視界が開けた俺はバックを掛け直してリビングへと向かう。

 リビングに入るとこちらも暗闇。俺は再度電気を供給する。光がリビング一面に広がり俺の目に机やソファなどがはっきり見えるようになる。

 俺はスタスタとテーブルに近寄る。そこには夕食が用意されていて置手紙もついでに置かれていた。それを手にとって読んでみる。


『しばらく帰れそうにない』

 

俺は手紙を丸めてゴミ箱へと投げ込む。母親は救急救命医をやっているのでこうなる日は珍しくない。人手が足りなければ駆り出されるのは当たり前。たまにちゃんと眠れているのか心配にはなる。忙しいという話は母から毎度聞かされていた。食事もままならないのだとか。

 最近は割り切っているが、小さな頃は母親がいないといつも泣いていた。しかし、もう俺は高校生。母親がいないくらいで寂しくなどならない。

 むしろ、思春期男子としては有難い話だ。口うるさい親がいないのは本当に助かる。あれをやれ、これをやれ。そう言われないのは精神的にも楽。

 俺は欠伸をしながら椅子へと座る。溜息を一つついて、辺りを見回す。三人分の椅子が用意されているが今は俺一人。家族団欒は無く、冷たい景色。

 生まれたときからこのような雰囲気をたくさん味わってきた。家族で食卓なんて一年にあるかないか。寂しくないなんて強がっても、やはり虚無感を抱いてしまう。

 過ぎていく時計の針が嫌にはっきり聞こえる。まるで、自分だけが取り残されたみたいな。不思議な感覚に陥る。

 なにか一つだけすっぽり抜け落ちたような。胸が締め付けられる。


(兄弟の一人でもいればこんな風にはならないのにな)


 ないものねだりは仕方ない。小さな頃は頻繁に弟や妹がほしいと騒いでいた。こんな空間も少しは賑やかにしようと思って。しかし、親の都合もあり俺の兄弟は出来なかった。

 二人とも、仕事で多忙。これは仕様がない。

 俺は頬をテーブルに引っ付ける。ひんやりとした感触。今日は少し張り切りすぎた。

 足は重たく肩も鎧を背負っているようだった。だんだんと瞼が塞がっていく。いけない。ここで寝てしまったら朝までここで寝てしまう。

 俺は体に鞭を打とうとするが、言うことを聞いてくれない。明日も学校だ。しっかり、風呂に入りご飯を食べなくては。

 そんな、俺の思考とは裏腹に体は石。どうにもならなかった。俺は胸ポケットにしまってある、携帯電話を取り出す。

 タイマーを六時にセットした。お風呂と飯は明日でいいや。俺は睡魔に抵抗することを諦めた。

 もう、どうにでもなってしまえ。瞼を閉じる。すると、徐々に意識が薄れ始めてきた。

 だが、突然、玄関から物音が聞こえてくる。俺はその音で脳が一気に覚醒する。上半身を上げてテーブルに両手をつき立ち上がる。

 泥棒か何かか。

 腹の底が冷える感覚が俺を襲う。冷静になったほうがいい。俺はリビングの電気を消して、ソファの影に隠れた。もしかしたら、二階に誰かがいたのかもしれない。

 なら、どうするか。安全面を考慮してこのまま出て行ってもらおう。俺は息を殺す。耳を澄ますと廊下を歩いている音が耳に届く。不気味とその足音はクリアに俺の脳と心臓に響き渡る。

 どうやら、玄関から出て行かないようだ。すると、リビングのドアの前までやってくる。俺は心臓が飛び跳ねそうになった。

 暑さのせいで汗を掻いているのか、緊張のせいで汗を掻いているのか。考えるまでもなく後者だった。俺の肌に粘っこい汗が垂れる。

 ガチャリと音と共に扉が開く。入ってきた人影は辺りを見回している。暗くて顔はよくわからない。しかし、向こうもこっちには気付いていないようだ。


「誰かー。いませんか?」


 その人影が声を出した。高い声。女の子の声だ。それに、少し怯えているのか声が震えている。俺はもうちょっと厳つい声を想像していた。どうやら泥棒ではないようだ。泥棒だったら人がいるかどうかなんて声を出して確かめない。

 では、なぜこんなことを。俺は不審に思う。まだ、姿を見せないほうがよさそうだ。

 少女がどんな出方をするのか伺うことにする。


「あれ? さっき玄関で鍵の音がしたのに……お風呂のほうかな? あ、その前に電気」


 少女は歩いて電気をつけるためのボタンを押そうとしている。ここまでか。しかし、どうやら彼女は怪しい人物ではなさそうだ。

 俺は光が点く前にソファに隠していた身を音を立てずにソファの座る部分に持ってくる。腰を落ち着かせた。そして、何事もなかったかのように両手を横に伸びしてくつろいでいるように見せた。

 少女がボタンを押す。すると、リビングに明かりが灯る。それと同時に俺は少女に視線をやった。少女も明るくなったことにより、俺を認識する。二人は数秒の間固まる。

 俺はまじまじと少女を観察した。前髪は綺麗に揃えられていて大きな二重瞼に長いまつげ。職人が端整こめて作った日本人形のような美しい顔立ち。長い黒髪は気品に溢れている。

 大和撫子。俺の頭にその言葉が過ぎった。

 一言、言わせてもらえば可愛い。本当にお人形さんのようだ。しかし、幼顔で身長も低い。誰が見ても小学校高学年か中学生くらい。

 それに、この子。校門にいた子じゃないのか。俺が思案していると少女は急に息を荒げ始めた。

 びっくりして、声が出ないようだ。脈数も上がっているように見える。少女は口をわなわなさせて叫ぼうとしていた。


「ストップストップ! 騒ぎたいのは俺だからな?」


 俺の言葉に少女は頷いて胸を撫でて落ち着こうとしている。まぁ、驚くよね。普通なら。さっきまで暗闇で人の気配してなかったのにいきなりソファにくつろいでいる男が現れたら心臓が飛び出しそうになるはずだ。俺だって今は平静を装っているが、動揺しまくり。

 見ず知らずの女の子。それが我が家に。混迷しないほうがおかしい。

 少女の動悸が安定してくると、大きく唾を飲み込んで俺と顔を合わせてくる。少女は汗を垂らしながら俺を見つめていた。

 汗をかくほど驚愕したのか。


「あの……雪啓戸さんでよろしいですよね?」


 少女はおずおずと尋ねてくる。


「そ、そうだけど」


 戸惑いながら返答する。彼女の口からまさか俺の名前が飛び出すとは思っても見なかった。

 俺の発言に少女はよかったと胸を撫で下ろした。

 俺はこの少女と会うのは二度目のはず。今日の校門だけ。彼女の素性などは全く理解できていない。

 このような可愛らしい少女に話しかけられる覚えは無かった。それに、家にこうやって入っているのも納得ならない。

 だって、不法侵入じゃないか。もし、俺に用があるならインターホンかそれこそ今日の校門前でよかったはず。

 俺が困っているのに気付いた少女は慌てて自己紹介をしてくる。


「あ、申し遅れました。私、竹内布衣(たけうちふい)といいます」


 そう言うと、竹内さんは綺麗なお辞儀を俺に披露してくれた。髪の毛が地面すれすれまで垂れる。

 俺も動揺しながらも、軽く会釈をする。人間突然なことが重なるとどうしていいかわからないもんだな。

 少女は顔を上げると、気まずそうに俺から目を逸らした。手を弄ってなにかを堪えている様子。もしかしたら人見知り体質なのかもしれない。


「あの! あの! あの!」


 っと思ったら次は大きな声で騒ぎ始めた。忙しい子だな。動転してるのか目を泳がせながら何かを一生懸命説明しようとしている。

 しかし、言葉が上手く収束できずに、あの、や、その、を繰り返していた。


「OK。ゆっくり深呼吸だ。いいか?」


 俺は竹内さんを落ち着かせるために深呼吸をさせる。彼女は素直に大きく息を吸い込んで吐いた。


「どう? 大丈夫になっただろ?」

「はい」


 俺の言葉に竹内さんは頷く。けれど、不安そうな顔をしていた。だが、これでやっとまともな会話が出来そうだ。


「その……お母様からお話は聞いてないですか?」

「話?」


 俺は今朝のことを思い出す。今日はたまたま一日休みだから朝ごはんと弁当、夕飯は自分で作るからと言っていた程度。

 それ以外は特にこれといって変った発言はしていなかった。普段そんな会話はしないので気になる話があれば頭に残らないわけがない。

 なにか重要なことがあったらメールや置手紙でやり取りをすることもある。

 そこで俺は脳裏にさっき捨てた紙切れが過ぎった。まさか、と思いつつも俺はゴミ箱のほうに向かっていく。

 少女は何も言わずにそれを見守った。

 ゴミ箱の中に入っている、皺くちゃの紙を取り出すと乱暴に皺を伸ばす。そこには先程と同じ文が記されているだけで他に明記はされていない。

 見当違いだったか。俺はもう一度丸めようとする。だが、紙の裏になにかが書かれているのに気付く。

 そこには、こう記されていた。


『今日からお前に妹が誕生した。名前は竹内布衣。詳しい話は本人から聞いてくれ。可愛がってやれよ。昔からほしがってただろ。いもうと。ちょっと早いが誕生日プレゼントだ』


 俺は後ろを振り返って、竹内さんを確認する。俺はもう一度顔を落として紙を見た。

 妹。

 そのフレーズが何度も反芻される。俺は機械音が出そうなほどぎこちない動きで再度俺は竹内さんの顔を見る。

 竹内さんは困ったような愛想笑いを浮かべた。


「あはは、おにいさん?」


 照れくさそうに首を傾けた。俺はわけがわからず二歩三歩後ずさった。頭の中で情報が錯綜する。

 さっきまで疲れ果てていた体が嘘のように熱を帯びていく。


「ちょっと待てくれ! はぁ!? どういうことだよ!」


 俺はあからさまに取り乱すと竹内さんは怯えてしまったのか肩をビクつかせた。これはいけないと俺は反省。咳払いをする。突然大きな声を出したら心臓に悪いもんな。

 しかし、どうしたものか。俺は必死に考えるがこの状況を把握不可能だった。仕方がないので竹内さんに説明を仰ぐことにする。


「なぁ? 俺に詳しく解説してくれない?」

「あ、えっと。はい」


 俺は竹内さんを誘導してソファに座らせる。重い足と太ももを地面に着けて俺は床に腰を落とした。本当は俺もソファに座りたいところ。だが、ここは女の子に譲るべきだろう。三人掛となっているが、隣に汗臭い俺がいるのも嫌がるだろうし。

 すると、竹内さんは俺が気を使っていることに気付いたのかソファの中央から端へと体を寄せた。


「お掛けになってください。って私が言うのもおかしいですけど……」


 竹内さんは恐縮しながら俺にソファに来るように促した。俺はその好意に甘えて隣に行くことにする。こうなるとわかっていたら早くお風呂に直行するべきだった。

 しかし、今となっては時既に遅し。竹内さんには我慢してもらおう。

 俺が席一個分空けたスペースに腰を落ち着けると、竹内さんは喋り始めた。


「それで、ですね。私なんですけど。今日から居候させてもらいます、竹内布衣です」

「いや、もう名前は聞いてるから」


 俺は少し、口調を強くする。竹内さんには申し訳ないが俺も余裕はない。年上の男に高圧的になられたら怖いかもしれない。


「そうでしたね。あはは」


 竹内さんは作り笑いをしながら両手の拳を強く握り締めて膝の上に置く。


「ごめんなさい私口下手で……」


 少女は自分の短所を謝辞する。これじゃ、まるで俺がいじめているようじゃないか。寝覚めが悪くなってしまう。俺は歎息した。いじらしい少女に説明を求めた俺が馬鹿だった。

 俺はどうするか、悩む。仕方がないので、俺が質問して彼女が答えるという形にしよう。


「よし、じゃあ、俺が質問するからそれに答えてくれ」


 さっきとは打って変わって優しい口調に切り替える。竹内さんは安心したような顔をしてから首を縦に振る。

 だんだんと、扱い方がわかってきた。こうやってソフトに接すれば、彼女の精神も安定するようだ。

 俺も僅かだが、心が落ち着いてきたので余裕を持つことが出来始めている。


「それじゃあまず、なぜ、うちに来たんだ?」

「家にいられない事情があるからです。すみません。これ以上は言えません」


 第一投球で俺は既に心が折れそうになる。

 彼女は心底申し訳なさそうに頭を下げた。俺はなぜ言えないのか訝った。だが、こうやって真摯に謝られると本当に野暮な事情があるのかもしれない。人に言えないような。例えは浮かばないがきっとそうなのだろう。


「わかった。まぁ、それはいいや。じゃあ、うちの母さん……とはもういろいろ話してるんだよな?」

「ええ。それは」

「じゃあ、お母さんの知り合いの娘かなにかで?」

「いえ。違います。正確には啓戸さんのお父様です」

「親父?」


 俺は反射的に棚に置いてある家族写真に目をやった。そこには幼い頃の俺と母さん。それに親父が写っていた。楽しそうに笑顔で写っている三者。

 親父は昔から謎が多い人物だった。高校の頃なぜ青春が満足に送れなかったのかと聞いても困ったように沈黙。なんで、家にいる日が多いのかと尋ねても口は開かない。

 今回の単身赴任の県はちゃんと口を割ってくれたが。けれど、息子である俺でさえ親父のことはよく知らない。俺は興味深い話が聞けそうだと頬を吊り上げた。


「私のお父様が昔馴染みで、啓戸さんのお父様と仲がよろしかったんですよ」

「へぇー。どういう関係で?」

「それは……こ、高校の時同じクラスで!」


 竹内さんは咄嗟に考えたのが丸わかりな反応を見せた。俺は怪訝する。親父は高校時代満足に過ごしていなかったと話す。なのに、娘を預けてしまうほどの友達がいるだろうか。いや、俺に伝えてないだけで一人くらいいたのかもしれない。


「それは親父に問いただすとして。さっきは二階にいたのか?」

「あ、はい。用意された二階の部屋で。お恥ずかしいですけど、そこで寝てしまって」


 竹内さんは照れくさそうに笑う。俺は信じられないと溜息を付いた。普通、人の家で眠れないだろ。肝が据わっているのか図々しいのやら。しかし、彼女は至って普通だ。むしろ礼儀正しく、皺一つないワイシャツのような印象。遠路はるばる来て、疲れていたのかもしれない。


「それはうちの母さんが用意したの?」

「はい」

「そう」


 俺は特に反論せずにその話は終らしてしまう。母さんがここまでするということはなかなかない。面倒くさがり屋でガサツ。もしかしなくても、居候なんてのは絶対引き受けない人間だ。それがこうして、素直に行動している。よっぽどのことなのだろう。俺は事の重要性を把握する。

 それに、俺が竹内さんの居候に反対は不可能。うちは絶対王政顔負けなくらいの絶対主義だ。ここでの王はうちの母親。俺がノーと言っても母さんがイェスと言えばそれはイェス。俺に覆すことは出来ない。


「それから、あと一つ。なんで、うちの学校の校門にいたの?」


 それは一つ疑問だった。彼女はなぜ校門にいたのか。もし、俺に用があったならあそこで話しかけるはずだった。


「学校の行き道の確認と、お母様に啓戸さんに会っておけと凄まれたので」

「あー」


 俺はその場面が容易に頭に浮かぶ。推測だが、竹内さんは通学路を確かめるだけでいいと言ったのに母親が会っとけと無理強いしたのだろう。それで、最初は断ったが一喝されて泣く泣くああしたっと。さらに、声を掛けることも出来ずに家に帰宅したわけだ。

 俺は落胆する。

 それは母さん酷いよ。

 中学生くらいの女子中学生が高校生に話し掛けるのにどれだけの勇気がいるだろうか。相手が俺だったにせよ脚が竦む思いのはず。それに俺の横には総一郎もいたし、余計だった。


「なんかごめんね」


 俺が母さんの代わりに謝罪をすると竹内さんは大袈裟に首を振る。


「そんなことないですよ。私がもっと度胸のある子だったら」

 少女はしょぼくれた顔になる。俺はどうにかしようと切り出した。


「いやいや、苦しかったでしょ? そうだ、ちょっと待ってて。今から冷蔵庫にあるバームクーヘン取ってくるから」

「そんな気遣い――」

「まぁまぁ」


 俺は竹内さんを制して台所へと向かった。これは詫びの思いも込めて竹内さんを持成そうとするのと、それから頭を整理する時間を作るためだ。

 俺は冷蔵庫の前に立ち扉を開く。ひんやりとした冷気が俺の頬を刺激する。その中にある箱を一つ取り出してドアを閉めた。これは昨日俺が買ってきたものでそこそこの値段がするやつだ。俺はプロテインの次に甘いものが好きだと言っても過言ではない男で甘いものには目がない。これも街中のケーキ屋で一目惚れして買ったものだったりする。そこで俺はあることを想起する。

 運動終った後にプロテイン飲むの忘れてた。

 俺はしまったと頭を抱える。けれど、こういう日もある。俺は男らしくすぐに再起する。

 調理用スペースにそれを置き包丁を下の引き出しから抜く。

 ここで、竹内さんを盗み見る。なにやら、ソワソワしていた。その視線はリモコンに向けられていた。俺は視聴したい番組でもあるのかと尋ねることにする。


「なにか、見たいの?」

「いえ! とんでもないです」


 口では謝っていながらも手はリモコンに添えられていた。俺は苦笑しながら、


「遠慮しないでいいよ」


 っと、朗らかに言い放った。竹内さんは最初は葛藤していた。だが、思い切って俺の言葉に甘えることにしたようだ。俺に一礼してからリモコンを恐る恐る握る。別に爆発するわけではないのになぜそこまで慎重になるのだろう。俺は首を傾げる。

 大したことないかと俺は作業に戻る。綺麗に包丁を入れて切り分ける。それを後ろの棚にある食器を取り出して乗せると、俺は箱を冷蔵庫に戻した。皿とフォークを持ちソファへと足を向けた。そこで突然、テレビの点く音と竹内さんの小さく短い驚きの声を上げるのが重なった。俺は何事かと竹内さんに目をやった。

 すると、俺の視線に逃れるようにしてそっぽを向く。


「私、テレビを見るのが初めてなんです……」


 衝撃のカミングアウトに俺は手から皿が滑り落ちそうになる。俺は咄嗟の反応で落とすのは回避する。しかし、これには驚愕を隠すことは出来なかった。今時の子。ましてや俺より年下の子がテレビを見たことがない。俺はその事実が受け入れられなかった。彼女が嘘をついている可能性は。おそらくゼロ。冗談や嘘を言えるようには見えない。

 一体どんな文化圏に住んでいたのか逆に興味が沸いてしまった。

 竹内さんは視線を外していたがすぐにテレビに好奇心が吸い寄せられた。バラエティ番組に釘着けになってしまう。目をキラキラさせて眺めている。

 俺は皿をテーブルの上に置く。竹内さんはテレビに夢中なので俺は黙って洋菓子を咀嚼する。口いっぱいに甘い香りが広がる。最初はパサパサしていたが、口の中にいる間にしっとりし始める。俺はしっかり噛む。柔らかいのでさほど、力はいらない。

 俺は口を動かしながら竹内さんを観察する。なぜ、彼女が居候をするのか。一旦整理する。竹内さんは家を出なければならなかった。しかし、家出などではないようだ。親同士で話し合ってこのようになったはず。

 詳しくはこの後親父に聞けばわかるとは思う。親父も母さんも認めているのであれば、俺が居候に反対はしない。どうせ、部屋だって余っている。

 それに、この寂しい空間に一人でも混ざれば、俺としては両手を挙げたい。

 だが、気になることが一つだけある。

 竹内さんが俺の妹になるというのはどういうことだ。

 俺は尋ねてみることにする。


「なぁ、竹内さん。妹の件ってどういうことなの」


 突然話を振られた竹内さんは慌ててテレビから視線を話俺に向き直る。


「なんていいますか……私がここに居座る条件が、啓戸さんの妹になることなんです」

「それは誰が決めたの?」

「お母様です」


 俺は頭をトンカチで叩かれた気分になる。母さんならそのくらいのことは普通に言ってのける。


「でも心配しなくていいですよ。私、お兄ちゃんいるので。妹役に不足はないと思います」

「それとこれとは話が別でしょ」


 自信満々な竹内さんを俺は否定する。俺と竹内さんは血が繋がっていない。なのにも関わらず兄弟出来る物なのだろうか。不可能ではないはずだ。

 しかし、それは長年付き合ってからではないと無理。すぐに、兄弟のようにはならない。しかし、親戚の子としてみれば差ほど難しくはない。


「それで、竹内さんはいいの? 断ってくれてもいいんだよ。うちの親の前だけで兄弟っぽくすればいいんだし」


 俺は念のため確認しておく。もし、嫌がるようなら普通の俺と接してもらえれば障りない。


「私は構いません」


 予想外の発言に俺は目を大きくしてしまう。無理をしている様子もない。


「そ、そう」


 俺はどまどましながら返答する。そして、彼女を見つめる。身長は低め。おとなしい。そして、気が遣える。口うるさそうでもない。兄弟がほしかった俺には願ってもない好機。妹としては申し分ない。

 だが、申し分ないからこそ、罪悪感は膨れ上がっていく。それに、赤の他人を妹にするのはどうだろうか。決して俺がやらせてるわけではないにしろ、この事が世に知れ渡ったら俺は変態扱いされるはずだ。学校で晒されでもしたら、

 しかし、ばれるはずなどないのも事実。彼女は学校だって違うのだから家だけでそういう関係であっても問題は――

 そこで俺はあることに気付く。竹内さんの学校についでだ。服装は今も制服。ここらでは見かけないもの。だが、先ほど学校への道順を確認したといっていた。


「もしかしてさ、学校って俺の高校の中等部に入ったりとか……」

「はい。もちろんそのつもりですよ」


 両手を合わせてにこやかな竹内さん。俺は胃が重くなるのを感じた。けれど、ここで釘を打っておけば問題ないはず。


「なぁ、竹内さんや。俺のことをどう呼ぼうとしている?」

「? もし、よろしければですけど、お兄さんっと」


 何の変哲もないものを説明する口調で竹内さんは肯定する。


「ごめん。それだめ。啓戸さんのままでいて」

「え! なぜですか?」

「なんでも。それから、俺たちは親戚って事で、周りには言うんだぞ。いいな?」

「はぁ……親戚って言うのはもちろん先生方には伝えるつもりでしたけど、友達が出来た時もですか?」

「あぁ、そうだ」


 俺は少し強めの口調になる。すると、竹内さんは軽くうなづいてくれた。俺は一安心する。これで学校では変な噂は回らないだろう。

 それから、親戚じゃないことがばれないように俺も呼び方を変えなくてはならない。一応確認を取っておく。


「俺は布衣って下の名前で呼んじゃうけどいい?」

「全然問題ないです。むしろそっちのほうがいろいろと便利ですし」


 布衣の発言に安堵する。これで断られたら不自然な関係になってしまっていた。とりあえず学校では不都合はなさそうだ。

 俺は時刻を確認する。十時を過ぎたところだった。俺はソファから腰を上げる。


「居候の件については俺は大丈夫だから。いろんなところを好きに使ってもいいよ」

「わかりました。不束者ですがよろしくお願いします」


 布衣は長い髪を下に垂らしてお辞儀をする。俺もそれに倣い礼をする。


「それじゃあ、俺は風呂はいるから」

「はい。それでは、私はご飯温めますから」

「ほんと? 悪いけど、よろしく頼むね」


 俺は遠慮なくリビングを後にする。そして、廊下に出た辺りで携帯を取り出した。廊下の明かりが俺を照らしている。

 電話する相手はもちろん親父。母親は仕事で忙しいはずだ。親父はもう仕事を終えて休んでいる。電話帳の中から電話番号を引っ張り出しコールする。壁に背を預けて待った。

 何回かの呼び出し音の後に、親父の声が聞こえてきた。


『もしもし、啓戸か』


 声だけ聞くと二十代くらいと思えるほど若々しい。しかし、実年齢は四十歳半ば。容姿も、高い鼻とスッキリした顔。身長は一七〇そこそこ。細い体系にも関わらず筋肉質。とてもじゃないが、中年の男性には見えないほどだ。


「親父? どういうことだよ」


 俺はいろいろ端折っているが、すぐに親父は勘付く。


『あぁ、布衣ちゃんね。今日だったか』

「今日って……」


 俺は呆れて語尾に力がなくなってしまう。なぜ把握していないのか。俺は歎息してから気持ちを切り替えて質問する。


「あの子は一体何なんだよ?」

『あれ? お前、一緒に遊んだことあっただろ?』

「はぁ?」


 俺は記憶の引き出しを引いてみる。しかし、昔に彼女と遊んだような出来事は見当たらない。


「ないよ」

『そうだっけか? とりあえず、彼女がうちを住処にするのはもう決定事項だからさ』

「それは……わかってるけど」

『それに、啓戸。小さな頃から妹とかほしがっていただろ』

「うん」


 ここは否定できない。少なくとも俺の心の端では布衣が家に来てもらって嬉しいという感情がある。この閑散としている住居に人が増えるのは願ったり叶ったりだ。それに、俺は彼女のようなタイプは嫌いではない。例え家にいたとしても俺には迷惑は掛けないはず。もし、迷惑を掛けても可愛いと処理してしまうかもしれない。

 それほどまで、布衣には不思議な魅力があった。


「兄弟ごっごでもいいんだよ。変な気を起こさなければ」

「起こさないよ」


 それはないと俺は首を横に振る。可愛いとは思う。しかし、女としては絶対に見れない。俺の好みとは真逆だし。だからこそ、妹としてはうってつけなのかもしれない。一つ屋根の下にいても健全にいられる。


「ってか、彼女の素性を俺に教えてくれよ」


 話をはぐらかされてることに気付いた俺は脱線した車両を元に戻す。


「あ、ばれた?」


 電話からは陽気な笑い声が聞こえてくる。


「啓戸、知らないほうがいいよ。お前には俺のようになってほしくないから。一度しかない高校生活、台無しにしたくないだろ?」

「ちょっと待って。どういう――」

「そんじゃ切るぞ」

 一方的に電話は切られ、電子音が俺の耳に虚しく鳴り響く。俺は携帯を押し当てたまま親父の意味深な言葉を反芻する。俺は知らないほうがいい。台無しにしたくないだろ。


(なんなんだよ……)


 俺はリビングに顔を向ける。布衣はどういう存在なのか。直感的に俺は知らなくてはいけないのではないかと感じる。だが、それは青春を棒に振るようなまでに重要なことらしい。それに、校門で出会ったときの感覚。言葉で表せない何か。背中を突然氷でなでられた様な寒気。幽霊のように口では上手く説明が出来ない。

 俺は耳から携帯を話して、ポケットの中にしまう。風呂場へと行くために歩き出した。知らない人間との同居生活。しかも、よくわからずに妹になってしまった。これにはどんな意味が込められているのだろう。ただ単に俺が寂しがり屋だからか。そうじゃないはずだ。きっと親父はなにか考えを持っている。母さんも同様。

 しかし、どんな理由があるにせよ。あの俺しかいなかった空間に暖かみが増えるのは、嬉しい限りだ。


                      ☆


 台所から子気味の良い包丁の音が聞こえてくる。一定のリズムを保っていて楽器のように奏でている。俺の目の前には今まで見たことないような豪勢な朝食が並んでいる。俺は驚きながらも席に着く。朝は忙しいためいつもはトーストにスクランブルエッグ、プチトマトが俺の常識的な朝食だった。

 料理がそこまで得意ではない俺が作るのだからその程度。しかも、母さんも朝が弱いので大した料理は出来ない。

 しかし、今俺の眼前にあるのは焼き魚に出し巻き卵ほうれん草のお浸し。一般家庭なら普通かもわからない。だが、俺にとっては豪華絢爛に彩りされたどんなものよりも、美しく写っている。

 材料費で考えればそこまで豪華ではないのかもしれない。しかし、忙しい朝の時間でこの料理を作るのはお金に換えがたい手間が掛かっている。それを含めたらこの朝ごはんは立派だ。

 布衣が朝早くからなにかしてると思ったらこれだったのか。

 これを作ったのは昨日からうちの居候になった竹内布衣だった。俺が朝のジョギングに出ようとすると、もうすでに起きてリビングでなにかをやっていたのは知っていた。朝の六時頃だったので訝っていた。

 それが料理だと気付いたのはジョギングから帰ってきてからだった。お風呂に入ってリビングに入るとこのようになっていた。


「すぐに、お味噌汁も出来ますから待っていてくださいね」


 髪を後ろで束ねている布衣が味噌汁をお玉で掬い茶碗の中に入れている。


「お、おう」


 俺は反応に困りながらも対応する。朝ごはんを作ってほしいなどといった覚えはない。自主的にやってくれたのか。俺は感心してしまう。

 そんな俺の心を読み取ったのか布衣は柔和な笑みを浮かべた。


「お母様に頼まれたんですよ。たぶん健康には気を遣っているだろうけど限界があるからお前がフォローしてくれ。って。なので少し張り切ってます」


 俺は言葉を失ってしまう。そこまで気を回さなくてもいいのにと。なんの返事もないので布衣は途端に焦り始めた。


「もしかして御勝手使ってしまったのはまずかったですか?」

「いや、そうじゃないけど。そこまでしてくれなくても」


 俺としては大変有難い。朝昼晩バランスの整った食をするのがどれだけ大切だか、知っているからだ。感謝しきれない気持ちでいっぱい。だが、わざわざやってもらうのも気が引ける。

 いくら、居候だからといってここまでしてもらうのはどうたろうか。


「いいんですよ。私、料理は得意ですから」

「そ、そう?」


 布衣の笑顔にやられ俺は納得するほかなかった。なぜか、断ってしまうと彼女が逆に困ってしまいそうだからだ。

 布衣はお米の入ったお椀と味噌汁を台所からテーブルへと持ってくる。俺の席の目の前に置かれると布衣は来た道を戻っていった。そして、自分の分も手に携えてくると俺と対面側に用意されたおかずの側に置かれた。布衣は纏めていた髪を解くと席を引いて腰を下ろした。

 俺は咳払いを一つする。布衣はどうしたのかと俺の瞳を見つめてきた。


「昨日はいろいろあって忘れてたんだけど……家事についてなんだけどさ」


 昨夜は風呂に入ってご飯を食べた後俺と布衣はすぐに就寝してしまった。お互い疲れもあってすぐに眠りについた。なので、一番最初に話すべきことが後手に回ってしまったのだ。

 昨日までの家事は全て俺がこなしてきた。洗濯から料理、掃除からなにからなにまで。しかし、こうして同居人が増えた。

 家事を当番制にしたほうがなにかと都合もいいだろう。

 俺がそのことを提案しようとすると、先に布衣が話し始める。


「それは、私がやりますよ。家事全般は出来ますから。正確に言えばそれ以外は不得意なんですけどね」

「学校やらで大変でしょ? 無理しないほうが……」

「それを言うなら啓戸さんの方が忙しいんじゃないですか?」


 俺は布衣の言葉で喋ることをやめてしまう。確かに、俺は部活動で多忙だ。出来ることなら家事をやっている時間にいろいろトレーニングはしたい。ここは素直に甘えるべきなのだろうか。俺は思案する。

 布衣に任せたほうが絶対にいいはず。仕方がない。俺は布衣の目を見つめた。


「わかった。でも、布衣は部活動に入ったりしないの?」

「それはないと思います。たぶんですけど。私にもやることがあるので」


 途中から布衣の声のトーンが低くなった。まるで、そのやることに対して意欲がないような。しかし、やることとは一体なんだろうか。勉強とかがセオリーではある。だったら、家事を率先的にやらなくても。

 俺の思考を察知した布衣は大袈裟に手を振り回した。


「か、家事に支障は出ない程度なので問題ないです」


 俺は反撃をしようかと口を開くがすぐに閉じてしまう。もし、自分が布衣の立場だったらどうだろうか。人知れない家に居候。なにか手伝いをしなければ落ち着かないはずだ。それに、相手がやらなくていいと言われても俺だったらやってしまうだろう。

 なにもしないとそこにいるのが辛くなってしまうと思う。なので、ここは布衣の好きにさせてやろう。

 俺はそれ以上なにも言わなくなる。手を合わせて食材に感謝をした後におかずに手をつけた。

 布衣も俺に倣い両手の皺を合わせる。

 味噌汁のお椀を片手で掴んで口の中へ流し込む。味噌の香りが俺の鼻を刺激して暖かい汁が食道を通っていく。

 味は少し濃く俺としては申し分なかった。俺は味噌汁から目線を上げて布衣を確認する。昨日とは打って変わって今日はうちの中等部の制服に身を包んでいる。

 どうやら今日から登校するようだ。俺は気になってしまったので喋りかけることにする。


「今日が登校日なの? 昨日来たばかりなのに?」

「はい。それがどうかしましたか?」


 布衣は持っていたお箸を礼儀正しく置くと俺に視線を合わせた。


「べ、別になんでもないんだけど……な、なんなら一緒に行く?」


 いくら道順を確認したからと言って迷わないと決まったわけではない。それで学校に遅刻してしまっては可哀想だ。ここは俺が案内するべきだろう。

 布衣は周りに花を咲かせて頷いてくれた。


「素敵だと思います」


 細くて長い手を合わせて布衣はあからさまに嬉しそうにする。俺も頬を緩めた。これで断られたら必死だった。

 布衣から目を外して食を進める。

 俺は現在高揚感に満たされつつある。兄弟と一緒に朝登校。夢にまで見た光景。俺の脳内設定だと弟だったがこの際仕方ない。血も繋がっていないが、義理のってことで考えれば悪くはない。なによりこの朝食。

 俺はニコニコしながら朝ごはんを食べている布衣に視線を向ける。

 団欒とはいかないが自分とは違う人間との食卓。これが毎日続く。それだけでも俺は素直にこの少女に感謝したくなった。

 俺は間違いなく寂しがり屋。強がってもそれは変らない。それに今日で確信した。けど、それでいい。

 俺は日が差し込んでいるベランダに顔をやった。生暖かい太陽の光が俺の頬の温度を上げる。


「どうかしたんですか?」

「なんでもないなんでもない」


 俺は誤魔化すようにして苦笑いをする。布衣は小首を傾げてから元に戻った。布衣にばれない程度で安堵の息を吐く。年下の女の子に今のところを悟られたら面が保てない。毎日一人で寂寥感があったなど、小学生かと笑われてしまう。

 彼女なら嘲笑しないかもしれないが引くのは確実だ。なら、隠しておくのに越したことはない。俺は手早く朝食を済ませることにする。


「なんか、いいですね。こうやって二人でご飯を食べるのって」


 唐突の布衣の発言に俺は含んでいた物を噴出しそうになる。俺は素早く飲み物を手にして一気に流し込む。しばらくすると落ち着いたので彼女に視線を合わす。もしかして、俺の内向がばれたのか。それで気を使ってさも自分も同じ事を思っているんで恥ずかしくないですよ、としてくれているに違いない。

 だが、俺の憶測はどうやら外れたようだ。布衣の表情には陰りがあり大きな目も伏目がちになっている。

 踏み込んでいいのだろうか。俺は少々弱気になってしまう。まだ、昨晩出会ったばかりの関係だ。藪をつついてしまっていいのか。

 俺は思案するがこれから先も兄弟としてやっていくなら聞いておくべきだろう。ナーバスな部分かもしれない。だが、仲を深めるといった意味でも大切なはずだ。


「一人で食べてたの?」

「……はい。家族とは時間が全然合わないので」


 布衣は返答に困っていた。しかし、すぐに返事を返してくれた。けれど、おかしくないか。兄がいると言っていたはずだ。なら、一人で食べるよりも二人で食べる機会の方が多い。いくら親が無理だろうと兄がいる。

 どうやら、ここら辺は複雑のようだ。俺は考えをやめることにする。もうちょっとだけ時間が経ってからそこは聞いてみよう。ここから一歩踏み出すのはお互いよくない。

 だからこそ、ここは俺も正直になろう。俺も二人で食卓を囲めることに胸が躍っていると彼女に伝える。ここが最初の一歩。俺と彼女の仲を深める。


「そうか。なら、俺と一緒だね。俺もこうして二人で食べるのが楽しい」

「どうしてですか?」


 布衣は突っ込んでいいのか戸惑っていたが直球を俺にぶつけてくる。


「俺の親って共働きだからさ。こうして誰かと食べるってことがあんまりなくてね」


 俺は苦笑しながら味噌汁を軽く啜る。


「とっても美味しい。味がっていうのもあるけど、一人で食べるのは味気なかったからだと思う。だから、こうして布衣がいることは嬉しいよ」

「本当ですか!」


 布衣は喜んだように席を立った。安心したような顔をしている。頬もほんのりと朱に染めていた。どうやら、ここにいることに対して不安を抱いてたようだ。


「本当。嘘つかないよ」

 

 俺は朗らかな笑顔を作ると布衣は余計に興奮したのか腰の当たりで拳を握り締めた。こうなると年相応の可愛い態度が出来るようだ。俺がぬるい視線を送っていると布衣は恥ずかしくなったのかおとなしく席に座った。


「は、はしたなかったですね」


 さっきとはまた違った顔の染め方をして俯いた。


「私はここにいてもよろしいんでしょうか?」


 敢えてなのか目は下にしたまま布衣は聞いてきた。


「もちろん。歓迎歓迎。恥ずかしいけど俺も年下の妹が出来たのは悪い気はしないし……」


 俺は頬を掻きながら心のうちを曝け出す。そして、二人の間に沈黙が流れた。布衣はもぞもぞして何か言いたげにしているが動きは見せない。俺はこそばゆくなって口を閉ざしている。


「とりあえず! 君はここにいていいから! もう時間もやばいし飯食べようよ」


 俺は空間を断ち切る言葉を発し、勢い良くご飯を食べ始める。布衣は二度ほど瞬きをしてから食事に手をつけた。

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