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畦道の誓い〜陸奥 隠し蔵の生存記〜  作者: 彩色栞彩


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畦道の誓い〜陸奥 隠し蔵の生存記〜

プロローグ

青々と渡る風が、青苗を揺らしていく。

現在の福島県にある、山々に囲まれた小さな農村。

地図の端にひっそりと名を連ねるこの村は、今から三百年以上も昔、江戸の昔から変わらずここに存在している歴史ある地だ。

大学で歴史と史跡を研究している私は、フィールドワークの足を止め、田んぼのへりに佇んでいた。

照りつける陽射しの下、汗を拭いながら慣れた手つきで作業を続けているひとりのご老人に声をかけ、話を伺う機会を得たのだ。


「ああ、この村かい」


腰を伸ばしたご老人は、遠くの山並みに目を細め、静かに語り始めた。


「ここは昔から何度も冷害や不作に見舞われてね。普通なら村ごと潰れていてもおかしくなかった。だが、うちの先祖たちは倒れなかったんだ。今から三百年も昔……極限の不作が続いた時、村人たちが夜な夜な集まって話し合い、生き延びるための『智恵』を生み出したのさ」


ご老人が指さしたのは、田んぼと田んぼを隔てる、青々とした草が茂る一本の「畦道あぜみち」だった。


「お上を欺き、命を繋ぐための知恵……。この畦道と、村の奥にある大きな蔵が、俺たちの先祖の命を救ったんだよ」


ご老人の掠れた声が、風に乗って耳の奥へと染み込んでいく。

私は息をのんだ。歴史の教科書には一行も載っていない、けれど確かにこの土地で繰り広げられた、名もなき民たちの壮絶な生き残りの物語——その記憶の扉が、静かに開かれようとしていた。

第一章 村人達の違和感

五月の晴れ間はどこへやら、照りつけるはずの夏の日差しは薄い雲の向こうに隠れ、うっとうしい肌寒さを含んだ曇天が何日も続いていた。

山から吹き下ろす風はどこか冷たく、青々としているはずの稲の葉を冷たく撫でていく。


「……今年も、ダメかもしれねえな」


ポツリと呟き、辰五郎はぬかるむ泥の中に手をついた。

去年、病で逝った親父から田畑を引き継ぎ、本格的に一人で農作業を始めてからまだ一年。

右も左も手探りのまま、必死で泥にまみれる毎日だ。

だが、この冷たい風と日照り不足はどうにもならない。

このままでは秋の収穫など望むべくもなく、頭に浮かぶのは重くのしかかる「年貢米」の二文字だった。

(今年のお上の取り立ては、容赦がねえはずだ。

この出来でどうやって納めりゃいいんだ……)

額の汗を手ぬぐいで拭いながら、辰五郎は深く頭を抱えた。

独り身の気楽さはあっても、畑の世話から家事、年貢の計算まで、すべて自分ひとりの肩にかかってくる。

相談できる相手もいない重圧が、冷え込む夕風とともに身体にまとわりついていた。

すっかり日が傾き、辺りに夕闇が迫り始めた頃、辰五郎はくわを担いで家路についた。

村のメインストリートとも言える土埃の道を歩いていると、ふと前方で人影が蠢いているのが見えた。

目を凝らす。近所の農民仲間である作造や、隣村から嫁をとったばかりの吉松たちだ。彼らは周囲を気に病むように何度も振り返りながら、足早に歩いている。

彼らが吸い込まれるように入っていったのは、村一番の大農家である「豪農・源右衛門げんえもん」の大きな屋敷の門だった。

(ん……? 何だあいつら、揃って源右衛門さんのところへ……?)

首を傾げる。

いつもなら、村の会合があれば名主から触れ(知らせ)が回ってくるはずだ。

しかし、辰五郎のところには何の知らせも来ていない。 門の向こう、豪農の大きな屋敷の奥で、カタリと重い戸が閉まる音が響いた。


「何かあったのかな……」


ポツリと呟いたものの、聞く相手もいない。

疲れ切った身体を引きずりながら、辰五郎はぽつんと佇む自分のあばら家へと脚を向けた。

土間に鍬を置き、冷めきった泥を洗い流す。

独り身の夜は暗く、静かだ。

けれど、この日辰五郎が覚えた小さな「違和感」こそが、村全体を包む巨大な仕掛けの、最初の破片だった。

翌朝。

薄っすらと朝靄あさもやが立ち込める中、辰五郎は重い腰を上げ、鍬を手に田畑へと向かった。

空は相変わらずどんよりと低く、冷ややかな風が肌を刺す。

昨夜の重苦しい気分のまま足を進めていると、前方から賑やかな声が聞こえてきた。


「おう、辰五郎! おはよう!」

「おはようございます、作造さん」


声をかけてきたのは、昨夜、豪農・源右衛門の屋敷へ足早に入っていった作造だった。 作造だけではない。

後ろから歩いてきた吉松や他の村人たちも、冷夏による不作の影など微塵も感じさせないような、晴れやかな顔をしている。


「今日も精一杯、頑張るか! ワハハハ!」


誰かが威勢よく声を張り上げると、周囲からドッと笑い声が弾けた。

お上への年貢や冷害の心配で頭がいっぱいの辰五郎は、その明るさに気押されながら、


「……はい」


と小さく会釈を返すのが精一杯だった。

(なんなんだ、急に……。昨日までみんな、冷害で青い顔をしてただろ……?)

腑に落ちない思いを抱えたまま、辰五郎は自分の田んぼへと到着した。

脚を止め、隣の作造の田んぼへ何気なく視線を落とした、その時だった。


「……あれ?」


辰五郎は思わず目を細め、泥の境界へと歩み寄った。

作造の田んぼ。

青立ちしそうな稲の根元、そして田と田を隔てる「畦道あぜみち」のふちに、見慣れない小さな緑が並んでいた。

雑草ではない。

雑草ならもっと背が高く、不揃いに生い茂るはずだ。だがその葉は、まるで誰かが意図して等間隔に整列させたかのように、芽を吹き出している。二枚、三枚と丸みを帯びて開いた、青々とした葉――。

(見間違いか……? いや、雑草と明らかに葉の形が違う。稲の周りに、何を植えてんだ……?)

辰五郎は首を傾げ、もう一度作造たちの田んぼを見つめた。

作造はそんな辰五郎の視線に気づいた風もなく、鼻歌交じりで自分の作業に没頭している。

(まさか……昨日の夜、源右衛門さんの屋敷に集まってたのは、このことか?)

胸の奥で、小さな違和感が確かな「疑問」へと変わり始めていた。

辰五郎はハッと正気に戻ると、自分のぬかるんだ田んぼへと視線を戻し、戸惑いを抱えたまま手元の作業へと取りかかった。


第二章 疑念

稲の苗が植え終わり、田んぼ一面に緑が揃い始めた頃。村に重苦しい緊張感が走り抜けた。


「検地(見廻り)だ……」


お上の役人たちが村を巡回する、恒例の行事だ。 冷夏で稲の生育が遅れている今年、役人の目は例年以上に厳しく光っている。

少しでも年貢の誤魔化しや隠し田(隠し畑)の疑いがあれば、村全体がどのような咎めを受けるか分からない。

村の入口から、かみしもを身に纏った役人たちが、険しい目つきで足を踏み入れてくる。

その傍らには、頭を低く下げながら、笑顔を絶やさず付き従う男の姿があった。

村一番の大農家であり、実質的に村を取り仕切る豪農・源右衛門げんえもんだ。


「……お代官様、こちらが村の東側の田でございます。今年は少々風が冷たく、稲の育ちが遅れておりますが、村一同、精一杯励んでおりますれば」


源右衛門は揉み手をしながら、役人の一歩後ろを腰を低くしてついて回る。

その様子を、自分の田んぼから離れた場所で、辰五郎はじっと見つめていた。

(源右衛門さん……いつも以上にお上に平身低頭だな)

役人たちは厳しい視線を田んぼへと注ぎ、時折、手元の帳面(検地帳)と見比べながら何かを書き込んでいる。


(まずいぞ……。作造さんの田んぼの縁、あの雑草とは違う妙な葉っぱを見られたら……!)


辰五郎の背中に冷や汗が流れた。

昨日目撃した、稲の周りや畦道に等間隔で生えていた青々とした葉。もし役人が


「これは何の作物だ」

「年貢の誤魔化しか」


と怪しんだら、村ごとタダでは済まない。

冷や冷やしながら固唾をのんで見守る辰五郎。

やがて役人たちが、あの作造の田んぼの前で足を止めた。

役人のひとりが、畦道の縁を指さし、眉をひそめる。


「ほう……源右衛門。この畦の周りに生えている草は何だ? 随分と青々としているようだが」


辰五郎の心臓がドキンと嫌な音を立てた。

(終わった……バレた……!)

だが、源右衛門は顔色ひとつ変えず、深くお辞儀をしてみせた。


「へい、お代官様。それは『あぜ草』にございます。冷え込みが強い年は、田の土が崩れやすくなります故、土留め(つちどめ)のために根の強い草を生やしておりますので。何しろ米を育てる大切な田でございますから、崩れては大変と、村中で手入れをしておる次第で」

「ふむ……土留めか。ふん、貧弱な稲を守るのに必死というわけか」


役人は蔑むような鼻笑いを残すと、それ以上追求することもなく、あっさりと次の田んぼへと歩き出していった。

源右衛門は


「へへーっ、かたじけなく存じます」


と頭を下げ続け、役人の背中を見送る。

(あ、あぜ草……!? 土留め……!?)

物陰で見ていた辰五郎は、開いた口が塞がらなかった。

どう見てもただの雑草ではない。だが源右衛門は、圧倒的な

「お上への平身低頭」と「もっともらしい言い訳」


で、完璧に役人の目を逸らしてみせたのだ。

(やっぱり、あの葉っぱには何かある……! 源右衛門さんも、作造さんも、村のやつら全員で何か隠してるんだ!)

役人たちが通り過ぎていく後ろ姿を見送りながら、辰五郎の胸の中の「疑念」は、もはや確信へと変わっていた。

役人たちの足音が遠ざかり、源右衛門が頭を下げながらその後を追っていく。

辰五郎が「助かった……」と安堵の息を吐き出すと同時に、その胸には強烈な不気味さとモヤモヤとした疑問が渦巻いていた。

あぜ草、土留め――。 源右衛門のあのしれっとした態度と、役人を丸め込んだ見事な口八丁。

あの葉っぱの正体を、村の大人たちは皆知っていて、自分だけが知らされていない。

(やっぱり、何かある……絶対におかしい……)

呆然と田んぼを見つめていた、その時だった。


「――辰五郎」


背後から低く、掠れた声が聞こえ、辰五郎はビクッと肩を跳ねさせた。

振り返ると、いつの間にかすぐ後ろに吉松が立っていた。吉松は昨日、豪農の屋敷へ入っていくのを見かけた村人のひとりだ。

吉松は役人たちが去っていった方向をチラリと目で確認すると、周囲に誰もいないことを確かめ、辰五郎の耳元へ顔を寄せた。


「今夜、俺の家に寄って行け。……出来れば、日が暮れる前にだ」

「えっ……吉松さん、それって――」


理由を問いただそうと辰五郎が口を開かけた瞬間、吉松は人差し指を唇に当てて制した。

そして何事もなかったかのようにくるりと背を向けると、


「やれやれ、今日も精が出るなあ!」


とわざとらしい大きな声を張り上げ、自分の田んぼへとそそくさと戻っていった。

何食わぬ顔で鍬を振るい始める吉松の背中を、辰五郎は呆然と見送るしかなかった。

(日が暮れる前……吉松さんの家……)

辰五郎は手元の鍬を握り直し、もう一度、作造の田んぼの畦道にある小さな緑の芽へと視線を落とした。

(あの草と……関係があるのかな……)

ぽつりと呟いた声は、冷たい夕風にかき消されていった。 心臓が嫌な音を立てて早打ちしている。

親父が逝ってから一人で踏ん張ってきたこの村で、自分はいったい、何の中に踏み込もうとしているのか。

不安と期待、そしてぬぐいきれない「疑念」を胸に抱えたまま、辰五郎は沈みかける陽の光の下で、手元を濡らす作業を静かに続けた。


第三章 共有

西の山並みに陽が沈みかけ、空が薄紫から濃い紺色へと染まり始める頃。

ぬかるむ田んぼの中で黙々と鍬を振るっていた辰五郎の元へ、遠くから威勢のいい声が飛んできた。


「お〜い! 辰五郎! 今日はそろそろ上がるぞ! 支度は終わってんだろうな!?」


見やれば、あぜ道に立った吉松が、手ぬぐいで汗を拭いながらこちらへ手を振っている。

昼間のコソコソとした雰囲気とは打って変わり、いつもの親しみやすい笑顔だ。

辰五郎が手を止めて呆然としていると、すぐ隣の田んぼから作造が顔を上げ、可笑しそうに声をひそめた。


「ほら、はよ行かんと、吉松のやつが絡み始めるぞ。あいつは一度喋りだすと長えからな」

「っ……あ、はい! 今行きます!」


作造の言葉に背中を押され、辰五郎はハッと正気に戻った。大急ぎで道具を整え、泥を拭う。


「作造さん、お先に失礼します! また明日!」

「おう、気をつけてな」


作造に見送られ、辰五郎はぬかるみに足を取られそうになりながら、足早に吉松の待つあぜ道へと駆け寄った。


「待たせたな、辰五郎。……よし、行くぞ」


吉松は辰五郎の肩をポンと叩くと、周囲を気に病む風もなく、しかし足取りは確かな速さで歩き出した。

(吉松さんの家で、何が待ってるんだ……?)

夕闇が静かに村を包み込んでいく。

ドクドクと高鳴る胸の鼓動を抑えながら、辰五郎は吉松の後ろ姿をぴったりと追いかけた。

薄暗くなり始めた村道を、吉松と並んで歩く。


「辰五郎、お前もそろそろ嫁さんを貰わなきゃなぁ。一人じゃ身も心もしんどいだろ」 「……まだ無理ですよ。今年のこの冷え込みじゃ米も期待できないし、年貢のことを考えると自分の食い扶持だけで精一杯です」


辰五郎が項垂れて溜息をつくと、吉松は


「まあ、そう焦るな」


と軽やかに笑った。


「ほら、家が見えてきたぞ」


吉松の家が近づいてきた。

だが、辰五郎はふと足を止めた。

(あれ……? 生垣なんて、前にあったか……?)

以前は道路から敷地が丸見えだったはずの吉松の家の周りに、人の背丈ほどの青々とした生垣いけがきがぐるりと張り巡らされていた。

見慣れぬ光景に首を傾げていると、吉松は


「お〜い、帰ったぞ」


と声をかけながら、生垣のわずかな隙間をくぐって内側へと入っていく。

辰五郎も戸惑いながらそのあとに続いた。

そして、生垣の内側に足を踏み入れた瞬間――辰五郎は思わず息をのんだ。


「えっ……野菜……!?」


そこには、道路からは絶対に伺い知れない広さの敷地に、青々とした野菜がびっしりと青苗を伸ばしていた。

大豆だけではない。

茄子や大根、甘藷さつまいもと思われる葉が、綺麗に整列して力強く育っている。

驚く辰五郎を見て、吉松はニッと口角を上げた。


「あぁ。自分たちで食べる分を、こうして作ってるのさ。これも全部、源右衛門さんの知恵だよ」

「源右衛門さんの……!?」

「あんた、お帰りなさい」


戸が開く音とともに、家の中から女性が顔を出した。

吉松の嫁だ。そのお腹はぽっこりと大きく膨らんでいる。


「辰五郎さん、いらっしゃい。上がってちょうだい」

「あ、はい……お邪魔します……」


ペコリと頭を下げながら、辰五郎は吉松の嫁の顔をまじまじと見つめてしまった。

冷夏で米が危うく、村中が年貢の心配で顔を青くしているはずのこの時期に、身重であるはずの彼女の肌はつやつやとしていて、驚くほど血色が良かったのだ。

(えっ……これだけ米の収穫量が減って、年貢がキツい時期なのに……なんでこんなに顔色がいいんだ? もしかして、この庭の野菜のおかげ……?)

顔に出ていたのだろう。

吉松は自慢気に胸を張り、辰五郎の肩をポンと叩いた。


「驚いたろ? 家ごとに作る野菜をあらかじめ決めておいてな、収穫したら村中で交換し合ってるんだよ。だからうちだけじゃなく、村の連中はみんな栄養がついて元気なんだ」

「村中で……野菜を、交換……!?」


辰五郎の頭の中で、バラバラだったピースが一気に繋がっていく。

あの村人たちの


「不自然な明るさ」


あぜ道に植えられた


「謎の芽」


そして、源右衛門の屋敷に夜な夜な集まる村人たち――。

お上に納める「米」は冷害で全滅寸前かもしれない。 だが、この村の人々は、お上の見えぬ「生垣の内側」と「あぜ道」で、自分たちの命を繋ぐための**完璧な王国システム**を作り上げていたのだ。


第四章 謝罪

「さあ、上がってくれ」


吉松に促され、敷居を跨いで土間から板の間へと上がった。

次の瞬間――吉松は囲炉裏の前にドサリと膝をつくと、そのまま畳に深く額を擦りつけた。


「えっ……!? よ、吉松さん!?」


不意を突かれた辰五郎は、叫ぶように声を裏返した。

吉松の嫁もまた、大きな腹を抱えながら、静かに脇で頭を下げている。


「すまねぇ……! すまねぇ、辰五郎……っ!!」


頭を擦りつけたまま、吉松の声が激しく震えていた。


「お前が親父さんを亡くして、一人でぬかるみの中でもがいて、年貢の重さに苦しんでいるのを……俺たちは、ずっと知っていた。知っていて……ずっと見て見ぬふりをしていたんだ!」

「な、何を言ってるんですか! 頭を上げてください、吉松さん!」


動転した辰五郎が手を伸ばそうとすると、吉松は泥で汚れた顔を上げ、涙の浮かんだ目で辰五郎をまっすぐに見つめた。


「実はな……この『裏の仕掛け』の案は、お前さんの親父さんにも真っ先に話していたんだ。『一緒にやろう、村全員で生き残ろう』ってな。……だが、親父さんは首を縦に振ってくれなかった」

「親父が……?」

「おふくろさんが亡くなった直後だったからな……。親父さんは『万が一お上にバレて村に迷惑がかかったら、残された辰五郎に顔向けができん』って……頑なに断られたんだ。……すまねぇ。あの時、俺たちがもっと強引に説得していれば、親父さんをあんなに衰弱させて死なせずに済んだかもしれない。……後悔してもしきれねぇんだ」


胸を突かれた。

いつも一人で黙々と畑に向かい、最後は病で倒れた頑固な親父の背中が、脳裏に鮮やかによみがえる。

親父は、あえてこの

「危険な知恵」から自分遠ざけ、命がけで自分を守ろうとしてくれていたのだ。

辰五郎は深く息を吐き出すと、膝を折り、吉松の手をそっと握り返した。


「吉松さん……それは、父自身が自分で決めた判断です。吉松さんや村の皆さんのせいじゃありません。どうか、お気になさらずに」

「辰五郎……」


吉松は鼻をすすり、ギュッと辰五郎の手を握り返した。


「親父さんのことがあったからこそ……俺たちは、お前さんが一人で頑張る姿を、ずっと遠巻きに見守るしか出来なかったんだ。『親父さんと同じ轍を踏ませたくねぇ』ってな。……辰五郎。お前の気持ちを聞かせてくれ。俺たちの組に、入ってくれるか?」


吉松のまっすぐな眼差し。

生垣の内側の青々とした野菜。

身重の嫁さんの血色の良い笑顔。そして、田んぼのあぜ道に植えられた青々とした芽――。

すべてが一本の線で繋がった。

村人たちは自分を排除していたのではない。

自分を守り、そして温かく迎えるための「とき」を待っていてくれたのだ。

辰五郎の胸の奥から、熱いものがこみ上げてきた。


「……よろしくお願いします! 俺にできることなら、何でもやらせてください!」


深く頭を下げた辰五郎の背中を、吉松は泣き笑いのような顔で、力強くバシッと叩いた。


「お話は終わったかい? さ、晩御飯にしようね」


奥さんが奥から大きな土鍋を運んでこようとした、その瞬間――吉松が弾かれたように立ち上がった。


「言えよ! お前は身重なんだから無茶しちゃだめだって言ってるだろ!」


吉松は慌てて奥さんから鍋をひったくるように受け取ると、囲炉裏の真ん中へ大事そうに腰を下ろした。

奥さんは


「ふふ、大丈夫ですよ」


と可笑しそうに目を細めている。


「さあ辰五郎、食おうぜ」


吉松が土鍋の重い蓋を開けると、ふわりと香ばしい出汁の湯気が立ち上り、狭い室内いっぱいに広がった。

鍋の中には、旨味をしっかり吸った切り干し大根に、肉厚な干し椎茸、そして生垣の内側で採れたばかりの青々とした季節の野菜が、たっぷりと煮込まれていた。

(ご、ご馳走だ……。こんなに豊かな飯、一体いつ以来だろう……)

立ち上る匂いだけで、辰五郎の腹がグゥと鳴り、思わずゴクリと生唾を飲み込んだ。

親父が死んでからというもの、冷や飯と薄い塩汁だけで飢えを凌いできた身体に、その湯気は毒なほど魅惑的だった。

その様子をじっと見ていた吉松夫婦は、顔を見合わせるとドッと大笑いした。


「ハハハ! 遠慮すんな、辰五郎! 腹いっぱい食え!」 「そうですよ。村の連中はみんな、毎晩このくらいは食べて力を蓄えているんですから。さあ、冷めないうちに」

「……はい! いただきます!」


辰五郎は差し出された椀を両手で受け取ると、熱々の煮物を口へと運んだ。

出汁の染み込んだ椎茸と大根の甘みが、口いっぱいに広がる。噛みしめるたびに、体の芯からじわじわと温かさが広がっていった。


「うまい……うまいです、吉松さん……っ」

「だろ? これも全部、干して蓄えておいたお陰さ。米だけが食い物じゃねえんだよ」


豪快に笑う吉松と、優しく微笑む奥さん。

囲炉裏の火がパチパチと薪をはぜさせ、三人の影を温かく照らし出していた。

孤独だった辰五郎の夜に、久しぶりに本当の「ぬくもり」が戻ってきた瞬間だった。


第五章 組み

翌朝。 村全体を白い朝靄あさもやが静かに包み込み、冷え冷えとした空気が肌を刺す中、辰五郎はぬかるむ土を踏みしめて自分の田んぼへと向かっていた。

昨日までの孤独な重圧は、もう胸の中にはない。

吉松の家で味わった温かい料理の味と、村の大人たちの不器用な情けが、辰五郎の腹の底にどっしりと確かな力を与えていた。


「辰五郎、おはよう」


靄の向こうから現れたのは、作造だった。


「おはようございます、作造さん」


辰五郎がいつものように会釈を返すと、作造は周囲をサッと見渡し、声のトーンを落としてすっと辰五郎のすぐ側まで寄ってきた。


「吉松からは、話は聞いたな?」

「……はい。全部聞きました」


まっすぐに見つめ返して応えると、作造は険しかった表情を少しだけ緩め、深く頷いた。


「そうか。……なら話は早い。今日も作業は早めに切り上げろ。今夜は源右衛門さんの屋敷に行くから、そのつもりでな」

「源右衛門さんの……はい!」

「よし」


作造はそれだけ告げると、辰五郎の肩を一度強くポンと叩き、何事もなかったかのように朝靄の奥へと消えていった。

他の村人たちへ合図を出しに向かうその背中は、単なる一農民のそれではなく、極秘の任務を帯びた組織の者のように頼もしく見えた。

(いよいよ、源右衛門さんのところへ……!)

辰五郎はグッと拳を握りしめた。

あの第一章で、自分だけが仲間外れのように見送っていた「大農家の屋敷」。今夜、ついにその門をくぐり、村の真の核心へと踏み込むのだ。

冷たい風が吹き抜ける田んぼで、辰五郎は力強く鍬を持ち直すと、これまでになく晴れやかな気持ちで目の前の作業へと取りかかった。

日がいよいよ傾き、山影が田んぼを黒く飲み込み始めた頃。


「お〜い、辰五郎! 今日は早いが上がるぞ!」


作造の太い声が静かな田んぼに響いた。


「はい! 今行きます!」


辰五郎は手早く道具を洗い、土を払うと、足早で作造の元へと駆け寄った。

作造と顔を見合わせ、軽く頷き合う。二人は言葉少なに村道を歩き出した。

しばらく歩くと、朝靄の向こうに重厚な佇まいの屋敷が見えてきた。

村一番の資産家、源右衛門の屋敷だ。

敷地は壁のように高い生垣で覆われ、その奥には白壁の大きな蔵が三つも立ち並んでいる。

村の誰もが立ち塞がるようなその大きさに威容を感じる場所だった。

作造は生垣のわずかな隙間に近寄ると、中へ向かって声を張った。


「源右衛門さん、辰五郎を連れてきたぞ」

「おぅ、入ってくれ」


生垣の内側から低く太い声が返ってきた。

敷居を跨いで一歩中へ踏み込んだ瞬間、辰五郎は息をのんだ。

生垣の外からは想像もつかない光景が広がっていた。

広い敷地の中で、今日の田んぼ作業で見かけなかった村人たちが十数人も集まり、黙々と、しかし手際よく忙しそうに作業に没頭しているのだ。大きな木桶を運ぶ者、何かを叩いて粉砕している者、乾燥させた草や実を選別している者――。


「お、辰五郎。久しぶりだな、入れ」


源右衛門が腕を組み、のっしのっしと歩み寄ってきた。威厳あるその姿に辰五郎が姿勢を正すと、源右衛門は作造へ視線を向けた。


「作造、ありがとうな。手が空いているなら、あっちの作業を手伝ってやってくれるか?」

「あぁ、わかった。源右衛門さん、辰五郎を頼むな」

「おぅ」


と短く返事をした作造は、手慣れた足取りで作業中の村人たちの輪へと加わっていった。

源右衛門はゆっくりと辰五郎に向き直った。

そして、深く息を吐くと――不意にその大きな身体を折り曲げ、深々と頭を下げた。


「まず先に……辰五郎、すまない。今まで、お前さんに何も伝えてやれなくてな」

「げ、源右衛門さん!? 頭を上げてください!」


村で最も尊敬される頭領からの突然の謝罪に、辰五郎は慌てて手を振った。


「俺は大丈夫です! それよりも源右衛門さん……ここで一体、何が起きているんですか!?」


ぐるりと見回す辰五郎の表情には、恐怖ではなく、純粋な驚きと問いかけの色があった。

源右衛門はゆっくりと顔を上げると、力強い眼差しで辰五郎を見つめ返し、ニッと口角を上げた。


「……話すより、見せた方が早いな。まずは、蔵からだ。付いてこい」

「はい!」


源右衛門の太い背中に続き、辰五郎は重厚な白壁の蔵へと足を進めた。

村の運命を握る

「巨大な秘密」の扉が、今、目の前で開かれようとしていた。


第六章 秘密

「入れ」


源右衛門が重厚な蔵の木戸のかんぬきを外し、ギギギ……と鈍い音を立てて扉を開いた。

一歩足を踏み入れると、蔵の中はひんやりとした空気に包まれており、香ばしい穀物の匂いが立ち込めていた。

辰五郎が目を凝らすと、そこには天井近くまでうずたかく積み上げられた無数の

たわら」があった。

「源右衛門さん……これは、去年の米俵ですか?」

「ふっ、見た目はな」


源右衛門はニヤリと不敵に笑うと、積み上がった俵の一つをぽんと叩いた。


「この俵の中に詰まってるのは、米じゃねえ。……麦、大豆、そして蕎麦の実だ」

「なっ……! 俵の中身が、全部……!?」

「そうだ。万が一お上の役人


がガサ入れに来ても、パッと見は年貢や自家用の『古米の俵』にしか見えねぇだろ。

だが中身は、冷夏でも確実に実る俺たちの命綱さ。

……奥にあるのは、他所から買い付けて隠しておいた品々だ」

(俵を使って、中身を丸ごとすり替えているのか……!)

役人の目を欺く徹底したトリックに、辰五郎は開いた口が塞がらなかった。


「一番目の蔵は、こんなものだ。次へ行くぞ」


源右衛門に促され、二番目の蔵へと向かう。

だが、辰五郎はふと首を傾げた。その蔵はなぜか、重厚な扉が「開けっ放し」にされていたのだ。

(えっ……? なんで扉が開いてるんだ? 隠し蔵なのに……?)


「フフ、不思議そうな顔だな」


源右衛門が先立って中へと入る。

辰五郎も恐る恐る足を踏み入れた。

あえて扉を開けておくことで、


「ここには隠し事などありません」


とお上に思わせる逆手を取った心理戦。

だが、蔵の内部をよく見ると、壁際に無数の頑丈な「木の小箱」が巧みに組み込まれ、棚のように隙間なく収められていた。

さらにその奧、暗がりの奥へと視線を向けると、そこでは数人の村人が静かに作業をしていた。


「これは……乾物……!?」


小箱の奥の広々としたスペースには、吊るされた切り干し大根や干し椎茸、干し野菜、そして乾燥させた大豆やトウモロコシが整然と並べられ、大量の加工保存食が運び込まれていたのだ。


「見せる蔵」のその奥で、着々と進められる


「村全員の生き残り食料」の蓄え。

辰五郎の全身に、ゾクゾクとした鳥肌が立ち走った。


「さて……最後の蔵だが」


源右衛門はそう言うと、一番奥にある三つ目の蔵へと足を向けた。

二番目の蔵と同じく、この蔵の重厚な扉もまた、あけっぴろげに開け放たれたままだ。

(最後のも……見せる蔵なのか?)

辰五郎が不思議に思いながら近づいた、その時だった。 鼻腔をくすぐったのは、ずっしりと香ばしい、濃厚な

「味噌」の匂いだった。


「これは……味噌の匂い……?」


吸い寄せられるように蔵の中を確かめに行くと、そこには人の背丈ほどもある巨大な木樽が、幾重にも整然と立ち並んでいた。


「ここは、味噌と醤油を仕込んである蔵だ」


源右衛門は大きな樽のひとつを愛おしそうに撫で、辰五郎を振り返った。

その眼差しには、村の頭領としての強い誇りと温かみが宿っていた。


「言っておくがな、辰五郎。この三つの蔵にあるものはすべて、村『みんな』の財産だ。どんな激しい冷害が来ようが、お上がどれほど厳しく取り立てようが……何かあったら、ここから食べ物を出す。だから、お前ももう何も心配すんじゃねえ。安心してついてこい」

「源右衛門さん……」


胸の奥が熱くなり、視界がじんわりと滲んだ。

自分は一人ではなかった。命がけでこの村を守り、互いを支え合う頑丈な「絆」の真ん中に、自分は今立っているのだ。


「はい……! ありがとうございます!」


しっかりと頷く辰五郎を見て、源右衛門は満足そうに口角を上げると、ぽんと辰五郎の肩に大きな手を置いた。


「よし。それで辰五郎、お前さんにはまず、第一にやってほしい仕事がある」

「俺に、ですか? 何でしょうか!」


身を乗り出す辰五郎に、源右衛門はニヤリと笑ってみせた。


「帳面の管理から、覚えろ。いいな?」

「えっ……帳面、ですか……!?」


思いがけない言葉に辰五郎は目を丸くした。

力仕事や泥まみれの作業を想像していたからだ。


「そうだ。三つの蔵の備蓄、各家から集める大豆や野菜の量、そしてお上に提出する偽りの帳面と、村の本当の帳面……。これらを正確に管理できる人間が必要なんだ。お前の親父さんは文字と計算が得意だった。その血を引くお前なら、間違いなく務まる」


親父の面影を重ねる源右衛門の言葉に、辰五郎はハッと胸を突かれた。

親父が遺してくれたのは、田んぼだけではなかったのだ。

辰五郎は深く息を吸い込むと、力強く顔を上げた。


「帳面管理……やってみます! 俺に任せてください!」

「おう、頼んだぞ!」


源右衛門の豪快な笑い声が、味噌の香る蔵の中に力強く響き渡った。


第七章 一丸

蔵の明かりの下で、辰五郎が厚い帳面に筆を走らせるようになってから、しばらくの時が流れた。

親父譲りの生真面目さと筋の良さもあり、辰五郎は複雑な村の収支や備蓄の数字をみるみると飲み込んでいった。だが、数字を追う中で、どうしても首を傾げたくなる項目に行き当たった。

「あの……源右衛門さん。ちょっといいですか?」

傍らでキセルを燻らせていた源右衛門が「ん? どうした」と顔を上げる。辰五郎は帳面の一箇所を指さした。

「この帳面に『貸付』と書かれている項目がいくつかあるんですが……これは何ですか?」

「あぁ、それか」

源右衛門は煙を吐き出し、ニヤリと不敵に笑った。

「武家様やら、町の大棚の商人どもへの『つけ(ツケ)』のことだ」

「つけ、ですか……? なぜ『貸付』なんて書くんです?」

「『つけ』なんて正直に書いみろ。万が一、お上の検地や役人に帳面を見られた時、あのプライドの高いお侍様や大商人の顔を潰すことになるだろ? 恥をかかされた相手は意地でも金を払わなくなって、下手すりゃ全額取りっぱぐれる。だが『お貸ししている金』としておけば、向こうも顔が立ち、こっちも胸を張って回収できる。その予防策さ」

(そこまで計算して帳面をつけているのか……!)

お上の目だけでなく、権力者たちの「面目」までコントロールする源右衛門の老獪な知恵に、辰五郎は改めて舌を巻いた。

「なるほど……勉強になります」

感心する辰五郎を見て、源右衛門は満足そうに頷くと、ポンと膝を叩いた。

「よし、帳面も慣れてきたことだし……辰五郎、お前も自分の家の周りに『生垣』を作り始めろ」

「生垣、ですか?」

「そうだ。吉松の家でみただろ? ある程度生垣が育って外からの目が遮られたら、内側で野菜を作る。……そして野菜が採れるようになったら、次は『嫁さん』だな!」

「えっ……! 嫁、ですか!?」

突然の言葉に辰五郎が赤面して狼狽えると、源右衛門は腹を抱えて「ガハハハ!」と豪快に大笑いした。

「ハハハ! 男一人じゃ食いぶちは繋げても、村の未来は繋げねぇからな! ……それとな、あぜ道に植えてある野菜は主に『大豆類』だ。土を肥やすし、保存も効く。その育て方は田んぼ作業のついでに作造たちから習え、いいな?」

「はい! わかりました!」

「……それと、これだけは絶対に忘れるなよ」

源右衛門の顔からふっと笑みが消え、急に鋭い眼差しになった。その重いトーンに、辰五郎も思わず背筋を伸ばす。

「間違っても、山の中に隠し田んぼや隠し畑を作るんじゃないぞ」

「山の中に……ですか?」

「そうだ。素人はすぐ『山奥ならバレない』と思いがちだが、山狩りや役人の見廻りであんなものは必ず見つかる。山の中に隠し田畑を作ってバレたら、上から見せしめに首を跳ねられる。そうなったら、俺たちも庇いきれねぇ」

源右衛門の言葉には、過去にそうやって命を落とした者を見てきたかのような、重くリアルな真実味がこもっていた。

「……はい。肝に銘じます」

「よし。お前ももう、立派な俺たちの『組』の人間だ。村一丸となって、この冷夏を乗り切るぞ!」

「はい!」

源右衛門の力強い言葉に、辰五郎は深く深く頷いた。


第八章 実り

季節は巡り、澄み渡る秋空の下を赤とんぼが気持ちよさそうに舞っていた。

田んぼ一面に広がる黄色い稲穂を、鎌で一束一束、刈り取っていく。

冷害が危ぶまれた今年だったが、村中の手入れと知恵が実を結び、田んぼには立派な新米が実っていた。


「……ふぅ。今年はなんとか、年貢を納められそうですね」


汗を拭いながら辰五郎が息をつくと、隣で同じように稲を束ねていた作造と吉松が顔を見合わせ、晴れやかな笑顔を浮かべた。


「良かったな、辰五郎。何とかなったな!」

「あぁ。これで今年もお上の目を突っぱねることができるぞ」


そう言いながら吉松が視線を落としたあぜ道には、すでに大豆の収穫を終え、次の「麦」を植え付けるための土造りが整えられていた。

お代官が年貢を取りに来るまでのこの時期こそが、次の収穫に向けた大切な下準備期間なのだ。

お上の前では


「ギリギリ年貢を納められた貧しい村」


を演じつつ、その裏では着々と来年への備蓄を進めていく。

すると、作造が思い出しかのように膝を打ち、意地悪くニヤニヤと笑い始めた。


「あっ、そう言えば辰五郎! 源右衛門さんがな、『隣村のべっぴんさんを辰五郎の嫁さんに決めた』って、屋敷で大騒ぎしていたぞ。良かったなぁ!」

「えっ……! べ、べっぴんさん!?」


不意を突かれた辰五郎は、手に持っていた鎌を落としそうになりながら叫んだ。


「一昨日に源右衛門さんと会った時には、そんなこと一言も言ってなかったのに……!」


狼狽える辰五郎の姿に、吉松も腹を抱えて大笑いした。


「ハハハ! あの源右衛門さんが思い立ったら早いのは知ってるだろ! 『辰五郎にええ嫁をもらって、早く賑やかにしてやらんと親父さんに叱られる』って意気込んでたぞ。……それとな、嫁さんを迎えるために、お前の家を少し改築する手筈ももう整ってるからな!」

「家の改築まで……!?」

「おうよ! 村の若いのが集まって一気に柱を立て直す予定だ。辰五郎、今年の冬は忙しくなるぞ〜!」


作造と吉松は楽しそうに肩を叩き合い、からかうように笑い出した。


「もう……みんな仕事が早すぎますよ……」


辰五郎は頭を掻きながら苦笑いした。

だが、その胸の奥には、じんわりと温かく大きな感謝が広がっていた。

見上げる秋空はどこまでも青く澄み渡り、心地よい秋風が三人の立つ田んぼを優しく吹き抜けていった。


最終章 明日へ

秋が深まり、冷たい風が村を吹き抜ける頃、村の入り口に殺気立った一団が現れた。

お代官と役人たちによる、年に一度の「年貢回収」である。


「うむ……全額、確かに受領した」


帳面と俵を厳しく改めた代官がぽつりと呟いた瞬間、源右衛門は


「ははっ! 誠に恐縮に存じます!」


と深く頭を下げた。

作造も吉松も、そして帳面を差し出した辰五郎も、貧しい農民の顔をつくって平伏している。

(まさか俺たちが、畦道畑ゆや生垣の裏の畑までは、わかるまい)

役人たちが無数の俵を馬車に積み込み、満足そうに村を去っていく。

その背中が完全に小さくなった瞬間、村人たちは顔を見合わせ、殺伐とした緊張感は一転して一斉に「勝った!」という歓喜へと変わった。


「よし! 今年の化かし合いも、俺たちの勝ちだ!」


源右衛門の声に、村中から大きな歓声が上がった。

それから数日後。

役人を首尾よく追い払った村は、祝福の熱気に包まれていた。

村人たちが総出で改築してくれた辰五郎の家には、新しい木材の匂いが清々しく立ち込めていた。

その綺麗な畳の上に、朱色の角樽つのだると、三つの蔵から出された秘蔵の味噌と乾物で作られた豪華なご馳走が並べられている。


「辰五郎、おめでとう!」 「綺麗なお嫁さんだなぁ、辰五郎には勿体ないくらいだぞ!」


作造や吉松たちが大盃を酌み交わしながら大笑いしている。

隣に座る隣村から来た嫁――しずは、少し恥ずかしそうに頬を赤らめながら、辰五郎へ優しく微笑みかけた。


「辰五郎さん、これからよろしくお願いしますね」

「あ、はい……! こちらこそ、よろしくお願いします……!」


赤面する辰五郎の姿に、囲炉裏を挟んで座っていた源右衛門が「ガハハ!」と豪快に胸を叩いた。


「どうだ、辰五郎! 親父さんにも見せてやりたかったなぁ!」


源右衛門の言葉に、辰五郎は胸が熱くなった。

かつて自分一人で冷や飯を食い、孤独と年貢の重さに潰されそうになっていたあの夜が、まるで遠い昔のようだ。

自分には、こんなにも頼もしく温かい「家族(村)」がいる。


「……源右衛門さん、作造さん、吉松さん。みんな……本当に、ありがとうございました」

辰五郎が深く頭を下げると、吉松が「何言ってんだ、俺たちは家族だろ」


と笑って肩を組んできた。

夜が深まっても、辰五郎の家からは楽しげな笑い声とうたいがいつまでも途切れずに響いていた。

あぜ道に力強く芽吹くあの青い豆のように、この村の命と絆は、どんな厳しい冬が来ようとも絶えることなく、明日へと繋がっていくのだった。


エピローグ 現代へ

「――おい、大丈夫か? 朝だぞ」


肩を揺すられ、はっと目を覚ました。

まぶしい陽光が目に入る。鳥のさえずりと、遠くを走る車のエンジン音。

跳び起きてあたりを見回すと、そこは江戸時代の農村でも、改築したばかりの我が家でもなく、大学の農学部実験圃場ほじょうのあぜ道だった。


「なんだ辰樹たつき、こんなところで寝てたのか? 論文の準備で疲れてんのはわかるけどさ」


ゼミの同期が可笑しそうに笑いながら、缶コーヒーを差し出してくる。

(夢……だったのか……?)

手のひらを見る。

泥で汚れてもいないし、鎌を握り続けたマメもない。

自分はごく普通の現代の大学生だ。

だが、あの囲炉裏の暖かさも。

吉松さんの豪快な笑い声も、作造さんの軽妙ないじりも。 源右衛門さんが語った生き残りのための知恵と、三つの蔵の味噌の匂いも。

そして、自分を愛おしそうに見つめてくれた静の温もりも――。

すべてが、夢で片付けるにはあまりにも鮮烈に、胸の奥で熱く脈打っていた。


「……あぜ豆だ」


ぽつりと呟き、立ち上がった足元を見る。

そこには、自分たちが実験用に植えた現代の「大豆」の青々とした芽が、朝露を弾いて力強く伸びていた。

お上の目を欺き、どんな冷害や過酷な時代も、村一丸となって命を繋ぎ切ったあの人々。

あの知恵と絆の歴史があったからこそ、今、自分たちはこうして生きているのだ。


「どうしたんだよ急に? ほうけてないで講義行くぞー」

「あぁ……今行く」


差し出された缶コーヒーを受け取り、一口飲む。

甘苦い液体が喉を通ると同時に、辰樹は青空を仰ぎ、胸の中で静かに微笑んだ。

(源右衛門さん、作造さん、吉松さん……静。俺、こっちでちゃんと生きていくよ)

風が通り抜け、あぜ道の青い葉がサササと音を立てて揺れた。 まるで、遠い時代からの温かい歓声が、今も背中を押してくれているかのように。

(完)




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