第九話 終わりのはずだった夜
第九話をお届けします。
少し間が空いてしまいましたが、読んでくださりありがとうございます。
近いうちにまた更新できると思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
太鼓の後について、俺はスタッフ用の更衣室に入った。
思っていたよりも整っていて、変に生活感はなかった。
「もっと散らかってるかと思った」
何気なくそう言うと、太鼓はロッカーを開けながら肩をすくめた。
「ここに住んでるわけじゃないですからね。来て、働いて、帰るだけです」
声が少し小さくなる。
どうやら何かを探しているらしい。
「そういえばさ。予備の靴ってあるのか? なんかいつも同じの履いてる気がして」
中を覗こうとすると、太鼓は笑って振り向いた。
「ちゃんと替えてますよ。ほら」
差し出されたのは――
家用のスリッパだった。
俺はそれと太鼓を交互に見る。
「……冗談?」
「他にはないです。でも、きれいですよ。昨日洗いました」
さらりと言う。
反射的に文句を言いかけたが、飲み込んだ。
清潔。それだけで十分ありがたい状況だった。
それに、今日一日を思えば、味方がいるだけで救いだった。
「……ありがとう。助かった」
太鼓は苦笑した。
「泣かないでくださいよ。取り上げますよ?」
俺は慌ててスリッパを引き寄せる。
「それは困る」
スリッパを履いたまま、俺たちはホールに戻った。
太鼓はレジへ。さっきまで立っていた同年代くらいの女性と交代する。
彼女と目が合ったが、すぐ逸らされた。
考えるのはやめておく。
テーブルの中央には会計伝票が置かれていた。
全員、静かにそれを見ている。
俺が席に戻り、口を開きかけた瞬間。
「均等ではなく、各自で払いましょう」
相沢さんが落ち着いた声で言った。
視線が一瞬、俺に向く。
特に意味はないのだろう。
俺は何も言わず頷いた。
会計は少し時間がかかった。
一人ずつ支払うたびに、レジの電子音が静かに響く。
その間に、俺は気づいた。
慶子の財布の中身が足りないことに。
相沢さんは何も言わず、自然な動作で不足分を支払った。
それはほんの小さな出来事だった。
けれど、なぜか妙に印象に残った。
店を出ると、夜の空気が少し冷たかった。
「日向さん、また明日」
水月が声をかける。
「……ああ、明日」
本当は、そのまま消えたかった。
二人とは、もう会わないかもしれない。
残りの三人とは、明日また顔を合わせる。
だから別れの言葉も曖昧でいい。
駅に着くころには、足元のスリッパから冷えが伝わってきた。
ホームの照明は白く、どこか現実味がない。
スマホを見る。
睡眠時間は、四時間あるかどうか。
「もう終わってくれ……」
小さく呟いたその時、肘が軽く当たった。
振り向かない。
両側から、香水と若い石鹸の匂いが漂う。
背筋がわずかに強張る。
「一緒にいて、楽しくなかったですか?」
右から相沢さんの声。
「このままだと、金曜の集まりにも来てくれなさそうですね」
彼女の隣に水月とオサム。
左側に慶子。
「ちゃんとお礼を言えてなかったので……ありがとうございました、日向さん」
慶子が小さく頭を下げる。
「偶然だよ。俺がそこにいただけだ」
それ以上は言わない。
彼女が顔を上げたのが分かったが、視線は逸らした。
「ご両親には連絡したのか」
「もう済んでいます」
相沢さんが代わりに答える。
「そうか」
それで十分だった。
やがて電車が入線する。
扉が開き、俺はため息と一緒に乗り込んだ。
――終わらない。
相沢さん、慶子、そして村も同じ車両に入ってきた。
空いていた座席の前に立つと、向かいに二人が座る。
左側には村が立った。
逃げ道が塞がれたわけではない。
ただ、距離が近いだけだ。
窓の外を見る。
夜の街が流れ、ガラスに自分の姿が重なる。
スリッパ姿の男。
電車が揺れた。
不意に、二つの影が前に傾く。
柔らかな衝撃。
布越しに伝わる体温。
すぐに離れる。
「すみません」
「ごめんなさい」
「大丈夫だ」
それだけ言う。
電車は何事もなかったように走り続ける。
帰宅した頃には、体の芯が重くなっていた。
スリッパを脱ぎ、服を替え、キッチンへ向かう。
コーヒーを淹れる。
湯の音だけが部屋に響く。
本当は、仕事は昼に終わらせられた。
だが余裕を見せれば、さらに任される。
それは避けたい。
深夜を過ぎる。
報告書の最後の一文を打ち終えた瞬間、視界がわずかに揺れた。
体の力が抜ける。
椅子にもたれたまま、意識が沈んでいく。
痛みも、重さも、少しだけ遠ざかる。
――今日は、ここまででいい。
そう思ったのは、俺だけだったのかもしれない。
これ、かなり“灰色”。
派手じゃない。
でも静かに引っかかる。
今回のラストは、少しだけ違和感を残した形になりました。
第十話で、その意味が少しずつ見えてくると思います。
もし感想などがあれば、気軽に書いていただけると嬉しいです。
一言でも構いません。
読んでくださっているだけでも、本当にありがたいです。
ありがとうございます。




