第八話 会計と「未退出」
いつも読んでくださり、本当にありがとうございます。
更新が遅くなってしまい、続きを待っていてくださった皆さまには心よりお詫び申し上げます。
大切な時間を使ってこの物語を読んでくださっていることを、私は決して当たり前だとは思っていません。
今後はできる限り、週に一〜二回のペースで更新していく予定です。
無理のない形で、丁寧に物語を紡いでいきたいと思っています。
そして、ここまで一緒に歩いてくださっている皆さまに、改めて感謝をお伝えします。
静かな物語ですが、読んでくださる方がいるからこそ続いています。
これからも「灰色は俺に似合う」を、どうぞよろしくお願いいたします。
極上のラーメンを食べ終えたあと、俺は席を立って口と手を洗いに行った。
……行ったのはいい。問題は、そのあとだった。
俺の右にはオサムがいて、慶子や相沢さん、水月さんと自然に会話している。
そこに割って入るのも変だし、かといって「すみません、通してください」と言うのも、妙に気まずい。
こういうの、友達同士なら普通にやるのか? 知らんけど。
結局、俺は何となく座ったまま、場の空気に溶けるふりをしていた。
すると相沢さんの視線がふっと俺に落ちた。
「ごめんね、オサム。日向さん、トイレに行きたいみたいだから、ちょっと通してあげて?」
余計な一言までついてくる。
(なんでそういう言い方するんだよ……)
心の中でツッコミつつ、俺は大人しく席を抜けてトイレへ向かった。
歩きながら思う。
(床、冷たくないか……?)
すぐに思い出した。
俺、片方の靴がないんだった。
トイレの入口まで来たが、入れない。
中の床が絶対に汚いのがわかる。裸足のつま先で踏むのは……いや、無理。普通に無理。生理的に無理。
入口で固まっていると、太鼓が近づいてきた。
「日向さん。まさか友達できるとは思わなかったですよ。しかも、そんな騒ぎに巻き込まれるなんて」
最後の言葉と一緒に、俺の靴のない足へ視線が落ちる。
「友達じゃない。職場の人間と上司と、ランダムなゴリラと高校生。サーカスのメンツだよ」
入りたくないトイレより、会話のほうがまだマシだったから適当に返す。
太鼓は肩をすくめた。
「少しは趣味、変わるかと思ったんですけどね」
そしてすぐ続けて言う。
「靴、貸しましょうか? サイズ合うかわかんないけど……」
「……貸して」
俺は即答した。迷う理由がない。
「じゃ、バックヤード行きましょう」
太鼓が手招きする。
俺は一瞬テーブルのほうを見た。
「今戻る」って目で伝えたかったが、あの盛り上がり――いや、盛り上がってはいない。雑談の波に誰も俺を見ていない。
よし、行こう。
俺は太鼓についていった。
(太一村の視点)
昨日、俺は久しぶりに「社会」に出た。
いつ以来だろう、誰かとまともに話したのは。
連絡を取り続けていたのは母だけだった。
眠れない夜が続いて、日付だけが変わっていく。
このまま何も変わらないと思っていた。
そんなある日、母から電話が来た。
「あなたに合いそうな仕事、見つけたのよ」
母はずっと、俺のために求人を探し回っていたらしい。
若者向けの相談会にも行って、履歴書を見せて、俺に合いそうなところを探してくれていた。
プログラマー、というか社内ネットワークを管理するIT担当。
支社のデータベースを見てほしい、と。
俺は反対しなかった。
でも、面接に何を着ていけばいいか分からない。どう進むのかも分からない。
(早めに行ったほうがいいのか……?)
そう思って、動きやすくて、でも一応それなりに見える格好をした。
スラックスとTシャツ。
それと、昔もらったチェーン。目立て、と言われたわけじゃない。けど、俺にも何か「個性」が必要な気がした。
その日、俺は珍しく早起きをして、歯を磨いて、身だしなみを整えた。
朝食を食べて、最寄り駅へ向かった。
電車は混んでいた。
(次の電車にしようかな……)
迷ってドアのそばに立っていたら、後ろから押されて中へ押し込まれた。
缶詰みたいだ。しばらく身動きが取れない。
やがて少し空間ができて、周囲が見えるようになった。
その時、駅で女子高生が乗ってきた。
制服からして、高校生だろう。清潔感があって、目立つ。
そして――周りの男たちが露骨に視線を送った。
恥ずかしげもなく。会社員の顔をした、ただの視線の群れ。
(……まずい)
守るつもりで、俺は彼女の近く――正確には背後へ立った。
それだけで男の視線が少し逸れるかもしれないと思った。
だが、それは逆効果だった。
女子高生は不安そうに振り返り、周囲を見回した。
誰かに怯えているように見えた。
(怖がらせたくない)
だから俺は振り向かなかった。
ただ立っていた。
その時、背中を押され、俺の体が揺れた。
前のほうで、目立たない男が女子高生に手を伸ばしているのが見えた。
俺は反射的に、その男の手首を掴んで強く握った。
男は顔をしかめ、少し距離を取る。
……その足元に、スマホが落ちていた。
拾おうとした瞬間、女子高生が先に拾った。
すると別の男が近づいてきた。
「すみません、それ俺のスマホです。落としたので返してもらえますか。時間見ようとして落としました」
――待て。こいつ、さっき手を伸ばしてた男じゃないか?
女子高生は明らかに緊張している。
やっぱりそうだ。
その考えが俺を苛立たせた。
「何言ってるんだ。俺のだよ。お嬢さん、返してくれる? お礼するから」
低い声が出た。
不快に聞こえたかもしれないと思って、俺は無理に笑った。
本当は、駅でこいつを捕まえて話をつけるつもりだった。
だが男は引かない。
「なら、ロック解除のパスコード言ってみろよ」
その言葉で、男は俺を見た。
その目つきが、さらに俺を苛立たせ――
「言うわけないだろ。盗むかもしれないし。お前、出口の近くに立ってるしな」
勢いで言った言葉が、胸の奥の古い傷を抉った。
「盗む」――その単語だけで、呼吸が一瞬止まる。
次の瞬間、男は女子高生の手からスマホを取り、何かを入力し始めた。
俺は殴りかけ――
男が画面を見せた。
ロックが解除され、普通のホーム画面が出ていた。
その瞬間、俺たちの目が合った。
……違う。
この男は、さっきのやつじゃない。
俺がまた間違えた。
怒りは行き場を失い、全部、自分に向かった。
俺は顔を背けた。女子高生にも、その男にも。
そうしているうちに、いつの間にか俺は降りる駅を過ぎていた。
あの二人は降りたのに、俺だけ降り損ねた。
(同じ方向に行くなら、せめて駅で謝ろう)
そう思って、次の駅で降りようとして――
気づいた。
ここ、どこだ?
母はもう会社に履歴書を送っている。
今日、面接がある。
なのに俺は知らない場所にいる。
終点で降りた。
周りに聞くしかない。
俺は通りすがりの女性に、丁寧に声をかけた。
「すみません、道を教えていただけますか。少し迷ってしまって……」
「え、あ、私……夫が……」
夫? なぜ夫が。
夫なら道を知っているかもしれないと思って言った。
「じゃあ、旦那さん呼んでもらえます? 一緒に考えましょう」
俺は普通に笑った。
すると女性はなぜか赤くなって、震え始めた。
寒いのだと思って、俺は上着を脱いだ。
「これ、使ってください。温まりますよ」
その瞬間、男が来た。夫だろう。
「奥さんが答えてくれないので。すみません、家に帰る道を……」
男は固まって、財布を差し出した。
(……なぜ金?)
「お金で解決する話じゃないですよ」
そう言って見たら、女性が涙を拭いながら近づいてきた。
「お願い……私のこと、守って……犬飼には……」
……何を言っているのか分からなかった。
俺はその場を離れた。
他の人にも聞いた。男にも女にも。
なぜか皆、金を出したり、妙に怯えたりした。
俺だって自覚はある。イケメンじゃない。
でも、ここまで露骨に避けられると、普通に傷つく。
結局、適当に電車に乗って帰ろうとした。
乗り換え、乗り換え、また乗り換え。
夕方が来て、空が赤くなる。
俺の希望も同じように、じわじわ燃え尽きていく。
(母に……どう説明すればいい)
その時、次の駅名が聞こえた。
――聞き覚えのある駅だ。目的地の一つ先。
(まだ間に合うかも)
俺は降りる決心をして、人の流れに乗った。
その時――見えた。
あの男だ。
(謝らないと)
俺は急いで近づいた。
彼は電車に乗ろうとしていた。混んだ車内で話すのは難しい。
だから俺は勢いで、彼の腕を掴んだ。
「ここ、狭いので……外で……」
言いたかったのはそれだけなのに、緊張で声が小さくなった。
言い直すのが恥ずかしい。
彼は俺を見た。
なぜか、分かっているような目だった。
人が減ってきたところで、彼は俺の服装を見ていた。
俺は慌てて自分の格好を確認した。ちゃんとして見えるだろうか。
その時、遠くから声が近づいてきた。
その男の名前は日向、らしい。
そして、母が言っていた名前も聞こえた。
――相沢さん。
「すみません。あなたが日向さんですか?」
俺は彼に向けて言い、次に相沢さんへ視線を移した。
「そして、あなたが相沢さん……ですよね?」
返事はなかった。
俺は、彼が怒っているのだと思った。朝の件で。
だから、母に教わった通りに頭を下げた。
「本当に申し訳ありません。謝りたいんです」
女子高生――慶子もそこにいた。
だが、彼女が何か言いかけた瞬間、別の女性が割り込んだ。
「よくも今さら謝れますね。日向さんがいなければ、あなたは止まらなかったでしょう。どうして許されると思うんですか。しかも今朝、うちの支社に応募までしてきたとか――太一村さん」
俺は姿勢を崩さなかった。
誠意を示したかった。
次に、眼鏡の厳しそうな女性――水月さんが言った。
「自分のしたことが知られたら、チームがどう思うか分かってますよね。あなた、何か隠しているでしょう」
俺は顔を上げ、周りを見た。
女子高生を庇うように立つ男がいた。オサムというらしい。
(……怖い。空気が怖い)
だから俺は言葉を足した。
「許されないことをしました。でも、どうか……説明する機会だけください」
その時、突然大きな音がした。
何かが落ちて、線路のほうへ転がっていった。
日向さんが言った。
「みんなでカフェに行こう。ラーメンは魂を落ち着かせる。ここは人が多すぎる」
彼は周囲を指さした。
さらに、女子高生の友達のことまで考えて言った。
「親も心配する。巻き込まずに、俺たちだけで片づけよう」
俺は――なぜか笑いそうになった。
日向さんは片方の靴がなくて、妙に真剣で、それが可笑しかった。
他の人たちも、少しだけ表情が緩んだ。
そうして俺たちは電車を待ち、女子高生の友達を先に帰し、近くのカフェへ向かった。
カフェに着いて、俺は小さくなって座った。
空気が重い。
でも、落ち着く要素が一つあった。
日向さんが隣に座っていたことだ。唯一の「さっきからの知り合い」。
水月さんが俺を見て言った。
「では、説明を」
「太一村です。今朝のことを説明します」
緊張で体が少し震えた。
深呼吸して続けた。
「まず、日向さん。電車内で失礼な印象を与えたこと、お詫びします」
「俺じゃない。謝るなら彼女に」
日向さんは女子高生を見た。
「慶子さん。あなたにも。触ろうとしたわけじゃない。揺れたとき、転ばないように支えただけです。周りに視線の多い男もいました」
「……私も、それは感じてました」
慶子さんが答えた。
だがオサムが言った。
「それでも、あなたはつきまとってた。学校まで知ってる。ストーカーだろ」
相沢さんが止めた。
「落ち着いて、オサム。もし誤解なら、責める理由はありません。ですが嘘なら、責任は取っていただきます」
「証明しようとすれば、言い訳に見えるかもしれません」
俺はそれだけ言って黙った。
水月さんが言う。
「それ、どういう意味ですか」
すると日向さんが、なぜか俺のほうを見て言った。
「……彼、嘘ついてないと思う」
「は?」
水月さんの声が低くなる。
「さっきまで殴りかかりそうだったのに。どうして急に味方するの?」
「味方じゃない。俺は……守ろうと……」
オサムの声が途端に弱くなる。
水月さんは容赦しない。
「誰を? あなた、彼と大差ないように見えるわよ、オサム」
オサムは立ち上がって叫んだ。
「俺が!? こいつみたいな変態と一緒にするな!」
そこで相沢さんが割って入った。
「みんな、注文が来た」
料理が来た。
正直、救われた。
日向さんだけが平然と食べていた。
俺たちの空気が熱くなっていく中で、彼だけが冷静だった。
食事のあとは、俺は日向さんの様子がおかしいことに気づいた。
体を微妙に揺らして落ち着かない。
トイレに行きたいのだろう。でも言い出せない。
俺はオサムに言おうとしたが、自分の立場を思い出して黙った。
そのうち相沢さんが気づいて言った。
「オサム、日向さん通してあげて。なんか落ち着かないみたい」
日向さんは何も言わず、トイレのほうへ歩いていった。
入口で立ち止まっているのが、横目に見えた。
大丈夫だろうか。
だが、すぐ太鼓が近づいて、二人で何か話している。
そしてそのまま厨房のほうへ消えた。
(どこへ……? 戻ってくるのか?)
俺はただ、日向さんが戻ってくるのを待った。
朝のことを――許してもらえたのかを、知りたかった。
(視点・通常に戻る)
日向さんが太鼓と一緒に靴を取りに行ったことに、水月さんはいち早く気づいた。
待たされるのは嫌いなはずなのに、彼女の顔には怒りも嫌悪も出ていない。
笑顔も、もちろんない。
相沢さんは慶子やオサムと話しながら、日向さんが戻ってこないことに気づき、トイレの方向を見た。
そして、彼が太鼓と一緒にどこかへ行くのを見て、ほんの少しだけ困惑した表情を浮かべた。
(あの人……人にはあまり心を開かないのに、店員とは普通に話してる)
相沢さんの中で、小さな疑問が芽生えていた。
読んでくださり、本当にありがとうございます。
もしよろしければ、各話を読んだあとの感想や感じたことを、ひとことでも構いませんのでコメントで教えていただけると、とても嬉しいです。
皆さまの言葉は、物語を続けていく上で大きな励みになりますし、今後の展開を考えるうえでの大切な参考にもなります。
どんな小さな感想でも大歓迎です。
「ここが好きだった」「ここが少し分かりにくかった」など、率直なご意見をいただけましたら幸いです。
これからも「灰色は俺に似合う」を、どうぞよろしくお願いいたします。




