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灰色は俺に似合う  作者: 無原 カイト


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第5話 遠ざかるほど、近づいていく

時々思う。

俺は何かにサインしてしまったんじゃないか、と。

しかも、条件すら読まずに。


普通に座って、仕事をしているだけなのに、気づけば向かいの席に知らない男が座っている。

……オサム。たしか、そんな名前だった。


もちろん、気にしないようにはしていた。

でも、正直言って鬱陶しい。


彼はいつも、決まった時間に俺の近くに現れる。まるでスケジュールでも組まれているかのように。

昼休みには他の連中と話しているのに、それでも視線を感じる。

そして、モニターから顔を上げるたびに、必ず目が合う。


理解できない。

あれで楽しいのか?

それとも、人を居心地悪くさせるのが趣味なのか。


そんなことを考えているうちに、勤務時間は終わっていた。

定時が近づく頃には、もう一つだけしか頭になかった。


――早く帰りたい。


六時十分前、俺は荷物をまとめながら書類を印刷に回していた。

幸い、うちの部署は貧乏じゃない。プリンターはクラウド対応だ。


印刷が終わるのを待ちながら、俺はプリンターの前に立ち、ぼんやりと明日のことを考えていた。

こういう時間は、勝手に思考が流れ出す。


そして、まさにその瞬間――

オサムが近づいてきた。


何か話し始めた。

自信なさげで、朝よりはマシだったが、それでも言葉そのものを怖がっているみたいだった。

俺は聞こえないふりをして、思考に沈み込む。


……当然のように、そのタイミングで現れた。

上司のアイミさんと、副主任のミヅキ。


最悪だ。

今度は何だ。


「日向さん、よかったら一緒に飲みに行きませんか?」

アイミさんが言った。

「今朝のこともありますし……その、お詫びというか」


俺は答えを引き延ばした。

プリンターは、嫌がらせみたいにまだ動き続けている。


――逃げられない。


「すみません」

ようやく口を開く。

「まだ片付いていない用事があって。今日は家に帰ります」


アイミさんの目をまっすぐ見てから、またプリンターへ視線を戻す。

これで察してくれ、と願いながら。


「仕事が終わらないなら、ここに残ってやった方が効率的ですよ」

ミヅキが言った。声は冷たく、感情がない。

「紙で計算するより、パソコンの方が――便利なソフトもありますし……」


俺は遮った。

彼女がいつも俺に向ける、あの上からの口調と同じ温度で。


「家の方が集中できます。

“ここを居心地よくする”とか、そういう言葉は俺には効きません。

仕事と家は別です。用事も、仕事とは関係ありません」


嘘だった。

しかも、図々しいくらい堂々と。


三人の視線が一斉に集まり、それで分かった。

――バレてる。


「じゃあ……金曜日はどうですか?」

突然、オサムが口を開いた。

「週末ですし……新しい上司とも、皆で……」


どうしてこいつは、存在そのものを謝るみたいな話し方をするんだ。


考えをうまく言葉にできない人間は苦手だ。

何度も言って悪いが――

本当に、こいつはイライラする。


「……たぶん」

俺はそう呟いた。


印刷物を取り、プリンターの電源を切り、席に戻ってパソコンを落とす。

そして、できるだけ早くオフィスを後にした。


背後では、いつも彼らの声が聞こえる。

愚痴、沈黙、作り笑い。

仮面だ。誰もが被っている。


でも、今日は違った。


――俺の話をしている。


まあいい。

この奇妙な一日が終わって、いつもの日常に戻れれば、それでいい。


その安心感は、

金曜の夜に美人二人と気まずい男一人で飲む話より、ずっと魅力的だった。


駅へ向かう途中、またあの女子高生を見かけた。

友達と、もう一人の男と一緒だ。

幼なじみか、ただの仲のいい友人だろう。


俺は知らないふりをして、彼女――確か、アイミだったか――に気づかれないように通り過ぎた。


……そして、やらかした。


背後から声がした。

「ケイコちゃん!」


俺が馬鹿だったのか。

それとも、ただの好奇心だったのか。


三人がアイミさんの方を振り向いた、その瞬間。

俺も、反射的に振り返ってしまった。


――失敗。


すぐに視線を逸らし、歩調を速めた。

だが、もう遅い。


ほんの一瞬。

それだけで十分だった。


彼女が、俺の腕を掴んだ。


無礼だったかもしれない。

でも、俺は子どもと関わりたくない。


しかも、こちらへ向かってくるアイミさん。

ミヅキとオサムも一緒だ。


偶然にしては、出来すぎている。

ケイコとコウ。似た名字、似た顔。

そして、同じ場所に揃っている。


――違う。


これは偶然じゃない。


まるで、どこかの小説みたいじゃないか。


もし俺が、そんな物語の登場人物なら――

ロマンコメディも、ドラマも、全部お断りだ。


俺は腕を振りほどき、駅へ向かって早足で歩き出した。

アイミさんが女子高生に駆け寄り、友達が質問攻めにしている間に、俺は消えた。


正確には、距離を取っただけだ。

ただ、遠くへ。


駅に着いてから、今日のことと明日のことを考える。

何を着るか。何を食べるか。


駅前の小さな店で、袋麺、肉、野菜、果物を買った。

ちゃんと食べなきゃ、まともな会社員は続けられない。


袋を提げて歩いていると、遠くから聞き覚えのある声がした。


――そして、珍しく運が向いた。


その声が聞こえた瞬間、ちょうど目的の電車がホームに入ってきた。


やっとだ。

運命が、少しだけ優しくなった気がした。


胸の奥が、わずかに静まる。


……だが、何かがおかしい。


直感だ。


俺は普段、これを信じている。

今も、希望が「もう終わった」と囁く一方で、直感は叫んでいた。


――逃げろ。


選択肢は単純だった。


ドアが開くのを待って、そのまま乗るか。

それともトイレに入って、全部が落ち着くまでやり過ごすか。


答えは明白なはずだった。


だが、考えている間に時間は過ぎ――

ドアが開いた。


しかも、

俺の目の前で。


それは、つまり。


――今から、何かが始まる。

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