きれいな街と冷たい心? 昭和と令和を比べてみた
昭和後期と令和を見比べると、まず目に浮かぶのは「街の光景の違い」だ。
昭和の電車には灰皿が備え付けられ、煙草の煙が充満していた。歩きタバコは当たり前、路上には吸い殻や空き缶が転がり、公園の遊具はサビだらけ。それでも子どもたちは怪我をしながら遊び、大人たちは乱暴に見えてもどこか人情にあふれていた。
令和の街は一変して清潔で静かだ。禁煙エリアが整い、ポイ捨ても激減。電車の中では誰も騒がず、ほとんどの人がスマホに視線を落としている。外見だけを見れば、モラルは格段に進歩したように思える。
だが、その裏に潜むものを見ると様子は違う。
昭和の人々は粗野であっても「助け合う精神」を自然に持っていた。道で困っている人がいれば声をかけ、近所で不幸があれば互いに支え合う。時にお節介と呼ばれるほどに人の生活へ踏み込んだ。それは「人は人を助けるべきだ」という暗黙のモラルがあったからだ。
令和はどうか。社会は清潔で安全になったが、人と人との距離は広がった。象徴的なのは電車内での出来事だ。倒れている人を助けようと手を差し伸べても、その後「不適切な介助だった」と訴訟に発展するリスクがある。実際に、善意がトラブルに結びつく事例が報道されると、人はますます関わることを避けるようになる。見て見ぬふりをするのは、冷たい心の表れではなく、「助けてリスクを背負うぐらいなら関わらない方がいい」という合理的な判断でもあるのだ。
情報の世界でも同じ構造が見える。
昭和の週刊誌やテレビには、しばしばゴシップや誇張記事が並んだ。だがそこには「この物語はフィクションです」という断り書きがあったし、人々も「話半分で受け止める」という危機意識を持っていた。騙されることはあるにしても、それを前提に生きる力が備わっていた。
令和のSNSやYouTubeはどうか。事実かどうか分からない動画や投稿があふれ、それが瞬く間に拡散する。「再生数」や「いいね」が真実の証明のように扱われる。しかもそれを仕掛けるのは一部の週刊誌やテレビ局ではない。一般人までもが再生数や収益を目的に、あさましい行動に手を染めている。ここにこそ、昭和と令和の大きな違いがある。
もちろん、令和の世代が一概に悪いわけではない。むしろ環境がそうさせている面が大きい。昭和には「怪しいから疑え」「困っている人は助けろ」という文化的な空気があった。令和には「安全だから疑う必要がない」「助けると責任を問われるかもしれない」という環境がある。人は環境に適応して生きるのだから、結果として「疑わない人」「助けない人」が増えるのは自然な流れなのだろう。
昭和は表面的には乱暴だったが、「騙されないための警戒心」と「助け合いの精神」というモラルが裏打ちしていた。令和はきれいで礼儀正しく見えるが、その裏には「無防備に信じてしまう危うさ」と「助け合えない社会的環境」が横たわっている。
私たちはどちらの社会を望むのだろうか。
見た目の秩序と清潔さの中で安心するのか。あるいは、多少乱暴でも、人を疑い、助け合うことで守られるものを大事にするのか。
時代のモラルは常に揺れ動く。だが一つ確かなのは、「環境に流されるだけでは、気づけば人間らしさを失う」ということだろう。
読んでくださりありがとうございます。
昭和と令和を比べると「どっちが良かったのか」という話になりがちですが、私はどちらかを一方的に持ち上げたいわけではありません。
大事なのは「環境が人の行動をつくる」という視点です。
昭和は乱暴に見えても、そこには「騙されないぞ」「困ったときはお互い様だ」という意識がありました。
令和はきれいで穏やかに見えても、「助けると責任を問われる」「再生数さえ取れればいい」という空気が広がっている。
それぞれの時代のモラルは、良い面と悪い面を同時に持っているのだと思います。
あなたは、どちらの時代の空気の中で生きたいと思いますか?
ぜひ感想で教えていただけたら嬉しいです。
今回も「ひとり放送局」からお届けしました。
テーマは気まぐれですが、もし少しでも「なるほど」と感じてもらえたら幸いです。
感想や意見もお待ちしています。次回はまた別の「なぜ?」を拾ってみます。




