界面の思想
この物語に登場する「水」と「油」は、単なる自然現象ではない。
それは、相いれぬ思想の比喩である。
水は、他を包み、調和を保とうとする“公共性と共感”の象徴。
油は、自らの輪郭を崩さず、信念を貫く“個性と独立”の象徴。
どちらが正しいかではなく、どちらも社会に不可欠な精神の両輪だ。
だが人類は、この「水と油」を無理に混ぜようとしてきた。
グローバリズム、多文化共生、思想の統合――。
「溶け合えば平和になる」という理想を掲げ、世界をひとつにまとめようとしてきたのだ。
混ざらないものを混ぜようとするのだから、軋轢が生じるのは当然であろう。
水と油は本来、決して混ざらない。
しかし、混ぜることができたらどうなるだろう。
水と油、そこに界面活性剤を加えると、一見混ざり合ったような状態になる。
これを「乳化」という。
しかし、乳化した液体はもはや水でも油でもなく、どちらの性質も変質した別の存在である。
果たして、水と油は自らの変容を受け入れるだろうか?
■ 水
水は流れ、形を変え、他を受け入れる。
それは「共感」「公共心」「思いやり」「協調」の象徴。
この水の思想があるからこそ、人は他者と手を取り、社会を築くことができた。
しかし、受け入れることと混ざることは違う。
近年の社会では、「否定しない」「誰の意見も尊重する」が絶対視され、正義と不正の線引きさえ避けられるようになった。
善悪の判断を恐れるあまり、すべてが曖昧になっている。
水は清める力を持つが、濁ればただの停滞した沼だ。
柔らかすぎる寛容は、いつしか責任なき優しさへと変わっていく。
■ 油
油は混ざらず、輪郭を保つ。
その姿は「頑固」「排他的」と批判されることもあるが、実は“自分であることを貫く勇気”の象徴だ。
信念、伝統、独自性――。
それらを守る者がいるからこそ、世界には深みが生まれる。
だが今、その油の思想もまた溶かされつつある。
「古い」「時代遅れ」という言葉のもとに、文化も、宗教も、価値観も、次々と均質化されていく。
油が輝きを保つには、摩擦が必要だ。
だがその摩擦こそが、今の時代、最も忌避されている。
■ 乳化
界面活性剤を加えれば、水と油は混ざる。
しかし、その混ざり合いは幻想だ。
水でも油でもない「乳化液」は、どちらの役割も果たせない。
清める力も、守る力も、ほとんど失われている。
現代社会もまた同じだ。
SNSでは、異なる意見を丸めた“安全な言葉”だけが拡散し、政治も教育も、波風を立てない方向へと傾いている。
「みんな違ってみんないい」は、「誰も違わない方が安心だ」に変わった。
それは平和のように見えるが、実は意志の喪失である。
乳化した社会は、争いを避ける代わりに、情熱を失い、境界を溶かし、思想をぬるま湯の中に沈めてしまった。
■ 乳化を目指しているのは誰か
水も油も、乳化を望んではいない。
それは、アメリカやEU、そして日本の社会問題を眺めれば明らかだ。
お互いに歩み寄る事はなく、自分の価値観の押し付け、あるいは自分の価値観を守ることに必死ではないか。
乳化を望むのは、界面活性剤――つまり“第三の意志”だ。
第三の意志は、いったい何を望んでいるのだろう?
■ 混ざらないという成熟
完全な融合を目指すほど、反対に世界は混乱化に向かう。
実に皮肉なことだ。
もし第三の意志がただの理想であるのならば、もう少し人間研究が必要ではないだろうか。
混ざらないことは、争いではない。
それは互いの違いを前提に、共に在る知恵である。
真の共存とは、融合ではなく、尊重された分離なのだ。
違うまま隣にいる勇気――そこにこそ成熟した社会の姿がある。
■ 結び ― 変わらぬ自由のために
社会は、乳化に進んでいいのだろうか。
今、思想や文化が無秩序に混ざり合いながら、輪郭を歪めつつある。
水は決して油にはなれない。
油は決して水にはなれない。
乳化する事はできるかもしれないが、水や油はそれを望むのだろうか。
否。――繰り返すが、様々な対立の様子がそれを物語っている。
だからこそ私は言いたい。
混ざらない自由を、恐れてはならない。
違いがあるからこそ、学びがあり、対話がある。
混ざらない水と油のように、それぞれの本質を保ちながら、ひとつの器の中で共に生きること。
それが人間の知恵であり、思想の成熟であり、未来への希望である。
私はグローバリズムを全否定しているわけではありません。綺麗ごとに聞こえるかもしれませんが、水は水の良さ働き、油は油の良さ働きがあり、尊重して共生していけたらなと思う次第です。
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よろしくお願いいたします。 m(_ _)m ペコリ




