【あかり】03 腐れ縁
「し!?」
あかりは目を丸くして引きつった声をあげた。
撫子が――失恋。
「せ、先生は何かそういう話、知ってるんですか!?」
あかりは口をパクパクさせた。
「知らんよ。当てずっぽうに言っただけだ。私はお前らの恋愛事情になど興味がない。まあ、大学生が虚ろな顔をしていたら大体そういうことじゃないか。あとはレポートが提出期限に間に合わなかったとか。バイトを豪快に寝飛ばしてクビになったとか」
なんだよ当てずっぽうかよとあかりはため息を吐く。そこに込められていたのは安堵にも似た感情だった。
千本松先生は段ボールから仮面ライダーのフィギュアを取り出して棚の上に並べていく。昭和から平成まで、幅広いコレクションだった。千本松先生は夫婦で特撮オタクなのだ。
「レポート……バイト……どれも、撫子だと考え難いですね」
あかりは顎に手を当てて口をへの字に結んだ。しかし、失恋というのも現実味がない。そもそも普段の撫子からは、そういう色恋沙汰への興味が一切感じられないからだ。
「いつ頃からなんだ、浅倉がぼーっとしてるのは」
千本松先生は仮面ライダー龍騎と仮面ライダーナイトを隣り合わせに立たせながら、そんなに興味がなさそうに尋ねた。
あかりは自分の思考を整理しながら言葉を紡いでいく。
「最近……って感じではないです。なんていうか、もしかしたらずっと前からそういうからっぽな顔をしてたかもしれないんですけど――それこそ大学に入る前から――でも、私自身が最近になって、それに気づくようになったって感じです――かね」
自分自身の撫子を見る目が変わった――解像度が上がった――ということも考えられるのだ。
「なるほどな。いっそ単刀直入に訊いてみたらいいんじゃないか、浅倉本人に。どうせお前らは長い付き合いになるんだろうし。いずれバレるにしろ、変な隠し事みたいなものはさっさとなくしてしまったほうがいい。まあ、浅倉に隠し事があるのかどうかも分からないけどな」
老人に湿布を処方する医者のような淡白さで千本松先生は言った。直接訊いてみるというのは、あまりにもシンプルで分かりやすい解決策だ。しかし、あかりが引っかかったのは、別の部分だった。
「長い付き合いですか?」
千本松先生は、どうせお前らは長い付き合いになる――と言った。それは、大学時代にできた友達は一生の友達になる、なんて一般論のことではない気がした。
「お前らは腐れ縁だよ」
千本松先生はくくくと笑った。
「腐れ縁、ですか」
「腐れ縁はもともと、腐り縁――鎖縁とも言う。ま、切っても切れないチェーン・デスマッチな関係ってことだな」
「私達、別にそんな――」
深い関係じゃないですけど――と言いかけたあかりに、千本松先生が爆弾を放り投げてくる。
「二人でゲロの海に沈んでダブルノックダウンしたんだろ? 恋人同士でもそんなことしないぞ」
「なっ!? 何でそのことを――」
あかりは尻尾を踏まれた猫のように目を剥いて跳び上がりそうになった。
「昨日、浅倉が教えてくれた。すまんな、あの夜は四杯目で私が止めるべきだった」
どうということもなく千本松先生は言う。
「ああああああいつめええええええええええええええええええ何をべらべらとしゃべってるのよおおおおおおおおおおおおお!!!!」
顔を真っ赤にするあかりを眺めながら、千本松先生はニヤニヤと机にウルトラ怪獣――アボラスとバニラ――のソフビを並べている。
「誰にも話さないから安心しろ」
「当たり前です!! 誰かに話したら大学構内で大太刀振り回して大音声でアカハラだって叫びます!!」
「怖すぎるだろ」
撫子が何を思ってあの夜のことを先生に話したのかは分からなかった。単なる笑い話として話したのだろうか――
「それよりも、課題の方は順調か?」
千本松先生はさらりと話題を変更した。
「そっちは大丈夫――だと思います」
ふうんと言いながら、千本松先生は本棚から何冊か本を取り出して、テーブルに置いた。そこから先生によるプチ講義が始まるのがいつもの流れだった。このプチ講義に、課題を進めていく上でのヒントがあったりするので気が抜けない。本日のテーマは狩猟信仰と祭祀。あかりは先生のありがたいお話を賜りながら百回ぐらいなるほど〜という顔をした後、存神館の地下食堂で撫子と菅原道真の話をしたことを思い出していた。その話をすると。
「お前ららしくもない、ちょっと文化的な会話だな」
担当教員からの忌憚のない感想だった。
「どーいう意味ですか。いや、わかりますけど」
「まあ、何にせよ、伝承を形作る『原風景』の一端に触れられたということだろう」
雷神。怨霊。北野天満宮。
人々が畏れ敬ったものと、そこから生まれたもの。
「百年経とうが千年経とうが、川の流れを辿り、道を歩き、山の稜線を見上げれば、そこには変わらない何かがある」
千本松先生は本を本棚に戻しながら歌うように言った。
「それは伝承のふるさとであり、すべての人間のふるさとでもあるのさ」
ニヤリと笑った千本松良子は、世界の秘密を解き明かそうとする人間の顔をしていた。
千本松先生が奢ってくれたパーラーのフルーツタルトを平らげてアパートに戻ると、既に夕刻だった。今日もまた湿った空気が街全体を覆っていて、まるで京都は水槽の中のようだった。曇天の空には夕立の予感が充満している。
あかりの部屋は、撫子のアパートから西に5分程歩いた先の、妙心寺の北門近くにある。ワンルームは、カーテンを開けてもどこか薄暗かった。
あかりはトートバッグをポールハンガーに掛けて、実家から持ってきた可愛げのない座椅子に腰を下ろした。スマホの画面を点けると、母親からのLINEが来ていた。元気にしていますか?
「元気でーす」
独り言の後、適当に――だが傷つけないように細心の注意を払いながら――返信をする。
あかりが母親のことを苦手になったのは、小学三年生の時だった。いや、正確には事件が起きたのが小学三年生で、それ以降、小さなズレが少しずつ積み重なっていき、今に至るというのが実際だった。
事件といっても、そんな大したものではない。
母親からもらったプレゼントの人形を、あかりが壊してしまった。起こった事象はただそれだけだった。そしてその人形が、母親が子供の頃からとても大事にしていたものだったというだけのことだ。
そう、それだけなのだ。
悪いのは自分だ。
あかりは小学三年生の時点ですら、そう認識していた。
謝ったと思う。そして、母は許してくれたと思う。だが、その事件によって刻まれた消えない罪悪感は、母と子の関係を少しずつ、だが決定的に変えていった。
私は人の好意を受け取るに値しない人間だという思いが、あかりの胸には根深く残ってしまった。
こんな風に言語化できるようになったのは最近の――それこそ京都に来てからの――ことだ。そういう意味では、母親から離れて正解だったのかもしれない。
とても古いフランス製の女の子の人形。
今ならそのレトロな魅力も分かるが、小学三年生当時のあかりは幼く、動物的で、残酷だった。母親からもらったそれは、あかりの目には可愛げのない人形としか映らなかった。
早く歯を磨けと言われたときだったか、部屋を片付けろと言われたときだったか、はっきりしたことは覚えていないが、あかりは母親に叱られた腹いせに、その人形を床に放り投げた。
壊れるなんて思いもしなかった。
壊れたその人形を抱いて、母親はさめざめと泣いた。あかりは今でも時々その日のことを夢に見る。
本当に、一人暮らしを始めてよかった。
もしあのまま母親と暮らしていれば、いつか自分は壊れてしまっていただろうから。