【あかり】02 六月二十六日
京都市北区衣笠に位置する立身館大学の敷地内には三つの食堂がある。あかりが今、チキン南蛮ををつついているのは存神館の地下食堂(通称ぞんちか)だった。普段は誠心館――文学部の授業が主に行われる――の向かいに位置する僚友館の食堂を利用することが多いのだが、今日は午前中に図書館で調べ物をしていたので、僚友館よりも図書館に近いこちらで昼食をとることになったのだった。
存神館は法学部の授業が行われる建物である。周囲のテーブルを見渡しても、文学部の学生であるあかりにとっては見慣れない顔ばかりだった。もっとも、同じ文学部であっても専攻が違えば全く面識がないこともざらなのだが。向かいの席に座ってパクパクとチゲ豆腐を口に運ぶ撫子だけが、あかりにとっては見慣れた顔だった。
一生懸命食べる姿は、なんとなく小鳥みたいでかわいい。こちらの視線に気付いた撫子は、何よとでも言いたげにこちらを上目遣いに見ると、食事時に相応しくない話題を振ってきた。
「結局あのワンピース、どうなったの?」
あかりは先日の惨状を思い出しながら――実際のところ思い出したくもなかったが――半眼でうめいた。
「洗ったら綺麗にはなったけど、なんか、撫子の前では一生着たくないって感じ」
例の記憶が蘇るのは間違いない。
「ふうん、私のシャツも以下同文だわ」
撫子は皮肉げな笑みを浮かべると、またチゲ豆腐を食べ始めた。
あかりは撫子の方からあの夜のことを蒸し返してくるのを、なんとなく意外に思った。あかりが言った、からっぽな顔云々について、撫子自身は何も気にしていないのかもしれない。この蒸し暑い日に、見ているだけで汗が滲んできそうなチゲ豆腐を美味しそうに食べている撫子の表情は、からっぽでもなんでもなかった。こちらが見ているから、油断して虚ろな表情をしないように気を張っているのかもしれない。
撫子は疑いなく美人だが、決してお嬢様という感じではなかった。四国の田舎――と本人がよく強調する――出身で、まとっている雰囲気はむしろ素朴とさえ言えた。ただ、その素朴さは野生動物の美しさに通じるものだった。見る者の本能に訴えかけて、ハッと息を呑ませるような、独特の佇まいを撫子は持っていた。詩的な人間なら、人跡未踏の深山で出会った若い牝鹿のような……ぐらいは言うかもしれない。なお、その雰囲気に惹かれて告白し、散っていった男達の屍で誠心館のロビーはいっぱいである。
ランチを食べ終えて食器を返却した後は、次の授業が始まるまで時間を潰すことになる。あかりは白い帆布のトートバッグからコピー用紙の束を取り出して眺め始めた。千本松先生から与えられた課題に必要な資料を、片っ端から図書館でコピーしてきたのだ。撫子もリュックから「雷神祭祀の原風景」というタイトルの本を取り出して読み始めた。これも資料の一つである。
原風景。
千本松先生の主宰する伝承文学研究室ではよく飛び交う言葉だった。先生曰く、全ての伝承にはそれが生まれいづる風景がある。その原風景を解き明かすことで、歴史的事実を超えた真実に辿り着く……とかなんとか。
どちらかというと民俗学寄りの研究室であり、千本松先生が出す課題も机の上だけで完結するようなものよりも、実際に現地を歩くフィールドワークを重視するものが多かった。
「ねえ、あかり。今日は何の日か知ってる?」
本から顔を上げずに唐突に撫子が言った。
「今日って、六月二十六日? なんだっけ、UFOの日?」
「ぶっぶー。ハズレ」
撫子がいたずらっぽく笑ってこちらを見た。
「正解は『雷の日』よ」
「そんなのあるの?」
初耳だった。撫子は得意げに話し始める。
「九三〇年の今日、平安京の清涼殿に落雷があって大納言の藤原清貫らが亡くなったの」
「ああ――」
それを聞いて、あかりもピンときた。撫子が続ける。
「人々はそれを、太宰府に流されて憤死した菅原道真の祟りだと畏れたってわけ」
無実の罪で九州の大宰府に流された菅原道真は、死後怨霊となって都に帰還した。雷の化身となり、朝廷への復讐を果たすために――
「なーるほど。で、それを鎮めるために、菅原道真は北野天満宮で神様として祀られるようになったってことね。だから今日は雷の日か」
学問の神様である菅原道真だが、日本三大怨霊の一柱としての顔も持つ。清涼殿落雷事件は、さぞや当時の貴族たちを慄かせたのだろう。
その道真公が祀られている北野天満宮は大学から徒歩十分かそこらの距離にある。二人があの夜タクシーを降りた北野白梅町駅からなら、横断歩道を渡ったらすぐのところだ。あかりは京都に来たばかりの頃、お参りに行ったことがある。
「実際住んでみると、このあたりが雷が多い土地だってことを実感できるわね。北野天満宮があった場所には菅原道真が祀られる前から、もともと火雷神を祀る社があったらしいけど、それも納得だわ」
「あの日も凄い雷だったもんね」
あかりは撫子の部屋のベッドから見た光景を思い出していた。ゲリラ豪雨。雷。そして、からっぽな顔で稲光を見つめる撫子。どこかこの世のものとは思えない、あの日の光景。撫子はまるで雷神の御遣いのようだった。あかりは胸にざらつくような不安感を覚えた。撫子の虚ろな表情は、なぜかあかりをかき乱す。
「きっとこの場所が京都とか平安京とか、そんな名前で呼ばれる前から、ここには雷が落ちてたんでしょうね」
撫子は本を閉じると窓の方を眺めた。地下食堂の窓に映るのは地上へ続く通路ぐらいのものだったが、撫子の目は空を探しているようだった。おそらく今日も、この地は激しい夕立に見舞われるのだろう。そして雷が閃き、撫子はからっぽな顔をするのだ。
◇◆◇◆◇◆◇
「お前達は本当に面白いな」
千本松良子先生はひとしきり大笑いした後、あかりにそう告げた。
「一体何がそんなに面白いんですか?」
あかりは頬をふくらませる。真面目な相談だったのに、そんなに笑うことないじゃないか。
「いや、すまんすまん」
千本松先生は目尻の涙を拭いながら、頭を下げた。我等の愛すべき女首領・千本松先生は、黒縁の眼鏡がよく似合う。年齢は四十になるかならないかだと思うのだが、吸血鬼のような白い肌が彼女を年齢不詳にしていた。
今、あかりは千本松先生夫妻が住んでいる東洞院五条のマンションの部屋で、引っ越しの荷解きの手伝いをしている。ここ数日、ゼミ生や基礎講読クラスの暇人が、ご褒美として千本松先生が奢ってくれるスイーツを目当てに代わる代わるやってきては、段ボールにつまった大量の書籍を本棚へと移し替えている。
千本松先生は夫婦で大学の先生をやっている。だからなのだろうが、本の量も尋常ではない。前の部屋が手狭になったから引っ越してきたらしいが、この部屋もすぐに引っ越すことになってしまうのではないだろうか。
「で、浅倉がからっぽの顔をしている、だったか。浅倉がぼーっとしてるのは別に今に始まったことじゃないだろう」
撫子のことをそんな風に言えるのは、千本松先生ぐらいのものだろう。「オイ浅倉ァ!」と言いながら撫子のつむじをグリグリしている千本松先生の姿をあかりは思い出す。講義室でも、居酒屋でも、先生は大体そんな感じだった。
「いや、そういうんじゃなくてですね」
撫子が、なんか時々からっぽな顔になるんですよね。そんなことをこの女海賊が如き千本松先生に相談したのが間違いだったのだろうか。
千本松先生は突然真顔になると、
「失恋でもしたんだろ」
と事も無げに言った。