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【あかり】01 横顔

「――私の前で、そんなからっぽな顔しないでよ」

 藤尾ふじおあかりにそう言われたとき、浅倉あさくら撫子なでしこは決して何のことか分からないなんて態度を見せなかった。むしろ、図星を突かれたように、目を少し見開いて唇をきゅっと結んだ。もう既に、からっぽな顔からいつもの撫子の顔に戻っている。

 深夜の京都は六月の湿った空気の底に沈んでいた。

 北野白梅町きたのはくばいちょう駅の前でタクシーを降りたあかりと撫子の二人は、今出川いまでがわ通りを西に向かって歩いていた。寄せては返す波のような吐き気と頭痛を我慢しながらフラフラしているあかりに、撫子が肩を貸していた。つい三十分前まで、河原町三条の屋根裏部屋みたいなバーで浴びるほどワインを飲んでいたのだ。我らが愛すべき女傑・千本松先生の奢りだからと調子に乗ったのが間違いだった。赤ワインを飲むと大体こうなるのに――あかりは学習できない。

 撫子はその華奢な体格からは考えられない程力強く、あかりの身体を支えてくれていた。あかりを半ばひきずるように進んでいた撫子が、今出川通りと馬代ばだい通りの交差点で立ち止まったときだった。街灯の下で見上げた撫子の横顔が、あまりにも虚ろだったので――そしてその虚ろな表情を、撫子がふとした瞬間に見せることに気づいていたので――あかりは思わず言ってしまったのだ。

 からっぽな顔をしないで。

 酔っ払いの戯言だとは、思われなかったようだ。撫子が身体を強張らせるのが感じ取れた。あかりは何となく得意な気持ちになった。誠心館ぶんがくぶのアイドルである完璧超人・浅倉撫子から一本取ったのだ。他の人間は気づいているのだろうか。いつも余裕綽々な浅倉撫子が、不意に表情を――感情を――忘れてしまったような顔になることを。見ているだけで、こちらの胸が締め付けられるような顔をすることを。

 撫子は目をぱちくりさせて、あかりの顔を至近距離で見つめた。撫子も相当飲んだはずだが、あかりほどひどくは酔っていないように見えた。夜の闇と同じ色の撫子の瞳は、あかりの火照った顔を映し出している。撫子が口にした言葉は短かった。

「何でよ」

「――え」

 何でからっぽな顔をしてはいけないのか、と撫子の目が言っていた。

 たしかに、なんでだろう。なんでからっぽな顔をしてはいけないんだろう。

 そもそも、藤尾あかりにとって、浅倉撫子とは何なのだろう。同じ大学の、同じ学部の、同じ基礎講読クラスの仲間。いつもつるんでる四人組の一人。この一年間とちょっとで、ずいぶん仲良くなった気がするけど――

 思考がぐるぐると旋回し始めると、吐き気が耐え難いものとなってあかりを襲い始めた。嘔吐物はもう、胃を出発して喉のあたりまで来ている。赤ワインとナッツとチーズと生ハムとシメのボロネーゼ――食べなきゃよかったのに――が、渾然一体となって外の世界に出てこようとしている。まずい。やばい。

「ちょっと、あかり大丈夫?」

「大丈うっ――」

 口の中が、外気に触れた瞬間だった。あかりは撫子に絡みつくようにしなだれかかりながら、そのパステルブルーのシャツの胸に、思いきり嘔吐した。腹筋が痙攣し、涙がボロボロとこぼれる。撫子はギャーともキャーとも言わずに、あかりの背中をさすりながら甘んじて酒臭い激流を受け止めていた。真夜中だというのに、苦しさで視界が真っ白になるのをあかりは感じた。

 胃の中を吐き尽くしたあかりが、べちゃべちゃになった顔で撫子の顔を見た瞬間だった。

「――駄目」

 半眼になった撫子が、カウンターのもらいゲロを、あかりの顔面にゴジラのようにぶちまけた。美人だからって、別に吐き出すものまで綺麗なわけではない。ボロネーゼ風味の放射熱線を食らいながら、あかりは生温かいアスファルトの上に倒れた。

 胃の中身と一緒に語彙まで失った訳でもないのだろうが、互いの吐瀉物にまみれた二人は、言葉少なにただただ歩いた。そっちのほうが近いからという理由で撫子の部屋に向かった。今出川通りと等持院とうじいんの間にある築浅の学生マンションの二階に撫子の部屋はあった。一階の自販機で買ったペットボトルの水を二本ぶらぶらさせながら、あかりは撫子の部屋に上がった。1回生の頃に、一度だけ来たことがある。その時の印象と変わらない、小綺麗に整えられたワンルームだった。

 吐き気と頭痛は引いていったが、今度は眠気が襲ってくる。それはあかりも撫子も同じらしい。全く回らない頭で譲り合った結果、なぜか二人で一緒にシャワーを浴びることになった。脱いだ服はゴミ袋に押し込む。ウサギオンラインで買ったお気に入りのワンピースは、もはや再起不能だろうか。あかりは泣きたくなった。

 狭いユニットバスに入ると、湯船の中に全裸になった撫子が立っている。別に、撫子の裸を見るのは初めてではない。1回生の夏、みんなで白浜に旅行に行ったときに、一緒に温泉に入ったのだ。あのときは確か同じ学部の八人で行った。中にはもう、あまり話さなくなった子もいる。未だにつるんでいる四人が、あかりと撫子と残りの二人なのだ。あかりは無言で湯船の中に入り、カーテンを引いた。

「熱くない?」

 言いながら撫子がシャワーを頭から容赦なくかけてくる。熱かったらどうするんだ。撫子も酔っているのは間違いない。

 至近距離で見る撫子の身体は芸術品そのものだった。白磁のような肌。出るところは出て、引っ込むところは引っ込んだ、均整の取れたスタイル。肩の上で切りそろえられた黒絹を思わせる髪。そして宝石そのものの瞳と、憂いを帯びた長いまつ毛。男もこんな姿を見たら、劣情をもよおす前に、信仰心に目覚めるのではないだろうか。

「一方私のスタイルときたら……なんて考えるのも馬鹿馬鹿しいわ」

「何か言った?」

 ふざけ合う余裕もなく、淡々と身体を清めた二人は風呂場から這い出ると、ほとんど意識を失った状態で髪を乾かした。あかりは撫子のベッドに、主の許可もなく倒れ込んだ。ああ、撫子の匂いがするなぁと思ったときにはもう眠りに落ちていた。

 あかりはカメラのフラッシュのような白い光を感じて目を覚ました。目を覚ましたというのは適切ではないかもしれない。自分が本当に覚醒しているのか、その時は半信半疑だったからだ。ぼやけた視界。アルコールの残滓で鉛色に濁った脳味噌は、眼球から入ってくる情報をろくに処理できていない。

 ベッドの脇にキャミソールを着た撫子が立っているのが、まるで夢の中の光景のように見えた。撫子は窓のカーテンを全開にして外を見ているようだった。窓の外は暗いが、それは夜の暗さというよりも――

 雷鳴。

 枕元の目覚まし時計を見ると、既に昼の一時になろうとしていた。

「今日もまたゲリラ豪雨ね」

 撫子の声と同時に、再び雷鳴が轟いた。撫子はあかりが起きていることに気づいているのだろうか。それとも今のは独り言なのだろうか。あかりは何も言わず、ただ撫子の姿を見上げた。その横顔は、またからっぽになっていた。

 あかりは胸に痛みを覚えた。それはどこか遠くから来る痛みだった。錯覚に過ぎないとしても。

 なんでそんな顔をするのだろう。撫子はときどき、感情が欠落したような、からっぽの顔をする。みんなと食堂で談笑しているとき、授業中にレジュメを渡そうとしたとき、飲み会で先生の話を聞いているとき。あかりは自分だけが、それに気づいていると思っている。

 あかりの目に涙が浮かんだ。あかりはそれを、眠気と混乱のせいにしたかった。

 大きな雨粒が窓を叩く音がした。部屋の暗さが増したのは、分厚い雲が空を覆ったからだろう。住むまでは、夏の京都の天候が、こんなにも不安定だとあかりは思わなかった。今年も申し訳程度の梅雨がサッと明けてしまってからは、毎日のようにゲリラ豪雨に見舞われている。

 撫子は雷を見ているようだった。雷鳴と雷鳴の間で、ときどき撫子の横顔が稲光に照らされる。あかりはこらえきれず、右手で自分の頬の涙をぬぐった。そこで撫子はあかりが起きていることに気づいたらしい。撫子は細い指を伸ばして、あかりのばさついた髪をぐしゃっとすると「貸し一つよ」と言った。その顔はもう、からっぽではなくなっていた。


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