風鈴小路の最奥、音律塔の尖端――
深緑と紫の二重螺旋を描く龍禍脈が空を覆い、灯を失った双月がかすかな残光で塔頂を縁取っていた。そこに立つ男――スレイド・ラザグラン。魔導学派が「災厄」と呼ぶSランクの異端者は、六十八枚の導式鉄板で組んだ音律陣を前に、低く詠唱を始める。
鉄板が唸る。低音は石を粉砕し、高音は刃のように大気を裂き、周囲百メートルの瓦が音だけで粉塵へ変わった。光苔ランプは共振して蜘蛛の巣状にひび割れ、奏鳴塔が悲鳴めいたハウリングを上げる。
「――聞け、世界よ。おまえの骨をチューニングしてやる」
その宣告に応じるように雲海が紫電に裂け、双月灯の緑光を浴びて**十二体の空翔竜(スカイドラゴン)**が急降下した。漆黒の鱗は雲を熔かす熱線を蓄え、爪は鋭い弧を描く。――誰か“高位の存在”が放った抑止の牙。その先はただ一人、塔の頂に立つ男を狙っている。
竜たちは合図なく散開し、喉奥に赤熱の魔核を灯す。熔岩混じりの熱波が連射され、塔外壁が熔けた石滴を垂らした――が、轟いたのは雷でも咆哮でもない。鼓動衝撃――胸郭から放たれた重低音だ。峡谷に張り巡らされた共鳴管が同時発音し、空気が三重ヘルツ帯でうねる。**音波という刃**が可視化し、先頭の竜二体の鱗を“うろこ一列ごと”削ぎ落とした。燃え散る花弁のような鱗が夜空を舞い、骨格は叫ぶ暇なく崩落する。
残る十体は熱線を束ねた。スレイドは胸骨を震わせ、**鼓動詠唱・深度三**で低波を爆発的に膨張させる。音壁が竜火を吸い込み、十体分の熱線は逆流して咽喉で炸裂。雲海に血煙と熔岩の閃光が散り、宙は静寂を取り戻した。
「竜も、ただの雑音だ――」
男は息一つ乱さず呟き、骨と灰になった竜の残骸へ指を伸ばす。薄緑の龍禍光が死骸へ絡み、**魂鎖術式・怨龍縛(ネクロ・スレイヴ)**が起動。十二の龍魂が紫炎の糸で束ねられ、半透明の鱗影が男を取り巻いた。
コッ。
乾いた、それでいて限りなく小さな靴音が、塔内に縫い留める鋲のように響いた。何層もの咆哮を重ねていた詠唱が、ほんの一拍だけ噛み合わなくなる。振り返ると、塔の手摺に十三歳ほどの少年が立っている。焦げ茶の髪、裸足、彩糸のポンチョ。発声なき声が波となり、たった一語を刻印した。
「……静かに。」
六十八枚の鉄板が逆位相波形を吐き、音は真空へ滑り落ちる。魔導詠唱は土台を失い壊死を始めたが、スレイドは歯を食いしばり鉄板を握り直す。
「無音。だからどうした!」
ここで彼は**心音詠唱**へ移った。胸腔の鼓動を三段に重ね魔力を骨伝導で増幅し、梁や床石ごと震動させる壮絶な低周波の奔流。石壁は微細に砕けた砂鉄を霧のように舞わせ、空気は鉄粉を帯電させた黒い稲妻を孕む。だが布切れがわずかに翻っただけで、大気の全振動は核心を奪われ、鼓動は肋骨の裏側で空回りしながら霧散した。
「未来の音まで消せるものか!」
怒号と同時にスレイドは心拍を三重和音に束ね、**未来拍動**を呼び出す。まだ鳴っていない鼓動を先取りし、振幅を時差ゼロで合成。塔は数秒後の揺れを前借りし、柱が悲鳴を上げ、瓦礫が宙に舞う。少年はその“来るべき音のあらまし”を丸ごと掌に掬い、紙屑を捨てるように空へ投げて消した。先行振幅は過去への残響もろとも押し潰され、塔は静かな現在に押し戻される。
紫炎の龍魂が再構成され、怨嗟の鱗影が尖った嘶きを放つ。魂の刃は零下の霧をまとい少年へ襲い掛かる。スレイドの顔に勝利の色が灯る――しかし少年は指を弾き、咆哮が生まれる瞬間を“音の胎芽”ごとつまみ取る。龍魂の鎖は束ねを失い、刃は塵の幻影へ変わった。
スレイドは最後の血で床に環を描き、塔を心臓へ裏返す**転廻・滅奏冥府**を解放する。黒鉄の鐘が吊られ、鎖が空間を縛り、峡谷のすべての拍が男の心音と同調した。鐘面が揺れれば街そのものが崩れ去る――だが少年は砂粒を弾き、鳴るはずだった一拍を先取って奪う。黒鉄の鐘は鳴る理由を失い、鉛色の霧へ崩れた。
残された最後の四枚――感情反響砲(エモーション・リゾナンス)。激昂・憤怒・恐怖・歓喜。四情が魔力波へ転写され峡谷を染める。喜怒哀楽の奔流が空を紅蓮に染め、住民は理由もなく泣き笑い叫ぶ。
少年は石畳を踏み込み、胸奥で呟く――「感情も、ただの振動」。布がひるがえり、無音の風が旋回する。情動波は少年を中心に螺旋を描き方向を反転。激昂は灼熱となって術者の皮膚を裂き、恐怖は凍える棘で骨髄を凍らせ、歓喜は血を沸騰させ、悲嘆は心臓を締めつける。
四重奏の凶音が術者を内側から分解する旋律と化し、鉄板は石灰のように粉砕。龍禍脈の螺旋が一瞬白く凍り付き、スレイド・ラザグランの身体は灰鱗の霧へ崩れ、音もない絶筆を残して消滅した。
龍禍脈の光が穏やかな脈拍へ戻り、塔は三十七秒の沈黙に包まれた。少年は瓦礫を踏まぬよう降り、風と共に影へ溶ける。
夜明け。
夜勤帰りのハルト・レンは、崩壊痕一つない音律塔を見上げながら、路地で揺れる小さな風鈴に気付く。割れた真鍮輪、糸の切れたガラスの鈴――
「誰の忘れ物だろう?」
そっと揺らせば、チリンと控えめな澄音。
ハルトは「良い音だ」と笑い、風鈴を支局の棚へ掛けた。
夜の静寂を知る者は誰もおらず、朝の喧噪だけが街を満たす。
そして風鈴の欠片が陽光を透かし、ほんの一瞬だけ――
あの三十七秒の沈黙を呼び戻していた。