第7話 路地裏の小さな氷魔
朝いちばんの配達指示
西縁郵政支局の作戦テーブルには、カデンツァ・デルヴァ全域を縮尺一五〇〇分の一で切り出した木製ジオラマが据え付けられている。峡谷の岩肌、吊り橋、水路──すべて音響特性を再現するため共鳴木で造られており、指で触れると低い音がにぶく鳴る。
そのジオラマで最下層の市場通りを示すピンが赤く灯った。
ドワーフ局長サルバが髭を揺らしながら指示を下す。
「昨夜、冷却管の圧力が跳ね上がった形跡がある。今朝は光苔ランプの交換便と合わせて通りを点検してほしい。狭い路地だから跳躍脚が頼りだぞ」
ハルト・レンは工具箱と予備ヒーターを背負い、ラビリス族の見習い配達員キオ・ホップは三メートルの光苔ランプ支柱を肩に担いだ。
跳躍脚の関節を三度伸ばして準備を終えると、二人は谷底へ向かう石橋を駆け下りる。
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氷の斑点
市場通りは開店前で、露店の主たちがテントを張り、木箱を並べ始めたところだった。
霧が足首を撫でる。次の瞬間、靴底がツルリと滑った。石畳の継ぎ目に薄い氷膜が張り付き、表面が白く変色している。
裂けた冷却管から透明なゼリーがぽたり、ぽたりと滴下。
地面に落ちるたびゼリーはぷるんと大きくふくらみ、触れた石畳を瞬時に凍らせた。
チル・スライム――危険等級E。
体内の冷気コアが周囲を凍結させる小型魔物。個体は弱いが、放置すると通り全体を氷漬けにする。
「冷却漏れじゃない、巣を作られてる!」
ハルトの声と同時に、木箱の根菜がバリリと割れ、白霜が走る。
露店の老婆が悲鳴の代わりに息を呑み、凍りかけた大根を抱えて震えた。
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戦闘準備――射手と跳脚
ハルトは導式短銃を抜き、弾倉に青白く光る衝撃結晶弾を装填する。
この弾は、粘性の高い魔力振動でスライムの外膜を破砕するために開発された非殺傷弾だ。
一方キオは跳躍脚の魔蒸気バルブを半開し、脚腱に圧縮された魔力を送り込む。
ハツ――ラビリス族が幼少期から鍛える脚技。魔力を瞬間的に放出し、常人の数倍の跳躍力と空中制御を得る。
「外膜は俺が割る。核は任せた。飛燕一段でいけるか?」
「はい、核位置低め。着地制動まで三秒いただきます!」
ハルトは膝をつき、距離二〇メートル、霧で揺らぐゼリーを照準に捉えた。
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外膜破砕
銃声と同時に青い閃光が走り、スライム外膜に接触。
膜が水面のように波立ち、薄氷にヒビが入る音が辺りに反響する。
ハルトはトリガーを二度引き、亀裂を中心へ集中させた。
亀裂が交差した瞬間、外膜が破裂し、乳白色の核がむき出しになった。
氷の息が吹き付け、ハルトの銃身が一瞬で白霜に覆われる。
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ハツ・飛燕一段
「核露出!」
キオは屋台の庇に踏み込み、跳躍脚のバネを最大まで圧縮。
魔蒸気が抜ける刹那、脚部に組み込まれた導管が青白く光る。
ドンッ!
垂直に跳び上がり、回転と同時にかかとをそろえ、まるで刃を振り下ろすように核へ直撃。
核は氷皿が砕けるような甲高い悲鳴を上げ、粉雪になって消えた。
キオは空中の慣性を制して膝を深く折り、石畳に衝撃痕ひとつ残さず着地する。
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増援とハツ・飛燕二段
だが裂けた配管の奥は静まらない。ゼリーが連続して二体、三体と滴り落ちる。
「配管ごと凍らされたな……」
ハルトは銃身の霜を指で払い、腰の導式サーモ・ヒーターを起動。
拳大の筐体が龍禍蒸気を吸い込み、四〇度の暖気を銃身へ吹き付ける。白霜が瞬時に水滴へ転じた。
スライムAへ衝撃弾を二連射、膜を割る。
同時にキオが跳躍脚を再加圧。足裏で屋台を蹴り、壁を蹴り、空中でさらに一回転――
これがハツ・飛燕二段。二段目の蹴り出しで軌道と速度を自在に変える中級技。
かかとが核一、二を立て続けに踏み抜き、霧の花が二輪咲く。
地面に降り立ったキオの耳がぶるりと震え、魔蒸気の余熱がかすかな蒸気となって脚から立ちのぼった。
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戦後処理――修理と設置
スライムの残骸はただの水へ戻り、蒸気とともに消える。
ハルトは裂けた配管を切除し、耐寒性のシリンダを溶接。補強の導式バンドで漏れを完全に止めた。
キオはランプ支柱を石畳の真ん中に垂直に差し込み、アンカーを四方向へ打ち込む。跳躍脚で屋根から屋根へ移動し、導式線を配管に沿って固定。
ランプが点灯すると淡い青白い光が市場通りを照らし、まだ溶け残った霜を七色に反射させた。
露店の老婆が凍りかけた野菜を抱え、涙ぐみながら頭を下げた。
「商売が続けられるよ。本当にありがとう。ほら、うちの特産で作ったお礼だよ」
老婆が差し出した包みは、薄いオレンジ色に輝くタルトだ。
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帰還報告と評価
支局に戻ると、局長サルバが報告書を一読して背中を叩いた。
「チル・スライム三体排除、被害最小。ハツと銃の連携、見習いとは思えん」
業務記録には「光苔ランプ1基設置、冷却管応急修理、魔物残骸ゼロ」と細かく記入された。
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珈琲と峡谷タルト
夕刻。支局テラスに低い陽が射し、吊り橋の灯がまだ青味を帯びて輝き始める頃。
ハルトは携帯ドリップで深煎りコーヒーを淹れる。粗く挽いた粉が湯を吸い込み、濃い琥珀の液を滴下させた。
机上には、老婆から渡されたリソナ・オレンジの共鳴ハチミツタルト。
リソナ・オレンジは峡谷の共鳴壁に根を張る柑橘で、甘さのあとに微かな酸味とほのかな光を残す。
上から薄くかかった光苔ハチミツが、夕陽とランプの双方を受けて透明な金糸を作っていた。
キオはタルトを一口かじり、甘酸っぱさに目を一杯に開く。
「跳んだあとの身体に沁みますね!」
ハルトはコーヒーを啜り、焦がし豆の苦みとハチミツの甘さ、オレンジの酸味が舌で溶け合う余韻に身を委ねた。
青白い光苔水路は谷底に螺旋を描き、吊り橋の灯が星座を結ぶ。
低い共鳴音が昼の喧騒を洗い流し、代わりに静かな和音を奏でる。
「小さな魔物でも、街の音を濁らせる前に片付ける。郵便員の務めだな」
ハルトが杯を傾けると、キオは耳を誇らしげに立て、跳躍脚のバネを弾ませた。
谷の和音が二人の拍を拾い、タタン・タッ・タタン――あのリズムが遠くの壁で反射して帰ってくる。
光と音と珈琲に包まれた夕暮れが、郵便員たちに静かな凱歌を贈っていた。