第6話 響く谷の光 ― カデンツァ・デルヴァ到着
1 夜明け前の塔脚
昇降塔プラットフォームを包む霧は、石造りの手すりに白い膜をかけていた。
塔は先ほど蘇った歯車を控えめに軋ませ、まるで「行って来い」と送り出すように微振動を続けている。
ハルト・レンは、魂封郵袋を納めた鉄製の保管箱を台車に固定した。封印は翠色で安定しているが、目を離せば薄光が脈打つ。
隣でキオ・ホップが跳躍脚を屈伸させ、バネが金属的な歌を短く響かせた。
「箱の重さ、問題なし」
「頼もしい。街までは水平移動だが、その前に垂直の〝遊園地ルート〟を体験しないとな」
ハルトが冗談めかすと、キオのうさ耳が真っ直ぐ跳ね上がった。
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2 峡谷トロリー――垂直航路
塔脚側のトロリーは、導式モーターで静かに走り出した。
岩をくり抜いた水平トンネルを抜け、線路は劇的に下へ折れ曲がる。乗り込むと同時に床が前傾し、ハルトは思わず手すりを握る。
眼下に出現したのは、縦に抜けた巨大ホール――響窟都市の中空だった。
無数の吊り橋が蜘蛛の巣のように張り巡らされ、石造りの塔が崖の内壁から突き出し、青白く光る光苔水路が上層から下層へ滝となって落ちる。
落水が岩を叩く音、橋を行き交う荷馬車の車輪、遠くで鳴る鐘の練習音――あらゆる響きが岩壁の共鳴板に反射し、深いハーモニーとなった。
「音が空気より厚い……」キオが感嘆し、ハルトは胸骨が細かく振るえる感覚を覚えた。
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3 西縁郵政支局――フォノ・リンク
トロリーが停止したのは、峡谷中腹に突き出た石塔。鉄扉に触れると内部導式が反応し、重い扉が開く。
ドワーフ局長サルバが現れ、掌いっぱいの深煎り豆を掲げた。
「塔脚を生き返らせた英雄! 荷物を下層の“光の蔵”へお届け願いたい」
室内には「繁忙期人員不足」の赤札が貼られ、配達予定がぎゅう詰めだった。
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4 光の蔵へ
縄ばしごエレベータに保管箱を載せ、二人は深い縦穴を降りる。
水路の霧が灯りを拡散し、青い陽炎のように揺れている。石畳に降り立つと、岩盤をくり抜いた回廊が静かに迎えた。
蔵書を納めたホールは、小さな聖堂のようだった。壁いっぱいの書棚の前に、銀灰色の髪を持つ老学士ルフ・オルトメアが立つ。
ハルトが保管箱を開けると、封印の光が翠から白、最後に翡翠の閃きへ遷ろい、ノートと薬瓶が顔を出す。
「ありがとう。君たちのおかげで西縁の研究炉に新しい制御式を組み込める。街の未来を守る大きな一歩だ」
キオは緊張で耳を畳み、ハルトは胸に旗竿を立て直して礼を返した。
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5 届く辞令
そこへ局長が真紅の電報封筒を振り回して駆け込む。
「本部電報! 西縁支局補佐にハルト・レン任用。見習いキオも臨時配達員登録!」
ハルトは封を切り、文面を読み上げながら肩をすくめた。
「あれほど急ぎの荷が届いたと思ったら、今度は急ぎで残れと来た」
老学士は愉快そうに笑う。
「ここは音の街、響きの迷路だ。郵便員の耳と脚が加わるなら、谷はもっと美しく歌うだろう」
キオは高い梁に跳ね上がり、威勢よく敬礼。
ハルトは旗竿の龍禍絹を叩き、決意を確かめた。
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6 縦穴の夜
深夜、支局寄宿室。窓の外では吊り橋が金の糸を連ね、水路は淡い螺旋光を谷底へ注いでいる。
ハルトは机に向かい、便箋へ短く書き付けた。
> 西縁支局補佐、着任。魂封荷、正式手渡し完了。
封筒に詰め、明朝最初の便に乗せる算段をつける。
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7 深煎り一杯、谷に溶けて
灯を落とす前、ハルトは携帯ロースターを取り出した。
サルバから贈られた豆――深く焙煎した光苔熟成豆――を手回しミルに入れ、歯車を静かに回す。
パリパリという殻の割れる音とともに、カラメルと木の実が混ざった甘い香りが室内に充満した。
湯を細く注げば、膨らんだ粉から蒸気が立ち上り、窓の外の風がそれをすくい取って行く。
杯を手に、ハルトは吊り橋を見下ろした。橋の灯が星座を描き、水路の光は遠くの岩壁に反射し、優しく流れる低音と重なって一つの楽章を奏でている。
コーヒーを口に含む。
熱が舌を焦がし、柑橘と焦がし砂糖の後味が喉を流れた瞬間――
谷の灯がさざ波のように揺れ、飲み口の湯気が夜のハーモニーに溶けて消えた。
「悪くない初日だ」
呟くと、谷は重低音で応えるように震え、光苔の川面を金色の線が走った。
カデンツァ・デルヴァ。眠らない音と光の都は、一杯のコーヒーさえ街の歌に編み込んでしまう。
ハルトは温かい杯を持ち直し、灯の消えない夜と、これからの仕事に静かに心を躍らせた。
隣のベッドでキオが跳躍脚を抱きながら、リズムを指先で刻む。タタン・タッ・タタン。
谷は低く歌い続け、郵便員たちの新しい勤務表に、二行目が書き加えられる音がした。
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ミニ用語メモ
昇降塔: 地底と地表、さらには空層を上下に行き来する巨大エレベーター塔。
魂封郵袋: 持ち主本人の魔力波で封印された郵便袋。第三者には開封不可。
跳躍脚: ラビリス族が持つ強化腱と魔力蒸気機構を併用した脚部。高跳躍と衝撃吸収に優れる。
光苔: 青白く発光する苔。照明やエネルギー源、街の景観に利用される。