第5話 沈黙を破る翼
1 鋼の外壁へ
翡翠色の稲光を孕んだ乱風が、塔脚を包む雲を荒々しく裂いた。
そのただ中で、《リトル・ルーバー》のサイドワイヤが――狙い澄ました鋼の矢のように――塔脚アイボルトへ突き刺さる。
硬質な金属音がひとつ。雲層が吸い込むより速く、張力が艇体をぐっと塔へ引き寄せた。
「テンション安定!」
操縦席のハルト・レンは声を上げ、油をにじませた手袋を外す。
隣で、ラビリス族の新人キオ・ホップが跳躍脚をわずかに沈み込ませた。うさぎ耳が風を計測し、脚腱が高圧のバネのように熱を帯びる。
「ハツ一発、頼んだぞ」
「行きます!」
キオは爪先でデッキ縁を突き、空気を蹴り飛ばすと塔脚プラットフォームへ軽やかに着地した。リベットの浮いた鋼床がわずかにしなるが、跳躍脚が衝撃を吸収し、足音は極めて小さい。
ロープスライダーですぐ後を追ったハルトは、二人分の体重がワイヤを通して艇に残る揚力と均衡するのを確認し、昇降機ハッチへ歩み寄る。
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2 手動起動 ―― 龍禍鋼の錆をこじ開ける
ハッチ横の操作盤には、重油じみた赤文字で**「系統遮断中」**と刻まれていた。電飾ランプはどれも死に、銅線ケーブルは緑錆と埃の繊維で覆われている。
ハルトは短いナイフの柄で外板をこじ開けた。板裏には三色の導式ピン――赤・白・黒が錆で半ば変色して並んでいる。
「黒ピン九十度。君の《ハツ》でひねる。俺は赤を押さえ、白で波形を固定する」
キオは膝を深く曲げ、跳躍脚に魔蒸気を駆け込ませた。
瞬間、筋束と腱がうなりを上げ、足先が黒ピンの根元を蹴り込む。
ガンッ!
半世紀分の錆を砕く破裂音。黒ピンが正確に九十度回転した。
ハルトは同時に赤ピンを押し込み、白ピンを軽く押さえる。
その刹那、塔脚内部で滞っていた歯車列が、まるで獣が息を吹き返したかのように重々しい咆哮を上げた。
鋼床の下を振動が走り、ハッチの表示が赤から淡い青へ、さらに**「手動運転」**の白字に切り替わる。
錆び付いていた銅線に灯りが走り、蒸気弁が短く嘶くように息を吐いた。
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3 昇降籠と五つの沈黙
骨組みだけの昇降籠が上昇路を滑り下りてきた。
ハルトとキオが飛び乗りハッチを閉めると、籠は無音に近い速度で降下を始める。格子窓の向こうに見える雲海はもう頭上で翻り、翡翠の稲光が遠ざかっていく。
小刻みに揺れる籠の中で、キオは魂封郵袋を抱えたままハルトに尋ねる。
「どうして三日も、誰も助けに来なかったんでしょうか? 昇降塔が止まるなんて一大事なのに……」
ハルトは昇降計の針が下へ沈むのを見つつ、静かに応えた。
1. 剪断域フレアの長期化
「普通は半日で収束するフレアが、波形異常で七十二時間粘った。空路は全面封鎖だ」
2. 斜坑鉄道、休止
「北東に迂回用の斜坑列車がある。だが龍禍脈フレアで地下坑道自体が閉鎖、即日便には使えなかった。
あの魂封荷は“今日中”の納品を要望されている。鉄道では間に合わない」
3. 国境利権の停滞
「塔脚は帝国と連邦の境目。修理費と責任をどちらが負うか決まらず、救援班が足止めされた」
4. 龍禍脈安全条約・72時間ルール
「強フレア域に派遣隊を入れるには、条約で三日待って収束判定を取る義務がある。先走れば出した国が制裁を食う」
5. 企業保険の“停止ボーナス”
「運営会社〈グラン・スパイテック〉は“72時間停止なら保険満額”という契約を結んでいる。
修理隊をギリギリで突っ込ませるより、保険金と後日改修を選んだわけさ」
キオは耳を伏せ、拳をぐっと握る。
「それで、誰も来なかったんだ……」
「旗持ち便だけが例外枠ってわけだ」
ハルトは淡く笑い、旗竿に巻いた龍禍絹を軽く叩いた。
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4 地底層プラットフォームへ
長い降下の末、鋼籠がゆるやかに減速し、石造りのホールへ柔らかく接地した。
光苔ランプが青白く灯る。鉱石の湿り気が混じった重い空気と、遠くで鳴る音律の低い振動が肌にまとわりつく。
ハッチを開くと、褐色肌のドリフトノーム係員が駆け寄る。
「三日間沈黙した昇降塔に郵便旗――本当に来てくれたのか……!」
ハルトは敬礼し、魂封郵袋を頭上へ掲げる。翠光の紋章が係員のリーダー端末に吸い込まれ、緑灯が点く。
「郵政便。魂封荷・老学士ルフ・オルトメア宛だ。
昇降塔は手動運転だ。内線導式で整備班全員に伝えて、三色ピンを自動系へ戻してくれ」
係員は深く頷き、壁際の導式管端末へ駆ける。真鍮の受話筒を肩に掛け、早口で連絡を送ると、プラットフォーム中の放送管が響いた。
> 『昇降機復旧! 動力班は塔脚へ、導式班は分電盤へ急行!』
石壁に反射した声が連続してこだまし、沈黙しきっていた塔に血が巡る気配が生まれる。
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5 静かな凱旋
係員に案内されて入った簡素な休憩所。光苔ランプが月光のような柔らかい青を投げ、蒸気ケトルが微かな湯気を立てる。
ハルトは地底限定焙煎――光苔熟成豆〈グロウ・シダー〉の小袋を受け取った。封を切ると、湿った森土と柑橘を混ぜたような甘い香りが鼻腔を満たす。
「講習で覚えたテンポ、役に立っただろ?」
ハルトが微笑む。
「はい。タタン・タッ・タタン――跳ねる拍です」
キオは胸のリズムを指で叩き、耳をぴんと立てた。
遠くで整備班の足音が交錯し、昇降塔は再び鼓動を取り戻しつつあった。
魂封郵袋の脈動は落ち着き、静かに老学士の手を待つ。
沈黙していた三日を破ったのは、旗と心意気――そして青年の跳躍脚。